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第6章 同床異夢のピアニスト(2)

          <<カレンのミサ曲>>

第6章 同床異夢のピアニスト(2)


§2 二人の月光/心を伝えるピアノ


 地方大会が終わり、すぐに本選出場の三名が決まった。

 一人はアン、もう一人はハンス、そして最後の一人にサンドラ
という名の女の子が選ばれた。

 装飾音に彩られた彼女のピアノはボリューム感があって華やか。
とても12歳とは思えない超絶技巧の持ち主だったから審査員の
心を捕らえたのだろう。
 しかし、ブラウン先生の評価が何故か今一だったのを、カレン
は隣りの席で感じていた。

 いずれにしても選ばれた三人は大会後のパーティーに出席して
その会場で一曲演奏しなければならない。

 ブラウン先生は、ここでも他の家族は返したが、カレンだけは
このパーティーに参加させたのである。

 ここで、カレンはアンに声をかけた。

 「おめでとう。アン」

 「ありがとう、久しぶりにうまくいったわ。すべては私の実力。
でも、ちょっぴりあなたのおかげよ。これ、しばらく貸しといてね」

 アンはそう言って、カレンの赤いスカーフを目の前でひらひら
させる。

 「それ、またお尻に敷くつもり?」

 「そうよ、まさか、あなたをお尻には敷けないでしょう」

 「えっ!?」
 カレンは開いた口が塞がらなかった。
 そこで、尋ねてみた。

 「私がそんなに嫌いですか?」

 「嫌いよ。いけない?……だって、あなたは、私が裸にならな
きゃできないことをいとも簡単にやってのける人ですもの。私が
面白いわけないじゃない」

 「…………」
 カレンにはアンの言っている意味が分からない。

 それを説明してくれたのはブラウン先生だった。
 「カレン、アンが言いたいのはね、あなたの集中力なんですよ。
あなたはピアノの前に座れば、即座に自分の世界にのめりこむ事
ができるでしょう。それが羨ましいと言っているんですよ」

 すると、アンがさらに続ける。
 「それに、私には二台のピアノを同時に弾きこなすなんてまね、
できないもの」

 「????」
 カレンが首をひねっていると、男の声がした。

 「何なの?二台のピアノって……」

 「何だ、ハンス。あなたそこにいたの!他人の家の痴話喧嘩を
立ち聞きするなんて、趣味が悪いわよ」

 「痴話喧嘩って?君が演奏前によく裸になるってことかい?」

 ハンスがそう言うと、アンは大きな目をさらに大きく見開き、
赤いほっぺをさらに真っ赤にしてから、ハンスの頬を平手打ちに
しようする。

 すると、彼はそれをかわし、襲ってきたアンの右手を取ると、
こう言うのだった。
 「そうかあ、フレデリックの言ったのは本当だったんだ」

 『あのやろう』
 そう思ったかもしれないが、後の祭りだった。
 アンの顔は血の気を失い目はうつろになって、その場に立って
いられないほどのショックをハンスに見せてしまったのである。

 「いいじゃないか、集中力を高める方法は人それぞれだもん。
でも、会場のどこで裸になったんだ。トイレかい?」

 「わたし、そんなこと、してません!!!」
 ハンスの言葉にアンは大声を出して横を向いてしまう。

 そして、ブラウン先生もまた……
 「ハンス君、失礼ですよ。ヤングレディーにそんな言い方は…
………」
 凛とした態度で若僧を注意したが、彼の耳元までくると……
 「大丈夫ですよ。ハンス君。今はもっと効果的なものが見つか
りましたから……」

 「効果的なもの?……あっ、そう言えば、今日は何か椅子下に
敷いてましたね。あれって、何かのおまじないですか?」

 「まあ、おまじないといえば、そうですが……この子が、その
おまじないの正体です」

 ブラウン先生はカレンの両肩を持ってハンスの前に押し出す。

 「えっ!?」
 いきなりハンスの鼻と30センチの処にまで近づいたカレンは、
戸惑い、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。

 「へえ、この子が?」

 「正確に言うと、この子のピアノがおまじないの正体なんです」

 「この子もピアノを弾くんですか?」

 「ええ、簡単なものだけですがね、即興で……」

 「ひょっとして、二台のピアノを同時に弾くって……」

 「そう、彼女の事です」

 「聞きたいなあ、アンにそこまでさせたピアノを……」

 「ただ、ここではちょっと……」

 「いけませんか?パーティーも無礼講になってるみたいだし、
誰がピアノを弾いても硬いことは言いませんよ」

 「ええ、そうでしょうね。……でも、ここでは騒がしすぎます」
 ブラウン先生はあたりを見回す。そこはパーティー会場だから
多少騒わついてはいるものの騒々しいというほどではなかった。
 にもかかわらず、先生は難色を示すのだ。

 代わりに……
 「おう、サンドラ嬢が弾き始めましたね。こういう席には……
ああいう、ピアノの方が似合いますよ」

 「なるほど、曲芸みたいな超絶技巧だ。あの歳でこんなにたく
さんテクニックがあるんだから、うらやましいですよ」

 「ホントに……?」
 ブラウン先生は疑い深そうな目をして笑う。

 「だって、いろんなテクニックがあれば、それだけ表現の幅が
広がりますからね」

 「そりゃそうです。でも、もっと大切なことがありますよ」

 「もっと、大切なもの?」

 「そもそも、どんな音楽を相手に伝えたいのか。その完成形が、
あの子の音楽にはないのです。『私はこんなこともできますよ』
『あんなこともできますよ』という自慢話の羅列だけなんです」

 「そんなこと言っても、あの子はまだ幼いんだし……」

 「そんなことはありません。アンにしろ、あなたにしろもっと
幼い頃からそれはありました。お互い、たくさん名演奏を聞いて
育ちましたからね。何が人にとって心地よいことなのかがわかっ
てピアノを叩いています。だって、二人とも目標とする音がある
でしょう?」

 「そりゃあ、もちろん」
 ハンスが答え、アンが頷いた。

 「ところが、あの子にはそれがない。ただ、先生に言われた事
を一生懸命練習して身につけたから、聞いてくださいというだけ
のピアノなんです。ああいうのは、道行く人を驚かす大道芸では
あっても、芸術じゃありません」

 「厳しいですね。相変わらず先生は……」

 ブラウン先生の会話に、白髪の紳士が割り込んだ。

 「これは、ラックスマン教授。お耳に入ってしまいましたか。
お恥ずかしい」

 「いえ、私も彼女のついてはそうしたことを考えないわけでは
なかったのです。でも、歳も若いし経験を積ませてやるのもいい
かと思ってね」

 「確かに……せっかく全国大会へ出かけるんですから、彼女も
そうしたことを学んで来てくれるといいんですが……ただ、そう
考えると、12という歳はむしろ、もう遅いかもしれませんね」

 大人たちの話を聞きながら、カレンは話題の主のピアノを見て
いた。

 『鳴っている。鳴っている。ピアノが鳴り響いている。まるで
タイプライターのようにカタカタと……あれも、月光なのね……』
 カレンは思った。それは同じ楽譜をもとに弾いているはずなの
にまるで別の曲のように聞こえたからだ。

 彼女は吸い寄せられるようにサンドラのピアノの前に立った。

 まるで彫刻家が鑿と鎚で石を刻むような険しい表情。揺ぎ無い
信念と情熱がその顔にはほとばしっている。

 『12歳というこの少女が目指しているのはいったい何なのだ
ろうか?』
 カレンには理解できなかった。

 彼女にとっての音楽は自分の心をなごますものでしかない。
 『ブラウン先生は私のピアノを褒めてくれるけど……だったら、
先生のためのピアノが弾けるだろうか。…………無理だわ。……
だって、私のピアノは私のためだけのもの。……私と、お父様と、
それにリヒテル先生のためのものだもの』

 そんなことを思っているカレンの脇を、演奏を終えたサンドラ
がすれ違う。亜麻色の髪にフローラルな香りが残った。

 その跡を、背の高い青年が追う。
 彼が、サンドラのピアノの先生なのだろう。ウェーブの掛かっ
た灰色の髪をなびかせ、神経質そうな顔をしている。
 二人はブラウン先生への挨拶が目的だったようだ。

 そこで見せる彼女の笑顔は、ピアノを弾いている時とはまるで
別人だった。
 満面の笑みを浮かべ、さかんに、全国大会へ出場できるように
なったことの感謝を大人達の前で述べている。

 しかし、その姿は心からの感謝というより、必死に自分を売り
込んでいるように見えて、カレンにはこの子が末恐ろしくさえ感
じられたのだった。

 そんなサンドラの人当たりにほだされたカレンはそこから視線
を外して、主のいなくなったピアノをみた。
 そして、それを見ているうちに、今度は、そのピアノが無性に
弾きたくなったのである。

 もちろん、ここでこのピアノを弾けるのは本選にでる三人だけ。
そんなことは百も承知だから、カレンは物欲しげにピアノを撫で
て回るだけ。
 それで満足するしかなかった。

 ところが、そこへ……

 「おい、お姉ちゃん、ピアノは撫でてるだけじゃ鳴らないぜ」
 こう言ってカレンに近寄ってくる男がいた。

 ホフマン博士だ。
 彼は予選会の前に出会った時は、もちろん立派な紳士だったが、
この宴会もお開きに近くなったせいか、かなり酒が回っていた。

 『まずいわ』
 カレンはとっさに作り笑いを浮かべて、その場を立ち去ろうと
した。ところが、一足早く酔っ払いの中年男に捕まってしまう。

 「いや、」

 羽交い絞めにされたカレンは、大声を出して人を呼ぼうとした
もののできなかった。
 それほどまでに、彼は素早く、カレンを生け捕ってしまったの
である。

 酒臭い息を吹きかけながら、博士はカレンを抱きかかえると、
まるで子供のように膝の上に乗せて、十八番にしているショパン
の前奏曲を弾き始める。

 彼は、ピアニストでも芸術家でもないから、そのピアノの音は
この会場では騒音のようなもの。
 周囲もビアノが鳴り始めた瞬間だけ振り向くが十六小節すべて
を聴く者はいなかった。
 『また、先生が酔って弾いているのか』
 という顔をしたあとはまたそれぞれの仕事に戻ってしまう。

 「さあ、弾いてみな」
 博士は短い曲を弾き終えたあと、カレンにピアノを勧めた。
 というより、それは強制したというべきなのかもしれないが、
背中を押してくれたのである。

 それに応えて、カレンがピアノに手をつける。

 ベートーベンの月光だった。

 さっき博士が弾いていたから、当初は、誰も気にも留めないが、
そのうち、誰かがその違いに気づいてピアノの方を向くと、その
数がしだいに増えていく。

 とうとうブラウン先生たちのグループまでもがそれに気づいた
のである。

 『カレン!』

 押っ取り刀でカレンの前に現れたブラウン先生は渋い顔だった。
 それに慌ててカレンは演奏をやめてしまうが……

 「おう、お父さん登場ですな。なるほど、これはいい眠り薬を
お持ちだ」
 先に口を開いたのはホフマン博士だった。

 「他人の薬を、こっそり試し飲みとは感心しませんな」
 ブラウン先生はホフマン博士をたしなめたあと…

 「カレン、このピアノは本選に出場する三人のために用意され
たものです。あなたのものではありませんよ」
 と叱ってみせた。

 そこで、カレンは慌ててホフマン博士の膝をを下りたのだが、
その時はすでに多くの人がピアノの前に集まって、ブラウン先生
の眠り薬の効き目を確かめたあとだったのである。

**************************

 帰りのバスの中、ブラウン先生は不機嫌そうな顔で外の景色を
眺めているから、カレンはずっと申し訳なさそうにしていたが、
バスを下り、カレニア山荘に向かう馬車の中では、アンが小声で
話掛ける。

 「気にすることないわ。お父様、今はもうそんなに怒ってない
から……」

 「…………」

 「私はあなたより付き合いが長いから分かるの。あの先生は、
いつもあんな調子なのよ。あなたのせいじゃないわ」

 「でも……」

 「それより、あなたの月光は絶品ね。サンドラなんか目じゃな
かったわ」

 「そんなこと」

 「それが証拠に、あの部屋にいたほとんど全ての人が集まって
きたじゃない。あれはあなたの奏でる二台のピアノを聴きたくて
みんな集まったの」

 「二台のピアノ?」

 「そう、音の鳴るピアノと音の鳴らないピアノよ」

 「音の鳴らないピアノって?」

 「余韻ですよ。音を鳴らすだけがピアニストの仕事なら、自動
ピアノは天才的なプレヤーなんでしょうけど、誰もそんなことを
言う人はいないでしょう。それは機械では無音の部分をどうにも
デザインできないからなんです。あなたのピアノに感激するのは
鳴るピアノと鳴らないピアノのハーモニーが絶妙だからその音が
美しく響くんですよ」

 突然、先生が二人の話しに口を出す。こんな狭い馬車の荷台、
どんなに小声で話していても、その声が先生に伝わらないはずが
なかった。

 カレンは恐縮したが、カレンに先生の言葉の意味は理解できな
かった。彼女が弾くピアノはあくまで天性のもの。理屈があって
奏でるものではなかったのである。
 だから、カレンは黙ってしまう。

 そのカレンに向かって先生は……
 「まあ、いいでしょう。本当はあんな酔っ払いの膝の上ではなく、
もう少し勿体をつけてあなたの才能を発表したかったのですが、
仕方ありません。その代わり、その赤いスカーフはもう少しだけ
アンに貸してやってくださいね」

 ブラウン先生は、また元の笑顔を取り戻してカレンを見つめる
のだった。

***************************

 夕食のあと、カレンはリチャードの部屋へ行く。
 朝、あのサウナの中で先生に頼まれた作曲の仕事がずっと気に
なっていたからだ。

 すると、そこにはすでにアンの姿が……。

 「あら、カレン。あなた、この子の出来損ないの詩にあわせて
曲を作れって、お父様に命じられたんですって……」

 アンはリチャードのベッドに大の字になると、その詩が書かれ
た紙を天井を向いて詠んでいた。

 「えっ……ええ、……まあ……」

 「それにしても相変わらず、下手くそな詩ね。無理に、こんな
大人びた表現にしなくていいのよ。…書いてるの、どうせあなた
だってわかってるんだから……」

 こう言われたから、そこにいたリチャードが反論する。
 「だって、最初書いたのはお父様が『子供っぽくて村のお祭り
にふさわしくない』って……」

 彼はそう言うと書いた詩をアンから取上げる。

 「こんな韻を踏んだような詩、今どき流行らないわ。最近は、
大人だってビートルズを聴く時代なんだから……お父様は、頭が
古いの。化石化してるのよ。………ねえ、カレン、あなただって、
そう思うでしょう」

 「それは……」
 自信のないカレンは歯切れの悪い言葉でお茶を濁す。

 「ただ、わたし、教養がないから、こんな難しい詩にどうして
曲をつけていいのか、かわからなくて……」
 本音を正直に吐露すると……

 「簡単よ。ミサ曲と同じで韻を踏む感じで和音を合せるの。…
…といっても、あなた楽譜のこと、まるっきり知らないそうね。
……いいわ、私がやってあげる。全国大会までは少し時間がある
から……ときどき、お父様も無理な注文つけるから困るのよね」

 「でも、それじゃあ……私が頼まれたことですし……」

 「それじゃあ、あなた、自分でできるの?」

 「それは……」

 「こんなものは創作活動というより塗り絵みたいなものなの。
誰がやっても、そう大きく違わないわ。スカーフのお礼よ。……
それよりさあ、六時十四分。あれ、もう一度聴かしてくれないか
しら」

 「六時十四分って?」

 「だって、題名しらないもの。あなたが私のレッスン場で弾い
た曲のことよ。六時十四分に弾いたでしょう。だから六時十四分」

 「でも、あれは……」

 カレンは口をつぐんだ。
 カレンの弾く曲は一期一会。本人でさえ二度と弾けないのだ。
ところがそれを……

 「だったら、私にちょうだいよ。私が色んな処で弾いて広めて
あげるわ」
 アンは明るくおねだりするのだった。


 困惑するカレンを尻目にアンは彼女の手を引き、居間へ。
 そして、そこのピアノで『六時十四分』を再生する。

 「たしか、こう、だったわよね」
 
 アンは自らピアノを弾き、聴き覚えたカレンのピアノを楽譜に
起こしていく。それは、昨夜、ロベルトやブラウン先生がやって
くれたのと同じ作業だった。

 ただ違うところがあるとすれば、出来上がった楽譜がすっきり
していること。先生がつけた装飾音などなくとも、その音はより
シンプルに誰の心にも美しく響いたのである。


 こうして二人の取引は無事収まったようにみえたたのだが……

 「カレン、これは君の曲ではないですね。……アン、ですかね、
……こんなお茶目な曲をつけるのは……」
 村のお祭りで詠う曲を先生の処へ持って行ったカレンは、再び
ブラウン先生の渋い顔に出会うのだった。

 「この詩はたしかに韻を踏んで書かれています。でも、あなた
サー・アランの屋敷にいた頃、私に言いましたよね。私が奏でる
ミサの曲は韻を踏んだものじゃないと……私は明るいメロディー
が好きなんだと……」

 「ええ……」

 「だからそれでいいんですよ。私はあなたに曲を乗せてほしい
とは言いましたが、それはこんな韻を踏んだ旋律を期待したから
ではないんです。あなたの感性でメロディーをつけてください」

 「…………」
 カレンが黙っていると……

 「だから、簡単なことだ言ったでしょう。私はあなたにそんな
難解な宿題なんて出しませんよ。これはね、あなたなら一時間も
あればできますよ。詩を何度も何度も読み直してください。詩の
心を自分の心とすれば、メロディーは自然にあなたの脳裏を流れ
ます。今までだってあなたはそうして音楽と向き合ってきたじゃ
ありませんか」

 ブラウン先生はそう言ってアンの作った曲を付き返した。

 「ごめんなさい。作りなおします」
 カレンが申し訳なさそうにそれを受け取って、部屋を出ようと
すると……

 「そうだ、肝心なことを忘れてました。『六時十四分』あれは
いい曲ですね。最近、アンが、よく弾いてますけど……あれは、
あなたの曲でしょう」

 「あれは……」

 カレンはそこまでしか言わなかったが、ブラウン先生はカレン
の顔色を見て判断する。

 「やはり、そうですか。アンに聞いたら『これは私のものです』
なんていいますからね。おかしいと思っていたんです。あなた達、
ひょっとして楽曲を取替えっこしたんじゃないんですか?アンは
あなたにお祭りの歌を提供して、あなたのピアノ曲を得た。そう
いうことですね」

 「…………」

 「音楽は誰に権利があるかではなく、誰の心にあるかで決まる
んです。きっとアンはあなたに憧れを持っているんでしょうね。
あなたの曲をじぶんの物にしようと一生懸命練習していました。
おかげで、コールドウェル先生はまたおかんむりですよ」

 「私にアコガレ?」

 「そうですよ。……何か不思議ですか?……私もそうですよ。
…いえ、これからはもっと増えるでしょうね。いずれ、あなたの
ピアノはこれから楽譜として出版されるでしょうから」

 「そんなこと……」

 「予定してますよ。そんなこと……」

 ブラウン先生はお茶目に笑ったあと、こう続けるのだった。

 「どんなに精緻な譜面を残しても、どんなに高性能な録音機で
音を残しても、その音楽を真に弾きこなせるのは本人しかいない
んです。アンが、どんなに憧れようと、どんなに練習しようと、
あなたの曲があなたの身体を離れることはないんですよ」


********************(2)****

第6章 同床異夢のピアニスト(1)

        <<カレンのミサ曲>>

第6章 同床異夢のピアニスト


************<登場人物>**********

(お話の主人公)
トーマス・ブラウン
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。

(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘

<使用人>
ニーナ・スミス
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品
ベス
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム
……カレンの前のピアニスト

<里子たち>
リサ
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アン
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
ロベルト
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。
リチャード
……(12歳)ポエムや絵画が好きな心優しい子。

<先生たち>
ヒギンズ先生
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。
アンカー先生
……絵の先生。
コモンズ先生
……数学の先生
マルセル先生
……家庭科の先生


<先生のお友達/ライバル>
ラックスマン教授
ビーアマン先生
エリアス婦人
ホフマン博士
ハンス

****************************

§1 朝の習慣 / 天才アンのピアノ

 窓が明るくなる頃、カレンは目を覚ました。
 そして、ベッドに上半身だけを起こすと、ふっとため息をつく。

 『朝、何をするのか聞いてなかったわ』

 彼女は仕方なく台所へ。
 もちろん、もう女中ではないと知らされていたが、そこに行け
ば『何をすればいいのか分かるかもしれないし、分からなくても
そこを手伝えばいい』と考えたのだ。

 「あら、カレン。もっとゆっくり寝ていればいいのに……」
 台所へ入るとさっそくアンナが声をかけてくれる。
 「……何なら、朝は食事を運んであげてもいいのよ」

 こう言われて、カレンは頬をポッと赤くなる。

 そんな身分でないことは分かってるし、からかわれたと思った
のだ。
 だから、エプロンをしてそこで朝の仕度を手伝った。
 何よりこうしていることが、カレンには楽だったのである。

 そんな、五、六人が忙しく働く台所に若いメイドが駆け込んで
来て……
 「ねえ、誰か先生の処へバスタオルを持って行ってくれない」
 彼女はそう言いながらカレンに目を止める。

 「ねえ、あなた、持って行ってくれる。今髭剃り中だから……
西の廊下をまっすぐ行った突き当りにバスルームがあって、……
先生はたいていそこだから……」

 カレンは、若いメイドにバスタオルを二枚押し付けられると、
そのバスタオルを抱えて廊下を渡る。たしかにその突き当たりの
部屋では人の気配がしていた。

 ガラス戸に人影が映ったので、戸の外から……
 「カレンです。バスタオルを二枚お持ちしました」
 と言うと……

 「お~カレン、入ってきなさい」
 耳慣れた先生の声がした。
 
 そこで、戸を開けてみると、中には多くの男性……といっても
先生以外は自分より年下の子たちなのだが、蒸し風呂の熱気の中、
そこは男の体臭でむせ返っていた。

 カレンは思わずのけぞる。顔をしかめて、こんな処はさっさと
用を済ませて抜け出そうと思った。

 ところが、そんな女の子の事情が分からない先生は、カレンを
近くに招き寄せる。

 「昨夜、居間に顔をださなかったんで紹介しそびれたが、もう
一人いたんで、紹介しておくよ。……おいで……リチャードだ」

 先生は男の子を呼び寄せカレンに引き合わせてくれた。
 それに対してカレンは、いつもの笑顔ではなく、戸惑いながら
一言、「はい」と力なく答える。

 誰かを紹介されること自体、特別なことではない。これまでだ
ってたくさんの子供たちを紹介されてきている。でも、問題は、
その周囲の様子が今までとは少し、いや、だいぶ違っていたから
カレンは戸惑っていた。

 何時もなら、たとえ居間でくつろいでいる時だって、ブラウン
先生はこざっぱりとした格好でいる。
 ところが、この時の先生はパンツひとつの裸同然の姿。

 おまけに、背もたれが倒れるタイプのデッキチェアーに長々と
寝そべって、腰の下には枕まで入れているから、お腹だけが突き
出て見えて、カレンにすればとても卑猥に感じられたのだった。

 『サウナの中だからパンツひとつでいるのは当たり前。カレン
だってもうお客さんじゃない。家族なんだからこの姿でもいいん
じゃないか』
 先生はきっとそう思っていたのだろう。
 しかし、少女にその常識は通じにくかった。

 カレンが近寄っても先生は上体すら起こそうとしないし、先生
の足元ではフレデリックが木のへらを玩具がわりに遊んでいるし、
枕元ではロベルトが剃刀片手に何だかニヤニヤ笑っている。
 こんな光景、カレンにとっては不気味と言う他ない。

 「リチャードです」

 汗に濡れた手を差し出したのはまたしても年下の少年。12歳
だという。子供と言ってしまえばそれまでだが、やはり身に着け
ているのはパンツだけ。

 カレンは目のやり場に困った。

 もちろん、だから何かが起こるというわけではない。ただ、女
の子にしてみると、それだけで、何やら得体の知れない圧迫感の
ようなものを感じて不安なのだ。

 「はじめましてリチャード、私がカレンよ」

 震える言葉が今の彼女の心を表している。
 ただ、そうしたことを、ここにいる男性たちは誰一人気づいて
いないのも確かだった。

 「そういえば、リチャード。昨夜は夕食のあと、部屋に戻った
みたいだが、何かしてたのかね?」

 「詩を書いてたんです。村のお祭りで発表する。村を称える詩」

 「ああそうか、君に頼んでいたね。何か、面白いフレーズでも
思いついたのかね?」

 「そういうわけでもないけど……アンお姉ちゃまも今は忙しい
し……自分で考えて……」

 「そうだな、でも、何か出来たんだろう?詠んでみなさい」

 ブラウン先生に勧められて、リチャードは自作の詩を詠み始め
る。

 「故郷に連なる山々は若草色の思い出か。今朝、暁に連なりし、
紫雲(むらさきぐも)は神々の幼き使いの子供たち、彼らの寝床
と覚えたり。見よや光臨。光の帯を滑り来て、父より受けし祝福
を晴れたる空に轟かす。木陰のリスよ、谷間の百合よ、川辺の熊
も露草も、皆この楽園に我らと生きん」

 リチャードが詩を吟じている間、カレンは仕事に戻った男達を
観察していた。

 フレデリックは、先生の大きな足の指を揉みながら持っている
木のへらで土踏まずの辺りを一生懸命マッサージしている。結構、
力仕事だ。
 一方、ロベルトはというと、こちらは先生の顎に石けんを塗り
ながら剃刀で髭を剃っている。繊細な仕事。とても真剣な表情だ。

 そして、ブラウン先生はというと、その男の子たち三人の仕事
ぶりを満足した様子で受け入れ、なされるままにして寝そべって
いた。

 そんなだらしない先生がこんな事を言うのである。
 「カレン、あなたは、どうやら男のこんな姿を見たことがない
ようですね」

 「いえ」
 カレンは思わず嘘を言ってしまう。

 寝そべったままの先生に、それは分かっていたようだったが、
それを責めるつもりはなかった。

 「あなたの顔には、『男性はいつも雄雄しいものだ』と書いて
ありますよ」

 「えっ!?」

 「(ははは)図星でしたか」
 先生はにこやかに笑ってからこうも続けた。

 「でもね、そういつも雄雄しい姿ばかりじゃ、男だって疲れて
仕方がありませんよ。むしろ、だらしのない姿をしている時の方
が多いんです。ただ女性の前では極力そうした姿を見せないよう
にしているだけ。雄雄しい男なんて見栄、男の見栄です」

 先生はそこまで言って、ようやく上半身をデッキチェアーから
起こした。

 「もし、あなたが他の家の人なら、ここへは入れないでしょう。
でも、あなたは、すでにここの家族なんですから、こうしたこと
には慣れるしかありませんよ」

 「はい、先生」

 カレンは先生に求められるまま、持ってきたバスタオルを渡す。

 「私は、あなたがお父様とどんな家庭生活を送っていたか知り
ませんけど、ここにはここのルールがあります。恥ずかしいこと
も共有できるから家族なんですよ……」

 ブラウン先生はカレンからバスタオルを受け取りしな、さらり
と言いのけたが、これには『あなただって、家族の中では外では
起こりえないような恥ずかしい思いをすることがあるんですよ』
と言っていたのである。

 「あなたは若い女性だから、この年寄りの身体を到底理解しえ
ないでしょうが、年をとるね、足の裏のマッサージとあごひげの
逆剃りを同時にやってもらうと、天にも昇る心地なんです。……
朝はね、これがないと始まらないんですよ」

 先生はそんな朝の習慣をどこか自慢げに語ると、バスタオルで
体を拭いてバスローブに着替える。
 ただ、その際……

 「カレン、さっき詠んだリチャードの詩。月並みで感動もない
駄作に思えるかもしれませんが、君の方であれに曲を乗せてくれ
ませんか」

 「えっ……」
 いきなりの提案にカレンが動揺すると……

 「アンはまだこれからも忙しいだろうし、ああいう詩につける
メロディーは、男なんかに頼むより、君の方がよほどいいものが
できるような気がするんですよ」

 「えっ……そんな……わたし、そんな事したことないし……」
 カレンは突然の提案にただただ戸惑い、断ろうとするのだが…

 「いいですかカレン。誰だって『最初』ってあるものなんです。
このロベルトだって、最初に髭剃りを頼んだ時は手が震えて私も
怖くて仕方がありませんでしたけどね、今では床屋顔負けの腕だ。
特にこの子の深剃りは絶品でね、まるで女性と抱きあっ……あ、
いや、……とにかく慣れですよ。君ならできますから……」

 「でも……」

 「大丈夫、まだ一週間もある。気にしないで……」

 「気にしないでって……えっ、そんなにすぐに……」

 「そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか。君ならこんな
こと、一時間もあればできることなんだから」

 ブラウン先生は呆然とするカレンに得意の笑顔を振りまくと、
大きな顔を近づけてきて有無も言わさずという感じで迫ってくる。

 だから、ほとんど弾みで……
 「は……はい、やってみます」
 狼に睨まれた子羊のようにカレンは小さな声で答えてしまう。
 笑顔の先生の押しの強さに押し切られた格好だが……
 おまけに……

 「あっ、そうだ、今日はアンの演奏を聞きに行きますからね。
カレン、あなたも着いていらっしゃい。きっと、心に残る名演奏
が聞けますよ」

 ……ということで、その話は実質的には一週間すらなかったの
である。

****************************

 ブラウン家の朝の食卓は夕食の時と同じ。まずチビちゃんたち
が大人達のお膝の上でお給仕を受けながら食事をしたあと、大人
たちがゆっくりご飯を食べるというスタイルだ。

 その席には今日の主役、アンも来ていた。彼女だって、この家
の年長の子供なわけだから、他の妹たちの食事の面倒をみている。
 それはコンクール当日でも変わらなかった。

 その様子に何か特別おかしなことがあるわけではなかったが、
カレンが目を合せようとすると、アンの方がわざとそれを外して
いるような気がしてならない。

 『わたし、嫌われてるのかなあ……たしかに、昨日一度会った
きりだし、特別親しいわけじゃないから……でも、ひょっとして
先生に命じられて私の前で裸になったことを気にしてるのかしら
……』

 カレンもそのことは依然として気になっていた。

 「アン、今日は、もちろん私は行くつもりだが、他の子たちは
お前が気にするようなら遠慮させるよ」

 ブラウン先生は穏やかに尋ねたが……

 「大丈夫です。どうせ、舞台からは観客席に誰が座っていても
見えませんから……」
 
 彼女は、膝に乗せたサリーの口にスプーンを運び入れながらも、
どこかそっけなく答えた。

 そんなアンの気持をコールドウェル先生が代弁する。

 「大丈夫ですわ。先生。アンもこれで少しは度胸が付きました
のよ。今回は、そんな一皮向けたアンの姿をご覧に入れることが
出来ると思いましてよ」

 「そうですか、それは楽しみですね」

 ブラウン先生の言葉にアンが微妙に反応したのが、カレンには
わかった。

 『そうか、この子、気が弱いんだ。……でも、そんな子を私の
前で裸にしたりして……誰かが、荒療治だって言ってたけど……
あれって度胸をつけさせるためだったのかしら?……でも、それ
って大丈夫なの?……かえって萎縮したりしないのかしら……』

 カレンは他人事ながら心配になった。
 
 結局、アンが参加するコンクールへの応援部隊は、13歳以上
の子供達や彼女に関わっている学校の先生や家庭教師、女中頭の
アンナや庭師のニーナ・スミスまで総勢14名。

 もちろん、コールドウェル先生も一緒だった。

 山を馬車で下りると、駐車場にマイクロバスが止まっていて、
それに乗り換えて街の公会堂へと向かう。

 公会堂は古い建物で、楽屋側から見ると電気の配線はむき出し
になっているし、水道管が漏水して壁のいたるところで水が染み
出している。

 そんなオンボロでも近在では一番の大きな建物だった。
 時計台の時計は正確に時刻を刻んでいたし、ステンドグラスも
街のボランティアによって常に綺麗に磨き上げられている。正面
玄関の床を飾る大理石だって、どこにも剥げたところがなかった
から、観客の側から見る限りどこにも不足のない建物だったので
ある。

 だから、ピアノコンクールの地方予選も会場は決まってここが
使われていたのだった。

 会場に到着するとブラウン先生はこの地方の名士たちと挨拶を
交わす。職業柄、この手の人たちを無視できない彼は子供たちを
アンナにまかせて、まずはロビーで繰り広げられる社交の場へと
赴くのだ。
 そんな彼の仕事場へ、なぜかカレンだけは一緒に来るようにと
指示されたのである。

 ラックスマン教授、ビーアマン先生、エリアス婦人、ホフマン
博士、次々と握手を交わしていくと、彼らはそのつどアンと同じ
ように「彼女は何者か?」と尋ねるのだった。

 すると、先生は、はにかんだように、しかし、少し毒をもった
言い回しで……

 「(はははは)最近、手に入れた眠り薬です。どうやら、私も
歳をとったせいか睡眠薬がないと寝つきが悪くなってしまいまし
てね。この子のピアノがその薬代わりというわけです」

 こんな事を言えば相手がどんな反応を示すか、勿論、ブラウン
先生は承知していた。
 そう、アンのついでにカレンもこれら名士たちに顔見せさせて、
何かの折には売り込んでみよう、そんな下心があったようだった。

 もちろん、これは、カレンが売れるだけのものを持っていると
踏んでのこと。誰にでもこんなことをするわけではない。

 そんなことは知らないカレンは、ただただ機械的に紹介された
相手と握手をして回っていたのだが……
 そのなかで一人だけ、ハンスという名の青年にだけは他の人達
とは別の感情を抱いて握手を交わしたのである。


 カレンは先生の隣りに席を占め、演奏会は定刻に始まったが、
誰もが名演を繰り広げたというわけにはいかなかった。地方予選
という性格上、個々の技能に大きなばらつきがあるからだ。

 しかし、ブラウン先生はどんなピアノを聴いても眉ひとつ動か
さない。それどころか、どんなに稚拙でお粗末な演奏に対しても
惜しみない拍手と笑顔を送るのだ。

 それは彼の職業的な義務でもあったからだが、むしろ、聞くに
値する演奏に出くわすと、先生の視線がとたんに厳しくなるから、
隣りのカレンにしてみれば、先生の評価基準のようなものがおぼ
ろげながら見えてきて楽しい時間だったのである。

 『ハンスだわ』
 そんななか、さっき握手を交わしたハンスが舞台に上がった。
面長の顔は目鼻立ちがはっきりしていて肩まで髪を伸ばしている。
自分とは同じ歳。でも、なぜかとても大人にみえる少年だった。

 『軽くハンドキスされたからかもしれない。……でも、なぜ、
今もこの手は震えているのだろう』
 カレンは舞台上のハンスを見て思う。

 『思えば、ハンスだけじゃない。ラルフにも、ロベルトにも、
心がときめいた。私の身体って……いい男と見れば誰に対しても
ときめいてしまうのだろうか。それって淫乱ってことじゃないの』

 カレンはそっと心の中で自戒する。

 でも、それはカレンが十六の歳まで男の子を好きになれるよう
な環境になかったから起こっているだけのこと。清楚に見えるが、
彼女の心の中は、『男への免疫がない』『警戒心がない』『誰もが
白馬の王子様に見える』という幼い少女のものだったのである。

 もちろん、ブラウン先生やフレデリックまでもその対象にして
いるわけではないのだが……

 「……………………」

 カレンはハンスの演奏が熱を帯びるたびに、自分の身体もその
心棒が熱くなっていくのを感じる。正確には音楽そのものという
より、演奏する彼の姿を見ていて、胸も、お腹も、その下も……
身体の全てで、吹き荒れる若い性の嵐を抑えることができないで
いたのだった。

 仮に、部屋に独りでいて、彼の演奏する姿をテレビを見ていた
ら……ひょっとして彼女はオナニーをしていたかもしれなかった。

 『先生の目が厳しいわ。きっと、彼、いい演奏をしてるのね』
 彼女は上気した自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、先生の
顔をそっと覗きこんでは納得するのだ。


 そして、いよいよ最後は、アンの登場。

 「いよいよです。緊張しないですんなり入れるといいですけど
ね」ブラウン先生はそう言ったあと、思い出したようにカレンに
尋ねる。「……おっ、そうだ、コールドウェル先生が、あなたの
スカーフをどうとか言ってましたよ。しばらくお借りしますとか
……」

 カレンはすぐにその事に思い当たった。昨日、アンのレッスン
を見学した際、そこに赤いスカーを忘れていったのだ。
 折があれば再びアンの所へ行って返してもらおうと思っていた
のだが……

 「……(えっ!!あれ、わたしの)……」

 カレンはそのスカーフを思いもよらない場所で再発見するので
ある。

 アンは白いワンピース姿で登場したが、本来なら何も手にして
いないはずの手に、そのスカーフがさりげなく握られているでは
ないか。

 「(どうして?)」

 カレンの疑問をよそに彼女は場内のお客様方に軽く一礼すると、
カレンのスカーフを椅子の上に置いて、その上に腰を下ろす。
 そうやって、やおら、ピアノを弾き始めたのである。

 op.58、第1楽章。

 「……(すっ……すごい)……」

 カレンはたちまちアンのピアノに圧倒される。

 彼女は、今、おろしたての白いワンピースを着て、ショパンの
ピアノソナタ第3番を弾いている。

 しかし、彼女にとって、それは重要なことではなかった。

 どんな晴れやか衣装も、どんなに難しい曲も、大勢の観客さえ
も、いったんピアノに取りついた彼女にとっては、その先はどう
でもよいことだったのだ。

 『カレンという女をお尻に敷いて、自分の音楽をその耳の奥へ、
一番奥までねじ入れるんだ』

 彼女にとって大事なことはそれだけ。それだけのためにピアノ
を弾いていたのである。

 「(ピアノが自分で鳴ってるわ。アンが、どこにも見えない。
彼女、ピアノと完全に同化してるんだわ)」

 カレンはアンのピアノに心の奥底で狼狽する。しかし、それは
不幸を感じておろおろしているのではない。むしろ、喜びに心が
乱舞しているのだ。

 「(これが、天才と言われるアンのピアノなのね。私、たとえ今、
彼女が裸でピアノを弾いていても、その姿を見ることなんてでき
ないわ。だって、私の頭の中には、ピアノと一体になって奏でる
アンの音だけしか入ってこないもの)」

 その衝撃はカレンにとって、ハンスの時とはまったく対照的な
感動だったのである。

 「(終わったのね)」
 カレンは拍手さえ忘れて椅子に座っていた。

 まるでノックアウトされたボクサーのようなうつろな目をして
いるカレンに向かってブラウン先生が尋ねた。

 「どうですか?アンのピアノは……」

 「ええ、……すごいんですね。……アンさんのピアノって……」

 「ええ、凄いんですよ。だから天才なんです。ただ、天才って、
なまじ才能が有り余ってるせいか移り気でしてね、なかなか一つ
の事に集中できないんです。それを今回は、あなたが物の見事に
集中させてくれた。私からも感謝感謝ですよ」

 ブラウン先生は、アンの演奏が終わった後も放心状態のカレン
の手をとって、満面の笑みを浮かべるのだった。


*******************(1)******  

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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