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(1/14)       母親

(1/14)       母親

 前にも一言述べたが、私の母親は大変に気位の高い人で、人を見
下すようなところがあって子供ながらいつも心配していた。本人に
悪気はないのだが、戦前は今以上に身分社会が色濃く残っていた
から、家の格だとか男女の役割の違いといったものが今以上にうる
さかったように思う。
私がバス通学を強いられたのも、教育熱心というより家の格から
してそこらの子供と同じ学校ではおかしいという思いがあったから
に違いなかった。

 こう言うと、母が何だか世間知らずで周囲から孤立していたよう
に聞こえるかもしれないが、実は彼女、気位が高い反面、仕事には
熱心で、娘時代にこなした習いごとのつてを頼ってその稽古場など
で流通品の展示即売会などを開いては家計を助けていたのである。
 そんな時の母は普段の気位もどこへやら『私は根っからの商売人
でございます』と言わんばかりに愛想をふりまく。決して媚びては
いないのだが、一度掴んだ客は逃がさなかった。

 もっとも母の頑張りには、父親がお人好しで商売に不向きという
我が家の特殊事情もあった。おかげで父は母にまったく頭が上がら
ずじまいで、巷では「あそこのご主人は婿養子かしら」なんて囁か
れていた。

 そんな事情もあってか母は自分が稼いだお金を自由に使い生活を
エンジョイしていた。もともと家事らしい家事は何一つできない人
だから稼いだお金でお手伝いさんや子守さんを雇い、余ったお金は
自分の衣装や子供たちの教育費へと消えていったのである。

 遠足のお弁当にしても、運動会の玉入れ用のお手玉作りも、図工
の時間に着る割烹着だって、我が家においては、すべてはハツさん
(お手伝いさん)の作品なのだ。それを「お母さんはお裁縫が上手
なのね」なんて事情を知らない人に褒められると、私の方がどこか
気恥ずかしい気分になるのだった。

 しかし、母にそんなことを話してみても気にとめている風はさら
さらなく、たまにケーキ作りなどに挑戦したこともあったが、普段
の家事さえまともにできない人にできるわけがなくそれを冷やかす
と、「そんなの商売にしてる人がやればいいのよ。人は向き向きの
仕事をすればいいの」と言ってはばからなかったのである。

 結婚してもどこか娘っぽいところがあった人で、衣装は子ども達
の分も含めデザイナーにデザイン画を送ってオリジナルの一点物で
揃え、スリッパのある暮らしがしたいと言って純然たる日本家屋を
改築して不思議な洋間を増築したりもした。
 今なら何でもない事も当時はひんしゅくものということも多くて
ご近所の奥さんたちからは「まるで娘さんみたい」と陰口を叩かれ
ていたのだが、生来の向こう気の強さと明るさで乗り切っていた。

 ちなみに貯金なんてケチくさいこともしない人だったから家計は
いつも火の車で、実家から毎月のように借金をしていのは、幼い私
ですら知っていたことだった。

(1/15)       酒屋

(1/15)       酒屋

 私の家の近くに酒屋があった。純然たる酒類販売だけでなくカウ
ンターだけの一杯飲み屋も兼ねていたから、日が暮れてからは男た
ちの歓声や癇癪やざれ歌なんかが店の外まで飛び出し店内は酒臭
くてそりゃあ賑やかだった。

 賑やかというより猥雑だったというべきかもしれない。けれど、
不思議に母はこの店へ私が足を踏み入れる事にはそれほどヒステリ
ックではなかった。
普段の彼女の言動からするとこういった処へ子供、それも幼稚園児
が出入りすることを快く思うはずないのだが、ここの酒屋がご近所
で、奥さんが友だちで、何より商売上のお得様ということがあった
のだろう。さしてためらいもせずに父の寝酒を買ってくるよう私に
命じることが多々あった。

 幼稚園児に一升瓶は重くよたよたして帰りかけると、酔った男達
が酒のつまみ代わりに私に声をかけてくる。たいてい無視するのだ
が、その日はなぜか心地よさそうに酔っているおじさんの懐へ飛び
込んでしまった。
 意外な珍客におじさんは自分で誘っておいて一瞬驚いた様子だっ
たが私が愛想良くしているとご機嫌になって、周囲の友だちと一緒
にしきりに自分の呑んでいた酒を勧めるのだ。

 そして、そのコップに残った僅かなお酒を舐めてみると、これが
けっこういけるのである。
 「お~、おまえいける口だな。よし、もう一杯いこう」
 おじさんはさらに機嫌がよくなって今度は一㎝ほど注いでくれ
る。
 で、これを飲み干すと次は二㎝。さらにその次は三㎝とメートル
が次第次第に上がっていく。が、なにせ相手は幼稚園児だから酔い
つぶすのに時間はかからなかった。
 しまいにはすっかりできあがってしまいその場に立っていられな
くなって店の土間で大の字になってしまった。天井はぐるぐる回っ
ていたが何と心地の良いことかという快感だけは今でも心の奥底に
残っている。

 「あんたら何やってるんだ!」
 聞き覚えのある声を夢の彼方で聞きつけて、どうやらこの辺りで
店の主人が気がついたようで、急性アルコール中毒にはならずにす
んだが、これを聞いた父親の怒るまいことか、普段は家の中で借り
てきた猫のように存在感のない人が、この時ばかりはそのおじさん
の胸ぐらを掴んでなぐりかかろうとしたのだから、親とはありがた
い(かな?)ものである。

 今だってそんな居酒屋や一杯飲み屋は全国に五万とあるだろう
が、そんな場所も今ではみんなが大人しくなってしまったような気
がする。

(1/16)      酒屋2

(1/16)      酒屋2

 私の記憶にある昭和の30年代は誰もが自分の気持ちに素直に生
きていた。自分の気持ちに素直ってことは当然素直な気持ちを表現
された方が怒る場合だってあるわけで、今で言う「言葉の暴力」や
「セクシャルハラスメント」「幼児虐待」なんてのは今よりキツか
ったのも事実だ。

 そんな連中に夜はさらに酒が入るんだから事は大声だけではすま
なくなる。日ごと夜ごと街のどこかで喧嘩が繰り返され、流血の事
態なんてことも珍しくない。
 そんな時代をくぐってきた身としては、今は随分大人しくみんな
お酒を飲んでいるなあと思うのだ。

 子供の世界にしたってそうだ。今の子たちは、この爺様世代から
みるとどの子も大変なおぼっちゃまで、彼らの人間関係を覗いてい
ると時折笑ってしまう事に出くわす。何かというと分かったような
分からないような不思議な理屈で相手を説得しようと試みるから
だ。多分に親や教師やテレビの影響なんだろうが、爺様にしてみれ
ばあまり感心できることではない。

 平和理に物事が解決すればそれにこしたことはないだろうとの意
見が世の大半かもしれないが、それでは彼らが世の中に出てから困
ろうというものだ。

 事を平和理に……なんていえば聞こえはいいが、詰まるところ、
身の保身を願ってうずくまるってことだから、最初から負け犬志願
というわけだ。

 そんなものは大人になってから身につければ良いことで、子供の
間はもっと大きな自然の摂理を学ばなければならない。

 世の中は、強い者が弱い者を虐げ、虐げられた者たちは集団にな
って身を守る。強者も自分一人の力ではやれる事は限られるから、
より大きな力を求めて他人を使うことを覚える。そしてそれを維持
するために組織のルールができて人々は安定した生活を送れるよう
になるのだ。いずれにしても、統治の理屈は最後にやってくるもの。
痛みなくして平和は体現できないものなのだ。

 大切なことは、ガキ大将グループが力の序列から始まってやがて
ルールによって統治されていく過程を子供のうちに体現してみる事
だ。地位は別に大将でなくてもよい。たとえその他大勢でも、そこ
で観察し体験した人間関係が大人になって組織の中で活動する時
に生きてくるのだ。

 人との触れ合いを嫌い理屈やマニュアルといったエッセンスだけ
頭に入れておけば世の中が渡れると信じる頭でっかちな人間は、
ともすると底浅い教養を独善的に使い、周囲を困惑させては自分
だけが悦に入っていたりする。

 そんな狭い了見に縛られた組織は危うく、共産主義社会が崩壊
したのもこの為だ。そして今、子供たちを見ていると我々の時代に
もあったそうした病魔が確実に広がりを見せていると感じられるの
である。

(1/17)       映画館

(1/17)       映画館

 私の家の近くに古い映画館があった。いわゆる名画座というやつ
でロードショウなんて言葉とは無縁な映画館だった。
 便所は臭いし、椅子は狭いしぐらつくし、売店の菓子なんていっ
たいいつ仕入れたのかって思ってしまうようなしろものだった。

 学校が夏冬春の休暇時は必ず子供向けのアニメがかかっていて、
あれ30円か50円だったか、とにかくお安く楽しめたし、ちょい
と話題性のある映画が手に入った時なんかはそれをかけるけど、や
はり圧倒的に多かったのはポルノ。当時はまだピンク映画なんて言
ってたか、おばちゃんの艶めかしい姿を描いたポスターが後生大事
にガラスケースに入れられて張り出されていた。

 当時の私にとってそれはエロスというよりグロテスクな化け物の
ようなもので性的な興味の対象ではなかったのだが、見てみたいと
いう欲求に代わりはなく、ある日友だちと謀って、それをのぞき見
する計画をたてたのである。

 戦略はこうだ。その日の午前中までは学校がお休みということで
アニメがかけられているが、その日の夕方からはポルノへ切り替わ
る事になっていた。今はそんなことはないみたいだが、当時は一日
の途中で出し物が変わるなんて事はそう珍しいことではなかったの
である。
 そこで私と悪童二人は午前中アニメを見たあとポルノ映画が始ま
るまでは便所へと隠れておいて、ポルノをちょこっと見たら、その
まま入口を全速力で駆け抜けようというのだ。

 しかし、10分や20分ならいざ知らずポルノ映画が始まるまで
は四時間。
便所といっても掃除用具をしまう物置みたいな処だから、臭いし、
暗いし、何より小学生にとってそんな長い時間は退屈でならなかっ
た。

 というわけで、二時間後甲高い声が劇場中に響き渡りおやじさん
に見つかりそうになる。その時は窮余の一策、隠れていた物置の板
塀を蹴破って外に出て難を免れたのだが……
 よせばいいのに一時間後自分たちが蹴破った板塀の処からもとの
物置へと舞い戻ってしまう。そりゃあ見つかるだろうという知恵は
当時の小学生にはなかった。

 でも館主のおじさんがいい人で蹴破った板塀の修理を手伝うと、
10分だけピンク映画を見せてくれた。そこはエロスとは関係ない
部分なのだが、大いに興奮したのを覚えている。そしてまだ五分と
立たないうちに映画館の入口を三人で猛ダッシュ。近くの児童公園
まで駆け抜けた。つまり成功したわけだ。

 それにしても四時間、バカとしか言いようのない苦労だ。しかし、
そんな無駄な時間が手に入るほど、当時の少年の生活はのんびりと
していたのである。

(1/18)       やくざ

(1/18)       やくざ

 私の街には皆から「やくざ」と呼ばれている人たちが沢山いた。
なかでも60歳前後だろうか、病気していたみたいで、強面という
感じの人ではないが、周囲の人たちの話を総合すると、どこかの組
の大親分ということらしい。

 そう言われてみると、ふいに眼光が鋭く変化することがあるから、
そんな時は「なるほど」と思わないこともないが、普段は大人しい
紳士である。

 何でも旅館業が本業らしいのだが、それは実質奥さんが切り盛り
していて自分は遊郭に入り浸って遊んでいるらしい。

 そんなこんなが井戸端会議で語られ、私の耳にも入ってくる。
 実際、この時代までは「やくざ」と称する人たちもその多くが私
たちと同じ一般市民として暮らしていた。もちろん道で出会えばお
互い挨拶もするし、極道と呼ばれてはいても別世界で暮らす異邦人
という感じではなかったのである。

 とはいえ幼い私とその人に接点などあろうはずもなく、本来なら
街で見かける程度の関係なのだろうが、実は、その組長さん、私に
一度だけ声をかけたことがあった。

 その日、私は母に叱られて一時的に家を追い出されていた。夕暮
れ間近の家の前で、当時はごく普通にどこにでもあった石造りの四
角いゴミ箱の上に乗っかってしょんぼり夕焼けを眺めていると……

 「おっ坊主、なんだ母ちゃんにまた追い出されたのか!?」
 と声をかけてくる。

 縞のどてらを羽織り、やりての婆さんから買ったであろう豆腐が
一丁浮いた鍋をかかえた姿は、どう見てもやくざの大親分には見え
ない。

 私は無視して横を向き泣きはらした目をこすった。
 すると、
 「しょうがねえなあ、おまえはあの母ちゃんのチンコロだからな」
 と続けるから……
 「なに?」
 と振り向くと……
 彼はただ微笑むだけで何も答えずその場を立ち去ったのである。

 話はこれだけ。からかわれたと言ってしまえばそれまでだが、私
は、彼がその瞬間見せた哀愁を込めた半分泣いているような笑顔を
理解できなかった。
 いや、その場だけでなく、かなり長いことそれは分からないでい
たのである。

 ただ意味は分からないくても、その瞬間、幼い私をバカにして、
そう言ったのではないということだけは何故か私の心に届いたのだ
った。

 時が流れ、私も多くの人生経験を積んで、今はやっと彼の言わん
とした事が分かるような気がする。

 彼は、私が母のチンコロ、つまりペットとしてしか認識されてい
ない現実を見抜いていたのだ。どんなに手間暇お金をかけようとも、
いざ自分のプライドに手がかかるととたんに冷淡になる。その事を
哀れんで微笑んだのだ。

 怖い人ではある。しかし、してみると今は哀れむべき子供の何と
多い事か。

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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