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(1/23)      海草電車

(1/23)      海草電車

(*)
この項は事情があって割愛しました。
ごめんなさい。m(__)m



ラップ電車<小>
注)この写真は物語とは無関係です。

(1/24) 制服

(1/24) 制服

(*)
この項は事情があって割愛しました。
ごめんなさい。m(__)m


ぽっぽ汽車<小>
注)この写真は物語とは無関係です。

(1/25)   赤ん坊

(1/25)      赤ん坊

 私を評するクラスメイトのお母さんたちのお世辞はたいてい決ま
っていた。

 「しっかりした坊ちゃんで、とっても利発で、何より大人びてら
っしゃるからお母様も手がかからないでしょう。うらやましいわ。
うちの子なんて、ほら、まだこんなに甘えて。赤ちゃんがぬけない
から困りものだわ」

 だいたいこんな言葉が母にかえってくる。だが、彼女自身はこん
な私への評価をどのよう受け止めていたのだろうか。ふとそんなこ
とを考えてみた。

 お友だちのお母さん方の評価はあくまで外でみせる私の姿が基
準。しかし、私にとって外での姿はあくまで営業用のものであって
家の中でみせる人格は恐らく同級生の中でも一番赤ん坊に近かった
かもしれなかった。

 実際、母親は勉強や習い事には熱心だったが、いわゆる仕付けに
は甘くて、自慢にならないからこれまで人には話さないできたが私
の部屋からほ乳瓶が消えたのが小学五年生の時。小学四年生頃まで
はお風呂におまるが置かれていた。何のためかというと、これが一
緒に入る母の前で用を足すのが好きだからというんだからとんでも
ない困ったちゃんである。小学六年生の頃でも母親の前でならフル
チンは当たり前。おチンチンもお尻の穴も母親からなら握られても
覗かれても何ら関係なかった。

 昼間がそんな調子だから、夜だって当然のごとく母と同じ布団で
添い寝。母が私と添い寝しなくなったのが、13歳も終わりの頃。
これだって母が私を嫌ったというよりは私の方が何となく気まずく
なって別れたのである。

 しかも、事はこれだけではない。
 母は私を舐めて育てた。比喩的にではなく本当に事あるごとに舐
めていた。昼間はさすがに人目があるから指やほっぺぐらいなもの
だが、夜、布団の中ではどこといって体に制限がなかったような気
がする。小学校も高学年になれば性欲もまったくないわけではない
から何やら妙ちくりんな気分が体中を包みこんだことも一度や二度
ではなかった。

 もちろん『近親相姦』だなんてそんなたいそうなものではないが
その入口くらいは母が手ほどきしたということになるのかもしれな
い。

 子供なんだからマザコンは当たり前だろうが、それにしてもその
ラヴラブぶりは近所でも評判だったことだろう。やくざの親分の言
う『チンコロ』もそれはそれで的を得た表現だったに違いなかった
のである。

 色んな事情からやむを得ず父と結婚した母にとって私はたんなる
息子以上の存在だったのかもしれない。それは父方の家に対しては
大事な商品であり、対社会的にはプライドの一部。そして内なる世
界ではペットでもあったのだ。

 恋人?その一線は越えていないはずだが『抱き合えば言葉はいら
ない』というような関係ではあったような気がする。とにかく不思
議なそして強烈なインパクトを持った親子だったことに違いはなか
った。

(1/26)     紙芝居

(1/26)       紙芝居

 私は小学校に入ったあとも近所の子どもたちとまったく縁がなく
なった訳ではなかった。前に述べたように孤立児で人付き合いが下
手だから誰とでもという訳にはいかないが、隣近所の子どもたちと
はその後もいささかのつきあいがあった。

 将棋を指したりプラモを組み立てたりゴロベースをしたり町内会
の子供祭にだって参加していた。そんな近所の子供たちが、毎日の
ようにたむろしている場所、それは駄菓屋か公園。だから学校は違
っても放課後そこで落ち合えば彼らの次の遊びから帯同できたので
ある。

 母はその現実をよく承知していたから公園が見渡せるタバコ屋の
おばさんに私のスパイを依頼していたのだった。

 あえて説明は無用かもしれないが、駄菓子屋というのはその名の
通り子供のささやかな小遣いでも買える安いお菓子を専門に売って
いるお店のことで、我が家に一番近い駄菓子屋は児童公園そばにあ
った。

 そこは小学一年の頃わざわざ新築してまでお店を開いたくらいだ
から当時はそれだけ子供が多かったのだろう。

 私も近所の子供たち同様五円十円握りしめてその社交場へ通った
一人だが、おやつは家で別に用意されていたから駄菓子屋でお腹一
杯にになってはいけなかった。
 それだけではない。私の場合、試験管に入ったゼリーは体にあわ
なくて、食べれば必ず蕁麻疹だったから母親からは絶対に手をつけ
てはいけないと言われていたのだが、友だちに「勇気がない」と言
われると手を出さないわけにはいかず、よく母を徹夜させてしまっ
たのを覚えている。

 一方、公園には紙芝居がやってきた。拍子木につられて集まった
子ども達に水飴や薄いせんべいなんかを売ってから絵物語りが始ま
る。当時は個別にビニール掛けがしてあるなんてことはないから、
水飴にはハエがたかるし、せんべいもおじさんの薄汚れた手で手渡
しされるからかなり不衛生だ。

 おじさんは「買わない子は見ちゃいけないよ」なんて因業なこと
を言っていたが、それはかぶりつきの場所が確保できるかどうかの
差でしかなかった。

 お菓子を買わない子は離れてみていればよかったのである。

 そんな可哀想な子(?)に水飴をやると私は少し離れた処を散歩
して時間をつぶす。おじさんの紙芝居は他の子にとっては面白いも
のだったかもしれないが、私はごく幼い頃をディズニーの絵本で育
っているせいか、あの毒々しいイラストが好きになれなかった。
 ならば水飴も買う必要もないわけだが、これまた、不思議と義理
だけは欠かさなぬ子だったのである。

(1/27) おやつ

(1/27) おやつ

 私の家ではおやつが出た。

 今の人に言わせると「それがどうした?当たり前じゃないか」と
思うかもしれない。しかし、昭和の30年代というのは、まだまだ
貧しい時代で、多くの家庭では子供に小遣いを与え駄菓子屋で何か
買っておやつにするというのが一般的なスタイルだったのだ。

 ただ我が家に限って言えば、絶対的な権力者である母親がこれを
快く思っていないこともあって、おやつは家の中で母親の膝の上で
食べるものだったのである。

 そこに出てくるものとしては、水菓子か虎屋の羊羹、風月堂のゴ
ーフル、モロゾフのチョコレートあたりが多かったように記憶して
いる。いずれにしても大人のお茶会で子供の口にはあわないものが
多かった。

 いえ美味しくないというのではない。ただ、コビトチョコレート
の銀紙の裏に当たりの字を見つける喜びや細いタコ糸を引寄せた瞬
間大きな三角飴が動いた感動に比べればそれはつまらない行事だっ
たのだ。

 おやつの時間というのは、母が近所のお母さんたちを招いて井戸
端会議を主催する時間でもあったから母にとってはそこに私が座っ
ている方が何かと都合が良かったのである。

 母にとっての井戸端会議は、
 「昨日P社のデザイナーさんに頼んでおいたこの子の服が届いた
の」と言ってはその服を私に着せてファッションショーを始めたり、
「今度この子が学級委員に選ばれたの」と言ってはその証のバッチ
をわざわざ制服から外させて閲覧させたりとやりたい放題。
 黙っていても何ら差し支えないことを次から次に披瀝するご自慢
大会なのだ。正直、聞いてるこっちが赤面する話も多くて、そう言
う意味でもここで出されるお菓子は美味しくなかったのである。

 母のお道楽はこれだけではない。先ほど述べたが……自ら描いた
デザイン画を子供服メーカーに送って完全オーダーメードの子供服
作らせたり、外国雑誌に載ったオモチャが今はまだ東京のデパート
にしか卸されていないと聞くと、地元デパートの外商部を呼びつけ
て取り寄せさせたり。はては本屋が仕入れた全集物をそっくり買い
あさり天井まで届くような立派なガラス書棚に並べては私の部屋を
飾りたてたりもした。
 いずれも大変な労力と出費だろうが、生まれながらにして母の赤
ちゃんだった私にすれば、それがごく普通の日常だったのである。

 息子をダシに平気で自慢話を続ける母に嫌気が差し膝の上でその
まま寝てしまった事もたびたびだったが、今となってはむしろこん
な母の道楽につき合ってくれた近所のお母さんたちにただただ頭が
下がる思いがするのである。


Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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