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第10章 カレンの秘密(4)

第10章 カレンの秘密

§4 薔薇の誘い(4)

 ブラウン先生はサー・アランに断りを言うと、ピアノの場所へ
と向う。

 「これはこれは、お久しぶりです。アンハルト伯爵夫人。……
お覚えありますでしょうか。ブラウンです」

 ブラウン先生はその時はすでに椅子に腰を下ろしていた夫人の
前でひざまずく。

 「勿論ですよ。ごきげんよう先生」

 先生はそう言って差し出された夫人の左手にハンドキスをする。

 すべては古式ゆかしい大戦前の習慣。戦後に育った若者たちに
してみれば、伯爵夫人も一介の老婆にすぎない。
 その老婆に膝まづくブラウン先生はむしろ奇異に映ったようだ
った。

 「こちらへはご旅行ですかな?」

 「ラックスマン教授が絵画の個展を開くというのでお祝いに」

 夫人がこう言うとブラウン先生は少し大仰に驚いてみせた。
 「おう、これはこれは、私としたことが何か勘違いをしまして、
御目がよくないと伺っていたのですが、今は、教授の絵がご覧に
なれるまでに回復されたのですか?」

 「相変わらず、先生は皮肉をおっしゃるのね。もとはイギリス
の方だからかしらね」

 「これは失礼いたしました。お気に障りましたか」

 「私は草深い田舎で育ったドイツ娘ですから、単刀直入にしか
ものは言えませんので、正直に申します。カレンさんのピアノが
聴きたくて、ここへ来たのです」

 「カレンのピアノ?……アンドレアの間違いではありませんか。
この子のピアノは幼児の弾くような簡単なもの。とても、夫人の
鑑賞に耐えるようなものは……」

 「あなた、今さらそんな白々しい嘘をついてどうなさるおつも
りなの」

 「嘘と申されても……」

 「あなたは、この娘のピアノがルドルフと同じ音を奏でている
現実を知らないはずがないわ。知ってて私に隠してたんでしょう。
私は、一度聞いてピンときたの。ルドルフの音が、脳裏で鮮明に
蘇ったもの。だから、もう一度聴きたいと願ったけど、あなたは
この子を隠し続けた」

 「隠すなどと滅相もない……この子はリサイタルなど開く技術
はまだまだ持ち合わせていないというだけです」
 ブラウン先生は自己弁護したが、伯爵夫人は聞く耳をもたない。

 「本当は、ラックスマン教授の個展の会場でじっくり聴かせて
いただこうと思っていましたが、はからずも、ここで聴くことが
できて満足です。これで、私も確信がもてました」

 「確信とは……どのような?」

 「もちろん、そこのカレンさんが、ルドルフの娘であるという
確信です。ブラウン先生、カレンさんを私にください」

 まさに青天の霹靂。当のカレンもこれには目を丸くした。

 「ご冗談を……」
 ブラウン先生は夫人に微笑み、そして今度は、脇に立つ現当主
に向って語りかけた。
 「伯爵、どうやらお母様はお疲れのご様子。ここは、いったん
帰還なさった方がよろしいのではありませんか?」

 すると伯爵は……
 「たしかに母は疲れています。今日だけの事ではなくね。……
お分かりでしょう?」
 と逆に水を向けられたのだった。

 「ええ、もちろん、先の大戦中、お兄様が行方不明になられた
事は存じ上げております。しかしそれはヨーロッパ戦線でのこと。
この子が生まれたのはアフリカのニジェールです」

 「それはこちらも知っています。……でも、兄も追われる身。
たとえアフリカへ逃げたとしても、それはそれで不思議ではない
と思いますよ」

 「敵の植民地にですか?それに彼女の父は楽器の修理で生計を
たてていたとか……そのような技術が一朝一夕に授かるものでは
ないでしょう」

 「あなたは勘違いをなさっている。いや、わざとそうやって、
勘違いしているふりをしていらっしゃるのかもしれないが……」

 「…………」

 「私たちが、兄ではないかと疑い、この子の父であるかもしれ
ないと疑念を持っているのはセルゲイ=リヒテル氏のことです。
もちろんこれは偽名でしょう。そして、自分の行く末を考えて、
娘をそのピアノ職人に託したとしても、これもそんなに不思議な
話ではないはずです」

 「ちょっと、待ってください。それはあくまで推測でしょう。
何の根拠もない憶測ですよ。あなたらしくもない。こうした事は
事実をはっきりさせてから語るべきことじゃないですか」
 ブラウン先生は慌てて伯爵の疑念を打ち消したが……

 「確かに、あなたがおっしゃることは正論です……でも、母は
そう信じているのです。……そう確信しているわけです」

 「あなたもそのようにお考えなのですか?」

 「分かりません。でも、私にとってもそれは兄のことですから、
事実は知りたいと願っています。そこで、今、ニジェールへ人を
やって調査しているところです」

 「なるほど」

 「ただ、これだけはわかっていただきたいのですが、私も母も
結果がどうであっても……つまり、セルゲイ=リヒテル氏が兄で
なくとも、彼女が兄の子供でなくても、彼女のピアノを聞いて暮
らしたいのです。おわかりいただけますか」

 「はい、存じ上げてますよ。あなたも、あなたの母上も、極め
て人道的な方だと……確かに、私のような貧乏人のもとで暮らす
より、お金持ちの家で暮らした方がこの子にとって幸せなのかも
しれません。それは理解しますが、私もまた彼女のピアノに癒さ
れている一人なのです。彼女を手放すつもりはありません」

 「…………」
 伯爵はしばらく考えていたが、ブラウン先生の気持に嘘がない
と悟ると、あらためてこう提案したのだった。

 「今、ニジェールは動乱で調査も進んでいません。仮に、何か
分かればその時またお願いするとして……どうでしょう、カレン
さんを週末だけでも私の処へ通わせていただけないでしょうか」

 「通う?……それはまた、どうされるおつもりなんですか?」

 「私たちは何も求めません。……ただ、お嬢さんが私の隣りで
ピアノを弾いてくれさえすればそれでいいのです」
 そう発したの夫人だった。

 「母の願いを叶えてもらえないでしょうか?」

 伯爵の母へ思いがブラウン氏の心を曇らせる。
 彼も今でこそSirの称号を得ているが、それは最近得た勲章で、
もともと家出同然から身を立てた身。母親が生きているうちには
親孝行らしい事などしたことがなかった。

 「カレン、聞いての通りだ。君はあちらでピアノを弾いてみる
気があるかね」
 ブラウン先生はまだ狐につままれたような顔をしているカレン
に尋ねた。

 そして、伯爵夫人もまた……
 「カレンさん。あなたの演奏料については、後日お父様とお話
するとして、他に望みがあれば言いなさい。できる限りのことを
しますよ」

 「…………」
 カレンは大人たちの話し合いに口をつぐんでいたが、その間も、
今の状況を彼女なりに冷静に整理していた。最後に、彼女はこう
思ったのだ。

 『仮に、お父様が私を伯爵の館へやりたくないなら、最初から
私の意向など確かめるはずがない。それを尋ねるのは私が応じて
もよいということだわ』

 そこで……
 「私、奥様が望まれるのなら、館へまいります。本をたくさん
買っていただいたお礼もありますから……」

 こう言うと、伯爵夫人は言下にカレンの言葉を否定する。
 「それは関係ないことよ。あなたの御本を買ったのはあくまで
こちらの都合なの。あなたが気にすることではないわ」

 「わかりました。では、一つだけ望みがあります。それを叶え
て下さるならそちらへ伺います」

 「わかりました。何でしょう?」

 「山荘の庭を管理しているニーナ・スミスが、伯爵様のお庭の
薔薇をたいそう褒めていて、……その苗木を分けてもらえません
か?」

 「わかりました。その方も一緒に来るといいわ。育て方を教え
ますから……」

 こうして、毎週土曜日の午後。カレンは伯爵の館を訪れる事と
決まったのである。

***************************

 次の日。
 カレンたち一行は、当初からの約束通り、ラックスマン教授の
個展が開かれているギャラリーへと向う。カレンがそこでピアノ
を弾く約束のためだ。

 日当たりの良い美術館の一角に展示スペースがあり、お客さん
はまばらだが、すでにアンハルト伯爵夫人は顔を見せていた。

 「カレン、待ってたわ。実はね、ルドルフも絵を描いていたの。
見てみる?」

 カレンは車椅子の夫人と目が合うと、さっそくにルドルフの事
で誘われる。
 恐々着いて行くと、そこに飾られていたのは、いずれも油彩の
肖像画だった。

 「お上手だったんですね」

 「ありがとう。とにかく、絵を描くことが好きだったわ」

 「肖像画ばかりなんですね。風景画は描かなかったんですか?」

 「風景はあまり描かなかったわね。でも、家の中を探したら、
出てくるかもしれないわ。スケッチに出かけたこともあるから。
……でも、どうして?」

 「いえ……」
 カレンは言葉を濁した。というのもリヒテルおじさんが描くの
はほとんどが風景画で、肖像画を描くことはなかったからだ。

 『やっぱりあれは別の人だったのね。おじさんは、風景画以外
の絵は描かなかったもの』
 カレンはほっと胸をなでおろした。

 カレンは伯爵夫人に同情していたし、できるならその力になり
たいとさえ思っていた。だが、自分がシンデレラになりたいとは
思っていなかった。
 たとえハレンチで厳しいお仕置きのある家でも、彼女は自分を
拾ってくれたブラウン先生のもとで暮らすことを望んでいたので
ある。

 カレンはをラックスマン教授の個展会場で求められるままに、
自分のピアノを弾く。

 それは、本来なら静かな環境での鑑賞を好むお客様たちにとっ
て、不快な音になるかとも思えたが、そのことに苦情を申し出る
者は誰もいなかった。

 むしろ、案内係に「この曲は何という曲ですか?」とか「誰の
演奏ですか?」はては「このレコード売ってますか?」と尋ねる
人までいたのである。

 しかし、カレンのピアノをこの日一番長く聴いたのは、やはり
アンハルト伯爵夫人だった。
 彼女はカレンがこの画廊を訪れる前からここに到着していて、
カレンがホテルに引き上げるまで、このギャラリーを離れなかっ
たし、カレンの弾くピアノの前さえも離れなかったのである。


 次の日、カレンのピアノの前にはギャラリーが出現していた。
 もちろん、カレンのピアノは脇役である。いわばBGMなのだ。
しかし、そこに人だかりができていた。

 そんな珍現象を見ながら、ラックスマン教授とブラウン先生、
二人の老人が語り合っている。

 「これでは壁に掛けた私の絵の方が引き立て役でしたな。……
(はははは)こんな事と知っていたら、ここをコンサート会場と
して開放してやればよかった」

 「いえいえ、あの娘にそれはまだ早いでしょう。弾きこなす曲
もそんなに多くありませんし……」

 「そんなことはありませんよ。彼女、ここへ来てもう10曲も
私の知らないメロディーをものにしている。あれは、即興なんで
しょうか?」

 「ええ、……ほおっておいたら、一日で20曲も30曲も……
書き留めるのが大変なんです」

 「羨ましい。まさに枯れることのない創造の泉というわけだ」

 「若いということですよ。若さのなせる業です」

 「では、将来は作曲家ですかな?……『20世紀のショパン』」

 「おからかいを……でも……クラシックは難しいでしょうが、
ポップスなら、あの子の才能を生かせる道があるんじゃないかと
思っているです」

 「先生のお国のジョンレノンやポールマッカートニーのように
ですか?」

 「ええ、それなら不可能ではないと思えるんです。……親馬鹿
ですかね」

 「あなたがそれを言ってどうするんですか。……あなたの方が
私なんかより専門家じゃないですか」

 「灯台下暗し。意外と近しいものの方が見えにくいのです」

 「確かに……でも、それならあえて一言だけ私に言わせていた
だけるなら……逆に、彼女の曲は美し過ぎやしませんか?ミルク
を飲み、ビスケットを頬張る子供ならそれでいいでしょうが……
酒におぼれる大の大人が彼女の音楽を好んで聴き、だみ声を張り
上げて歌う姿は想像しにくい」

 「さすがは教授、鋭いですな。まさに、そこがネックなのです。
だから、まずは安全に、初心者向けの教則本に彼女の曲を載せて
みたというわけなんです」

 「成功しましたな」
 ラックスマン教授が微笑み……

 「あなたのおかげです」
 ブラウン先生が笑った。

 「ありとあらゆる講演会やパーティーで褒めちぎりましたから
……売れてくれなければ、私の方が困ります」

 「ありがとうございます」
 ブラウン先生が意味深に笑うと……

 「ただ、これだけは誤解のないように言っておきますが、私は
たとえ誰かに頼まれても、つまらないものを立派なものだなんて
言い換えたりはしませんよ」

 「これはこれは恐れ入ります」

 「あれは本当にすばらしいかった。伯爵の館で聴いたピアノも、
本に載っていた作品も……だから、みなさんにも聴いて下さいと
勧めただけなんです」

 「嬉しいです。二台のピアノの理解者がそばにいらして……」

 「鳴らすピアノの音と鳴らないピアノの音ですか。……先生の
ご説にありましたね」

 「ええ、私も最初からルドルフ・フォン=ベール氏やカレンの
ピアノの秘密が分かったわけではないのです。でも、聴いていく
うちに段々とそのメカニズムのようなものがわかってきたのです」

 「ほう、興味深いですな……」

 「日本人がよく使う概念に『間』というのがあります。カレン
の音はそれなんです」

 「『MA』というんですか。それは休止符とは違うんですか」

 「間は、ただ単に音を鳴らさないという意味じゃありません。
すべての鼓動が停止して何も起こらない時間を意図的に作ること
で前後に起こる変化、つまりこの場合はピアノが鳴ってる状態を
聴衆の耳に際立たせるのです」

 「そうか、ピアノの音って、それがいつやんだかなんて聴いて
る方はわかりませんよね」

 「ええ、弾いてるピアニストだってそれは同じです。凡人には
関係のないことです。でも、人間は無意識のうちにそれも感じ取
っているんです。『今、音が切れた』という感覚をね。だから、
そこを揃えてやると、とても心地よく聞こえるというわけです」

 「でも自分の打音がいつ終わるかなんてわからないし、それは
今弾いてるピアノの状態によっても変わるんじゃないですか。…
…ましてや、それで和音を刻むなんてこと……」

 「そう、まさにその通りです。とても人間業じゃありません。
でも、ごく稀にはそんな能力を持つ人が世の中にはいるという事
ですよ」

 「そうか、だから彼女のピアノはどこまでも透明感があって、
雑味というものがまったく感じられないのか」

 「どんな天才ピアニストも所詮は音を塗り重ねて自分を美しく
仮装しているに過ぎません。でもカレンのピアノは、それらとは
まったく違う楽器の音の美しさなのです」

 「金のなる木を射止めたというわけだ」

 「いえいえ、これは商業的な魅力とはならないでしょう。私が
彼女を引き取ったのもそういう意味ではないのですから……実は、
最初、彼女が弾いていたピアノはあまりにオンボロだったんで、
まったく気づかなかったんです。ただピアノの性能が上がるたび
に、『まてよ、これは……』って、こちらも気づき始めたんです。
……『この音を出すピアニストが過去にもいた』ってね……」

 「では、彼女は外へは出さない?」

 「当然、そうです。できれば生涯、私の枕元でピアノを弾いて
くれれば……とさえ思っています。でも、もし好きな人ができて、
お嫁に行くようなことがあったら、それには反対はしませんよ。
女性にとっては、地位や名誉やお金よりそれが一番幸せな道です
から……」

 ブラウン先生にとって、カレンはすでに実の娘同然だったので
ある。

*****************(4)****

第10章 カレンの秘密(3)

第10章 カレンの秘密

§3 薔薇の誘い(3)

 子供たちの集いの場に、やがて、大人達が現れた。

 「カレン、待たせたね」
 ブラウン先生の言葉にカレンはほっと肩の荷を下ろした。

 彼は、そばにいたフランソワーズにも挨拶する。
 「ごきげんよう、フランソワーズ」

 すると、そのお嬢様は……
 「お久しぶりです。ブラウン先生」

 恭しく膝を曲げて挨拶する。
 こんなことは以前なら考えられないことだった。

 そこで、サー・アランが……
 「私たちもここでご一緒しようか」
 と誘うと……それには……

 「私はクリスチャンと一緒に……」
 と言って断るから……サー・アランが……

 「だったら、彼も一緒にここに来ればいい」
 と水を向けると……

 「私、女中と一緒に食事したことがありませんから……」
 と言って、その場を離れようとした。

 そこで……
 「待ちなさい、フランソワーズ」
 思わず声が大きくなる。

 「!」
 その瞬間、彼女の肩甲骨がきゅんと締まったのを見てブラウン
先生は驚いた。
 彼がかつてフランソワのお尻を叩いた時には見られない光景だ
ったからだ。

 『これは、驚いた。超絶な進歩をとげたのは、どうやらお嬢様
だけではなかったようですね』
 ブラウン先生はお腹の中で思ったのである。

 「君はカレンのことを言っているのかもしれないけど、彼女は
すでにブラウン先生の娘さんだ。我が家の女中ではないんだよ。
そんな無礼な物言いは、私が許さないよ」
 サー・アランが厳として言い放つと、フランソワーズの身体が
それ以上前へ進まなくなってしまった。

 『サー・アランは私があの館を去ってからこの子のお尻を叩い
ていますね。この分じゃ、夏休みに帰省した時もやってますね。
ま、まさか、この場ではやらないでしょうが、これはお嬢様の為
にも、とりなしてやらなきゃいけないでしょうね』
 ブラウン先生は、そう考えて声をかけた。

 「いや、お待ちを……娘さんの言う通りです。カレンは、私の
実の娘でも養女でもありません。今はまだ里子にすぎないのです。
ですから、女中と言えばそれもあながち間違いではありません」

 ブラウン先生はサー・アランに向ってそう言うと……
 今度はカレンに……

 「カレン、悪いが、今日は席を外してくれないか」

 「あっ……はい……お義父様」

 カレンは突然のことに驚いたようだったが、お義父様の言葉に
は逆らわない。
 そそくさと席を立とうとするから、サー・アランが慌てて……

 「カレンさん、いいんです。席に着いてください」
 と、とりなした。

 ただ、それに対してブラウン先生は……
 「サー・アラン、大変、申し訳あげにくいのですが、今回は、
私たちが客です。ですから、ここは私たちの顔を立てて、カレン
を外さしてください」

 こう、申し出たのだった。
 そして、カレンには……

 「あなた、今回は遠慮して、向こうでピアノでも弾いててくだ
さいな」

 「はい、失礼します」
 こう言ってカレンが大人達の席を離れると、フランソワーズは
もう逃げることができなかった。
 彼女が目論んだ、クリスチャンとのデートも流れてしまったの
である。

 いや、それだけではない。
 席を離れてカレンが向った先。そこではさっきまで一緒だった
クリスチャンが一足早くやって来て、ピアノを弾いていたのだ。

 それを見たフランソワーズの心中は穏やかではない。

 彼はカレンに気づくと、当然のようにその椅子を譲ってしまう。
 そんなクリスチャンにまるで肩を抱かれるようにして演奏する
カレンを横目で見ながら、フラソワーズが平静に食事できるはず
がなかった。
 心ここにあらずのフランソワーズだが、今は、どうすることも
できなかったのである。

 『何よ、このチンケなメロディーは……こんなの誰だって考え
つくわよ。誰が先生ですって…女中の分際でいい気なもんだわ。
だいいち、なんであの子のピアノはこんなに小さい音しかでない
のよ』
 腹の虫が収まらないフランソワーズにとってカレンのピアノは
耳障りでしかなかった。

 ただ、そんな不評を口にするのは、このレストランにいる大勢
の人々の中で、彼女一人だけ。
 実は、各々のテーブルでは色んなことが起きていたのである。

 商談を始めた二人がお互い無言になったり、コーヒーを断って
帰りかけていた紳士が再び席に座り直したり、喧嘩していた若い
カップルがどちらからともなく「ごめん」と言ったりした。

 誰もが、今はこの場を離れたくなかったからだ。そして、もう
しばらくはカレンの弱々しいピアノに耳をそばだてていたかった
のである。

 それは、ピアノのそばで聴いていた青年クリスチャンも、勿論
そうだったし、部屋の片隅にある目立たぬテーブルで紅茶を飲み
ながら聴いていたアンハルト伯爵夫人もまた同じだった。

 「フリードリッヒ。間違いないわ。これは、ルドルフの音よ。
他の人には出せない、あの子にしか出せないはず音なの。その音
を、今、あの娘は出してるの。だから、ごらんなさい。誰も席を
立たないでしょう。……あなた、そこで見ていて誰か席を立った
人がいるかしら」

 「いいえ」
 フリードリヒはやさしく母に答えた。

 アンハルト伯爵夫人は目が見えない。しかし、その気配で人の
動きが分かるのだ。

 「私、あの子が七つの時に同じ光景を見たわ。サロンがはねて
誰もが帰り支度。その時、あの子が悪戯にピアノを弾き始めたら、
その後、誰もが仕事を抱えているというのに、誰も席を立とうと
しなかったの。まるで、魔法を見てるみたいだったわ。そして、
あの娘にも息子と同じ血が流れてるはずよ」

 「それはあまりに短絡なお考えかと……あまり、軽々なことを
申されますとお母様の品位にかかわります。……今、現地に人を
やって調査させてはいますが、なにぶん、ニジェールは混乱状態
でして、事の真相をたしかめにはもう少し時間が必要かと……」

 フリードリヒは申し訳なさそうに答えたが、夫人は彼の事務的
な答えには何も期待していなかった。

 「私ね、目が見えなくてもそれくらいはわかるのよ。あの子を
触った時、感じたの。この娘はルドルフの娘だって……だって、
あの子と同じ感触、同じ匂いがしたもの。間違いないわ。だから
あなたの力で、ブラウン先生からあの娘を貰い受けて欲しいの。
……わかるでしょう。私の孫なんですもの。一緒に住むのが当然
だわ」

 フドルフは今一度辺りを見回す。
 なるほど、確かに誰も席を立っていないかった。そして、誰も
が物音を立てなくなっていたのである。
 だからこそ、母の暴走は彼を悩ますのだった。

 レストランの客席とは思えないほどの静けさの中で、カレンの
ピアノはタバコの煙と油の香りの海の中を部屋中に流れていく。

 誰もが心癒される音に身を委ねるなか、ただ独り不機嫌な人も
……
 「何なの、あのもたもたしたピアノは……ピアニストは『洗練』
って言葉を知るべきね」
 フランソワーズが腹立ち紛れにつぶやくと……

 「マドモアゼル。洗練という言葉が無駄や虚飾を一切削いだ音
という意味なら、私は、これ以上洗練されたピアノの音を聴いた
ことがありません。だから、一音でも半音でも聞き逃せば全体の
バランスが崩れるのです。それをここにいる誰もがみんな知って
いるから、誰一人音を立てずに聴いているのです。……どうぞ、
お静かに願います」

 ブラウン先生は相変わらず人の悪いことを平気で口にする。
 しかし、それは当然、言われた方の機嫌をそこねるわけで……
 
 「そうですか。では、私が、もっともっと洗練された音にして
ごらんにいれますわ」
 フランソワーズはそう言って席を立った。

 心配したラルフが小声で……
 「大丈夫ですか?喧嘩になりませんか?」
 と言うと……

 「喧嘩?…そんなものには、なりようがないでしょうね」

 「どうして?」

 「だって、お嬢様に、あの音は絶対に出せませんから……いえ、
お嬢様だけでなく、ここにいる誰にもそんな真似はできませんよ」

 「先生、カレンはそんなに難しいことをしているんですか?」
 サー・アランが尋ねると、ブラウン先生はこう例えた。

 「『エベレストを馬で登るくらい簡単だ』と豪語する人も世の
中には大勢います。お気になされませんように……」

 「そうですか。カレンのピアノとは、そんなにも凄いものなん
ですね。そんなことなら、私の処にいる時も先生をつけてやれば
よかった。私はピアノのことは分かりませんから、あの子が単に
ピアノが好きなだけかと思っていました」

 サー・アランはあらためて一台のピアノにたむろする若者達を
見つめる。その眼差しはどこまで優しかった。

 「何を基準に凄いと言うのかにもよりますけど、あの子がある
種の天分を持って生まれてきているのは確かです。それは一般人
の我々がいかに努力してもどうにもならない程度の問題なんです」

 「天才ってことでしょうか?」

 「天才?…さあ、どうでしょうか?…そこは微妙な問題です。
ただ過去に一度だけ、私はこの音に出会ったことがあるんですよ」

 お酒の回り始めた先生は上機嫌になっていた。
 ところが……

 「誰です?その人?」

 ラルフの声に、一瞬我に返ったような顔になった先生はその顔
を急に曇らせ、ほどなく営業笑いになって、こう言ったのである。

 「はて?………そういえば、誰でしたか?………(はははは)
忘れてしまいました。……(はははは)私ももうろくしました」

 「それにしても、……お嬢さん、勢い込んで出かけたわりには、
なかなかピアノを弾きませんね」

 ラルフが言うと、ブラウン先生は……
 「弾かないんじゃなくて、弾けないんです。彼女だってそれは
ここにいた時から分かっていたと思いますよ。でも、そんな事は
どうでもよかったんです」

 「どういうことです?」

 「まったく、いつもながら鈍い人ですね。それでよく私の秘書
が勤まりますね」

 「仕方ないじゃないですか。私にはカレンのような天分なんて
ありませんから……」

 「お嬢さんは、私たちのようなむさくるしい爺さんたちのそば
にいるより、若い青年と一緒にいたいんですよ」
 ブラウン先生は小声でラルフに伝えたが、ラルフはその何倍も
大きな声で相槌を打つ。

 「なるほど、そういうことか………」
 ラルフはいったん納得したが………
 「……でも、先生。お嬢様、ピアノ、弾くみたいですよ」

 「おう、チャレンジしますか?」

 「できないんじゃないんですか?」
 ラルフが言うと……

 「できなくてもチャレンジしてみるのが、同じ道を志す芸術家
ですよ。私だって幾度となくチャレンジはしてみましたから……
とにかく聴いてみましょう」


 フランソワーズがピアノを奏で始める。

 それはカレンと同じような軟らかなタッチ。いわゆるもたもた
した感じだ。
 しかし、そうやって弾けたのは8小節だけだった。

 彼女は思わず苦笑いを浮かべると、さらにその先を弾き始める。
 それは傍目にはさしたる変化がなかったようにも聞こえるが、
やがて、周囲がその変化を伝えるのだった。

 別のテーブルではどちらからともなく商談が再開し、恋人達は
おしゃべりを始め、急用を思い出した人はコーヒーを断って店を
出てしまった。

 「何だか、店が少しざわつきだしましたね」
 ラルフが言うと……

 「魔法が解けてしまったんですよ」
 ブラウン先生は得意の笑顔で答えた。
 「でも、お嬢様は頑張りましたよ。今日聞いたばかりのカレン
のピアノをいきなり4小節まで遣りおうせたんですから、立派な
もんです」

 「でも、彼女、それからもピアノを弾いてましたよ」

 「ええ、8小節までチャレンジを続けましたが、あとは諦めて
自分のピアノを弾き始めたんです」

 「それで途中から騒がしくなったんだ」

 「お嬢様のピアノは確かに上手にはなってますが、音楽関係者
にしてみると、それはどこででも聞ける音ですからね。あえて、
立ち止まって聴く必要はないわけです」

 「でも、よくぐれませんでしたね。フランソワなら腹立ち紛れ
にピアノを蹴ってますよ」

 ブラウン先生は、ラルフの言葉に、思わず苦虫をかみつぶした
ような顔になった。

 「いいですか、ラルフ。あなたもこの仕事をずっと続けていき
たいならもっと言葉を選ぶ訓練をしなさい」

 「どういうことです?」

 「ここには、お父様がいらっしゃるのですよ」

 「あっ、そうか……」
 ラルフは急に肩をすぼめ恐縮した顔になった。

 「いえ、いいんですよ。ラルフさん。確かに、家にいた頃の娘
ならそうしたでしょうから……私も、娘がブラウン先生からお尻
を叩いてもらってからというもの。考え方をあらためたんです。
娘といえど、猫かわいがりだけでは成長しませんから……」

 サー・アランの穏やかな口調は紳士的だった。
 だから、ブラウン先生も大人として穏やかに受ける。

 「それは今回お目にかかって私も感じました。お嬢様は人間的
にも成長されています。それに、今はお父様以外にも心の支えが
おありのようで……その意味でもピアノは蹴れませんよ」

 「私、以外と言いますと……」

 「クリスチャンと言いましたか、私の目にはなかなかの好青年
と映りましたが……」

 「えっ!彼ですか……」
 サー・アランは『意外』という顔をした後、頬を僅かに緩める。

 「なるほど……」
 父親は納得したようだった。


 そんな大人達が見つめる若者達の後ろに一人の黒い影が立つ。

 『あれはアンハルト伯爵夫人。やはりここに来ておられました
か』
 ブラウン先生にしたら、それは不吉な影というべきものだった
のである。

******************(3)****

第10章 カレンの秘密(2)

第10章 カレンの秘密

§2 薔薇の誘い(2)

 「聴いてみたいですか?……お嬢様のピアノ」

 ブラウン先生がカレンの後ろにやってくる。

 「…………」
 カレンは黙ったまま少しだけ顎を引く。

 「ほう、あのお嬢さん、もうこんな大きなホールでリサイタル
を開くんだ。やっぱり家が金持ちだといいですね。でもお客さん
入りますかね」
 ラルフもやってくる。

 「今日の夕方ですね。ちょうど予定も入っていませんし訪ねて
みましょう。ラルフ、切符の手配をお願いしますよ」

 ブラウン先生の鶴の一声で三人の初日の予定は決まったのだ。

******************

 会場にお客は半分ほどだったが、それでも千人近い聴衆がいた。
 一学生で、取り立てて大きな大会での受賞暦もない彼女がこれ
ほど多くの人たちを呼べるのは、もちろん、サー・アランの尽力
あっての事。
 彼は自らの人脈をフル活用して、集められるだけの人をここへ
終結させたのである。

 「おう、ラックスマン教授!個展の成功おめでとうございます」
 「いやあ、早速の祝辞、いたみいります。ブラウン先生!」
 二人は一足早くこのホールのロビーで再会することになった。

 「いやあ、それにしても奇遇ですな。あなたも、ひっとして、
サー・アランに頼まれた口ですかな……」

 「いえいえ、私たちはただの通りすがりです。空港でたまたま
ポスターを見て、立ち寄ったまでです」

 「おう、カレンさん、お久しぶりです。待ってましたよ。今日、
会えるとわかっていたら、今日からお頼みすればよかった」
 ラックスマン教授はブラウン先生の手をとり、続けてカレンの
手もとった。

 「では、ブラウン先生の処へはサー・アランから『商品券付き
夜のディナー付きの招待状』は届かなかったと……」
 ラックスマン教授の笑顔には意味深な毒があった。

 「ええ、そのようなものは……残念ながら」

 「では、何ゆえにこんな無名のピアニストのリサイタルなど…」

 「いえ、シャルダン嬢にはちょっとした、ご縁がありましてな」

 「ほう、それはまた、どのような……」

 ラックスマン教授がそこまで言った時、話題の主サー・アラン
が現れる。

 「みなさんお揃いですか?」
 そう言って近づいたサー・アランだったが、思わぬ来客を見つ
けてのけぞった。
 「ブラウン先生!……いやあ、わざわざおいでくださっている
とは知らず失礼しました。秘書のモーガンさんへは一応招待状を
お送したのですが、もし、いらっしゃると分かっていれば汽車の
切符やホテルの手配などはいたしましたのに……」

 「いやいや、お気になさらないでください。ここへは他に用が
ありまして……でも、兆速の進歩をとげられたお嬢様のピアノも
是非拝聴したいと思いまして、立ち寄らせていただいたのです」

 「ありがとうございます。娘も、今やすっかり学院の生活にも
慣れて、ピアノに打ち込んでおります。それもこれも全て先生の
おかげです。何とお礼を申してよいか……」

 「いえいえ、私などは伝(つて)を頼って口をきいたに過ぎません。
すべてはお嬢さんの天分と努力の賜物です。今日は存分に聞かせ
ていただきます」

 「ありがとうございます。コンサートのあと、よろしければ、
一席設けますので、先生もどうかご出席ください」

 「よろしいのですか?私のような者がお邪魔して……」

 「何をおっしゃいますやら。本来なら、いの一番にご招待申し
上げなければならないところを大変に失礼いたしました。娘とも
ども先生との宴席を楽しみにしております」

 サー・アランは人の良さそうな笑顔を振りまく。彼はもともと
商人で腰が低く、爵位をちらつかせて仕事をするタイプではい。
とりわけブラウン先生に対しては『娘の命の恩人』とでも言わん
ばかりの扱いだったのである。

 当然、ブラウン先生一行には会場真ん中やや前方に設けられた
貴賓席の一角が用意された。

 「メインはラフマニロフですか。……女の子に戻ったお嬢様は
どんなピアノを聞かせてくれますかね」

 パンフレットを見ながらブラウン先生がつぶやくと、ラルフが
怪訝そうに尋ねる。

 「女の子に戻ったって?あの子、もともと女の子じゃないです
か」

 「あなた、いつもどこ見て生きてるんですか?私たちが最初に
サー・アランの屋敷に呼ばれたとき、父親はあの子を何と呼んで
ましたかね?」
 
 「あっ、そうそう、たしかフランソワだ。いや、僕もその事は
変だとは思ったんですよ。女の子なのにフランソワですからね」

 「きっと、家にいた当時は、男の子でいたかったんでしょう」

 「どうして?」

 「さあ、はっきりとはわかりませんがね。勝気なお嬢様として
は、女の子に魅力を感じなかったんでしょうね。だから、周囲に
も自分をそう呼ばせ、父親もそれを認めていました」

 「じゃあ、彼女、同性愛?」

 「ラルフ、あなたは、どうして、そうすぐに突飛な想像に走る
んでしょうね。ここだからいいですが、人前で滅多なことを言う
ものではありませんよ。……彼女の場合、恐らくそういう意味で
はないはずです。……いずれにしても、戸籍上はフランソワーズ
なわけで、家の外に出ればそんな我ままも通用しませんからね。
……今は、フランソワーズで通しているはずです。ポスターにも
そうあったじゃないですか」

 これを最後にブラウン先生のおしゃべりが止まった。
 舞台にそのフランソワーズが上がったのである。


 彼女はオーケストラをバックに3曲を弾いた。

 『今回はうまくいったみたいね』
 カレンがブラウン先生の表情を見ていて確信する。

 そのブラウン先生は演奏が終わると立って拍手を送りブラボー
を連呼した。
 そして、舞台がはね、観客が帰り支度をするなかで、カレンに
こう尋ねたのである。

 「どうですか、カレン、彼女のピアノは?変わりましたか?」

 ブラウン先生の問いに、カレンはしばらく考えてこう伝える。
 「変わったと思います。だって、幸せそうだから……」

 「あなたは、やはり、いい感性をしてますね。私もそう思いま
すよ。今の彼女には落ち着きがあります。しかも、それでいて、
華やかだ。恐らく、彼女、恋をしてますね」

 「そんなこと、ピアノを聴いただけでわかるんですか?」

 ラルフが驚くと、先生はさも当然とでも言わんばかりに……
 「楽器の演奏はその人の心模様がそのまま音楽に現れるんです。
私を誰だと思ってるんですか。そのあたりの駆け出し評論家など
と一緒にしないでださい」

 カレンは先生が得意げにスーツの襟を正して見せたのを笑った。
彼女はちょっとおちゃめに見得を切る先生が大好きなのである。

 「何しろ、あの子は私がお尻を叩いた子ですからね。成功して
もらわなければ困るのです」

 「ええ、あの時はビックリしましたよ。何考えてるだこのエロ
オヤジは…って思いましたから」

 「そうですか、あなたらしい感想ですね。でもね、ラルフ君、
私は見込みのない子のお尻を叩いたりはしませんよ。こうすれば
よくなるだろうと思うから叩いたんです」

 「でも、それで萎縮しちゃったら…そんな場合だってありえる
でしょう。女の子が満座の中で恥をかかされたんだから……」

 「そんな娘はきっと自らをフランソワだなんて名乗りませんよ。
彼女、男の子のようになりたいと願ってたみたいでしたからね。
だから、男の子のように躾けてあげただけです」

 「すごい理屈……」
 ラルフが小声でつぶやくと……
 「なんですか!」
 先生の声は大きい。

 「いえ、何でも……でも、今はフラソワーズなんでしょう?」

 「ええ……しかも、タッチが自然でやわらかい。女の子がああ
したピアノを弾く時は誰かを想って弾いているんです。つまり、
恋をしているんですよ」

 「誰を?」

 「それはわかりません。でも、自分のために弾いていないのは
たしかですね。このカレンのように……」

 「カレン、そうなのかい?」

 ラルフに質問されてカレンは下を向く。それが答えだった。

 「それって、いいことなんですか?」
 ラルフは今度はブラウン先生に尋ねた。

 「ええ、もちろん。……所詮、自分の為にすることには限界が
あります。自分のためする時は、疲れたら、困難だったら、やめ
ればいいんですから。努力もそこまで、成果もそこまでです。…
…でも、人の為にする時には、その人への思いがある限りやめら
れないでしょう。努力は続き、成果もついてくるというわけです。
多くの人は自分の為にする欲こそがより大きな成果をあげている
と思っているようですが、事実は逆で、人の為にすることこそが、
その人により大きな成果をもたらすことになるのです」

 ブラウン先生のいつものお説教が終わるちょうどその頃、サー
・アランが三人を誘いにやってきた。

 「いやあ、結構でしたよ。お嬢さんのピアノは………お屋敷に
おられた頃と比べても格段に腕をあげられました。私、感歎いた
しました」

 「ありがとうございます先生。その賛辞は、是非、娘に聞かせ
てやってください。まずは、夕食をレストランの方でご用意しま
したので、そちらへお移りください」

 サー・アランはそう言って、三人を観客席からレストランの席
へと移動させたのである。

 そこは劇場からほど近くにあるホテルのレストラン。ここには
先ほどフラソワーズの演奏を聞いた多くの観客が招かれていた。

 その客の多くが音楽関係者。という事はブラウン先生やラルフ
もそれを黙殺するわけにはいかず、あちこちで友人知人に捕まり、
サー・アランと共に社交を重ねていた。

 ただそんななか、握手する相手のいないカレンだけがポツリと
独りで一番奥の席に座る。
 手持ち無沙汰な彼女は最近覚えた三つ編みを悪戯しながら店内
をぼんやり眺めていた。

 『ここには、私のお友だちはいないわね』

 そんなことを思って、タバコの煙と料理の油がくすぶり続ける
テーブルを離れられるずにいたのである。

 すると、そんなカレンのテーブルを目指して誰かがやってくる。
その顔にまったく見覚えがなかったが、彼の方はこちらを笑顔で
見て近寄ってくるから、『私の近くに彼の知り合いでもいるのか
しら』と思い、あたりをキョロキョロと探してみた。

 しかし、周囲に人影はなく、彼の目的はやはりカレンだった。
 「カレン・アンダーソンさんですか?」

 「ええ」

 「やっぱり、そうなんだ。感激です」
 青年、それもかなり二枚目のその青年から握手を求められて、
カレンはどぎまぎする。

 恐る恐る右手を出すと、彼はことのほか強い力で握り返した。
 「お写真、見たんですが、小さくて、不鮮明だったから、ひょ
っとして違うかもしれないと思ったんですけど、やっぱり、先生
だったんだ」

 「せんせい?」
 カレンは首をかしげる。
 『この人、とんでもない誤解をしてるんじゃないか』
 そう思ったのだ。

 「僕、クリスチャン=アドラーといいます。実は、僕、先生の
ファンなんですよ。いや、正確には妹があなたのファンなんです。
『カレニア山荘の思い出』妹はあの曲に憧れて、ピアノを始めた
んですから。僕も好きですよ。あなたの曲は全てのメロディーが
美しいもの。先生、よかったらこれにサインしてください。妹の
分と私の分と二冊お願いします」

 彼は二冊の教則本をカレンの目の前に差し出した。

 それは紛れもなくカレンがブラウン先生の手を借りて出版した
本だったから、彼は誤解していたわけではない。
 しかし……

 「えっ!?……サイン……ですか?」
 カレンはそれにも困惑する。

 彼女はこれまで一度もサインを頼まれたことなどなかったから
気の利いた書体で綴ることなどできなかった。そこで、ごく普通
に、Karen Andersonと署名を入れたのである。

 『私が、知らない人にサインを求められるなんて……』
 カレンは気恥ずかしかったが嬉しかった。
 しかし、小春日和の日にも風は吹く。

 その風は、アドラーの肩ごしから吹いた。
 「クリスチャン、何やってるの?」

 笑顔のフランソワーズは次の瞬間、カレンと目を合せてきょと
んとした顔になった。

 「……!?……あなた、カレンなの?……」

 「はい」

 「で、何してるのよ。こんな処で……」
 フラソワーズは驚く。
 すると……

 「どうしたの?フラソワーズ。君、先生を知ってるのかい?」
 アドラーが怪訝そうに尋ねるから、フランソワーズの方こそが、
余計に困惑してしまう。

 「先生って……あなた?……どうしてよ……馬鹿言わないで…」
 フランソワーズは笑いだす。

 「どうしたの?君は知らないかもしれないけど、彼女の作品は
今、小学生には凄く人気があるんだよ。妹も彼女のファンなんだ」

 「へえ~~あんたにそんな才能があるなんて知らなかったわ。
どれ、見せて……」

 フランソワーズはカレンの本を手に取った。
 そして、パラパラとめくるように読むと……

 「へえ~、あなたにはこういうのお似合いかもね。そういえば、
私の処で女中だった時も、やたら耳障りなピアノを弾いてたのを
覚えてるわ」

 「えっ!?カレンさん、フラソワーズの処にいたんですか?」

 「ええ、……」
 カレンは恥ずかしそうに俯くが、フランソワーズはさらにそれ
に解説をつけたのだった。

 「この子、うちの女中だったの。おまけに家にいた頃は箸にも
棒にもかからなかったんだから……そんな子が、なぜ先生なの?
笑っちゃうわ。……この子、もうすぐ首になるところをブラウン
先生に貰われていったの。拾われたのよ」

 「ブラウン先生って……サー・トーマスかい?」

 「そうよ、あまり思い出したくない人物よ」

 「へえ、それじゃあ、先生に君は才能を見込まれたんだ」

 「馬鹿ねえ、そんなんじゃないわよ」

 フランソワーズは、『カレンなんて眼中にない!』そう言いた
かったのかもしれない。
 しかし、言葉を盛れば盛るほどクリスチャンの興味はカレンに
向くのだった。

******************(2)****

第10章 カレンの秘密(1)

            << カレンのミサ曲 >>

 ************<登場人物>**********

<お話の主人公>
トーマス・ブラウン<Thomas Braun>
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン<Ralph Morgan >
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン<Karen Anderson>
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。

(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘

<カレニア山荘の使用人>
ニーナ・スミス<Nina>
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品。でも本当は校長
先生で、子供たちにはちょっと怖い存在でもある。
ベス<Elizabeth= Berger>
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー<Denny>
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ<Anna>
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム<Graham>
……カレンの前のピアニスト

<カレニア山荘の里子たち>

リサ<Lisa >
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー<Sally>
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー<Patty>
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア<Maria >
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー<Kathy>
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アンドレア/アン<Andrea=Braun>
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
(注)アンは本来アンナの愛称だから女中のアンナと混同しそうだ
が、ブラウン先生がアンドレアのことをいつも『アン』『アン』
と呼ぶことから、カレニア山荘ではそれが通り名になっている。


ロベルト<Robert>または ~ロバート~
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック<Friderick>本来、愛称はフリーデルだが、
ここではもっぱらリックで通っている。
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。
リチャード<Richard>たまにチャドと呼ばれることも……
……(12歳)ポエムや絵画が好きな心優しい子。

<先生たち>
ヒギンズ先生<.Higgins>
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生<Caldwell>
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生<Sheehan>
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。
アンカー先生<Anker>
……絵の先生。
エッカート先生<Eckert>
……数学の先生
マルセル先生<Marcel>
……家庭科の先生

<ブラウン先生のお友達>
ラックスマン教授<Laxman>
……白髪の紳士。ロシア系。アンハルト家に身を寄せている。
ビーアマン先生<Biermann>
……獣医なので先生とは呼ばれているが、もとはカレニア山荘で
子供達のお仕置き係をしていた。今は町のカフェの店主。
アンハルト伯爵婦人
……戦争で息子を亡くした盲目の公爵婦人
フリードリヒ・フォン=ベール
……ルドルフ・フォン=ベールの弟
ホフマン博士<Hoffmann>
……時々酔っ払うが気のいい紳士

<ライバル>
ハンス=バーテン<Hans=Barten>
……アンのライバル、かなりのイケメン。
サンドラ=アモン<Sandra=Amon>
……12歳の少女ピアニスト。高い技術を持つが感性に乏しい。
最初の師匠はカール・マクミランという青年。継母と父
(アルフレッド=アモン)の三人家族。今はカレニア山荘の住人。
フランソワーズ・シャルダン<Françoise=Chardin>
……カレンが、昔、メイドをしていたサンダースワイン創業者、
サー・アランの一人娘。家では男名前のフランソワを通していた。
最初の師匠はナターシャ・スコルビッチ先生。現在は親元を離れ、
パルム音楽院の学生になっている。

<幻のピアニスト>
セルゲイ=リヒテル(ルドルフ・フォン=ベール)
……アフリカ時代の知人。カレンにとっては絵の先生だが、実は
ピアノも習っていた。

*****************************

第10章 カレンの秘密

§1 薔薇の誘い(1)

 ベスは台所仕事を終えて自分の部屋へ戻るところだった。
 大人の彼女でも、もう十分、寝る時間になっているというのに
食堂に小さな影がうごめいている。

 「誰なの?」
 そう言って電気をつけると、そこにいたのはサンドラだった。

 「…………」
 彼女は挨拶の代わりにと小さく微笑んで返した。

 「どうしたの?こんな時間に……」
 ベスがそう言って近づくと、

 「別に…何でもないわ。おしっこタイムよ」
 そっけなく答える。

 ベスはその態度からだいたいのあらましを推察して……
 「先生のお浣腸、受けたんだ」
 と尋ねてみたが……

 「…………」
 サンドラは答えなかった。

 でも……
 「まだ、お腹が渋ってるの?」
 こう問われると、素直に……

 「まだ、少し……」
 とだけ答えて、また黙ってしまう。

 「大丈夫よ。それは明日までは持ち越さないから……」
 こう励まされて、ほんの少し顎を引いてみせる。

 「いやだった?」
 こう問われても、やはり反応は同じ。

 「でも、あなたは偉いわ。その歳で分別がつけられるんだから」
 こう言われると……

 「だって、あなた、そう言ったじゃない。お父様の希望を叶え
るのは娘の義務なんだって……。だから、やったの。私だって、
お父様を困らせたくはないもの」

 「で、どうだった?お父様が嫌いになった?」

 「わからないわ。……何であんなことしなきゃならないのかも
……」
 サンドラはゆっくりと首を横に振る。

 「それは、お父様があなたを好きだからよ。男性は好きな娘の
すべてを把握したいの」

 「だって、汚いでしょう……うんちなんて……」

 「綺麗、汚いはその人との人間関係で決まることよ。他人同士
ならどんなに親しくてもそれはないけど、身内は、そこから一歩
踏み込んだところにあるから、それを遠慮する関係でいたくない
のよ」

 「そう言えば、先生。あの夜、パパに『私の娘として育てても
よいならお預かりします』ってしつこく確認してたわ」

 サンドラはその夜はたいして重要ではないと思われた出来事を
思い出していた。

 「そうか、このことだったのね」

 「先生は自分の子でなきゃ家におかないし育てないの。だから、
あなたもミスター・ブラウンを『先生』と言っちゃいけないわ」

 「あっ、そうね、『お父様』だったわ」

 「お父様は、あなたのすべてを明るみに出して支配したいの」

 「どうして?」

 「どうしてって……あなたはまだ年端も行かない娘だから……
愛する娘だからよ」

 「年端も行かないって、私はもう12歳なのよ。赤ちゃんじゃ
ないわ。お人形じゃないのよ」
 サンドラが口を尖らすと、それを見てベスが笑う。

 「でもね、私たちから見ると、あなたはもう12歳じゃないわ。
『まだ、12歳』よ。赤ちゃんは卒業してるかもしれないけど、
それはついこの間のこと。お父様から見ればお人形と変わらない
くらい頼りない存在だわ」

 「変なの。ねえ、カレンお姉様も私と同じことやったの?」

 「カレンは、ここに来たとき、すでに大人だったから、先生も
さすがにそれはなさらなかったわ」

 「そうなの。私だけ子供扱い。カレンお姉様は大人扱いなのね」
 サンドはほっぺたを膨らまし……

 「そんなの変よ。たった4つしか違わないじゃない」
 すねて顔をテーブルに擦り付けた。

 すると、それを見たベスが、やはり笑ってしまっている。
 「あなたたちの年齢で4つも違ったら、大人なら40も違うわ」

 「でも、変よ。絶対変よ。不公平よ。……私の全部を覗きたい
だなんて……そんなことしたら……そんなことしたら、……私、
解けちゃうわ」

 すねた顔したサンドラの言葉の最後は弱々しい。
 そんな可哀想な子の頭を撫でながら、ベスはこう言って励ます
のだった。

 「解けちゃうか……そうかもしれないわね。女の子は、自分を
全部さらけ出しちゃったら、あとに何も残らないものね」

 「そうよ、だから私、この世から消えてなくなりそうだったわ」

 「もう少し大人になれば適当にあしらう事も必要でしょうけど
…………でもね、あなたの場合はまだ歳も若いし、お父様の前に
すべてをさらけ出しちゃった方が得よ。……たとえその時は何も
残らなくても、そこから、お父様があなたが身の立つようにして
くださるわ」

 「そんなことわかるの?」

 「ええ、先生って、そういう方だもの。滅茶苦茶厳しいところ
もあるけど、いい加減なことはなさらないの。あなたは、こんな
言い方嫌いでしょうけど、女の子は、結局のところ誰を頼るかの
人生だもの。今はブラウン先生を頼っていて損はないと思うわよ」

 「ふ~ん、あのお爺さん、そんなに信用されてるんだ」

 「あなたが知らないだけ。大人の世界では先生は偉い人なのよ。
…………でもね、それでもどうしてもだめだったら、その時は、
手伝ってあげるわ。ここから逃げるの………。前にも言ったけど、
私はどこまでもあなたの味方だから、安心して……」

 「今は、いいわ。もう、すんだことだし……それに、わたし、
今はまだここには残りたいの」
 サンドラがテーブルから顔を上げる。

 「アンのことね」

 「そう…それにカレンも……私、お姉様のピアノで感動したの。
他人のピアノを聴いて感動したなんて初めてだったわ。だから、
あの二人のピアノが聞けるなら、私はお父様の前で裸になっても
うんちしてもかまわないわ。だって、二人にはそれだけの価値が
あるもの」

 「すごい惚れ込みようね。わかったわ、だったら頑張りなさい。
そうだ、オートミールでも作ってあげようか?」

 「あっ、あれは、いいわ。あれ……初日で懲りたから……」
 サンドラは苦笑い。でも、明るい苦笑いだった。

 「じゃあ、紅茶入れてあげるね。それで寝なさい」
 ベスの言葉には頷く。

 二人の夜はこうしてふけていった。

************************

 一方、サンドラからその価値を認められたカレンはというと、
毎日、山のような宿題に振り回されていた。

 宿題といっても音楽でも数学でもない。無味乾燥な言葉羅列を
ただただ暗記してきて学校で発表するだけのこと。
 これに振り回されていたのである。

 当時の西洋では『ヴァージル』のアエネイスや『サアディー』
の果樹園などといった古典詩の一節や『シェークスピア』のよく
知られた言い回しなどを会話の中に織り込む事はその人の品性を
図る上で重要とされ、会話の中にこうした言葉が一切出てこない
ようでは、たとえ年齢を重ねても紳士淑女とは認められなかった。

 そこで、カレニア山荘の子供たちも男女を問わず古典詩は必須
科目であり一般教養。先生に指示された処を翌日までに暗唱して
こなければならない。これが子供たちが抱える宿題だったのだ。
 だから、カレンに限らずみんなギリシャ語(ラテン語)が大嫌い
だったのである。

 苦難はなにも学校だけではない。時にはお父様の前でもそれを
発表しなければならないのだ。

 特に週末の夜、お父様の前で『今週の課題曲は演奏できません』
『古典詩も暗唱してません』なんてことにでもなったら……
 他の兄弟(姉妹)が見ている前で、お父様に楽器の代わりに自分
のお尻を差し出し、お父様が叩く平手にあわせて朗読の代わりに
『ごめんなさい』を何度も叫ばなければならなかった。

 古典的な西洋の子供教育にあっては『暗記』と『鞭』は一体の
もので、共に基本中の基本。学校も家庭もそこに区別はなかった
のである。

 過去に棒暗記なんてしたことのなかったカレンは、最初の頃、
これができずにシーハン先生からの鞭を受けたことも一度や二度
ではなかったが、この時使用された鞭はトォーズではない。

 先生のお仕置きではいつもニットのパンツを穿かされて細身の
ケインで叩かれる。ケインは、本来男の子用の鞭で、威力が強い
ために女の子のカレンにはニットのパンツが許されていたのだ。
 とはいえ、机にうつ伏せになって先生の鞭を待つ間は、異常な
恐怖感で、たった一度だけだが、カレンはその場でお漏らしまで
したことがあった。

 「ピシッ」
 
 ぶたれると、全身に電気が走り脳天まで痺れる。
 五体がバラバラにされそうで、必死に机の角を握って耐えた。

 いずれにしても、サンドラのようにトォーズで裸のお尻を叩か
れたことはなく、恥ずかしさは免れている。そのあたりが、同じ
未就学児でも、カレンの場合は大人たちの扱いが違っていたので
ある。

 そんなカレンも、半年たった今は、学習のコツのようなものを
掴んだようで、気が緩んだ時以外は、鞭の恐怖を感じずに学校へ
行けるようになっていた。

 そんな学校生活にも余裕の出てきた頃、ブラウン先生が、突然、
カレンに意外な話を持ちかけるのである。

 「実は、カレン。今度、ラックスマン教授がボンで絵の個展を
開くそうなんですが、あなた、その会場でピアノを弾いてくれま
せんか。教授はどうしても、あなたでなきゃ会場の雰囲気にそぐ
わないって、だだをこねてましてね。困ってるんですよ」

 「私はかまいませんけど……よろしいんですか?」

 「『よろしい』とは?」

 「いえ……」
 カレンはそれ以上は差し出がましいことだっと思って口を閉じ
たのだが、ブラウン先生は大人だった。

 「察するに、あなたの言いたいことは……『ラックスマン教授は、
伯爵の庇護を受けている人。そんな処へ出かけて行って大丈夫な
のか』って、思ってるんでしょうか?」

 「…………」
 カレンは小さく頷く。

 「このあいだのお仕置きで懲りましたか」
 ブラウン先生は、怒るでもなく、笑うでもなく、複雑な表情を
カレンに投げかけた。

 「カレン、これは大人の話、ビジネスの話なのです。ですから、
過去の感情は一旦脇に置かなければならないのです」

 「ビジネス?」

 「そうです。これは、あなたにとっても私にとってもビジネス
なのです。あなたはこんな山の中にいて知らないでしょうけど、
あなたは、今や、街に出ればちょっとした有名人なんですよ」

 「……わたしが?……」
 カレンは鳩が豆鉄砲をくったような顔になる。
 そんな話、初めて聞いたからだ。

 「これは、言おう言おうと思って言いそびれてしまったんです
が……実は、以前あなたの名前で出したピアノ曲集。あれが、今、
巷で売れてましてね。あなたは、すでに家一軒くらいは建てられ
そうな印税を手にしているんです」

 「……?」
 戸惑うカレンに先生は続ける。

 「あなたは世間を知らないから、ひょっとしたら、それは自分
に才能があるんからだとか、単にラッキーだったからそうなった
なんて思うかもしれませんが、いずれも違います。才能があろう
となかろうと、そもそも無名の少女が自分の創った曲を本にした
ところで、そんなにたくさん売れるはずがないのです」

 「…………」

 「……では、なぜそんなに売れたのか、分かりますか?」

 「…………」
 カレンは首を横に振る。

 「事の発端はラックスマン教授でしてね。彼が講演のたびに、
あなたの曲を褒めましてね。本の購入を教育関係者に勧めて回っ
たんですよ。もともと音楽教育に影響力のある人だから、効果が
あったみたいですね。……おまけに、伯爵も大量に買い取って、
国内の図書館や学校に寄贈し始めましたから、たちまち、これが
世の中に広まって、今やピアノを習い始める小学生にとっては、
大事な教則本の一つとなったというわけです」

 「…………」
 ブラウン先生から説明を受けたカレンだったが、いきなりそん
なこと言われてもカレンには実感が沸かなかった。インターネッ
トはもとより、テレビだって放送を開始したばかりのこの時代、
カレニア山荘で暮らしているのは外国で暮らしているようなもの。
世情に明るくないのは致し方なかった。

 「私は、最初からラックスマン教授や伯爵に『あの本を売って
ください』なんて頼んだ覚えはありません。すべては、あちらが
勝手にやったことなんです。でもね、カレン。大人の世界では、
たとえそうでも、そこまでやってもらった以上『それは、あなた
たちが勝手にやった事。こちらは関係ない』とは言えないのです。
……相手の好意にはこたえなければなりません。わかりますか?」

 「はい」
 カレンは小さな声で承諾したのである。

 こうして、カレンとブラウン先生はラックスマン教授の招待を
受けて、ボンへと飛び立った。

**************************

 空港のロビーへ降り立った二人。そこへラルフが迎えに来た。
普段の彼はカレニア山荘に腰を落ち着けることなく、文字どおり
ブラウン先生の手足となってヨーロッパじゅうを駆け回っていた。

 すでに70代半ばを越えた先生がカレニア山荘に腰を落ち着け
て子供たちと楽しく暮らせるのも、この人がいればこそなのだが、
ブラウン先生は相変わらず、この背の高いヌーには好意的な言葉
をかけなかった。

 「どうでした?空の旅は…」
 ラルフが笑顔を見せると……

 「どうということはありませんね。ヨーロッパは国は多くても
狭い処です。鉄道で十分ですよ。経費を無駄遣いをしてはいけま
せん」

 「だったらそれは大丈夫です。この航空券はラックスマン教授
からのプレゼントですから……」

 「ラックスマンさんからの……」
 ブラウン先生はしばし考えてから、一つ小さくため息をつく。
その合間にラルフはカレンにも挨拶した。

 「でも、カレン、本が売れてよかったですね。これで花嫁資金
はばっちりだ」

 「ありがとうございます。ラルフさん」
 カレンはラルフが嫌いではなかったから、ごく自然に挨拶する。

 「本当はね、ラジオで君の演奏を流したいという打診が3本も
あったんだけど、先生がみんな断るから……」

 「当たり前です。カレンの音は今のラジオの技術では拾えない
んです。カレンの音楽の真骨頂は消え行く音の計算にあるんです
よ。そんな微妙な余韻の操作は彼女にしかできない芸当なんです。
生のピアノでしか聞くことのできない音なんです」

 「そう言うもんですかね」

 「そんな放送を聴いた人はカレンのピアノを評判倒れのまがい
物だと思うでしょう。親としては、みすみす娘が信用を落とすと
分かっていることはさせられませんよ。そんなこと当たり前です。
……そうだ、そんなことより、君はなぜラックスマン氏なんかの
援助を受けたのかね?」

 「なぜって……それは手紙にも書いた通り、向こうから一方的
に……」

 「だったら、断ればいいじゃないか」

 「どうしてですか?カレンを売り出してくれって頼んだの先生
の方ですよ」

 「それはそうだが、それは私の名前を使って普通にやればいい
んだよ」

 「普通にって……?」

 「普通には、普通にさ。損が出なけりゃそれでいい。それより、
ラックスマン氏はアンハルト伯爵家とも繋がりの深い人物だから、
そんな人物に私は借りを作りたくないんだよ。きっと、やっかい
な事になるから」

 「いいじゃないですか、そんなに神経質にならなくても………
昔は昔、今は今ですよ」
 ラルフはすねたようにブラウン先生から視線を外すと、カレン
を探した。

 すると……

 彼女はその時、足を止めて、あるポスターの前で釘付けになっ
ていたのである。

 「お嬢様!」

 そこに張られていたのは新進気鋭の女性ピアニストの写真。
 フランソワーズ・シャルダンと書かれていた。


*******************(1)*****

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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