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第7章 祭りの後に起こった諸々(3)

第7章 祭りの後に起こった諸々

§3 最後の晩餐

 楽しいひと時は30分ほど続き、カレンだけでなくアンまでも
がピアノを弾いた。

 アンはそれまで自分なりに工夫を重ねてきたカレン式のピアノ
を披露する。
 それはとても軟らかなタッチで、カレンだけでなく伯爵夫人を
も魅了したが、ただ、カレンと同じ音が弾けたわけではなかった。

 依然、カレンの音はカレン本人にしか出せなかったのである。

 やがて、そんな三人の楽しい語らいも、女中がやって来て水を
さす。
 居間の方へ来てほしいというのだ。

 部屋を出る時、女中は伯爵夫人に手を貸そうとしたが、夫人は
あえてこう言うのだった。

 「カレン、あなたが私を連れて行ってくださるかしら?」

 「はい、喜んで……」
 カレンは、伯爵夫人の言葉に何の躊躇もない。

 こうしてカレンが夫人をエスコートする形で、三人は居間へと
やってきた。

 そこで……
 「お父様」
 「お父様」
 二人は異口同音につぶやく。

 さっき伯爵が部屋を出る時、二人はその知らせを耳にしていた
はずだったが、それからがあまりに楽しい時間だった為にお父様
の事はしばし忘れていたのだった。

 「どうしたんだね、二人とも……親が娘の迎えに来るのは当然
のことだと思うがね」

 ブラウン先生はいつもの営業笑い。
 何の敵愾心も感じさせない穏やかな微笑みを浮かべて、二人を
暖かく迎え入れた。

 「では、食堂の方へ参りましょうか」
 伯爵が誘うと……

 「大変恐縮です。閣下。子供がお邪魔をしたうえに夕餉の心配
までいただき、不肖ブラウン、心が痛みます」

 ブラウン先生、つまり父親が伯爵の前で最大限気を使っている
のが二人の娘にもわかった。

 もちろん、伯爵の方は、
 「そんなにお気になさらずに……こちらがお呼びたてしたので
すから、このくらいは容易(たやす)いことです」
 と、軽く受け流すだけだったが……。

 爵位を持つ人たちの普段の食卓は、その家によって、夫婦だけ
だったり、成長した子供と一緒だったりと形態はさまざまだが、
アンハルト家の食卓には、先代の伯爵夫人のほか、現当主、画家
や音楽家、占星術師など多くの人たちが同席を許されていた。

 「おう、これは、これはブラウン先生。こんな処でお会いする
とは奇遇ですなあ」
 コンクールにも顔を見せていたラックスマン教授が目ざとく見
つけてブラウン先生と握手を交わす。

 「50キロの道のりを飛んでまいりました。子どもを持つと、
何かと苦労が絶えませんよ」
 これが先生の応じた言葉だった。

 夕食は当然ながら豪華な晩餐となった。
 当然、それはブラウン先生と二人の少女たちをもてなすために
用意された料理なのだが、貴族の食卓だから、常に豪華な食事を
しているというわけではない。

 大きな所帯は経費も大きい。貴族の家だからといって日常的な
食事にまで大きなお金をかける家はむしろ珍しく、そういった事
も含めブラウン先生としては出された豪華な料理を前に、心中は
複雑だったのである。

 デザートまでが済み、食後の会話を楽しみ、居間に戻って葉巻
をくゆらす。その場に笑い声は絶えないが……それは少女たちの
甲高い声ではない。そこは大人たちの社交の時間だった。

 一連の行事が終わり、ブラウン先生としてはなるべく早く帰り
たかった。だからそのきっかけを探っていたのだが、伯爵の方が
それを許さなかった。
 伯爵としては最後にもう一品、二つ目のデザートを待っていた
のである。

 もちろん、ブラウン先生もそんな相手の希望は分かっている。
だから、結局はこう言うしかなかった。

 「カレン、最後にもう一曲ご披露しなさい」

 食後の胃もこなれ、頃合いのよい時間。
 カレンは再び居間のピアノに着く。

 ピアノ室に移動してもよかったのだろうが、
 『あの程度なら、ここでも……』
 伯爵は軽く考えていたのだ。

 ところが……

 「……………………………………………………………………」
 「……………………………………………………………………」
 「……………………………………………………………………」
 「……………………………………………………………………」
 「……………………………………………………………………」

 ピアノが始まってしばらくすると、その部屋が水を打ったよう
に静まり返る。表現のしようがないほどの繊細な音が周囲の人々
から会話の声ばかりか葉巻を灰皿にねじ込む物音さえも奪い去る。
葉巻は灰皿に乗せられたまま燃えていく。
 誰もがカレンの弾くピアノの音をほんの一瞬たりとも聞き漏ら
したくなかった。

 「(街の喧騒の中ではさほどとも聞こえなかったのに。お母様
はこれを聞かれたのだ)」
 とりわけ、緊張が高まってトランス状態で弾く時のカレンのピ
アノを伯爵はこれまで聞いたことがなかった。それだけに、彼の
驚きは強烈だったのである。

 「(何故だ。これは紛れもなく兄さんの音ではないか。誰にも
決して真似のできないはずの天上の音楽。それをどうして彼女は
奏でることができるんだ。……聞かねばなるまい。もっと詳しい
話を……)」

 伯爵はカレンのピアノを聞くうち、手にしたブランデーグラス
が重いと感じてテーブルの上に置いてしまう。そんな伯爵の気持
がブラウン先生には手に取るようにわかるのだ。
 しかし、だからこそ、いけなかった。

**************************

 帰りの車中、ブラウン先生は無口だった。
 無口だったが、怒った様子もないから娘たちはほっと胸をなで
下ろして家路についたのである。

 「今日はもう遅いから寝なさい」
 そう言った時も先生は笑っていた。

 その次の日の朝も、いつもと変わらない朝だった。

 女中さんたちのなかにカレンの笑顔があって、子供たちの声は
誰の声も甲高く、ブラウン先生もいつものように笑顔で他の先生
たちと談笑している。

 「さあ、みんな、学校へ行く時間よ」
 ベスの声が山荘じゅうに響き渡る。

 学校は山荘のお隣。規模だって寺子屋ほど小さなスペースなの
だが、それでも出かける時は、居間で、でんと構えているお父様
に抱きつき、『行って来ます』のキスをするのが慣わしだった。

 だから、二人とも居間へと出発する準備を整えていたのだが…
 「今日はお父様からお部屋で待っているようにとのことです」
 アンナとベスからカレンとアンは伝言を受ける。

 「あっ、そう……」
 二人とも気のない返事。
 しかし、だったら待っているしかなかった。

 子供たちがすべて出払い、通いの女中達も自宅へ帰って行って、
山荘には気心の知れた使用人たちと家庭教師のヒギンズ先生だけ
が残っていた。

 そうなってはじめて、ブラウン先生は二人の娘たちを呼び出し
たのである。

 おずおずと居間のカーペットを進む二人。カレンはわけがわか
らずそれでも神妙にしているが、アンの方は今にも心臓が口から
飛び出しそうなほど緊張していて、顔は真っ青だった。

 「カレン、おいで……」
 ソファに腰を下ろしたブラウン先生はまずカレンを近くへ呼び
寄せる。

 「はい、お父様」
 心なしか元気のない声。詳しいことなど分からなくても女性は
周囲の空気がよどんでいるのを敏感に感じ取る生き物。

 『何だか、ヤバイ』
 女の勘が働くのだ。

 「あらためて聞くが、君は、私のことをこれからも本当の父親
だと思って、ここで暮らすつもりがあるかね?」

 「えっ!…………あっ……はい、お父様」
 突然の質問に驚くカレンだったが、自信なさげに答える。

 「本当に、心の底からそう呼べるかね。私のことを『お父様』
って……私は単なるパトロンでは嫌なんだよ」

 「はい、最初にお約束した通りです。本当の父が見つかるまで
は、先生が私のお父様ですから」
 カレンは意を決したように今度は少しだけ声を張った。

 「わかった。だったら、お前は私の娘として、私から罰を受け
なければならないが、それでもいいのかな?」

 「(えっ!!……どうして!!)」
 カレンは驚いた。その突然の宣言がアンの予測通りだったから
だ。

 「お前は、アフリカで生まれ育ったから、この町の事情は知ら
ないだろうが、あの伯爵家の先代は、戦時中はナチの幹部だった。
彼としては戦争で多くの犠牲を払うよりその方が得策と考えたの
だろう。たしかに彼の読み通り戦争の被害は少なかった。しかし、
結果として、この町でも罪のない多くの人が処刑されたから、今
でも、伯爵家に対して恨みを持つ人は決して少なくないんだ」

 「(やっぱり、その話なんだ。アンの言うとおりだったわ)」
 カレンは思った。

 「私も、君達も、この山荘も学校も、ここにある全てのものは、
町のみなさんが有形無形のいろんな援助をしてくださるおかげで
成り立っている。決して私の力だけで、全てがうまくいっている
わけではないんだよ。……わかるかい?」

 「はい、お父様」

 「もし、そんな町のみなさんの中に伯爵家を快く思わない人が
大勢いるとしたら…『我々が伯爵家と個人的に仲良くしている』
なんて噂がたつだけで、援助の手をやめてしまう人か出てくるか
もしれない。そうなって困るのは、君だけじゃない。まだ小さい
子供たちを含め、山荘の人たちみんななんだ。それも、わかるだ
ろう?」

 「は、はい、で、でも、私、そんなこと…今まで知らなくて…」
 カレンは慌てて弁解する。

 「わかってるよ。私は君のお父さんだから、娘の事は一番よく
知っている」

 「(よかった)」
 カレンは心の中でそうつぶやいた。許されると思ったからだ。
ところが……

 「でも、多くの人はそんな君の事情は知らないし、そもそも、
そんな事どうでもいいことなんだ」

 「どういうことですか?」

 「肉親を殺された人たちにとっては、先代の伯爵様だけでなく、
伯爵家そのものが敵だし、伯爵家と親しくする人も心許せない人
になってしまう。もちろん、伯爵様に石を投げたり、法に訴える
事はできなくても、離れていることはできるからね。私たちから
も、自然と離れていってしまうんだ。そんな人に君は『あれは、
偶然仲良くなっただけなんです』っていちいち説明に回るかね。
というより、そんな事説明したところで、その人の気持に変化が
起こると思うかね」

 「…………」

 「『伯爵様とは親しいけれど。私はいつまでもあなた方の味方
ですよ』などと言ってみても、肉親を殺された人たちにとって
は、そんなご都合主義の理屈は届かないんだ」

 「じゃあ、どうすれば……」

 「この場合はどうすることもできないんだ。伯爵のそばにいた
事が罪だし、やさしくしてもらった事が罪なんだ。……もちろん
法律的には君に何の責任もないし、落ち度だってない。……でも、
この家の子として……君を罰しないわけにはいかないんだよ」

 「…………」
 カレンは思わず唇を噛んだ。
 『とっても不条理なこと……でも、逃れられない』
 そう思ったのである。

 「だから、さっき私が尋ねただろう。これからも私の子どもと
してここに残るかいって……いいんだよ、今からでも……嫌なら、
それも……無理にとは言わないから……君には別の引き取り先を
探してあげるからね」

 すると、カレンはこう尋ねるのだった。
 「あのう…それって、アンも、同じ罰を受けるんでしょうか?」

 この時、それまで真剣そのものだったブラウン先生の顔が緩む。
彼はどうやらカレンの意図を見抜いたようだった。
 「同じ罰を受けるよ。二人一緒だ。……恥ずかしくて、痛くて、
辛い罰だ」

 「……そうなんですか」
 カレンはぽつりと一言。でも、それは迷っているからではない。
決断のきっかけを探っているだけ。『この家を出る』なんていう
選択肢はアンにはないはず、もちろん、カレンにだって最初から
なかった。

 「アンはどうなんですか。そんな理不尽なことをするこんな家
から逃げだしますか?」
 先生は事のついでにといった感じでアンにも尋ねる。これも、
先生にしてみたら、彼女がここを出る決断は絶対にしないという
確信があってのことだったのである。

 案の定、アンの口からは……
 「私は、これからもお父様の子供ですから……」
 
 「よろしい、……では、カレンはどうしますか?」
 
 「はい、私もお父様の子供です」

 「よろしい、二人がそう言ってくれるのなら、私だって親です。
命に代えてもあなたたちを守りますよ」

 ブラウン先生の顔はいつになく厳しい。普段なら、お仕置きの
場面でも多少の笑顔はみせてくれる先生なのに、この時ばかりは
まったく笑顔がない。それほどまでに、この問題は根は深かった
のである。


*******************(3)*****

第7章 祭りの後に起こった諸々(4)

第7章 祭りの後に起こった諸々

§4 ブラウン家のお仕置き

 二人へのお仕置きは先生の書斎で行われた。
 書斎と言っても、ブラウン家の場合は堅苦しい場所ではない。
先生の書斎は、普段ならチビちゃんたちの遊び場にもなっている
いわばオープンスペースで、出入りは自由だった。

 ところが、今日は普段開いているはずの扉が閉っている。
 カレンにいたってはここに扉があることさえ、この時、初めて
知ったのだった。

 先生と三人で中に入ると、またびっくり。
 ヒギンズ先生は家庭教師なので普段でも家でお仕事だが、それ
だけじゃない、シーハン先生、アンカー先生、エッカート先生、
マルセル先生、コールドウェル先生まで、学校の先生方がずらり
とその場に居並んでいた。

 これにはカレンも目を白黒。
 「(学校の方は、大丈夫なのかしら?)」
 余計な心配までしたが、ブラウン先生にしてみたら、逆にその
ことが大事だったのである。

 恐る恐る部屋の中へ入ってきた二人に、コールドウェル先生と
ヒギンズ先生が近づいた。そして、コールドウェル先生がアンの、
ヒギンズ先生がカレンの衣装を解いていく。

 突然、手を触れられたカレンはお父様の視線を気にして部屋の
中を見回すと、先生はすでにソファに腰を下ろしてこちらを見て
いるから、抵抗しようとしたが、同時に、アンが素直にコールド
ウェル先生の指に従っているのを見て、それは諦めるのだった。

 ショーツ一枚。ブラさえ剥ぎ取られた二人に与えられたのは、
白い薄絹のワンピース。それを着て、まずはお父様の処へご挨拶
に行かなければならない。

 二人は、共にお父様のもとへ進み出て、そこに膝まづいたが、
カレンは最初で勝手がわからないから、常にアンの様子を見ては
それを真似たのである。

 「お父様、お仕置きをお願いします。私の心の中の悪魔が追い
出され、清き天使のこころになれますように」

 「大丈夫ですよ。試練を乗り越えれば、必ずよい子に戻れます。
そうなったら、また、一緒に遊びましょうね」

 アンの様子を見て、カレンも真似てみた。

 「お父様、お仕置きを……お願いします。私の………そのう…」
 言葉に詰まると、お父様がそれを救う。
 「私の心の中の悪魔が……」

 お父様の言葉を真似てみる。
 「私の心の中の悪魔が……」

 「追い出され……」
 「追い出され……」

 「清き天使の心に……」
 「清き天使の心に……」

 「なれますように」
 「なれますように」

 「大丈夫ですよ。美しい心は必ず取り戻せます。そうなったら、
また、一緒に遊びましょうね」

 先生の言葉はこの歳の子には幼すぎるかもしれないが、アンに
限らず山荘の子供たちは、いったんお仕置きを宣言されたなら、
どんなに幼い子でもお父様にお仕置きをお願いしなければならず、
その時は必ずお父様から『また、一緒に遊びましょうね』という
言葉が返って来るのだった。

 お父様へのご挨拶を終えたアンは、手順が分かっているから、
先に背の低い幅広のテーブルへと向う。
 後を追って、カレンも着いてきたが……
 「あなたは、ここで見てなさい。アンが終わったら、あなたも
同じことをやってもらうわ」
 アンと一緒にテーブルに乗ろうとしたカレンをヒギンズ先生が
止めたのである。

 だから、まずはアンの様子を見ていたのだが、そこでカレンは
全身に鳥肌がたつような光景を目撃するのだった。

 アンは自ら仰向けになってテーブルに寝そべると、そのあと、
自らは何もしなかった。何一つ行動を起こさなかったし表情さえ
も変えなかったのである。

 「……………………………………………………………………」

 コールドウェル先生によってアンのショーツが脱がされたかと
思うと、彼女の両足は高々と天井を向いて跳ね上げられる。

 当然、彼女の大事な処は外気に触れ、足元からなら恥ずかしい
場所が丸見えとなったが、それに驚いたのはカレンだけ。

 周囲の誰もがそれは当然のこととして受け止めていたし、その
足元へお父様がいらっしゃったこともまた当然のことだったので
ある。

 真剣な表情の先生は、まるでお医者様のようにアンの太股の中
を両方の手でさらに押し開いて観察すると、何かのお薬をそこへ
塗ってから元に戻す。

 アンがその薬が塗られた瞬間僅かに顔を歪めたのを覚えていた
カレンは『いくらか刺激のあるものだろう』ぐらい思っていたが、
自分がそれをやられた時は、たまらず姿勢を崩そうとするから、
周囲の先生たちに身体を押さえこまれてしまったほどだった。
 
 アンの観察を終えた先生は……
 「しばらく見ない間に、ずいぶん大人になりましたね」
 と言ってソファへ返っていったのである。

 その後は、浣腸。

 テーブルの上で四つん這いにされたアンのお尻へカテーテルの
管が通され、点滴用の大きなビーカーからは断続的に500㏄の
石けん水がアンの下腹へと送り込まれる。

 時間をかけてゆっくりと処置されるアン。

 彼女の顔には脂汗が浮き、下腹がごろごろと音を鳴らしている。
石けん水がお尻の穴から入ってくるたびに下腹は波打っているが、
そのことに関心をしめす先生は誰もいなかった。

 10分後、アンのお尻から出ていた細長い尻尾は抜かれる。

 たが、これで許されたわけではない。
 ふたたび仰向けに寝かされ、厳重にオムツを当てられてから、
ソファで待つお父様の処へ向う許可が出たのだった。

 「あっ……あっ……ぁぁぁ」

 突然の腹痛に、膝を突き、腰をかがめて這うようにお父様の元
へ向うアン。

 その、声にならない声はカレンの耳には乳を欲しがる赤ん坊の
ようにも聞こえたのである。

 そんな娘の両手を取って先生は……
 「あなたは、これからも、私の娘であり続けますか?」
 と尋ねる。

 「はい、お父様」
 答えはこうに決まっている。
 でも、それだけでなかった。

 「どんなことも、私の言いつけに従いますか?」
 「はい、お父様」
 脂汗を流してアンは答える。

 「もし、言いつけに背いたらどうします?」
 「どんなお仕置きでも受けます」
 アンが、思わず両方の目をしっかりとつぶる。お腹の中が今は
嵐なのだ。
 しかし、先生がそのことに同情することはなかった。

 「本当に、どんなお仕置きでも受けますか?」
 「本当です」

 「信じられませんね。あなたは前にもそう言って、同じ間違い
をしでかしたでしょう?」
 「今度は……本当です。もう悪いことはしません。……どんな
お仕置きでもうけますから……」
 アンの顔には脂汗だけではなく涙が光っていた。
 下腹を押さえて、もう必死に我慢してるのがわかる。

 でも、先生は冷徹にこう言い放つのだ。
 「どうしました?お腹が痛いのですか?……別にいいんですよ。
ここでお漏らししても……オムツは穿いてるんですから……」

 もちろん、こう言われたからといって、お父様の前で漏らす子
なんていなかった。オムツがお尻から離れてまだ数年しかたって
いないような子でもそれは同じだったのである。
 それを承知で、お父様は責め立てているのだ。

 「では、今度同じ間違いをしでかしたら、こんなお仕置きでは
足りませんよ。もっともっと厳しいお仕置きが待ってますけど、
それでいいんですね」
 「はい、お父様、アンはどんなお仕置きでも喜んで受けます」

 その瞬間、アンは全身に鳥肌をつけたまま両目を閉じて天井を
仰ぐ。
 今まさに、大洪水の一歩手前だったのである。

 「いやですか?ここで済ましてしまうのは?私は、いっこうに
構いませんよ。あなたがお漏らししたのは何度も目撃してますし、
オムツを替えたことだって何度もあるんですから。また、やって
あげますよ」

 お父様の意地悪な問いかけにアンは泣きそうになる。
 「いや、ごめんなさい。もう、だめなんです」

 苦しい息の下でうずくまるアンに先生も折れて……
 「そうですか、どうやら限界ですか。仕方ありませんね。……
行きなさい」
 やっとのことでお許しが出たのだった。

 「はい、ありがとうございます」

 健気にお礼を述べたアンだったが、その後、彼女は機敏に動い
たわけではなかった。
 下腹を押さえ、太股をしっかりと閉じた状態でよろよろと立ち
上がると、内股のまますり足で部屋を出て行ったのである。

 ちなみに、お仕置きを受ける子は、トイレを汚すという理由で
家の中のトイレを使うことが許されていなかった。
 子供達は裏庭の藪の中に身を潜めて、自分の身体の中のものを
吐き出さなければならない。
 もし、他の子が学校に行っていなければ、その姿は当然男の子
たちの目にもとまるわけで、悲劇はさらに増幅されるだろう。
 このため、女の子に対して本格的なお仕置きをする時は学校を
休ませて行うのが普通だったのである。


 アンの次はカレン。

 もちろん、カレンにとってこんな事は初めての事。アンの様子
だって衝撃的だったが、今さら逃げ隠れもできないわけで………
 カレンは果敢にアンのあとを追ったのだった。


 こうして、カレンが藪の中のトイレから戻ってくると、アンは
コーナータイムを過ごしていた。
 部屋の壁の方を向いて膝まづき、自らスカートの裾を捲り上げ
て可愛いお尻をみんなに見せびらかしている。

 この時、彼女はほっとしたに違いない。というのは、スカート
の裾を摘み上げたその手は、どんなにだるくなっても決して下ろ
してはいけなかったから。
 アンの両手はプルプルと振るえ、もう限界だったのである。

 「カレン、おトイレは終わったの?」
 部屋に戻るなりヒギンズ先生が尋ねる。

 「はい」
 そう答えたら次は二度目の浣腸を受けなければならなかった。

 これはお仕置きというのではない。腸の中に残る浣腸液を真水
で洗い流すだけ。
 これが終わって、次はいよいよ今回のお仕置きのメイン、お尻
への鞭打ちとなるのだが、その前に……

 「アン、カレン、二人とも、もう体だけは純粋に子供じゃない
が、今回は子供じみたことをしてお仕置きを受けるわけだから、
お臍の下の飾りは下ろしなさい。お互い、相手の飾りを下ろして
あげて、子供の体になってからお仕置きを受けるんだ」

 「はい、お父様」
 「はい、お父様」

 ブラウン先生のこんな注文にも、二人が逆らえるはずはなく、
アンとカレンはさっき浣腸されたテーブルでお互いの陰毛を綺麗
に剃り落としてから、少し高さのある鞭打ち用のテーブルに身体
を投げ出したのだった。

 「……………………」
 「……………………」

 二人はお父様の前でそれぞれ別のテーブルにうつ伏せになって
お尻を出している。

 処置したのは、やはりコールドウェル先生とヒギンズ先生。

 ワンピースの裾はすでに捲り上げられ、腰の辺りでピン留めさ
れているから落ちる心配はないし、ショーツも穿いてないから、
満月が二つ、お父様の前にあったのである。

 お父様はトォーズと呼ばれる、先が二つに割れた幅広革ベルト
のようなものを手にしている。
 ブラウン家で女の子がお尻に鞭を受ける時は大抵これだったの
である。

 「カレン、あなたはこれからも私をお父様として慕ってくれま
すか?」
 「はい、お父様。これからもお慕いします」

 最初のご挨拶のとき、浣腸のさなか、そしてこんな恥ずかしい
格好でいるときも、ブラウン氏は常にこう尋ねるのだった。

 そして、その返事は即座に求められた。
 もし、一瞬でも返事が遅れるようなら、子供達にはたっぷりと
考える時間が与えられることになる。

 その間、鞭は飛んでこないが、罰も終わらない。

 『私はお父様を心から愛しています。お父様のお言いつけには
すべて従います。従わなければどんな罰でも受けます』

 子供たちはお父様が期待するこの言葉をお仕置きの間何度でも
口にしなければならない。とりわけ、十歳を数年過ぎる頃からは、
ただ棒読みではお父様に認めてもらえなかった。心をこめた真剣
な態度が求められたのである。
 そして、それが認められてはじめて……

 「ピシッ」

 その鞭はお尻に炸裂するのだった。

 「ありがとうございます。お父様」

 カレンはお礼を言う。
 脳天まで電気が走るような厳しい痛みを与えた人にお礼を言う
なんて不自然に感じられるかもしれないが、それがお父様に対す
る子供たちの愛の証だったからさぼることは許されなかったので
ある。

 そして、お父様も最初の一撃のあとは小声で……
 「ありがとう」
 と娘に返すのだった。

 こうして、カレンへの最初の一撃が終わると、ブラウン先生は
お隣の満月へとやってくる。

 ここでも、やることは同じだった。

 「アン、あなたはこれからも私をお父様として慕ってくれます
か?」
 「はい、お父様。これからもお慕いします」

 そして……
 「ピシッ」
 その鞭はお尻に炸裂する。

 「ありがとうございます。お父様」

 そして、最後に……
 「ありがとう。私の愛をようく噛み締めて次を待っていなさい」

 「はい、お父様」

 ブラウン先生はアンの声に送られて、またカレンの満月へ戻る。
 そこには、先ほどつけた赤みがまだ完全には消えきらずに残っ
ていた。

 「カレン、これからは私の言いつけに何でも従いますか?」
 「はい、お父様、これからはどんなお言いつけにも従います」

 「ピシッ」

 「ありがとうございます。お父様」

 「ありがとう。カレン、君は優しい子だ。私の愛をしっかりと
噛み締めて次を待っていなさい」

 と、まあこんな調子で、二人への鞭打ちは続いていくのである。

 「お父様をお慕いします」
 「これからはどんなお言いつけにも従います」
 「お言いつけに背いたらどんな罰でも受けます」

 だいたいこの三つ誓いをワンサイクルとして……三セットか、
四セット。場合によっては、六セット、七セットと増えることも
あった。

 この時は、五セット。計十五回、二人はお尻を叩かれた。

 許されたときは、二人ともお尻りは真っ赤、僅かに血が滲んで
いる。泣きたいと思ったわけではなかったが、終わった時は自然
に涙がこぼれていた。


 役目を終えたブラウン先生は、一足早くソファに腰を下ろして
いたが、そこへ二人はお礼のご挨拶にやってくる。

 「今日は、お仕置きありがとうございました。必ず、いい子に
なります」
 こう言って女の子たちは挨拶するわけだが、ここでもまた……

 「カレン、アン、これからもあなたたちは私を慕い続けてくれ
ますか?」
 「はい、お父様をお慕いします」
 「はい、お父様をお慕いします」

 「カレン、アン、これからは私のどんな言いつけも守りますか?」
 「はい、これからはどんなお言いつけにも従います」
 「はい、これからはどんなお言いつけにも従います」

 「カレン、アン、もし、言いつけに背いたらどんな罰でも受け
ますか?」
 「はい、お言いつけに背いたらどんな罰でも受けます」
 「はい、お言いつけに背いたらどんな罰でも受けます」

 二人は今まで散々言わされてきたことをここでも繰り返さなけ
けばならない。もちろん……
 『もう、いいでしょう。散々言ってきたじゃないですか!』
 とは言えなかった。

 「よろしい、二人とも良い子に戻りましたね。これからも私が
あなたたちのお父さんですよ。よろしいですね」

 「はい、お父様」
 「はい、お父様」

 こうして、痛くて、恥ずかしい罰は終了したのだが、とりわけ
カレンにとっては、このあとまだ、ちょっぴり辛いお仕置きが待
っていたのである。

 「では、お風呂にはいりましょうか」

 二人は、お仕置きも終わったことだし、それぞれ部屋に戻って、
真っ赤に熟れた自分のお尻を思い思いにお手入れしたいところだ
ろうが、ブラウン家ではそれはできなかった。

 お仕置きを受けた子供たちはお父様からお風呂に入れてもらう
のが習慣だったからだ。

 この時、ブラウン先生は……
 『自分の預かった子供の身体を知っておくのは親の役目』
 とばかり、二人の服を自ら服をぬがせ、子供たちの体を隅から
隅まで観察する。
 親子でお風呂に入ることも、年齢に関係なく特別なことではな
かったのである。

 もちろん、カレンはこの時、断りたかった。
 でも、今の今、お仕置きされた身、断りにくかったのである。

 アンと一緒に自分の身体がお父様によって調べられる。
 全裸にされ、恥ずかしい処も全部見られ、触られたりもする。
 でも、それは問題ではなかったのである。

 問題はお風呂に入ってから……

 「…………」

 アンのお尻を優しく撫でているブラウン先生を見ながら……
カレンは気が遠くなっていく。

 「おい、カレン、どうした!」
 先生の声が微かに聞こえるが、どうしようもない。

 『湯あたり?』
 いや、そうではない。

 幼い頃からブラウン先生と一緒にお風呂に入っていたアンとは
違い、カレンは、これまで一度も成人男性の生殖器というものを
見たことがなかったのである。

 『あんな不気味なものが人間に生えているなんて……』

 もちろん、子どものものは数回見たことがあったが、あんなに
立派なものを見たのは今回が初めて……
 卒倒するには十分な理由があったのだった。

********************(4)***

第7章 祭りの後に起こった諸々(2)

第7章 祭りの後に起こった諸々

§2 伯爵夫人の憂鬱

 二人は屈強な男数人に取り囲まれると、そのまま店の外へ。
 そして、待たせてあった大きなリムジンへ。
 車内は小娘二人が乗り込むには十分すぎる広さだった。

 「ねえ、私たちどうなるの?」
 不安になったカレンがアンに耳打ちすると……
 それに答えたのは助手席に乗っていた女性だった。

 「心配はいりませんよ。すぐに帰れます。ただ、二つ三つ私の
主人があなた方にお話をお聞きしたいだけです。……ところで、
あなた方、ご姉妹(きょうだい)かしら?」

 「ええ、まあ……」
 歯切れの悪い答え。お互い血の繋がりのない里子同士だからだ。
しかし、あえて否定する必要もないだろうと、カレンは考えたの
だった。

 「私はカレンと言います」

 「カフェでピアノを弾いてたのは?」

 「私です。……彼女はアンドレア。ピアノは彼女の方が上手く
て、今度全国大会に出るんです」

 「そうなの……」気のない返事のあと、彼女は次の質問をする。

 「それで、お父様のお名前は?」

 「トーマス・ブラウンといいます」

 「ああ、カレニア山荘の……それで納得したわ。私は伯爵家で
秘書をしているモニカ=シーリングというの。よろしくね」
 その女性は四十代半ばだろうか、サングラスを取って後ろを振
り向くと、肩まで垂らした長い髪に知的な顔がのぞく。
 キャリアウーマンタイプの美人だ。

 それにしても……
 『もし、話を聞くだけなら、あの店でもよさそうなのに………
だいいち、あの青年はどうしてあんなに高圧的なの?……私たち、
何か悪いことした?』
 カレンの頭の中に色んな疑問が錯綜するのだ。

 本当はそれをアンにぶつけたかったが、今の今、助手席のモニ
カに答えられてしまったから、それもしにくかった。

 そんなもやもやしたものを乗せながらも、車だけが制限速度を
越えて田舎道を疾走する。

 『私たち、拉致されたのかしら?』
 素朴な疑問がカレンの心から離れなかった。

**************************

 一時間ほどかけてたどり着いた先は、その大きさといい豪華さ
といいまさに『宮殿』と呼ぶにふさわしい建物だった。
 リムジンは敷地内に入って徐行し始めたが、それはフランス式
の大庭園を二人に見せ付けるために、わざとそうしているように
さえ思えたのだ。

 「すごいね、ここ」

 カレンが思わず感嘆の声をあげると、ここでアンが車に乗って
から初めて口を開く。
 「当たり前よ。だってここはアンハルト伯爵家のお屋敷だもの」

 「アンハルト?」

 「そう、私たちの昔の御領主様よ」

 『そうか、それであの人、あんなに高圧的な態度だったのか』
 カレンの頭の中にあった謎の一つが解けた。

 市民社会になって百年が過ぎた今でもヨーロッパではかつての
所領に隠然たる勢力を残す貴族が少なくない。店の人たちやアン
が怒ったような顔をしていても、容易に口を開こうとしない理由
がそこにあった。

 『身分が違う』からなのだ。

 そんな少女たちがもとより正面玄関から建物の中へ入れるはず
もなく、リムジンは建物の裏へと回って行く。
 二人は正面玄関に比べればはるかに小さな入り口を案内された
わけだが、それでもカレニア山荘の入り口から比べればはるかに
立派な造りだった。

 「ここで待っててね」
 モニカが一緒に下りて二人のために待合の部屋を案内する。
 そこは十畳ほどの小部屋だったが、リムジンの座席に比べたら
はるかに居心地がよかった。

 というのも、ここには誰もいないからだ。
 モニカが部屋を去ると、それまで口を閉じていたアンが口火を
きる。

 「まずいよ。カレン。こんなことお父様に知れたら、私たち、
ただじゃすまないわ」

 「ただじゃすまないってどういうこよ?……お父様が私たちを
お仕置きするとでも言うつもり」

 「やるわ、この流れなら……絶対」

 「まさか、お父様ってそんな理性のない方じゃないわ」
 カレンはアンが深刻がっているのが理解できなかった。彼女に
してみたら、いつも紳士的なあのブラウン先生が、こんなことで
子供をお仕置きするなんて信じられなかったのである。

 「あなたにお父様の何が分かるのよ。ついさっき、私たちの処
へ来たくせに……」
 アンの声が大きくなる。

 「だって、仕方ないでしょう。私たちが悪いわけじゃないもの。
無理やりこんな処へ連れてこられて……むしろ、私たちってさあ、
被害者じゃないの。どうして、お父様が怒るのよ」

 カレンはアンのうろたえぶりを不思議な顔で見ているが、アン
にしてみると……

 「まったく、もう……あなたは何もわかってないわ」
 となる。

 カレンの言うことは確かに一般的には正論なのかもしれない。
しかし、世の中、正論が必ず通るとは限らない。アンは地元の子、
この問題が必ずしも理屈通りにはいかない現実を肌で知っていた
のである。

 「いいこと、確かにこの伯爵家はもとは私たちの領主様だった。
いえ、今でもこの通り大金持ちよ。……でも、第二次大戦の時、
先代はナチに協力した人だったの。国を売った人だったの。……
そのため町では多くの人たちが捕らえられ、処刑されたの。……
そのわだかまりは今でも残ってるから、伯爵家に関わりを持つ事
には慎重でなければならないのよ。特に私たちのように町の人達
から支えられてる音楽家はなおさらなの」

 「………………」
 カレンはアンの大演説に口を閉ざす。
 彼女にしてみれば、この時、伯爵家の持つ特殊な事情を初めて
知らされたわけだが、だからと言って、今の今どうしようもない
のもまた現実だったのである。

 しばらく時間をおいてからカレンが口を開く。
 「だからって、どうするのよ。あの時、逃げればよかった?」
大声をださなきゃいけなかった?今から、ここを逃げ出すの?」

 カレンに叱られるように言われると……
 「………………」
 今度はアンの方が口を噤(つぐ)むよりなる。

 そんな二人の部屋にノックが響いた。

***************************

 「どうぞ……」

 恐る恐る応じたカレンの言葉に従ってドアノブが回りだす。

 入ってきたのは、さきほどカフェで老婆を介助していた青年だ
った。
 「遅くなって申し訳ない。お待たせしたかな」

 穏やかな笑顔にアンが即座に反応して起立する。
 「いいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 カレンはソファに座ったまま目を丸くした。普段横着なアンの
こんな姿を初めて見てビックリしたのである。

 「どうぞ掛けてください。先ほどは失礼しました。母が迷惑を
かけてしまった。……僕の名前はフリードリヒ・フォン=ベール。
ご存知ですか?」

 「はい、お名前だけですけど……」

 いつも横柄なアンの緊張した姿。一方の伯爵は余裕の笑顔だ。
 そのせいもあるだろうか。あらためて見るこの男性はカフェで
見た時よりずっと凛々しく見えた。

 「君たちは、ブラウン先生の処のお子さんなんだってね。……
どうりでピアノがお上手なわけだ」
 伯爵も対面するソファに腰を下ろす。駱駝革の肘あてがついた
カシミアセーターをさらりと着こなしている。

 「私は弾いてませんけど、……カレンが何か失礼なことをした
みたいで……」
 アンの言葉に伯爵は初めてカレンの方を向く。

 「そうだ、君だ、君が弾いていたよね。あの曲は誰に習ったの?」

 「誰に……」
 そう言われてカレンは言葉に詰まった。

 あの曲はアフリカ時代、セルゲイじいさんの膝の上で、適当に、
それこそ適当に、ピアノを叩いていたら出来上がってしまった曲
なのだ。

 おじさんが『ここを叩いて』とか『こう、弾きなさい』などと
言って教えたことは一度もない。おじさんはカレンの気まぐれな
ピアノをいつも「上手い、上手い」としか言わなかったし、その
大きな手はカレンの小さな手を包み込んではいたものの、どんな
操作もしなかった。

 だから、彼女はこれまで、『この曲は、自分が作った曲だ』と
ばかり思っていたのだ。
 ところが、その自信が老婆の出現で、今、微かに揺らいでいる。

 そんなカレンの心底を知ってか知らずか伯爵はこう語りかけた。

 「そう、誰かに教わったわけでもないんだ。君の作曲なんだね。
じゃあ、偶然、似たメロディーだったのかもしれないな。………
実はね、君の弾いた曲とよく似た曲を、昔、兄が弾いてたものだ
から……」

 「お兄さま」
 カレンはつぶやく。

 「ほら、そこに写真があるだろう。先の大戦で行方不明なんだ。
おそらく亡くなっているだろうけど、母だけはまだ信じられない
みたいで…………今日は、偶然、君の曲に出会って、取り乱して
しまったというわけさ」

 伯爵の見上げる壁に青年の凛々しい写真が掲げられていた。

 「(あれが……)」
 カレンはその美青年と自分の知るセルゲイじいさんとを頭の中
で重ねてみた。

 しかし、結果は……
 「(それって、やっぱり人違いよ……)」
 目がくぼみ、頬がこけ、頭はぼさぼさで、無精ひげが伸び放題。
そんなむさいおじさんが、昔、こんなにダンディーだったなんて、
カレンには信じられなかったのである。

 「君のピアノは誰に習ったんだい?」

 「父に習いましたけど、でも、父もピアノは我流だったんです」

 「ブラウン先生が?」

 驚く伯爵にカレンは慌てて打ち消す。

 「いえ、違います。私の父は別にいます。先生の処へ来たのは、
ごく最近なんです」

 「あっ、そうか、あそこはたくさん里子を預かってるらしいね。
君もそのひとりなんだ」

 「はい」

 「どうだろう、よかったら、もう一度あの曲を弾いてくれない
かなあ」

 「ここで……ですか?」

 「そうだよ。母の前で弾いてほしいんだ」

 「お母さまの前で!」
 カレンの心に小さな衝撃が走る。
 あの時の映像がフラッシュバックしたのだ。

 「目が見えない母にとって、兄の残した曲は唯一の慰めなんだ。
普段は僕が兄のタッチに似せて弾いてみるんだけど、母はため息
をつくばかりでね。なまじ目が不自由だから音には敏感なんだよ。
僕のピアノじゃ『全然違う』と言ってそっぽを向く始末さ。それが、
今日の出来事だろう。びっくりしたよ」

 「………………」
 カレンは考えていた。
 その考えているカレンの袖をアンが引く。
 「だめよ、カレン……」
 アンはカレンの耳元でささやくが……

 「やってみます」
 何と、考えた末に出た結論は、伯爵の願いに応えるという返事
だったのである。

 「その代わり、一回だけにしてください。私たち、夕食までに
家に帰らなければならないので……」

 「わかった。助かるよ」

 こうして、カレンは伯爵とピアノの約束を交わしたのだが……
伯爵が部屋を去った後、アンが噛み付く。

 「あなた、なんてことしてくれたのよ。私、知らないからね。
こんなこと、お父様に知れたら、私たち殺されるわ」

 「オーバーね、殺されるだなんて。どうしてよ、いいじゃない。
ピアノを弾くくらいで、何でそんなことになるのよ」
 カレンは呆れ顔だ。

 「だって悪い事をしようとしてるんじゃないもの。それであの
お婆さんの気が晴れるなら人助けでしょう。良いことをしてるん
じゃなくて」

 「あのねえ……」
 アンは事態を把握できないカレンがもどかしかった。

 「それに、私、思ったの。……あのお婆さんにしても、伯爵様
にしても悪い人じゃないって……だって、伯爵様、偉ぶった様子
もなくて普通に私たちとお話ししてくださったもの」

 「…………」
 アンはため息を一つ。あとはもう諦めるしかなかった。

 10分ほどして、この屋敷の女中が二人を呼びに来る。
 そのあとを着いて行くと……

 『すっ……すごい……これがピアノ室?…うちの居間より断然
広いじゃないの』
 『さすが伯爵様ね。ピアノを弾くためだけにこんな豪華な部屋
を作っちゃうんだもの』

 足元の厚い絨毯や大きな窓を仕切るカーテン、伯爵様が座って
いるソファや高い天井までも届くような書棚、磁器の香炉や銀の
シガーケース、身の丈サイズの花瓶などなど、この部屋にまつわ
る数々の調度品の真の価値が庶民の二人に分かろうはずがない。
 しかし、それがブラウン先生の持ち物よりはるかに高価なもの
だという事だけは理解できたのである

 「カレン、いつでも、君のタイミングで始めていいからね」

 伯爵様にそう言われてピアノの前に座ったカレンだったが……

 『ピアノが遠いわ』

 そう思ったから椅子を引いた。しかし……

 『まだ遠いわ』

 そこでまた椅子を引く。でも……

 『おかしいなあ、まだ遠い』
 そう思って再度椅子を引くと……

 『えっ!?』
 今度は近すぎてお腹が白鍵に当たっている。
 仕方なく適当な処で我慢して、いざ弾こうとすると今度は……

 『え、ええ、ええっ……』
 鍵盤が霞んで見えてしまうのだ。

 こんな事は初めてだった。

 「(わたし、どうしちゃったのかしら)」

 カレンはうろたえたが、理由は簡単なこと。
 彼女はあがっていたのである。

 今までプレッシャーの掛からない処でばかり弾いてきたカレン
が初めて踏む舞台だ。あがらない方が不思議だった。

 「(とにかく、わたし、弾かなくちゃ)」

 そう思ってカレンはピアノを弾き始めた。
 それはいつも弾いている曲。メロディーラインなど間違えよう
がない。
 ところが、そんな曲なのにカレンは音を外してしまう。
 頭がかぁっと熱くなった。

 当然、そんな曲に感動する者などいない。
 伯爵もそのお母さまも、露骨に嫌な顔などしないが、がっかり
だったに違いなかった。

 一曲弾き終え……
 「(もう逃げ出したい)」
 カレンは思った。

 と、そんな思いが通じたのだろうか、ノックがして、執事さん
らしき人が部屋に入って来ると、伯爵に耳打ちする。

 すると、伯爵は……
 「お父様がみえたよ。でも、君達はもう少しここにいてね」
 そう言い残して部屋を出て行ったのである。

***************************

 静かになった部屋だったが、ほどなく残された人が動き出す。
若い二人ではない。目の見えない老婆がソファを立った。

 よろよろと歩き出す彼女の身に危険を感じたアンが思わず手を
差し伸べると……
 「あなたがカレン?」
 と尋ねるから……

 「いいえ、私はアンです」
 と答えると……

 「カレンさんの処へ行きたいの。連れて行って」
 と、頼まれたのだった。

 もちろん、どんな大きな部屋だといっても、それは静かな部屋
の中での出来事。老婆の声はカレンにも届いていた。

 緊張して待っていると……
 「あなたがカレンさんね」

 老婆はカレンの肩につかまり、彼女の身体を手探りで確認する。
 鍵盤の上に取り残されたカレンの手に触れると、皺くちゃな手
をその上に乗せてそっと包み込む。

 「弾いてごらんなさい」

 老婆に命じられ、手のひらの中で鳴らすピアノ。

 『何年ぶりだろう?』

 優しい音がカレンの耳に戻った。
 カレンのピアノの原点が戻ったのだ。

 「この音ね。あなたがカフェで弾いていたのは……」
 カレンが見上げる夫人の顔は、目を閉じたままでも満足そうに
見える。
 彼女は何度もうなづき、どこまでもカレンの手の感触とともに
ピアノの音を楽しむのだった。


*******************(2)****

第7章 祭りの後に起こった諸々(1)


        <<カレンのミサ曲>>

第7章 祭りの後に起こった諸々

************<登場人物>**********
(お話の主人公)
トーマス・ブラウン<Thomas Braun>
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン<Ralph Morgan >
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン<Karen Anderson>
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。

(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘

<使用人>
ニーナ・スミス<Nina>
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品
ベス<Elizabeth>
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー<Denny>
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ<Anna>
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム<Graham>
……カレンの前のピアニスト

<カレニア山荘の里子たち>
リサ<Lisa >
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー<Sally>
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー<Patty>
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア<Maria >
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー<Kathy>
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アン<Andrea>
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
ロベルト<Robert>
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック<Friderick>
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。
リチャード<Richard>
……(12歳)ポエムや絵画が好きな心優しい子。

<先生たち>
ヒギンズ先生<.Higgins>
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生<Caldwell>
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生<Sheehan>
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。
アンカー先生<Anker>
……絵の先生。
エッカート先生<Eckert>
……数学の先生
マルセル先生<Marcel>
……家庭科の先生

<先生のお友達>
ラックスマン教授<Laxman>
……白髪の紳士。ロシア系。
ビーアマン先生<Biermann>
……獣医なので先生とは呼ばれているが、もとはカレニア山荘で
子供達のお仕置き係をしていた。今は町のカフェの店主。
アンハルト伯爵婦人
……戦争で息子を亡くした盲目の公爵婦人
ホフマン博士<Hoffmann>
……時々酔っ払うが気のいい紳士

<ライバル>
ハンス=バーテン<Hans=Barten>
……アンのライバル、かなりのイケメン。
サンドラ=アモン<Sandra=Amon>
……12歳の少女ピアニスト。高い技術を持つがブラウン先生の
好みではない。

<幻のピアニスト>
セルゲイ=リヒテル(ルドルフ・フォン=ベール(?))
……カレンにとっては絵の先生だが、実はピアノも習っていた。

*****************************

第7章 祭りの後に起こった諸々

§1 楽しい休日の暗転

 リチャードの詩を何度読んでも、カレンには曲ができなかった。
そこで実際に村のあちこちも歩いてみた。

 この村はあの詩の通りだ。
 若草色の山々に紫色の厚い雲がわき、そこから地面に向かって
差し込む光の帯は、たとえそこから天使が降りてきても驚かない
ほどに神々しい。
 森に住む動物たち植物たち、そのすべてが神からの賜り物だと
カレンは思った。
 きっとお祭りの当日は、数多くの花火が上がって山々に村々に
雷鳴を轟かすことだろう。それは神からの賜りものであり、村人
全員の感謝のしるしでもあるはずだ。

 子供の詩だから中身は単純、詩の意味は分かっている。
 でも、メロディーは浮かばなかった。

 彼女が生まれ育ったアフリカは赤い土と砂嵐の国。緑は僅かに
オアシスの町に申し訳程度にあるだけ。
 人々は高い塀を巡らして砂嵐を避けながら囲い込んだ緑を必死
に守って暮らしている。
 こんな豊かな大自然の歌などカレンにはできそうになかった。

 ところが、曲を作り始めて三日目の朝、彼女はあることを思い
出すのである。

 『リヒテル先生からもらった絵があったわ』

 カレンはサー・アランの屋敷から送られてきたばかりのピアノ
の一部を剥ぎ取る。
 そこにはリヒテル先生が故郷を偲んで書いたという板絵が貼り
付けてあったのだ。

 動乱の故国から脱出する時、いくつも荷物を作ることができな
いから、苦肉の策でアップライトのピアノに貼り付けた絵だ。
 逆に言うと、それほど大切な絵だったのである。

 若草色の森と霞む山々。沸騰したように湧き出す厚い雲と深み
のある青い空。手前に描かれた可憐な白百合との対比が美しい絵
だ。

 『これをむこうで見ていた時は、こんなのおとぎ話だと思って
みていたけど、この絵って、ここの風景に似ているわ』
 カレンは思った。

 そして、リヒテル先生との楽しかった思い出を、あれこれ想像
しながらいくつもの曲を作ったのである。

 七つ、八つ、簡単なメロディーラインだけを書いて先生の処へ
持っていくと、あとは先生の方で選んでくれて、こまかな作業は
全部先生がやってくれたのだった。

 「ん~~いいできです。やっぱり、あなたに頼んでよかった」

 こう言われると、カレンは肩の荷がおりる思いがしたのである。

**************************

 村のお祭りは、仮装行列が村じゅうを練り歩いたり、重い砂袋
を持ち上げる重量挙げや棒倒しのような男たちの競技があったり、
女たちが開くバザーのお店があったり、幼児達が王子様やお姫様
に扮して寸劇を披露したりと、学校の運動会と文化祭がごっちゃ
になったような催しで終日賑わったが、その間、入れ替わり立ち
代り楽器演奏を披露したのはカレニア山荘の子供たちだった。

 もちろん、村を讃える歌は山荘の人たち全員、つまり、大人も
子供もブラウン先生も混じって合唱した。
 もちろん、口パクの人もいたし音程を外す人もいたが、そんな
のはここではご愛嬌だったのである。

 そんなお祭りはもちろん誰にとっても楽しかったが、楽しい事
の後は、当然、疲れがやってくるわけで、とりわけ大人たちは、
次の日は休養をとるのが習慣になっていた。

 だから、学校も仕事もその日はお休み。
 ただ、若ければそれも心配ないわけで……

 「いいよ、カレンが一緒なら行っておいで……」

 眠そうなお父様からアンは外出の許可をもらう。
 せっかくのお休みも、家でゴロゴロするだけじゃもったいない
し、ピアノの練習も気乗りがしなかった。

 『この日は息抜き』と二人は村のお祭りの前から決めていたの
だった。

 「『太陽がいっぱい』っていう映画が町に来てるのよ。主演の
アラン・ドロンがかっこいいんだから……」
 アンはそういってカレンを誘ったのだ。

 ルートはいつも通り。馬車で山を降りて、駐車場となっている
農家の庭先からはタクシーに乗る。

 そうやって、町の古ぼけた映画館で映画を観るわけだが、この
映画だって封切りというわけではなかった。二年も前に公開され
た昔の映画だ。
 しかし、娯楽の少ないこの地方の少女たちにとってはこれでも
十分な娯楽だったのである。

 「よかったわね」
 「よかったわ。今年一番の感激よ」

 二人は映画を観終わって感激を分かち合ったが、感激したもの
はお互いに違っていたのである。
 カレンにとって、この映画はアラン・ドロンの映画であり、彼
の裸の肉体が脳裏から離れない。
 一方、アンはというと、ニーノ・ロータ(Nino Rota)の切ない
音楽が耳から離れなかった。

 「ねえ、お腹すいたわ。カフェでお食事しない」
 アンが提案すると、カレンが不安そうにしているから……
 「あなた、お父様からいくらもらったの?」
 アンはカレンの財布を覗き込む。

 「なんだ、まだこんなにあるじゃない。大丈夫。これだけあれ
ば夕食だって食べられるわ。ホテルにだって泊まれそうじゃない。
あなた、よほどお父様から信頼されてるのね。私、こんなにお小
遣いもらったことないわよ」

 二人は街角のカフェに入った。
 目の前に美しい町の公園が広がって、まるでこの店がこの公園
を所有出てるように見える。
 お昼も、もうだいぶ過ぎていたが、店内はそこそこのお客さん
でにぎわっていた。

 そこで、二人はサンドイッチとココアを注文して昼食。
 映画館で買ったパンフレットを見ていた。

 すると、誰かが声をかけた。

 「アンドレアお嬢様、ごきげんよう」

 アンがその声に驚いて見つめる先には、ロマンスグレーの中年
紳士が立っている。
 「おじさん!?……わあ、見違えたわ。カッコいいじゃない。
……ってことはまさか……」

 「そのまさか。先月からここの支配人まかされちゃったんだ」

 「じゃあ、子供達のピアノ教室は?」

 「それも続けてる。掛け持ちなんだ」

 その顔にはカレンも見覚えがあった。
 『たしか、この人は……ビーアマン先生』

 アンのコンクールの日、お父様に紹介された中に彼の顔もあっ
たのをカレンは思い出したのだ。

 「おう、これはこれは、眠り薬のカレン嬢もご同席ですね」

 「こんにちわ」

 カレンは眠り薬云々を言われることには抵抗があったが儀礼的
に挨拶する。
 すると……

 「今日はいつも頼んでるピアノ弾きが風邪を引いて休んでてね。
アン、1時間だけその穴を埋めてくれないかなあ。お礼はするよ」

 ビーアマン先生は、通りに面したガラス張りの部屋に客寄せで
置いていた白いピアノへ視線を投げかけるのだが、アンはにべも
ない。

 「おあいにく様、私達、今日は休暇できてるの。仕事でピアノ
を弾くなんてまっぴらよ。それに、企業秘密もあるから他所では
ピアノを弾かないようにってコールドウェル先生にも釘をさされ
てるし……」

 「つれないなあ」

 「ピアノ教室はまだやってるんでしょう。教室のチビちゃん達
にでも弾かせれば?」

 「それが、今日は学校の遠足でね、ここには来てないんだ」

 「じゃあ仕方ないじゃない。諦めるのね。だいいち、こうして
ピアノの流れない日があってもいいじゃないの。静かでいいわ。
私なんて下手なピアノを聴かされるより、こっちの方がよっぽど
落ち着くわよ」

 「そりゃあ、君はそうだろうけど……ここはピアノの生演奏が
売りのカフェだからね。……」
 ビーアマン先生はそこまで言って、ふっと気がついた。

 「そうだ、カレン、君、コンクールは関係ないだろう。弾いて
くれないか?」

 「えっ!?私が……」
 カレンは驚いたが……

 「やめた方がいいわ。カフェのピアノなんて………お父様は、
こんな処でピアノを弾くのを喜ばないわ」
 アンが止めたのだ。

 「こんな処はないだろう。……今だって、こうして食事をして
るじゃないか」

 「今はお昼だからよ。……だって、夜はここ、酔っ払いの天国
だもん。こんな処でピアノなんて弾いてたらお父様から大目玉よ」

 「ねえ、アン、あなた言葉が過ぎるわよ。おじさまに向かって」
 カレンがアンの耳元でささやく。彼女はアンがビーアマン先生
に対してあまりにも馴れ馴れしいのが気になっていたのだ。

 すると、アンが怪訝な顔をするので……
 「ねえ、ビーアマン先生って、何の先生なの?」
 と尋ねるもんだから、今度はアンが笑い出した。

 「いやだ、知らなかったの。おじさんは、三年前まではうちで
働いてたの。もともとは獣医さんよ。だから、いちおう先生って
呼ぶんだけど……やってたのは動物じゃなくて、子供たちの世話。
それもお父様に命じられてのお仕置きの世話だったわ。そりゃあ
私たちにしてみたら怖い人なんだけどね、どっか気安いのよ」

 「ねえ、アン。あなたはお父様からお仕置きなんてされたこと
あるの?」

 「当たり前じゃない。男の子、女の子に関わらず、お父様から
ぶたれたことのない子なんてカレニア山荘には誰もいないわよ。
そんな時がビーアマン先生の出番なの。彼から私たちお浣………
ま、いいわ。……それは……」
 アンは思わず口を滑らせた自分を恥じる。

 「ねえ、アン、私、あのピアノ弾いちゃダメかなあ」

 「えっ、あなた弾きたいの?」

 「今日観てきた映画のBGM。あれが弾いてみたくなったの」

 「ふうん、そりゃあいいけど…でも、あまり長い時間はだめよ。
……ここ、夕方になると酔っ払いとか来るから……」

 「じゃあ、君が弾いてくれるのかい?」

 ビーアマン先生は大喜び。
 こうして、カレンのミニリサイタルが開幕したのだった。

****************************

 やがてニーノ・ロータ(Nino Rota)の哀愁を帯びたメロディー
がカフェの店内に響く。

 その時、客席に何か変化があったわけではなかった。
 コーヒーを飲む人、タバコを吸う人、おしゃべりが途中で途絶
えたわけでもない。
 
 しかし、カレンが一曲弾き終わると、あちこちで小さな物音が
聞こえ、……ある種の緊張感から解放された時のような安堵感が
カフェ全体を包む。
 まるでコンサート会場のようだ。

 カレンのピアノの音は最初とても小さく繊細で耳をそばだてて
いなければ決して聞き取れないほどだが、最後はほとんどの人が
ある種の高揚感をもって自分がその席にいることに気づく。

 そんなカレンのピアノを三曲も聴けば、彼女が席を立とうとす
る時……
 「僕は楽器のことは分からない。でも、あなたのピアノは好き
だから、もう一曲、お願いできないだろうか」

 こんな紳士が現れても不思議ではなかったのである。

 「でも……」
 カレンはそれを言うのが精一杯だった。
 その紳士だけではない。カフェ全体の雰囲気がカレンの次の曲
を望んでいた。その空気がカレンにも感じられるのである。

 「ねえ、アン。これは笑わないで聞いてほしいんだけど、……
彼女のピアノを聴いてるとね、ピアノって、本当に打楽器なんだ
ろうかって疑ってしまうんだよ。僕も数多くのピアニストの音を
聞いてきたけど、こんなのは初めてだ。ひょっとして彼女は今、
ギターを弾いてるんじゃないか?そんな錯覚に陥るんだ」

 ビーアマン先生の言葉がアンの心にも残る。

 そんな中、カレンはお客の注文に従いすでに六曲を弾き終えて
いた。さすがに疲れたので次の一曲で必ず終わりにしようと心に
決めて、「さて…」と思った時、自然とその指が動く曲があった。

 アフリカにいた頃、カレンの子守りをしてくれていたセルゲイ
おじさんといつも二人で弾いていた曲。おじさんがなくなった後
はカレンが彼のパートも弾いていた。
 題名はないが、優しく穏やかな曲を最後に選んだのだった。

 カレンはこの曲を弾くたびに思い出すことがあった。
 それは、セルゲイさんが最初ピアノの鍵盤を強く叩かせなかっ
たこと。
 弱く、弱く、音が聞こえる限界まで弱く叩いた音でメロディー
を奏でていた。

 最初は振動なのか音なのかわからない処から始まって、次第に
大きな音をそれに加えて制御していく。
 カレンのピアノは本来の音を弱めて音の深みを出しているので
はない。むしろ弱い音がベースとなり、すでにメロディーも完成
させているところへ、普通の音を入れて華やかさを演出している
のだ。

 カレンの奏でる音には、本来は外からは見えない根がちゃんと
存在していたのである。一見不要に見えるこの根があるからこそ、
そこに育つ草や木も自然に見えて、人の心を打つのだった。

 そんなカレンの音楽に弾かれるのは、何もカフェのお客ばかり
ではない。街行く人もまた、彼女の音を耳にすると、まるで吸い
込まれるように店の中へと入ってくる。

 そんな中に、黒ずくめの服を着た老女が一人、介添えの青年を
引き連れて入って来る。
 しかし、その瞬間だけはカフェ全体に少し異様な空気が流れた。

 老女は目が不自由で介添えの青年が手を取らなければ何もでき
そうにない。にも関わらず店に入った彼女はカレンの弾くピアノ
の方へ一直線に歩いていったのである。

 椅子につまづき、テーブルに進路を阻まれ、人にぶつかり……
お客が飲んでいたコーヒーカップさえ払い除けた。
 「ガシャン」
 という音がしてそのカップは床で砕けたが、そんなことさえも
彼女には関係なかったのである。

 彼女はついにカレンのピアノの前までやってくるが、そんな中
でカレンがピアノを続けられるはずもない。
 困惑と恐怖の中で、カレンは彼女の最初の声を聞くのだった。

 「ルドルフ、お前、生きていたのかい」

 歩行も困難、目も不自由な黒ずくめの老婆のわけの分からない
言葉に縮み上がっていると、一歩遅れた青年がよろけて膝をつい
た老女を抱く。

 「お母さん、これは兄さんじゃない。若い娘さんだよ。女の子
が弾いてたんだ」
 青年は老女の肩を抱いてとりなしたが、老女はきかなかった。

 「ルドルフ、お前、そこにいるんだろう。声を聞かせておくれ。
ルドルフ、後生だから、もう一度、母さんと呼んでおくれよ」

 老女はカレンの弾いていたピアノにすがりつく。
 身の危険を感じたカレンはすんでのところでその場を離れたが、
再び倒れこんだ拍子に鍵盤を叩いて……

 「ガシャン」
 という音が店内に響いた。
 そして、崩れ落ちたピアノの床で彼女は泣き続けたのである。

 『何なの?これ……』
 もちろん、カレンにはわけがわからない。
 単なる狂人の乱入なのか、でも、それにしては老女の身なりは
しっかりしているし、顔立ちも狂った人のようには見えない。
 介添え役の青年もそれは同じだった。

 困惑するカレンの両肩をいきなり掴む者がいる。
 「!!!」
 カレンの心臓は一瞬縮みあがったが、犯人はアンだった。彼女
は小声で……

 「さあ、出ましょう。長居は無用よ」

 そう言って、カレンにこの店からの脱出を促したのである。
 もちろん、カレンにとっても反対する理由はなかった。
 だから、二人してそっとその場を離れようとしたのだったが…

 「あ、君。君はここへ残って」

 それまで、床にひれ伏して泣き続ける老女を介抱していた青年
がいきなり、この場を立ち去ろうとしたカレンを呼び止めたので
ある。

 「いいから、行きましょう」
 アンは青年の言葉にかまわずカレンの腕を掴んだが、その様子
を見た青年はもっと強い言葉を二人に投げかけたのである。

 「いいか、これは命令だ。お前ら、そこへ立ってろ!」

 彼は何の権限があってそうしたのかわからないが、二人にはっ
きりそう命じられたのだった。

 「……………………………………………………」
 「……………………………………………………」
 もちろん、二人にそんなことを言われる覚えも義務もなかった
が、そこは世間を何も知らない小娘のこと。
 震え上がったまま、その場に立ち尽くしてしまったのである。

 もし、これが単なるならず者なら、ビーアマン先生にしても、
カフェのお客さんだってこの二人の少女にもっと協力的だったの
だろうが、彼らは単なる無法者ではなかったのである。

 そうこうしているうちに事態はさらに悪化する。

 異変に気づいたこの老婆と青年の配下とおぼしき男達がカフェ
に入ってきたのだ。
 すると、青年はやっと落ち着きを取り戻した老婆を椅子に座ら
せたまま、そこからその屈強な男たちに向かってこう命じるのだ
った。

 「このお二人を私の屋敷にお連れしろ。くれぐれも粗相のない
ようにな」

 こうして二人はわけがわからぬままに青年の屋敷に招待、いや、
連行されたのだった。

********************(1)****

Appendix

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tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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