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(1/6)      三丁目の夕日

(1/6)      三丁目の夕日

 作者は西岸良平さんって言ったかなあ、三丁目の夕日ってマンガ
があった。昭和30年代頃の東京下町の様子をそこはかとないペー
ソスをまじえて描いてた。その時代を知る者にとっては「なるほど」
って頷けることの多い作品だった。

 確かにあの時代は物には恵まれていなかったが、誰もが今よりヒ
ューマンでいられたような気がする。

 今は……
 ある意味あの時代より人間が上質になった。街中で大声を出す酔
っぱらいや些細な事で喧嘩をしかける輩を最近はあまり見ない。
 それだけ人間が落ち着いてきたというかお上品にはなってきた。
別の見方をすれば、住み良くなったともいえる。

 そんなことをヒューマンって言うなら、今は昔に比べヒューマニ
ティーが上がったと言える。
 でも、僕は昔の人たちが今より粗野で下品でヒューマニティーが
なかったなんて思っていない。

 なぜなら、今振り返っても他人から得た教訓というのは今よりあ
の時代の方がはるかに豊富だったような気がするからだ。

 愚直で、不器用で、感情の起伏が激しく気の利いたことの一つも
言えない人間は今の世に現れると厄介者扱いされるかもしれない
が、見方を変えれば、これほど誠実で、一途で、率直に話し合える
人間もいないわけで、実際、これらの人々は驚くほど人間観察が優
れていた。

 学歴も教養もないこれらの人たちは、しかし、驚くほど愛や仕事
や社会の仕組みについて本質的なことが何かをかぎ分けていたの
である。

 知識としてではなく知恵として授かったそれらのものは今でも私
の心の中で一つの真理として体系づけられ生き続けている。

 かくいう私は、その年代、まだ子供だったから、偉そうなことを
言ってはいけないかもしれないが、上品になった日本人が疎ましく
眺める今の中国人を見ていると、「そうだ、日本人も昔はあんな人
たちだったなあ」と感じてしまう。そんな感慨は私だけだろうか。

 西岸さんの世界は確かに美しいが、そこに暮らしていた人たちの
現実は、そんなに美しい事ばかりではなかったと思うのである。


灯台<小>
注)写真はこの記事とは関係ありません。



(1/7)        炭坑町

(1/7)        炭坑町

 私が幼年期を過ごした街は炭坑で栄えた町だった。当時はすでに
斜陽産業だったが、それでもつい最近まで栄華を誇っていた名残か
らか、公共施設も近隣の町に比べて充実していたし、教育のレベル
も高かった。

 一般には、山の町なんて言うと住んでる人たちは粗野な荒くれ者
ばかりと思われているようだが、私の感性では炭坑夫と呼ばれる人
たちも話をするとその多くがごく普通の常識人だ。
 ただ母親はこうした人達を一ランク下の人間と見下している風が
あって、それらの人たちが住む社宅へは私を近づけたがらなかった。

 実は、山の町と言っても、そこに住むのは何も炭坑夫ばかりでは
ない。山には色んな技術者もいるし、街には小金を貯めた商店主が
コンサートや美術展、講演会などをしきりに開いている。行き来す
る文人や教養人だってそりゃあ近隣の農村の比ではなかった。

 私の家もそうした町の発展に魅せられて移り住んだ質屋だったの
だ。家の周囲にはパチンコ屋や映画館、酒屋も繁盛していた。都会
の歓楽街というほどではないが田舎町の中ではここが中心地。我が
家にも多くの炭坑夫が大勢金策に訪れていた。

 私はその質屋の帳場越しに色んな人間を観察していたのだった。
 凄んでみたり泣いてみたり、卒倒するパフォーマンスだってある。
みな手持ちの二束三文の質草で1円で多くお金を借りてやろうと必
死なのだ。
 今のようにまだサラ金なんてものがない時代。質屋は庶民が安直
に金策できる金融機関だった。

 「赤ん坊のミルク代が……」「給食費が払えなくて……」「明日の
米が……」なんてのは常套句で、その迫真の演技はプロの役者も顔
負けである。ただ、暖簾をくぐって一歩表へ出れば、可愛い我が子
はまぶたの奥へと消え去り、向かいの立ち飲み酒場へ直行、景気を
つけてから遊郭へという姿が見えてくる。

 お人好しの父はこうした人たちにせがまれると弱く、小芝居役者
の無理難題をよく聞いていた。

 そんな訳で、「こいつは金蔓の倅だから……」という事もあるの
だろうか、店の前で遊んでいるとちょくちょく見知らぬ大人から声
を掛けられては遊んでもらっていた。今なら何か下心がありそうで、
警察に通報されそうな気配だが、娯楽の少ないこの時代にあっては
子供と遊び暮らす大人だって珍しくなかったのである。

 もちろん下心までは分からないが、実際に犯罪に巻き込まれた
ことなどなかったし近隣でそんな話も聞かなかった。むしろ、彼ら
と交っていると、彼らがことのほか人間というもの洞察力に優れて
いると人たちだと、大人になってから気づかされるのだった。


電車<黄色>

注)この写真は記事とは何の関係もありません。

(1/8)     バス営業所(1)

(1/8)     バス営業所(1)

 私は幼稚園時代からもっぱらバス通学(通園)だった。母親の気
位が高く近所の幼稚園では満足できなかったらしいのだが、通わさ
れていた当人にとっては何とも迷惑千番な話で、御陰で常に早起き
を強いられていた。

 夏場はともかく冬場などは家を出る時はまだ星が瞬いていた。
 その星を見上げながら歩き空が白々と空け始める頃、私は一軒の
東屋に着く。中にはいつも数人の男達がストーブを囲んで談笑して
いた。新聞を読みながら、お茶をすすりながら、家から持ってきた
弁当を突きながら、大笑いするでもなく、和やかな雰囲気が窓越し
に眺める私にもよくわかった。

 「おっ、坊主、来てたのか、入れ入れ」
 私を見つけるとこう言って招き入れてくれる。勝手に入り込んだ
りはしないが、その暖かさが好きで断ったことは一度もなかった。
 バスが出るまでのほんの数分の滞在でストーブにあたる以外何す
るわけでもない時間なのだが、忙しい私にとっては貴重な安らぎの
場だった。

 私が覗き込んでいたこの施設、バス会社の営業所(というか折り
返し所に付属する詰め所)で、本来ここにバス停はなく一般の乗客
はここから200米ほど離れた起終点となるバス停で待っていなけ
ればならないのだが、私の場合は母の口利きで特別にここから乗せ
てもらっていた。

 今はそんなこと菓子折一つで頼んでも応じてくれないだろうが、
当時はそのあたり自己責任で鷹揚に処理されていた。だからこの営
業所にたむろするメンバーが入れ替わっても私の存在はその後の人
たちに申し送られ、結局のところ幼稚園の時代から小学校の高学年
になるまでここが私専用のバス停兼休憩所になっていた。

 ついでに言うと、私は電車通学をしていたころ、電車の先頭にぶ
ら下げてある行き先案内板を車掌さんにねだって取り替えさせても
らったことがある。

 想像以上に重くて車掌さんが支えていなければ落としていたかも
しれなかった。

 子供の特権というやつか、今なら部外者を運転席に立ち入らせた
だけでクビだなんて言ってるくらいだから、当時は、実にのどかな
暮らしよい時代だったようだ。

 昔はこのように子どもにつき許されるということがたくさんあっ
たような気がする。逆に言うと大人の方も子どもにしてやれる事が
たくさんあって、それがまた大人の権威を高めてもいたのだ。

 今はやれ子供の権利がどうだこうだとうるさく議論するが、街で
大人と子供が触れあうことが極端に少なくなったような気がする。
『すべては自己責任で……』となぜ親の方も悟れないのだろうか、
 了見の狭さが悲しいね。


山への入口 <小>
注)写真はこの記事とは無関係です。


(1/9)      営業所(2)

(1/9)      営業所(2)

 私は見栄っ張りな母親のせいで幼稚園時代からバスや電車での
通学を余儀なくされていたが、それがその後の人生にプラスになっ
たかというと、惰性非才のためかそんな形跡は微塵もなく母親の
野望は単なるお金の無駄遣いに終わってしまう。

 ただその時代、私にとっては電車やバスに乗っていられる時間が
一日の中で最も楽しい時間だったから、将来はバスの車掌(当時は
電車と同じようにバスにも車掌さんが乗っていた)で暮らしたいと
心密かに考えていた。

 だからその日のために(?)とバスでの帰り道、終点近くになっ
て乗客が少なくなると、運転手さんや車掌さんにバスの構造や勤務
時間なんかをしきりに聞いてまわっては勉強していたのだ。言って
みればこれだけが母がお金と労力をかけて私に与えてくれた部分だ
った。

 もう小学校にあがる頃になると、営業所の諸君とはツーカーで、
詰め所に入りしな、「何だ、お前は…」なんて新米の車掌に吠えら
れると、こっちが睨み返したものである。
 だから、営業所に停まっているバスの運転席にデンと腰を下ろし
てクラクションを鳴らしてみるなんてことは一度や二度のことでは
なかった。

 そこで見た運転席の光景は今でも忘れないが、どんな高価なオモ
チャより輝いていた。

物のない時代のことだからね、当時のバスというのはどこか壊れ
てもすぐにその製造メーカーの部品が手に入るわけではないんだ。
あちらこちらから部品をかき集めては修理しているんだ。おかげで、
各計器類や確認ランプ、方向指示器やワイパーなんかが、元々
製造したメーカーに関係なく、芸術的にくっついていた。

 不様という大人の見方もあるだろうが、少年の目にはこれが実に
ユニークに映ってね、もうそこに座っただけで心は宇宙飛行士気分
だったのである。゜+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゜

 おまけに、ある運転手さんなど営業所の敷地内だけとはいえ私を
膝の上に乗せてバスを動かしてくれたのだからこれはもうサービス
のしすぎかもしれない。\(゚▽゚)/

 もっともその後、彼が見返りを要求してきたので、それには快く
応じることにした。

 『え!?どういうことかって?』(*^_^*)

 つまり彼は僕の家(質屋)のお得意さんでね、最近、質物を高く
評価してくれないから、もっと高く貸すよう、お父さんに進言して
欲しいと言うんだ。

 男同士の約束だもん、効果があったかどうか疑問だけど、約束
は守ったよ。(^ニ^)


運転席 <FC>
注)写真は記事とは無関係です。

(1/10)     やりての豆腐屋

(1/10)     やりての豆腐屋

 私の家の近所に小さな豆腐屋さんがあった。豆腐屋と言っても製
造直売というのではない。お婆さんの家はささやかな自宅兼荷物置
き場があるだけで店と呼べるようなものはなく、別の豆腐屋さんか
ら商品を仕入れて売る委託販売なのだが、ご近所はどこもこのお婆
さんがリアカーに乗せて売りに来る豆腐を買っていた。

 化粧っ気もなく顔中しわくちゃで子供の私にしてみればどこにで
もいそうな老婆なのだが、私の母親も含めご近所のおかみさんたち
の間ではたいそう受けの良い好人物と見えて食べるには困らない程
度の売れ行きだった。

 そんな豆腐屋さんを母親が、「あの人、昔はやりてだったから何
にしても話が面白いわ」などと言うので、私は『そうか、昔は商売
上手で大きな店を構えてたんだろうなあ』などと勝手に想像してい
たのだが、この「やりて」実は意味がまったく違っていたのである。

 母親の言う『やりて』というのは遊郭なんかで客をお女郎さんに
引き会わせる今で言うポン引きみたいな仕事のことで、売春防止法
が始まるまでは、もっぱらこれが本業だったというから、私が生ま
れた時はまだ現役だったのである。

 そう言われてみれば、彼女、外見からは何一つ色気と無縁なはず
なのに、話し始めるとどこか華やいだ雰囲気をその場の中に醸し出
していた。(後々素性がわかったからそう感じるだけなのかもしれ
ないが)

 いずれにしても、気位の高い母親が花柳界にいた彼女の存在を疎
ましく思っていなかったのは確かで、実は彼女の進言で、母が家の
習慣にしてしまったことがあって、これには正直、子どもたち一同
みんな大弱りだった。

 ある日、赤い字で印刷された病院からもらってくる薬袋のような物
がちゃぶ台に置いてあるから、『何だろう』と中を覗いていると、気が
ついた母が得意げに『これから悪い子にはこの艾でお灸をすえる
ことにしたから』と宣言したのだ。

 その瞬間、目が丸くなり絶句。(O_O)
 自分ではそれまで一度もやられたことのないお仕置きなのに、
一瞬にして背筋が凍り付いたのを覚えている。

 当時、子供が悪さをした時、お仕置きとしてお灸をすえる家は珍
しくなく、身体検査の時なんかその痕がケロイド状に光っている子
がけっこう見かけられたのだ。だから友だちの家へ遊びに行って、
たまたまそんなお仕置きに出くわすこともあるわけで、そのあまり
の悲惨さから『これはただごとではない』と、多くの子供たちがその
恐ろしさを悟っていたのだった。

 私の子供時代、私の田舎ではたとえ親にやられなくても、お灸は
究極のお仕置き。怖い怖い出来事だったのである。


超狭軌道 <小>
*)写真は記事とは関係ありません。

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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