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第5章 / §3 月下に流れるショパンの曲(2)

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第5章 ブラウン家の食卓

§3/月下に流れるショパンの曲(2)


 「アリス、大丈夫ですか?」

 ブラウン先生はすぐさまアリスを抱きかかえてくれたが、彼女
は先生の差し出すその手を遠慮して自ら起き上がる。

 「ごめんなさい。カエルは苦手なんです」

 アリスは青い顔でソファに座りなおすと自分の心臓が今も動い
ていることを確認してほっとした様子だった。

 「リック、謝りなさい」

 ブラウン先生が叱っても、リックはカレンにあげたはずの蛙を
手のひらに収めなおすと、その子を愛おしく観察しながら、少し
頬を膨らまして立っている。

 しかし、ロベルトがリックの両肩を掴むと、彼は渋々カレンに
頭を下げた。

 「ごめんなさい」

 もちろん、謝ったのはリックだが、アリスにはその後ろに立つ
ロベルトが謝ってくれたようで、心を落ち着けることができたの
である。

 「カレン、ダージリンを飲みますか?気持が落ち着きますよ」

 「いえ、結構です」

 「では、部屋に戻りますか?今日は、この子たちにもあなたの
ピアノを聞かせてあげようと思ったのですが、それはまたの機会
ということにしましょう」

 「……!……」

 そんな時だった。ロベルトが奏でるチターのメロディーが居間
に流れ始める。すると、カレンはブラウン先生の親切心にその事
を忘れかけていたが、彼女にはまだ大事な仕事が残っていたのを
思い出したのである。

 「大丈夫です。先生、わたし、うまく弾けるかどうか分かりま
せんけど、とにかく弾いてみますから……」

 彼女はまだ脈打つ自分の心臓に手を置くと、静かに立ち上がっ
てピアノ椅子に向かう。
 すると、ブラウン先生も、これなら大丈夫だと感じたのだろう。
カレンを止めず、彼女の好きにさせたのだった。

 「それでは、お願いしましょうか」

 話がまとまり、ロベルトのチターの音色がいったん途絶えるが、
アリスはあえてその音色を求めた。

 やがてカレンはロベルトの弾く『第三の男』に自らのピアノを
添わせる。そして、ロベルトが演奏をやめた後も、彼の心を引き
継いぐように、今、この瞬間に生まれたばかりのノックターンを
奏で続けたのである。

 「(美しい、何て美しい旋律なんだ。でも、これって何という
曲なんだろう)」

 ロベルトは思った。彼はカレンのピアノが今という瞬間にしか
聞くことの出来ない儚いものだとは、この時はまだ知らなかった
のである。

 思うがままに一曲弾きあげたカレンにブラウン先生が尋ねる。

 「ときにカレン、あなたは譜面が書けますか?」

 「…………」
 カレンは、頭の後ろから聞こえてくる先生の声に恥ずかしそう
に首を振る。
 彼女は正規の音楽教育を受けていないから、簡単なメロディー
程度は書けても、細かな表現まで譜面に現すことができなかった
のだ。

 「もったいないですね。実にもったいない。これまで、数百、
いや数千の楽曲がビールの泡のように毎晩消えていたとは………
ほらほら、静かにしなさい」

 カレンが振り返ると、ブラウン先生は思いもよらない姿になっ
ていた。
 キャシーに背中から抱きつかれ、膝にはワンパク小僧を乗せて
いる。そのフレデリックの頭を撫でながら呟いたのだった。

 そんな老人の呟きは、間近にいた一人の少年、一人の少女の耳
にも届いたようで……

 「あのくらい僕だって弾けるよ」

 フレデリックが言えば……キャシーも……

 「わたしの方がうまいもん……」

 二人は争って先生の身体を離れる。そしてキャシーの方が一歩
早くカレンの膝にのしかかる。

 「こら、お行儀が悪いですよ」
 ブラウン先生はキャシーをたしなめたがカレンは構わなかった。

 そして、今しがた自分で弾いた曲を、再び稚拙なピアノで聞い
たのである。

 「どう、ぴったりでしょう」
 キャシーは自慢げだが、フレデリックが茶々を入れる。

 「嘘だね、そうじゃなかったよ」

 彼はキャシーをカレンの膝から剥ぎ取ると、今度は自分がその
椅子に腰掛けようとしたのである。

 「えっ!」

 カレンは驚く。キャシーとフレデリックでは身体の大きさ重さ
が段違いなのだ。
 慌てたカレンが、その場を外れようとすると……

 「あっ、けちんぼ、いいじゃないか。僕も抱っこしてよ」
 公然と要求したのである。

 「フレッド、君はもう大きいんだよ。カレンの迷惑を考えなさ
い」

 ブラウン先生に言われて、また口を尖らすので……
 「いいわ、でも、あまり激しく動かないでよ」
 カレンの方が妥協したのである。

 そうやって始まった演奏。
 「…………!……………!……………!……………!…………」

 フレッドの弾いた曲にカレンは驚いた。夜想曲を弾いたはずの
自分の曲が彼にかかればまるっきりマーチなのだ。音程の怪しい
処、和音を外れる処もあったが、とにかく楽しい。心が浮き浮き
する。

 「(人は見かけによらないわね)」

 ただこの演奏は何より本人が浮かれていて、重たいお尻を浮か
せては盛んにドスンドスンとやるもんだから、カレンは膝の痛み
に耐えての鑑賞だったのである。

 そんな大変な一曲を弾き終わって、フレデリックは満足したの
か、意気揚々、カレンの膝を下りて行く。

 「ねえ、お父様、私の演奏、どうだった?」
 「ああ、よかったよ。キャシー。だいぶ、耳がよくなったね」
 「ほんと!やったあ~~」
 「ねえ、僕のは……」
 「上手だったよ。相変わらずいいセンスをしているね。どこの
音楽会社からだって編曲の仕事が今すぐにでも舞い込みそうだ」

 ブラウン先生は自分に抱きつく二人の子供たちをとにかく褒め
ちぎる。いつもは厳しい先生も、この時ばかりは一人のやさしい
お父さん、好好爺となっていた。

 カレンにも当然そんなご機嫌な先生の声は聞こえているから、
『今のうちに…』とでも思ったのだろう。今度はフレデリックの
演奏を自分もまねてみたのである。

 そして、それが終わると……
 カレンは今の演奏の評価を求めて先生の方を振り返ろうとした。
 ところが、そこに思わぬ大きな人影が立っていたものだから……

 「えっ!!!」

 慌てた彼女はピアノ椅子を飛び退く。
 わけも分からず、ただ反射的にカレンは身を引いたのだ。

 すると、その人影は何も言わずにカレンが退いた椅子に座り、
さきほど彼女が弾いていた夜想曲を弾き始めた。

 そして、その一音一音を確かめるように頭の中に浮かべて感じ
取ると、譜面台の五線紙に音符を載せていくのである。

 「ロビン、拾えましたか?」

 再びチビちゃんたちの拷問に会っている先生はそう言って尋ね
たが、ロベルトは返事をしなかった。

 『まだ、何かが足りない』
 そんな不満が、『できました』という答えにならないのだ。

 彼は一通り楽譜を書き終えると、その譜面に則してカレンの曲
を弾いてみる。

 たしかに、それは、今しがたカレンが弾いた曲に似ている。

 カレンもまた……
 「(私の弾いた曲だわ)」
 と思った。

 しかし……
 「(何かが違う)」

 ただ、その何かは、当のカレンにもわからなかった。

 「ん~~~~好い線いってますけどね」
 わだかまりの残る二人の中へ満を持して先生がやってきた。

 「私がやってみましょうか」
 今度はブラウン先生がロビンからピアノの席を奪うと、静かに
カレンの曲を弾き始めた。

 「………………………………………………」
 「………………………………………………」

 唖然とする二人。先生はカレンのノックターンを寸分たがわず
弾いてみせたのである。

 カレンは感激する。
 「(これだわ、私が、今、弾いたのは)」

 そして、それが終わると……
 もの凄い勢いで、さっきロビンが仕上げたばかりの楽譜に音楽
記号を書き足していく。殴り書くといった感じで……

 「ん~~~そうですねえ~~~こんなものでしょうかね」

 結果、単純で耳障りのよさそうなカレンの曲のために、楽譜は
紙が真っ黒になるほどのお玉杓子を乗っける事になったのだった。

 「ロビン、あなたにこれが弾けますか?」

 ブラウン先生に尋ねられたロベルトはしばらくその楽譜を見て
考えていたが、とうとう首を横に振ってしまう。

 「でしょうね、カレンだってそれは同じはずです。彼女にして
も、主旋律くらいは覚えているでしょうが、細かなタッチまでは
すでに忘れてしまうでしょうから。…ですからね、カレンの曲は
厳密には、一生に一度だけ出会う名曲なんです」

 「一期一会?」

 「そう、カレンはね、その瞬間、瞬間で、今どんな音色が最も
周囲の人を感動させられるかを感じとる能力を持っていて、それ
をピアノで表現しているんです。ですから、僅かでも時が移ろう
と、もう次の瞬間はその音色そのメロディーにはならないんです。
つまり、一期一会というわけです」

 「……そんなあ~~、私はただ適当にピアノを叩いているだけ
なんです。そんなこと考えてません」

 カレンは、先生の言い方が、まるで自分を化け物のように見て
いる気がして心地よくなかった。

 「(はははは)こんなこと、考えてできるもんじゃないよ」

 珍しくすねてみせるカレンの姿にブラウン先生は笑う。
 しかし、それはカレンには理解できなくてもロビンには感じる
ことのできる感性だったのである。

 「つまり、映画のBGMを常に即興で作り出せる能力ってこと
ですか?」

 「あなた、うまいこと言いますね。そういうことですよ」

 ブラウン先生はやっと出てきた共感者に満足そうな例の笑顔を
浮かべると、こう続けるのである。

 「ですからね、細かなことはいいのです。あなたのできる範囲
で……あなたにカレンのピアノを拾ってあげて欲しいんです」

 「えっ、僕がですが?」

 「そうですよ。他に誰がいるんですか?……まさか、このチビ
ちゃんたちにできる芸当じゃないでしょう」

 「僕だってできるよ、それくらい。和音くらい知ってるもん。
コールドウェル先生に作曲の仕方も習ったんだから……」
 フレデリックは先生の袖を引いたが、ブラウン先生は彼の頭を
撫でただけ。

 一方、驚いたロビンは……
 「それって、毎晩ですか?」

 「そうです。いい耳の訓練になると思いますよ」

 「だって、そういったことは先生ご自身がなさった方が……」
 ロベルトが不満げにこう言うと……

 「…………」先生はことさら渋い顔になってロビンを見つめる。
 それは引き受けざるを得ないということのようだった。

 「私は、眠り薬の代わりにこの子のピアノが聞きたいと思って
引っ張ってきたんです。寝る間際にそんな余計な事ができるわけ
ないでしょう。だいたい、君はその時間、マンガなんか読んでる
みたいですね。だったらこの方がよほど有意義な時間の過ごし方
というものですよ」

 ブラウン先生の厳とした物言いで、そのことは決着したようだ
った。

 「さあ、チビちゃんたちはもうベッドの時間ですよ」

 ブラウン先生は、チビちゃんたちをベッドへと追いやったが、
同時にご自身も……

 「今日は少し早いですが、私達も、もう寝ましょうか」

 先生の一言で、三人はそのまま先生の寝室へ。

 そしてこの夜、カレンはブラウン先生の為に最初の夜の眠り薬
を調合し、ロビンがその製法を書き記したのだった。

*************************

 月光の差し込む屋根裏部屋で、カレンはアンが弾く今夜最後の
ピアノを聴いた。

 カレンにとってはカレニア山荘での最初の一日。色んなことが
あったが、彼女の日記には、この時に聞いたアンのピアノの事が
記されていた。

 『私はピアノのことはわからない。だから、アンが何という曲
を弾いているのかも知らない。…でも、今、私の心は彼女の音に
引き寄せられるている。私には、こんなにも人を鼓舞するような
魅惑的なピアノは生涯弾けないだろう。羨ましい。先生が言って
いたアンの本当の実力って…ひょっとしたら、こんな事なのかも』

 カレンはそんなことを思いながら、床についたのである。

********************(3)*****

第5章 / §2 月下に流れるショパンの曲

<コメント>
忙しくて、「てにをは」も怪しい文章だけど、
出すだけ出したという感じです。
***************************

        ≪ カレンのミサ曲 ≫

第5章 ブラウン家の食卓

§2/月下に流れるショパンの曲

 カレンは、食事の後、ドレスを着替えて流し場へ行く。彼女は
女中ではないのだから、そのようなことはしなくよいはずだが、
サー・アラン家で習い覚えたものがそのまま習慣になってしまい
食器を洗っていた方が落ち着くようだった。

 「へえ、あんた、むこうじゃ女中だったんだ」
 アンナは初めて聞く話に少しだけ驚いた様子だったが……

 「ここは、先生が誰に対しても分け隔てのない優しい方だから、
ここの方がきっと住みやすいと思うよ」
 アンナはこう言って、ブラウン家を自慢する。

 「はい」
 それにはカレンも賛成だった。ここは働いている人たちも子供
たちもみんな穏やかで、威張り散らすような人はいないようだ。

 「お子さんも沢山いるけど、どのみちみんな里子だからね……
みんな気兼ねなくやってるよ」

 「でも、お仕置きは厳しいみたいですね」

 「?……そうかい」

 アンナが怪訝な顔をしたのが、カレンには不思議だったから…

 「だって、小さい子供たちを外で枷に繋いだり、お尻丸出しに
して木馬に乗せたり、もう14歳にもなってる子を素っ裸にして
反省させるんですもの。私、驚いちゃって……」

 「?……誰のことだい?」

 アンナにそう言われてカレンは自分が、今、口を滑らせてしま
ったことに気づく。
 アンのことは、本当は誰にも言わないつもりだったのだ。

 「コールドウェル先生だね」

 「…………えっ……まあ……」

 歯切れの悪いカレンの答えを聞いて、アンナはこんなことを言
うのだった。

 「あんたは、幼い頃、どんな育ちをしたか知らないけど、……
それって、ここでは愛してるってことなんだよ。コールドウェル
先生にとってアンは一番大切なお弟子さんだもの。あの子の為に
ならないことなんて、先生は、何一つしやしないよ」

 「そうなんですか?」

 カレンは気のない返事を返す。彼女にしてみれば、愛している
ならなぜもっと優しい方法で接してあげないんだろうと思えるの
である。

 そんなカレンのもとへ、ブラウン先生からの伝言がやってくる。

 「カレン、先生がお呼びよ。居間へいらっしゃいって……」

 そう、言われるまで、彼女は食器を洗い続けていたのである。

 「いってらっしゃい。私は無教養だからうまいことは言えない
けど、先生なら上手に説明してくれるだろうから、尋ねてみると
いいよ」
 アンナはそう言って笑顔で送り出してくれたのである。

***************************

 カレンが居間へ出向くと、そこには多くの先客たちがいた。
 総勢、12名。いずれもブラウン先生の処へおやすみの挨拶に
きた子供たちだ。

 ただ、おやすみのご挨拶と言っても、それは最後の最後で言う
だけで、それまでは各々の自由に広い居間を占拠して遊んでいる。

 まさにそこは、子供の為のプレイルーム。甲高い声が交差する
その部屋にもソファなどはあるが、高価な調度品は何もなくて、
サー・アランの居間のように、ティーカップの触れる音や大きな
柱時計が時を刻む音などを聞くことはできなかった。

 「ちょっと、ごめんなさい」
 「どいてちょうだい、通れないでしょう」
 「わあ、髪をひっぱらないで……」
 子供たちの林の中を分け入って奥へと進むと、ブラウン先生は
いつも通りの笑顔でカレンを迎え入れてくれたが……それまでが
一仕事だった。

 「今日は色々お世話になりました。ありがとうございました」

 「君こそ、今日は疲れたでしょう。本当なら下がって休ませて
あげたいところだけど、せっかくの機会だから、主だった子供達
だけでも紹介しておこうと思ってね。来てもらったんだ」

 先生はそう言ってカレンにソファを勧める。

 それに応じてカレンが先生の脇に腰を下ろすと、ブラウン先生
は手当たり次第に子供たちを呼び止めては、カレンに里子たちを
紹介していったのだった。

 「この子が、サリー。このあいだ4つになったばかりだ」

 ブラウン先生はおかっぱ頭の女の子を一人膝の上に抱く。
 ところが、この子、カレンを見つけると、すぐにそこを下りて
カレンに抱きついたのである。

 「お姉ちゃん、抱っこ」

 いきなりの事に当初は驚いたカレンだが、自分を見つめる瞳に
何の屈託もないのを見て、カレンも自然にその子を抱き上げる。
 すると、しっかり抱きつき……

 「お姉ちゃん、しゅき」
 と一言。
 リップサービスも忘れないところがさすがに女の子だ。

 「サリー、新しいお姉ちゃんに抱っこしてもらってよかったね」
 ブラウン先生の言葉にサリーは満足そうな笑顔を返す。

 「カレン、その子は、甘えん坊だから、何もしないと、ずっと
そのままかもしれませんよ」

 ブラウン先生は忠告してくれたが……

 「大丈夫です先生。この子まだ軽いですから……」
 カレンはそう言うと、かまわずサリーを抱き続けた。

 すると、お膝の空いたブラウン先生の処へは、また新たなお客
さんが現れる。

 「…………」
 彼女は何も言わないでただ先生のシャツの裾を引っ張っていた。

 「パティー、お前も抱っこがいいのか?」

 先生にこう尋ねられても、彼女はただ頷くだけ。

 「ほら、これでいいか」
 ブラウン先生が少女を抱き上げると、彼女は一瞬カレンの方を
向いただけで、先生の胸の中に顔を埋めてしまったのである。

 「この子は、パティー。六歳だから、サリーよりお姉さんなん
だが、気弱なところがあって困りものだ。……ほら、……ほら、
カレンお姉ちゃまにご挨拶しなさい」

 ブラウン先生に数回身体を揺さぶられて、パティーは、やっと
カレンの方へと向けたが、出てきた言葉は……

 「こんにちわ」
 だけだった。

 「こんにちわパティー。私、カレン=アンダーソンって言うの。
おともだちになりましょうね」

 カレンの言葉にも顎をひとつしゃくるだけの挨拶だ。

 「困ったもんだ、六つにもなってご挨拶ひとつできないとは…」
 ブラウン先生はパティーを叱ったが、パティーに応えた様子は
なく、ただ先生の胸の中に顔を埋めなおすだけだったのである。

 そんな中、カレンの前にまた一人の女の子が現れた。

 「はじめまして、私、マリアといいます」

 カレンはこの時、初めて挨拶らしい挨拶を受けたのである。

 「私は、カレンって言うのよ。今日からここでみんなと一緒に
暮らすことになったの。よろしくね」

 カレンが、こういうと、マリアは少しだけはにかみながら。
 「よろしくお願いします。お姉様」
 彼女は誰に教わったのか、両手でスカートの襞をつまみ、浅く
膝を折ってみせる。

 『パティーとマリアは二歳しか違わないけど、女の子はそこで
ステップを上がるのね』
 カレンはマリアを見て思うのだが……

 人それぞれに成長のスピードにばらつきがあるようで、マリア
よりさらに二つ年上のキャシーは、その頃、天井まで届きそうな
大きな本棚の頂上にいたのである。

 そして、そこからいきなり真下のソファめがけてダイブ。

 「ボヨヨ~~~ン」

 キャシーの掛け声とともにブラウン先生の身体が大きく揺れ、
綿埃が舞い上がり、パティー自身もソファから跳ね飛ばされて、
床に転がり落ちている。

 「何度言ったらわかるんですか。本棚はあなたの玩具じゃない
んですよ。もし、下に人がいたらどうするんですか!!赤ちゃん
なら死んじゃいますよ」

 ブラウン先生の雷が落ちたものの、キャシーは頭をかくだけで、
あっけらかんとして笑っていた。

 「ごめんなさい」

 彼女、口先では謝ってはいるものの。その顔は笑っているし、
何より『抱いてくれ』と言わんばかりに先生に擦り寄ったのだ。

 「ほら、これでいいか」
 先生もその時には昼間見せたような厳しい態度は取らない。
 サリーをいったん膝の上から下ろすと、代わりにキャシーを膝
に抱き上げて、彼女の身体をカレンの方へと向けたのだけだった。

 だから、また、お仕置きになるんじゃないか、と心配していた
カレンは拍子抜けしたほどだったのである。

 「私は、キャシー。今はまだ10歳だけど、大きくなったら、
先生のお嫁さんになる予定なの。だから、私を大事にしておくと
あなたも色々と得よ」

 と、こう説明されては、さすがにカレンもあいた口が塞がらな
かった。
 ただ、そこは年上の女の子の貫禄で……

 「ありがとう。そうさせてもらいます」
 とだけ答えたのである。

 「キャシー、今日はフレデリックが見えないがどこにいる?」

 「ロベルト兄ちゃんは図書室でお勉強。フレデリック兄ちゃん
はお部屋でプラモ作ってる」

 「二人とも呼んで来なさい」
 ブラウン先生はそう言ってキャシーを手放した。
 すると……

 「待っててね、すぐ呼んで来るから」
 彼女はそう言って、まるで飼い猫のような素早さで部屋を飛び
出して行ったのである。

*****************************

 キャシーがいなくなった部屋は急に静かに感じられた。
 最初から寝床に入っているリサに続き、サリーやパティーもオ
ネムになって子守のベスに引き取られていったし、マリアは大人
しく本を読んでいる。

 そんな部屋でカレンは探しものをしていた。

 「どうかしたかね?」
 ブラウン先生に尋ねられて、彼女の口から出たのはアンの名前
だった。

 「アンはここにはいないんですね」

 「アン?…ああ、彼女はコンクールが近いからね、ここに来て
遊んでる暇がないんだろう。………でも、昨日まで自信なさげに
弾いていたが、今日はとりわけ調子がいいみたいだ」

 「えっ!……」

 先生の言葉に、はっとして耳を澄ますと、遠くで弾くピアノの
音がカレンにも伝わる。

 「……………………」
 先生は夜の静寂(しじま)が伝える微かなピアノの音を拾って
いたが、そのうちに……

 「彼女、何か刺激を受けましたね。……きっと、そうです」
 先生は満足そうに目を輝かせた。

 そして……
 「……ん!?、……そうだ、ひょっとして……あなた、今日、
アンの処へ行きませんでしたか?」

 「えっ!?……ええ」
 カレンがおっかなびっくり答えると……

 「きっと、それです。抜群によくなってますから。……いえね、
彼女はもともと才能に恵まれた子なんです。ピアノだけじゃくて、
絵を描かせても、詩を作らせても、人並み以上なんですよ。……
ところが、器用貧乏とでもいうんでしょうか、意欲に乏しくてね、
ある程度できるようになると、それ以上を望まないんです。……
……あなた、あの子の前でピアノを弾いたでしょう?」

 「ええ、……でも、ほんのちょっとですけど」

 「それだ、やっぱりそれです。……そうですか。あなた、実に
いいことをしましたよ」

 ブラウン先生はご満悦だったが、カレンにはその意味がわから
なかった。

 「……でも……私はいつものように適当にピアノを叩いただけ
ですから……そもそも私はアンさんみたいな立派なピアノは弾け
ませんから……それは違うと思いますけど……」

 「そんなことはありません。もしも、彼女があなたのピアノを
聞いて何も感じないようなら、そもそもコンクールなど行っても
無意味ですし、私が与えた『天才』の称号も返してもらうことに
なります」

 「でも、コールドウェル先生は、私のピアノを聞いて『あなた
のとは全然違うわね』っておっしゃったんですよ」

 「……ええ、言うでしょうね。……昨日までの彼女は、確かに
『ショパンの作った曲を弾いてはいました』れど………それだけ
でしたからね。それって、あなたのピアノとは大違いなわけです」

 「?」

 「……でも、今の彼女は違いますよ。あなたのピアノを聞いて、
彼女、変わったんです」

 「?」

 「『ショパンの曲をアンが弾く』だけじゃ、聞いてる人に感動
なんて起きないんです。あくまで『アン弾くピアノがショパンの
曲だった』とならなければ聞いてる人は感動するんです。その事
をあの子はあなたのピアノで悟ったんですよ。……何しろ感受性
の鋭い子ですからね」

 「?」

 「わかりませんか?」
 ブラウン先生は得意の笑顔でカレンに微笑むが、カレンにして
みると、この二つ言葉はまったく同じ意味にしか感じられなかっ
たのである。

 「まあ、いいでしょう。あなたもそのうち自分の才能に気づく
時が来ますよ。……とにかく、アンは、それがわかる子なんです。
だから、天才なんですよ。コールドウェル先生も、天才の才能を
開花させようとして、色々、荒療治を試みられてたみたいですが、
これで、まずは一安心でしょう」

 「荒療治?」

 「ま、有り体に言えば『お仕置き』です………」

 ブラウン先生は、チャーミングな笑顔の前に人差し指を立てて
から話を続ける。

 「今回は、君がいたのならそこまではしなかったでしょうが、
あの先生、アンに集中心が欠けてる時は、雑念が入らないように
よく全裸にするんです」

 「ま……まさか……」

 カレンはあの時のわけを偶然知って驚く。そしてブラウン先生
といい、コールドウェル先生といい、何て残酷なことをするんだ
ろうと思うのだった。

 「天才というのは、往々にしてそれだけに秀でてるんじゃなく
て、他のことにも沢山の才能をもっていますからね。移り気な人
が多いんです。おかげで指導者は一つの事に集中させるのが大変
で…それで、色んな手立てを講じては、今やらなければならない
ことに集中させるんです」

 「それって、裸になるといいんですか?」

 「だって、その瞬間は恥ずかしいってことだけで、頭が埋まる
でしょう。あれやこれや考えられるより、よほど集中できますよ」

 ブラウン先生はこともなげに言い放つ。そして、こうも語るの
だった。

 「あの子がもっと幼い頃は、私の前でもよく裸になってピアノ
を弾いてたもんです。きっと、人畜無害と思われてたんでしょう」

 「そんなことありません。女の子だもん、そんなことされたら、
きっと傷ついてます」

 「そうですか?……でも、もしそれであの子が傷ついたのなら、
コールドウェル先生は二度とそんな馬鹿な事はしないと思います
よ」

 「……(だって、私の見てる前でも)………」
 
 「……いえね、本来ならあなたの前で可愛い愛弟子を裸に晒す
ようなことはしないはずなんですが…何しろ先生は、今、愛する
天才を一人世に送り出したくて必死なんですよ。だから、そんな
荒療治だってしかねないと思ったんですよ。でも、年寄りの取り
越し苦労だったようです」

 「…………」
 カレンは声が出ない。思わず『実は、それが……』と言おうと
して寸前で息を呑んだ。

 「とかく『天才』という名のつく石炭は、燃えにくいのが難点
なんですが、いったん火がつくと、もの凄い火力が出ますから、
指導者としては、多少の無理は押してでも、何とかしたいと思う
ものなんです」

 「ここにいる子供たちはみんな天才なんですか?」

 「いえ、いえ、そんな基準で育ててるつもりはありませんよ。
アンにいつてはたまたまピアノに才能があっただけですよ。……
ただ、一般的に言えることですけど、子供はみんな天才ですよ。
無限の可能性を持っています。あなたも、もちろんそうです」

 「私は……」
 カレンは頬を赤くする。お世辞と思っても、いつも褒めてくれ
るブラウン先生の言葉はやはり嬉しかったのだ。

 そこへ……

 「ねえ、先生。連れて来たよ」
 突然、甲高い声が響く。

*****************************

 キャシーが男の子二人の手を引いてカレンたちのいる居間へと
戻ってきた。

 すると、カレンの顔は、また別の意味で赤くなったのである。

 「さあ、ロベルト兄ちゃん、カレンにご挨拶して……」

 キャシーはさっそくロベルトをカレンに引き合わせると、この
場を取り仕切ってしまう。

 「はじめまして……カレン」
 「はじめまして、ロベルト」
 たどたどしいロベルトの言葉に、カレンの言葉もどこかぎこち
ない。

 二人出会いは本当は初めてではなかった。夕食の席でカレンは
ちらっとではあるがロベルトを見ていた。その時紹介されたのは
大人たちが中心で、子供たちにまで手が回らなかったから言葉は
かわさなかったが、確かにその場で彼を見ていた。………いや、
見つめていたのである。

 『背のすらっと高い子』として…『端整な顔立ちの子』として
…『涼よかな瞳の持ち主』としてカレンの記憶の中に残っていた
のだ。

 「さあ、フレデリックも……」
 キャシーの勧めでもう一人の男の子が姿を現す。ロベルトより
二つ年下の十一歳。しかし、彼はあまり、カレンに興味を示して
いない様子だった。

 どこかものぐさそうで、さも、仕方なくこの場にいるといった
感じで握手の手を伸ばしたのである。

 「はじめまして、フレデリック」
 カレンはそう言ってフレデリックの差し出した右手を握ったの
だが……

 「(えっ!?)」

 その手にはなにやら軟らかなこぶのようなものがあったので、
不思議に思っていると……フレデリックがその手を離した瞬間、
その軟らかなこぶもカレンについてきて……

 「ぎゃあ~~~」

 カレンは自らの手を広げた瞬間、けたたましい声と共にその場
にしゃがみこんでしまった。

 当然、誰の目もカレンに集まる。ブラウン先生も、慌てて駆け
寄るが……

 起きた変化はたった一つ。
 小さな青い蛙が一匹、床を跳ね回っているだけだったのである。

******************(2)******

第5章 / §1 ブラウン家の食卓

           カレンのミサ曲

********** < 登場人物 > **********

(お話の主人公)
トーマス・ブラウン
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。

(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘

<使用人>
ニーナ・スミス
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品
ベス
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム
……カレンの前のピアニスト

<里子たち>
リサ
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アン
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
ロベルト
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。

<先生たち>
ヒギンズ先生
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。

****************************

< この項では『お仕置き』の記述がありません。あしからず、
ご了承くださいませ m(__)m >

第5章 ブラウン家の食卓

§1 ブラウン家の食卓

 その日、カレンは食事に招待された。

 『招待』という言葉は、少し大仰に聞こえるかもしれないが、
ブラウン先生は本来爵位のある家の出であるため、実家の習慣を
そのまま引き継いで食事をする場合は、たとえご自分のお子さん
でもテーブルマナーもおぼつかないような歳の子供たちとは同じ
テーブルを囲みまないのが普通で、芸術的なあるいは知的な仕事
をするために雇っている家庭教師のような場合でも、主人が招か
ないのなら、その席に着くのが当然ではなかった。
 招待が必要だったのである。

 日本の旧家でも、昔は当主と長男だけが他の家族とは別の部屋
で食事をし、そこの奥さんのお給仕で食事をしていたらしいので、
それと同じ感覚なのだろう。

 ちなみに、こうした身分のある人たちにとっての夕食は家族の
社交場。日常的な食事でもそれなりに衣服をあらためて席に着く
のが当然のしきたりだった。

 「えっ、こんな立派な服を…私が着るんですか?……今日は、
何かあるんですか?」
 女中のアンナが用意したドレスに袖を通したカレンは驚く。

 カレンは本来ベルギー人だが、生まれも育ちもざっくばらんな
アフリカ、ニジェール育ち。服をあらためて食事をしたことなど
なかったのである。

 「何もありゃしませんよ。だけど、ご主人様からお食事に招か
れたんですよ。あなただって、ドレスアップしなきゃ失礼ですよ。
あなただって、そのくらいの常識はあるでしょう」

 「それは……」

 カレンはこの時になって初めて、自分がこの家では女中の身分
でない事を実感したのだった。

 「でも……わたし……テーブルマナーとか……」

 カレンがアンナから着付けを手伝ってもらううち、苦しい胸の
内を語ると、彼女は明るく笑ってこう切り返す。

 「大丈夫ですよ。そんなこと。先生はそんなこと咎めないから
……何なら、手づかみでもいいのよ」

 「えっ……」

 「食卓に行ってみればわかるけど、あそこにはそんな人たちが
たくさん来るもの」

 「まさか……」

 「ホントよ。リサなんて、自分で何か食べる時はたいてい手づ
かみよ」

 「リサって……たしか……まだ、二歳の赤ちゃんじゃ……」

 「そう、その子よ。あの先生は変わり者でね、テーブルマナー
もわきまえないような子がなぜか大好きなの。とにかく、みんな
で一緒に食事をなさりたがるの。この間もサリーが先生のお膝の
上でお漏らしたけど、先生、別段怒らなかったわ。……何なら、
あなたもやってみる?」

 「…………」

 「だからさ、ここではかしこまることなんて何もないわ。素の
ままの自分でいいの。先生は貴族のお家柄だけど、堅苦しい事は
お嫌いだもの。いつぞやはリサのオムツまで取り替えようとなさ
って……さすがに『それだけはおやめください』って、こちらが
必死に止めたくらいよ」

 「お子さんがお好きなんでね」

 「昔、戦争に行って鼠径部を負傷されたとかで、お子さんには
恵まれなかったみたい。それで、奥様がご存命中から里子を引き
取って育てられてたけど、今は、むしろその頃より増えてるわね。
……………さあ、できたわ」

 カレンはアンナから腰をひとつ叩かれて送り出された。

****************************

 カレンが恐る恐る食堂に入っていくと、そこには大きな一枚板
のテーブル、蜀台、硬い座面の背もたれ椅子が並んでいる。

 すでに半数ほどの椅子には主がいて、見知った顔も見知らぬ顔
もいる。

 豪華な調度品のようなものはなく、飾りらしい飾りはないが、
周囲の壁には子供達の笑顔の写真や似顔絵がまるで聖人を祀る様
に飾られ、上座の奥には大きな聖母子の油絵が一枚だけ掲げられ
ている。
 とてもシンプルで質素な造りはまるで修道院の食堂のようだ。

 見なれない顔に怯え、聞きなれない声にがおどおどしていると、
上座の奥から聞き覚えのある声がした。

 「おう、カレンが来ましたよ」

 この部屋の一番の上座、聖母子の真下に陣取っていたブラウン
先生が上機嫌でカレンを迎え入れる。
 この時はすでに、ラルフやコールドウェル先生、そしてアンも
やはり盛装してそこに座っていた。

 「お招き、ありがとうございます」

 カレンは、見よう見まねでスカートを両手で摘んでひざを軽く
折って挨拶する。

 「美しいですね。あなた、エプロンドレスも素敵ですが、こう
した衣装も晴れますね。アンナですね。やはり、女性は、女性が
見立てないないといけませんね」

 ブラウン先生はさも満足した様子でしばしカレンを眺めていた
が、そのうち……

 「さあさあ、ここがいいですよ。私の隣へお座りなさいな」

 ご自分の隣りの椅子を指名してカレンを座らせ、いつもの調子
で尋ね始めるのだった。

 「村の様子はどうでしたか?」

 「まだ、そこまでは…山荘をラルフさんに案内されただけです
から……」

 「どうですか?いいところでしょう。あなたもきっと気に入る
と思いますよ」

 「あのう、私はここでどのように暮らせばいいんでしょう?」

 「どのように、とは?」

 「どのようなお仕事をすれば……」

 「そうですねえ。当面は自由にしていればいいんですよ。……
あなたは私の大事なお客さんなんですから……できれば私の寝間
でピアノを弾いて欲しいとは思ってますが、それも義務ではあり
ません」

 「えっ……」

 「いやですか?」

 「いやだなんて……」

 「だったらそうしてくださいな。……仕事はおいおい出てくる
でしょうから」

 先生は笑顔を絶やさない。しかしカレンにしてみれば、あまり
にも結構すぎて、むしろ不安になっていたのである。
 そんな曇り顔の少女の胸のうちを察したのだろう。先生はこう
も続ける。

 「ただ、心配なこともあるんですよ」

 「えっ……」

 「あなたには才能がある。それは誰もが認めるところでしょう。
……が、しかし、いかんせんあなたはまだ若い。だから、すべて
において経験不足だ。そこで、私としてはここにいる間に色んな
経験を積んで欲しいんです」

 「……けいけん」

 「そうです。……つまり……その、何て言うか、有り体に言う
とですね、ここにいる子供たちと同じように、あなたにも教育を
受けて欲しいのです」

 先生は少し言いにくそうにはにかんだ。年齢的には学校を卒業
していておかしくないカレンに、生徒に戻れと言っているだから
先生としてもそこは恐縮したのである。

 「もちろん、歳相応の配慮はしますよ」

 「…………」
 先生のお話にカレンは戸惑った。

 『てっきり女中として連れてこられたとばかり思っていたこの
地で、生徒として暮らすというのはどういう事だろう?』
 カレンに先の事などまったく分からない。

 しばし、考えたあとで……

 「それって、ここの子供たちと同じ立場ということでしょうか」
 と、尋ねてみると……

 「まあ、立場は似たようなものかもしれませんね。使用人では
ないですし、かといって教師というわけでもありませんから……
ただ、君はここでは一番の上のお姉さんになるわけですからね。
仕付けられる方じゃなくて、お姉さんとして下の子たちの面倒も
みてくれるとありがたいんですよ」

 カレンは先生のこの言葉で、おぼろげながらもここでの自分の
立場を把握できた気がしたのである。

 「先生、こっち向いて」

 突然、聞き覚えのある声が……
 気がつくと、いつの間にかキャシーが先生の膝に乗って遊んで
いる。それは、自分の部屋に置いてある大きなぬいぐるみに戯れ
て、独り遊びをしているようだ。

 『いつもは、先生と、こんな関係なんだ』
 カレンは思った。

 キャシーは先生に単に抱きつくだけではない。先生がカレンと
話し合っている最中も、その膝の上でお尻を浮かして飛び跳ねた
り、先生の大きな右手を自らの両手で頭の上まで持ち上げ、自分
で自分の頭をなでなでして……

 「良い子、良い子」
 まるでで呪文のように繰り返している。

 もちろん、今はちゃんとパンツを穿いてはいるが、激しく膝の
上ではしゃぎ回るから、短いスカートが擦れて、たまにパンツが
丸見えになっていた。

 ただ、彼女がそれを気にしている風もないし、先生もまたこの
まとわりつく竜巻を気にしていなかった。

 その光景は無邪気そのものだったのである。

 「ほら、キャシー、今日は君の順番じゃないだろう」

 見かねたウルフが、キャシーの両脇を抱えてその身体をごぼう
抜きにする。

 「さあ、キャシー、今日は僕の席でご飯を食べよう」

 ラルフはこう言ってキャシーを連れ去ろうとしたが……

 「いやよ、絶対にいや。下りる。私、降りるの!」

 彼女が身体全体を使って抵抗したために、ラルフは、仕方なく
その場に下ろしてしまう。

 「私、カレンお姉ちゃんのところがいい」

 突然、こんな我がままを言い出したのだ。

 「ねえ、いいでしょう。ここで……」

 キャシーはブラウン先生のズボンを引っ張った。
 そこには今日の主賓であるパティーが、すでに先生のお膝の上
に座っている。

 パティーはキャシーより2つ下の女の子。しかし、それより何
より彼女は先生のお膝の上でも、まるでお人形さんのようにおと
なしいのだ。
 そんな彼女をブラウン先生はまるで台風の嵐から守るかのよう
にして愛おしそうに抱きしめている。

 「わかった、キャシー、なら、好きにしなさい。そのかわり、
お行儀よく食事するんだよ。お姉様のドレスを汚さないように」

 話が決まると、キャシーはさっそく自分専用に作られた椅子を
自ら運んできた。

 テーブルの高さは変えられないから幼い子供たちはそれぞれに
自分の身長にあわせた椅子を持っているのだ。
 お父様のお膝をお椅子として食事ができるのは、10歳以下の
子どもたちだけの特権。しかもそれが行使できるのは数日に一度
だけだった。

 「今日の糧をお与えくださった主に感謝します」

 ブラウン先生の声に唱和してテーブルを囲む全員がお祈りの声
を上げて、食事は始まる。

 コールドウェル先生が一人食卓から離れてピアノを弾くなか、
あらためて見渡せば、先生のお膝からあぶれた幼子たちも、例え
ばラルフだつたり、お姉さんであるアンだったりが、やはり自分
の側にその子たちを置いて世話を焼いているのだ。

 こんな光景、前にいたサンダース家では見たことがなかった。

 大人の社交場でもある夕餉の席に幼い子供が入り込むこと自体
他家なら許されないことだろう。

 そんなことに目を丸くしていると、涎掛けを自分で身につけた
キャシーがさっそくカレンに注文を出す。

 「ローストチキンとって……ライ麦パンとピクルスも……」

 矢継ぎ早の注文。カレンは戸惑いながらもラルフやアンの様子
を観察しながら、自分も同じように前に並んだ料理を取り分けて
やる。

 キャシーの前にあった空の皿は、たちまちたくさんのご馳走で
山盛りになっていくが、カレンの仕事はそれだけではなかった。

 キャシーがいきなりカレンの鼻先へスプーンを持ってくるから
『何事なのか?』と思っていたら……
 どうやら、これでスープを飲ませて欲しいという事らしかった。

 「(呆れた、あなた、もう赤ちゃんじゃないでしょう)」

 カレンは当初そう思ったが、助けを求めた当の先生自身がそう
やって膝の上のパティーに食事をさせている。
 ラルフもアンも同じことをしているのだから、自分だけが拒否
もできなかった。

 「(仕方がない。やってやるか)」

 離乳食を頬張る赤ん坊のようにキャシーは満足した笑顔だが、
彼女の欲求はそれではおさまらない。

 一通り食い散らかした彼女は……

 「だっこ」

 今度は、そう言って両手をカレンの方へ突き出したのである。

 もう、やけ……
 「はいはい、赤ちゃん、抱っこしてほしいのね」
ため息交じりにそう言ってキャシーを抱こうとした時だった。

 「キャシー、今日は抱っこはできませんよ。カレンのドレスが
皺くちゃになっちゃいますからね。我慢しなさい」

 ここへきて、ブラウン先生が初めて助け舟を出してくれたのだ。
が、それにしてもブラウン家は幼い子に対しては凄まじいほどの
甘やかしぶりだったのである。

 最後にデザートが運ばれてきた。

 「アイスがいい」

 デザートのアイスクリームも、当然、カレンがひと匙(さじ)
ひと匙すくってキャシーの口元へはこんでやる。

 「おいちい?」
 カレンがわざと幼児語で尋ねると、
 「うん」
 キャシーは満面の笑顔だ。

 こんなことをしているから、カレン自身はあまり食事ができな
かった。

 「(あ~あ、食べそびれちゃったわね)」
 下げられていく食器を見送りながらそう思った時だった。

 「えっ!どういうこと?」

 チビちゃんたちが去った食卓に、今度はまた新たな料理が運ば
れ始めたのである。

 実は、これからが大人の時間。
 そして、ここからは11歳以上の子供たちも加わって、正式な
夕食会となるのだった。

 「どうしました、カレン?浮かない顔をして……そういえば、
あなた、さっきからしきりに子どものご飯を食べてましたけど、
そんなにお腹がすいてたんですか?」

 「いえ……そういうわけじゃ……」
 カレンの頬が思わず赤くなる。

 「あなたが先日まで勤めていたお家は、人手がたくさんにおあ
りだったでしょうけど……我が家は小さい子が多いわりに人手が
あまりありませんからね。手のあいてる人が子供のお給仕をする
決まりなんですよ」

 ブラウン先生の言葉にカレンはばつが悪そうに下を向いてしま
うが……そんなカレンをラルフがフォローする。

 「先生、ダメですよ。カレンにはちゃんと、食事の手順を説明
してやらないと。うちの常識は、世間の非常識なんですから…」

 ラルフの噛み付きにも先生は鷹揚だ。

 「カレン。あなた、さっきの食事でお腹一杯なら、次は、手を
つけなくてもいいんですよ。どうせ、次もお酒以外は、さっきの
料理とそう大差ありませんから。うちは幼い子も大人も同じもの
を食べますから……」

 「いえ、まだそんなには、いただいてませんから、大丈夫です」
 カレンはたどたどしく答えた。

 「私は第一次世界大戦で負傷しましてね。その時、極東の島国
で捕虜になっていたことがあるんです。不幸な出来事でしたけど、
彼らはとても親切でしたし、何よりそこで見た彼らの家庭生活が
忘れられなくて、ここではそれを真似してるんですよ」

 「ニッポンですか?」

 「ほう、カレン、あなたよく知ってますね。そうですよ。日本
です。そこの母親というのは、我が子に対して信じられないほど
献身的でしてね。かなり身分のある家でも、他の家族と一緒に、
幼い子が食事をするんですよ。私などは『おはようございます』
と『おやすみなさい』以外には親の顔を見ませんでしたからね、
びっくりでしたよ」

 「そうなんですか」
 カレンは先生の言葉を聞くと少しほっとしたような顔になった。

 「………さてと、もうそろそろ始めましょうか」

 先生は、そこまで言うと、気がついたように手を叩いてざわつ
いた場を沈める。
 そして、起立して、カレンをこの家の人たちに紹介してくれた
のである。

 「ミス・アンダーソンは、これまでサー・アランの館で客人と
して暮らしておりましたが、このたび、私のたっての願いをサー
・アランがお聞き入れくださった結果、我が家で住まう事となり
ました。これからは、我が家の一員としてお付き合いください」

 ブラウン先生の言葉にここに集まったすべての人たちが拍手を
惜しまない。
 しかし、そんな中、カレンだけ、目が点になった。
 そして、どきまぎと乱れる心を抑えきれぬまま、先生に小声で
相談したのである。

 「先生、……私、サー・アランの処では女中だったんです」

 すると、先生は正面を向いたまま、拍手を休まず、柔和な笑顔
のままで……

 「あなたは正直ですね。私はそんなあなたが好きですよ。でも、
いいじゃないですか。そういうことにしておきましょうよ。女性
は多少なりとも秘密があった方が魅力的ですよ。……さあ、……
ご挨拶して……」

 「でも、私、何て言っていいのか……」

 「『よろしく、お願いします』で、いいんですよ。それでだけ
言えば十分です」

 「はい、わかりました」

 ブラウン先生に促され、押し出されるように席を立ったカレン
は、当初、型どおりの簡単な挨拶で済ませる予定だったのだが、
ひとたび開いた彼女の口は、その生い立ちまでもを語り始め……

 やがて、その時テーブルに着いていた多くの人たちから、ブラ
ウン先生以上の拍手を引き出してしまう。

 これにはブラウン先生もびっくり。

 そう、彼女がピアノを弾く時と同じように……譜面のないその
メロディーに、原稿のないその声に、語りに、この場の人たちは
感動したのだった。

*******************(1)*****

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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