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(1/6)      三丁目の夕日

(1/6)      三丁目の夕日

 作者は西岸良平さんって言ったかなあ、三丁目の夕日ってマンガ
があった。昭和30年代頃の東京下町の様子をそこはかとないペー
ソスをまじえて描いてた。その時代を知る者にとっては「なるほど」
って頷けることの多い作品だった。

 確かにあの時代は物には恵まれていなかったが、誰もが今よりヒ
ューマンでいられたような気がする。

 今は……
 ある意味あの時代より人間が上質になった。街中で大声を出す酔
っぱらいや些細な事で喧嘩をしかける輩を最近はあまり見ない。
 それだけ人間が落ち着いてきたというかお上品にはなってきた。
別の見方をすれば、住み良くなったともいえる。

 そんなことをヒューマンって言うなら、今は昔に比べヒューマニ
ティーが上がったと言える。
 でも、僕は昔の人たちが今より粗野で下品でヒューマニティーが
なかったなんて思っていない。

 なぜなら、今振り返っても他人から得た教訓というのは今よりあ
の時代の方がはるかに豊富だったような気がするからだ。

 愚直で、不器用で、感情の起伏が激しく気の利いたことの一つも
言えない人間は今の世に現れると厄介者扱いされるかもしれない
が、見方を変えれば、これほど誠実で、一途で、率直に話し合える
人間もいないわけで、実際、これらの人々は驚くほど人間観察が優
れていた。

 学歴も教養もないこれらの人たちは、しかし、驚くほど愛や仕事
や社会の仕組みについて本質的なことが何かをかぎ分けていたの
である。

 知識としてではなく知恵として授かったそれらのものは今でも私
の心の中で一つの真理として体系づけられ生き続けている。

 かくいう私は、その年代、まだ子供だったから、偉そうなことを
言ってはいけないかもしれないが、上品になった日本人が疎ましく
眺める今の中国人を見ていると、「そうだ、日本人も昔はあんな人
たちだったなあ」と感じてしまう。そんな感慨は私だけだろうか。

 西岸さんの世界は確かに美しいが、そこに暮らしていた人たちの
現実は、そんなに美しい事ばかりではなかったと思うのである。


灯台<小>
注)写真はこの記事とは関係ありません。



(1/7)        炭坑町

(1/7)        炭坑町

 私が幼年期を過ごした街は炭坑で栄えた町だった。当時はすでに
斜陽産業だったが、それでもつい最近まで栄華を誇っていた名残か
らか、公共施設も近隣の町に比べて充実していたし、教育のレベル
も高かった。

 一般には、山の町なんて言うと住んでる人たちは粗野な荒くれ者
ばかりと思われているようだが、私の感性では炭坑夫と呼ばれる人
たちも話をするとその多くがごく普通の常識人だ。
 ただ母親はこうした人達を一ランク下の人間と見下している風が
あって、それらの人たちが住む社宅へは私を近づけたがらなかった。

 実は、山の町と言っても、そこに住むのは何も炭坑夫ばかりでは
ない。山には色んな技術者もいるし、街には小金を貯めた商店主が
コンサートや美術展、講演会などをしきりに開いている。行き来す
る文人や教養人だってそりゃあ近隣の農村の比ではなかった。

 私の家もそうした町の発展に魅せられて移り住んだ質屋だったの
だ。家の周囲にはパチンコ屋や映画館、酒屋も繁盛していた。都会
の歓楽街というほどではないが田舎町の中ではここが中心地。我が
家にも多くの炭坑夫が大勢金策に訪れていた。

 私はその質屋の帳場越しに色んな人間を観察していたのだった。
 凄んでみたり泣いてみたり、卒倒するパフォーマンスだってある。
みな手持ちの二束三文の質草で1円で多くお金を借りてやろうと必
死なのだ。
 今のようにまだサラ金なんてものがない時代。質屋は庶民が安直
に金策できる金融機関だった。

 「赤ん坊のミルク代が……」「給食費が払えなくて……」「明日の
米が……」なんてのは常套句で、その迫真の演技はプロの役者も顔
負けである。ただ、暖簾をくぐって一歩表へ出れば、可愛い我が子
はまぶたの奥へと消え去り、向かいの立ち飲み酒場へ直行、景気を
つけてから遊郭へという姿が見えてくる。

 お人好しの父はこうした人たちにせがまれると弱く、小芝居役者
の無理難題をよく聞いていた。

 そんな訳で、「こいつは金蔓の倅だから……」という事もあるの
だろうか、店の前で遊んでいるとちょくちょく見知らぬ大人から声
を掛けられては遊んでもらっていた。今なら何か下心がありそうで、
警察に通報されそうな気配だが、娯楽の少ないこの時代にあっては
子供と遊び暮らす大人だって珍しくなかったのである。

 もちろん下心までは分からないが、実際に犯罪に巻き込まれた
ことなどなかったし近隣でそんな話も聞かなかった。むしろ、彼ら
と交っていると、彼らがことのほか人間というもの洞察力に優れて
いると人たちだと、大人になってから気づかされるのだった。


電車<黄色>

注)この写真は記事とは何の関係もありません。

(1/8)     バス営業所(1)

(1/8)     バス営業所(1)

 私は幼稚園時代からもっぱらバス通学(通園)だった。母親の気
位が高く近所の幼稚園では満足できなかったらしいのだが、通わさ
れていた当人にとっては何とも迷惑千番な話で、御陰で常に早起き
を強いられていた。

 夏場はともかく冬場などは家を出る時はまだ星が瞬いていた。
 その星を見上げながら歩き空が白々と空け始める頃、私は一軒の
東屋に着く。中にはいつも数人の男達がストーブを囲んで談笑して
いた。新聞を読みながら、お茶をすすりながら、家から持ってきた
弁当を突きながら、大笑いするでもなく、和やかな雰囲気が窓越し
に眺める私にもよくわかった。

 「おっ、坊主、来てたのか、入れ入れ」
 私を見つけるとこう言って招き入れてくれる。勝手に入り込んだ
りはしないが、その暖かさが好きで断ったことは一度もなかった。
 バスが出るまでのほんの数分の滞在でストーブにあたる以外何す
るわけでもない時間なのだが、忙しい私にとっては貴重な安らぎの
場だった。

 私が覗き込んでいたこの施設、バス会社の営業所(というか折り
返し所に付属する詰め所)で、本来ここにバス停はなく一般の乗客
はここから200米ほど離れた起終点となるバス停で待っていなけ
ればならないのだが、私の場合は母の口利きで特別にここから乗せ
てもらっていた。

 今はそんなこと菓子折一つで頼んでも応じてくれないだろうが、
当時はそのあたり自己責任で鷹揚に処理されていた。だからこの営
業所にたむろするメンバーが入れ替わっても私の存在はその後の人
たちに申し送られ、結局のところ幼稚園の時代から小学校の高学年
になるまでここが私専用のバス停兼休憩所になっていた。

 ついでに言うと、私は電車通学をしていたころ、電車の先頭にぶ
ら下げてある行き先案内板を車掌さんにねだって取り替えさせても
らったことがある。

 想像以上に重くて車掌さんが支えていなければ落としていたかも
しれなかった。

 子供の特権というやつか、今なら部外者を運転席に立ち入らせた
だけでクビだなんて言ってるくらいだから、当時は、実にのどかな
暮らしよい時代だったようだ。

 昔はこのように子どもにつき許されるということがたくさんあっ
たような気がする。逆に言うと大人の方も子どもにしてやれる事が
たくさんあって、それがまた大人の権威を高めてもいたのだ。

 今はやれ子供の権利がどうだこうだとうるさく議論するが、街で
大人と子供が触れあうことが極端に少なくなったような気がする。
『すべては自己責任で……』となぜ親の方も悟れないのだろうか、
 了見の狭さが悲しいね。


山への入口 <小>
注)写真はこの記事とは無関係です。


(1/9)      営業所(2)

(1/9)      営業所(2)

 私は見栄っ張りな母親のせいで幼稚園時代からバスや電車での
通学を余儀なくされていたが、それがその後の人生にプラスになっ
たかというと、惰性非才のためかそんな形跡は微塵もなく母親の
野望は単なるお金の無駄遣いに終わってしまう。

 ただその時代、私にとっては電車やバスに乗っていられる時間が
一日の中で最も楽しい時間だったから、将来はバスの車掌(当時は
電車と同じようにバスにも車掌さんが乗っていた)で暮らしたいと
心密かに考えていた。

 だからその日のために(?)とバスでの帰り道、終点近くになっ
て乗客が少なくなると、運転手さんや車掌さんにバスの構造や勤務
時間なんかをしきりに聞いてまわっては勉強していたのだ。言って
みればこれだけが母がお金と労力をかけて私に与えてくれた部分だ
った。

 もう小学校にあがる頃になると、営業所の諸君とはツーカーで、
詰め所に入りしな、「何だ、お前は…」なんて新米の車掌に吠えら
れると、こっちが睨み返したものである。
 だから、営業所に停まっているバスの運転席にデンと腰を下ろし
てクラクションを鳴らしてみるなんてことは一度や二度のことでは
なかった。

 そこで見た運転席の光景は今でも忘れないが、どんな高価なオモ
チャより輝いていた。

物のない時代のことだからね、当時のバスというのはどこか壊れ
てもすぐにその製造メーカーの部品が手に入るわけではないんだ。
あちらこちらから部品をかき集めては修理しているんだ。おかげで、
各計器類や確認ランプ、方向指示器やワイパーなんかが、元々
製造したメーカーに関係なく、芸術的にくっついていた。

 不様という大人の見方もあるだろうが、少年の目にはこれが実に
ユニークに映ってね、もうそこに座っただけで心は宇宙飛行士気分
だったのである。゜+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゜

 おまけに、ある運転手さんなど営業所の敷地内だけとはいえ私を
膝の上に乗せてバスを動かしてくれたのだからこれはもうサービス
のしすぎかもしれない。\(゚▽゚)/

 もっともその後、彼が見返りを要求してきたので、それには快く
応じることにした。

 『え!?どういうことかって?』(*^_^*)

 つまり彼は僕の家(質屋)のお得意さんでね、最近、質物を高く
評価してくれないから、もっと高く貸すよう、お父さんに進言して
欲しいと言うんだ。

 男同士の約束だもん、効果があったかどうか疑問だけど、約束
は守ったよ。(^ニ^)


運転席 <FC>
注)写真は記事とは無関係です。

(1/10)     やりての豆腐屋

(1/10)     やりての豆腐屋

 私の家の近所に小さな豆腐屋さんがあった。豆腐屋と言っても製
造直売というのではない。お婆さんの家はささやかな自宅兼荷物置
き場があるだけで店と呼べるようなものはなく、別の豆腐屋さんか
ら商品を仕入れて売る委託販売なのだが、ご近所はどこもこのお婆
さんがリアカーに乗せて売りに来る豆腐を買っていた。

 化粧っ気もなく顔中しわくちゃで子供の私にしてみればどこにで
もいそうな老婆なのだが、私の母親も含めご近所のおかみさんたち
の間ではたいそう受けの良い好人物と見えて食べるには困らない程
度の売れ行きだった。

 そんな豆腐屋さんを母親が、「あの人、昔はやりてだったから何
にしても話が面白いわ」などと言うので、私は『そうか、昔は商売
上手で大きな店を構えてたんだろうなあ』などと勝手に想像してい
たのだが、この「やりて」実は意味がまったく違っていたのである。

 母親の言う『やりて』というのは遊郭なんかで客をお女郎さんに
引き会わせる今で言うポン引きみたいな仕事のことで、売春防止法
が始まるまでは、もっぱらこれが本業だったというから、私が生ま
れた時はまだ現役だったのである。

 そう言われてみれば、彼女、外見からは何一つ色気と無縁なはず
なのに、話し始めるとどこか華やいだ雰囲気をその場の中に醸し出
していた。(後々素性がわかったからそう感じるだけなのかもしれ
ないが)

 いずれにしても、気位の高い母親が花柳界にいた彼女の存在を疎
ましく思っていなかったのは確かで、実は彼女の進言で、母が家の
習慣にしてしまったことがあって、これには正直、子どもたち一同
みんな大弱りだった。

 ある日、赤い字で印刷された病院からもらってくる薬袋のような物
がちゃぶ台に置いてあるから、『何だろう』と中を覗いていると、気が
ついた母が得意げに『これから悪い子にはこの艾でお灸をすえる
ことにしたから』と宣言したのだ。

 その瞬間、目が丸くなり絶句。(O_O)
 自分ではそれまで一度もやられたことのないお仕置きなのに、
一瞬にして背筋が凍り付いたのを覚えている。

 当時、子供が悪さをした時、お仕置きとしてお灸をすえる家は珍
しくなく、身体検査の時なんかその痕がケロイド状に光っている子
がけっこう見かけられたのだ。だから友だちの家へ遊びに行って、
たまたまそんなお仕置きに出くわすこともあるわけで、そのあまり
の悲惨さから『これはただごとではない』と、多くの子供たちがその
恐ろしさを悟っていたのだった。

 私の子供時代、私の田舎ではたとえ親にやられなくても、お灸は
究極のお仕置き。怖い怖い出来事だったのである。


超狭軌道 <小>
*)写真は記事とは関係ありません。

(1/11)        お灸

(1/11)        お灸

 今はもうある程度の年輩者でなければあの熱さは覚えていないだ
ろうが、お灸のお仕置きというのは、それ自体一種の虐待で、豆腐
屋のお婆さんが言うように一度やられただけでも生涯忘れられない
ほどのショックだった。
 とにかくこのお仕置き、熱いというのを通り越して痛いというの
が実感ですえられた処に穴が空くんじゃないかと心配するほどだっ
たのである。

 だから、母の「そんなことしてるとお灸にしますよ」という一言
で大概のことは白旗をあげることになる。まさに一罰百戒の効果あ
りというわけだ。

 もっとも、これも人によるらしく、私は従順で扱いやすいタイプ
の子供だったから、一度で懲りて二度とお灸のお世話にならなかっ
たが、弟は肝っ玉が据わっていたとみえて、親の折檻も二度三度と
続き、とうとうケロイド状の痕がお尻やお臍の下にまで残ってしま
った。
 本人がそのことを気にしている風がないのが幸いだが、女の子と
なると、やはりそこは親も気にして男の子と同じようにあたりかま
わずお灸をすえることはなかった。刑を執行する時も、なるべく目
立たぬ処へ艾も小さいもので間に合わすというのが普通だったよう
である。

 とはいえ、女の子にだってこの体罰が存在したのも事実。今では
驚きだろうが、子供の頃の私はそんな女の子たちの修羅場を幾度と
なく垣間見ている。なかにはわざわざ私を部屋に上げて見学させる
親さえあった。そんな社会風土だから家の中ではもっと過激なこと
が行われていたのかもしれなかったのだ。

 これはあくまで豆腐屋の婆さんが井戸端で話していたことだから
真意の程は分からないが、私の家の裏庭と庭続きになっているお宅
の一人娘(当時は小学四年)が女の子の最も大事な処にお灸をすえ
られたというのだ。その時は自分も行きがかりからその片棒を担い
でしまい気にしていたのだが、今はその痕も治ってほっとしている
という懺悔とも自慢話ともつかない事後報告を母にしにきていて、
それを私が立ち聞きしてしまったのである。

 実際、その家ではよく子供が親に叱られて泣き叫ぶ声が庭づたい
に我が家へも伝わってきていて、『それも、あながち……』と感じ
られたのである。
 もちろん我が家だって天国じゃない。さっき述べたお灸は仏壇の
引出しに常備してあったし、物差しで手足を叩いたり、納屋や押入
への閉じこめ、家から閉め出し、変わった処では、目的はあくまで
医療用だがお浣腸の際、過去の失敗をうじうじと蒸し返すなんての
まで。
 これなんか親しい関係だからできる親子の戯れみたいなものなん
だろうけど、今のように親子がうわべだけの愛情になってしまうと
「そんなの虐待じゃん」の一言で片づけられてしまう。寂しい限り
だ。

(1/12)     お仕置き指南

(1/12)     お仕置き指南

 この豆腐屋の婆さんは実に世話好き話し好きだった。学歴なんて
なかったがやりて時代に培った豊富な経験と知識は母を始めとする
当時の若妻たちには人気があって何かと知恵をつけてまわっていた
のである。

 お灸を子供のお仕置きに使ってみなさいとそそのかしたのも恐ら
く彼女に違いない。だから典子(仮名)ちゃんのお母さんをたきつ
けたのも恐らく……と思えるのだが、もちろん今となっては証拠の
ある話できない。

 実はこの婆さんの話には尾ひれがつくことが多く、そのあたりは
人として欠点とみるべきかもしれないが、そんなことは承知して、
母はこの婆さんとつき合っていた。

 そもそも女の井戸端会議というのは、常日頃から真実だけが語ら
れている場ではない。とりわけ私の田舎は多くの芸能人を輩出して
いることからもわかるように、虚実取り混ぜておもしろ可笑しくそ
の場を盛り上げることが友だちづきあいの条件で、たとえまことし
やかに話した内容が嘘で、その話に乗せられて損をしたとしても、
当人を責めないのが暗黙のルールとなっていた。つまり幼い頃から
芸能人になるべく訓練を積んでいたのである。

 まして婆さんはその昔遊郭の「やりて」だったわけで、男の心理
から色恋のテクニック、家事のやり方に至るまで、まだ人生経験の
浅い若妻たちを手玉にとることぐらいぞうさなかったに違いない。
 そんな彼女が足抜けをした遊女を折檻した時の話なんかはけっこ
う凄みがあって私がその後SM小説なぞを戯れに書いたときのネタ
本になっている。
どうやら典子ちゃんもそんな婆さんの術中にはまって悲劇をみたよ
うだった。

 それはともかく、この時代の親というのは典子ちゃんに限らず女
の子でも平気でなぐっていた。子供が多かったせいもあるだろうが、
夕暮れ時に町内を一周すると親の罵声と子供の泣き声が必ずセット
で聞こえてきたものだ。

 しかし、私はその時代を子供として生きて感じるのだが、当時の
親が今の親より子供を可愛がっていないとは思っていない。時代が
違うし価値観だって違うから一概に比較はできないが、少なくとも
その子を家族の一員として処遇していた点では今の親より優れてい
たと思うのだ。

 多くの子供が家の経済事情を知っていたし、綺麗事抜きに誰もが
ヒーローになれない現実も悟っていた。父親は強く、まずはその壁
を乗り越えなければ何事も始まらないことも承知していた。
 ペットならいずれも不要な素養だが。

(1/13)       軽便鉄道

(1/13)       軽便鉄道

 今はもう駅舎も線路も鉄橋も跡形すら残っていないが、私が子供
の頃まで街のはずれには軽便鉄道が走っていた。単行(一両編成)
の小さな電車で、朝夕を除けば車内はいつもガラガラ。緑豊かな田
園風景をトコトコと走る姿は私のお気に入りだった。

 私は子供の頃から不思議な少年で、何でも古いものが好みだった。
電車は新幹線よりローカル列車、飛行機もジェットよりプロペラ、
バスだって新型車両が来ると次を待って来年廃車と決まったポンコ
ツを選んで乗っていた。
 この軽便鉄道もピカピカの新造車両が走っていたら、たいして興
味がわかなかったに違いない。

 私は一週間分の小遣いを貯めると、日曜日はこの電車に乗って過
ごした。母には半ば住み込んで家事をしていたおばあさんの実家が
その沿線にあったからそこを尋ねるという大義名分を掲げて出かけ
ていたが、その実、おばあさんの家へ立ち寄ることはあまりなくて、
お気に入りの電車に乗ってお気に入りの場所に降り立ちお気に入り
の夕焼けを眺められればそれで満足だったように思う。

 おばあさんの家へ寄らないのは、彼女が嫌いだったからではなく、
行けば長い時間そこで足止めをくってしまうからで、私にしてみれ
ば小さなボタ山から眺める田園風景、とりわけ藁葺き屋根の向こう
に落ちる夕日が美しくて、何も考えずごつごつと寝心地の悪い山の
上で帰りの電車が来るまで何もせず寝ていた。
 私にとっての軽便鉄道はこれもまた癒しの旅だったのである。

 子供にしては随分すがれた趣味と思われるかもしれない。
 たしかに、私はどうも子供らしいはつらつさに欠けるところがあ
ったようで同年代の子供と遊ぶより、少し上の世代と一緒に過ごす
時間が長かったし、それが大人でも老人でも私的には何ら差し支え
なかった。
 もちろん相手方にしてみれば小うるさいチビ助につきまとわれて
迷惑千番だろうが、そんなことも含めて私はこうした目上の人たち
に取り入るすべを自然と身につけていったような気がする。

 とにかく、直情的で無礼な振る舞いの多い同年代より、理性豊か
で自分の知らない事をあれこれ教えてくれる年上の方がそばにいて
心地よかったのは事実で、それが叶わない時に訪れるのがこの軽
便鉄道、そしてこのボタ山だったのである。

(1/14)       母親

(1/14)       母親

 前にも一言述べたが、私の母親は大変に気位の高い人で、人を見
下すようなところがあって子供ながらいつも心配していた。本人に
悪気はないのだが、戦前は今以上に身分社会が色濃く残っていた
から、家の格だとか男女の役割の違いといったものが今以上にうる
さかったように思う。
私がバス通学を強いられたのも、教育熱心というより家の格から
してそこらの子供と同じ学校ではおかしいという思いがあったから
に違いなかった。

 こう言うと、母が何だか世間知らずで周囲から孤立していたよう
に聞こえるかもしれないが、実は彼女、気位が高い反面、仕事には
熱心で、娘時代にこなした習いごとのつてを頼ってその稽古場など
で流通品の展示即売会などを開いては家計を助けていたのである。
 そんな時の母は普段の気位もどこへやら『私は根っからの商売人
でございます』と言わんばかりに愛想をふりまく。決して媚びては
いないのだが、一度掴んだ客は逃がさなかった。

 もっとも母の頑張りには、父親がお人好しで商売に不向きという
我が家の特殊事情もあった。おかげで父は母にまったく頭が上がら
ずじまいで、巷では「あそこのご主人は婿養子かしら」なんて囁か
れていた。

 そんな事情もあってか母は自分が稼いだお金を自由に使い生活を
エンジョイしていた。もともと家事らしい家事は何一つできない人
だから稼いだお金でお手伝いさんや子守さんを雇い、余ったお金は
自分の衣装や子供たちの教育費へと消えていったのである。

 遠足のお弁当にしても、運動会の玉入れ用のお手玉作りも、図工
の時間に着る割烹着だって、我が家においては、すべてはハツさん
(お手伝いさん)の作品なのだ。それを「お母さんはお裁縫が上手
なのね」なんて事情を知らない人に褒められると、私の方がどこか
気恥ずかしい気分になるのだった。

 しかし、母にそんなことを話してみても気にとめている風はさら
さらなく、たまにケーキ作りなどに挑戦したこともあったが、普段
の家事さえまともにできない人にできるわけがなくそれを冷やかす
と、「そんなの商売にしてる人がやればいいのよ。人は向き向きの
仕事をすればいいの」と言ってはばからなかったのである。

 結婚してもどこか娘っぽいところがあった人で、衣装は子ども達
の分も含めデザイナーにデザイン画を送ってオリジナルの一点物で
揃え、スリッパのある暮らしがしたいと言って純然たる日本家屋を
改築して不思議な洋間を増築したりもした。
 今なら何でもない事も当時はひんしゅくものということも多くて
ご近所の奥さんたちからは「まるで娘さんみたい」と陰口を叩かれ
ていたのだが、生来の向こう気の強さと明るさで乗り切っていた。

 ちなみに貯金なんてケチくさいこともしない人だったから家計は
いつも火の車で、実家から毎月のように借金をしていのは、幼い私
ですら知っていたことだった。

(1/15)       酒屋

(1/15)       酒屋

 私の家の近くに酒屋があった。純然たる酒類販売だけでなくカウ
ンターだけの一杯飲み屋も兼ねていたから、日が暮れてからは男た
ちの歓声や癇癪やざれ歌なんかが店の外まで飛び出し店内は酒臭
くてそりゃあ賑やかだった。

 賑やかというより猥雑だったというべきかもしれない。けれど、
不思議に母はこの店へ私が足を踏み入れる事にはそれほどヒステリ
ックではなかった。
普段の彼女の言動からするとこういった処へ子供、それも幼稚園児
が出入りすることを快く思うはずないのだが、ここの酒屋がご近所
で、奥さんが友だちで、何より商売上のお得様ということがあった
のだろう。さしてためらいもせずに父の寝酒を買ってくるよう私に
命じることが多々あった。

 幼稚園児に一升瓶は重くよたよたして帰りかけると、酔った男達
が酒のつまみ代わりに私に声をかけてくる。たいてい無視するのだ
が、その日はなぜか心地よさそうに酔っているおじさんの懐へ飛び
込んでしまった。
 意外な珍客におじさんは自分で誘っておいて一瞬驚いた様子だっ
たが私が愛想良くしているとご機嫌になって、周囲の友だちと一緒
にしきりに自分の呑んでいた酒を勧めるのだ。

 そして、そのコップに残った僅かなお酒を舐めてみると、これが
けっこういけるのである。
 「お~、おまえいける口だな。よし、もう一杯いこう」
 おじさんはさらに機嫌がよくなって今度は一㎝ほど注いでくれ
る。
 で、これを飲み干すと次は二㎝。さらにその次は三㎝とメートル
が次第次第に上がっていく。が、なにせ相手は幼稚園児だから酔い
つぶすのに時間はかからなかった。
 しまいにはすっかりできあがってしまいその場に立っていられな
くなって店の土間で大の字になってしまった。天井はぐるぐる回っ
ていたが何と心地の良いことかという快感だけは今でも心の奥底に
残っている。

 「あんたら何やってるんだ!」
 聞き覚えのある声を夢の彼方で聞きつけて、どうやらこの辺りで
店の主人が気がついたようで、急性アルコール中毒にはならずにす
んだが、これを聞いた父親の怒るまいことか、普段は家の中で借り
てきた猫のように存在感のない人が、この時ばかりはそのおじさん
の胸ぐらを掴んでなぐりかかろうとしたのだから、親とはありがた
い(かな?)ものである。

 今だってそんな居酒屋や一杯飲み屋は全国に五万とあるだろう
が、そんな場所も今ではみんなが大人しくなってしまったような気
がする。

(1/16)      酒屋2

(1/16)      酒屋2

 私の記憶にある昭和の30年代は誰もが自分の気持ちに素直に生
きていた。自分の気持ちに素直ってことは当然素直な気持ちを表現
された方が怒る場合だってあるわけで、今で言う「言葉の暴力」や
「セクシャルハラスメント」「幼児虐待」なんてのは今よりキツか
ったのも事実だ。

 そんな連中に夜はさらに酒が入るんだから事は大声だけではすま
なくなる。日ごと夜ごと街のどこかで喧嘩が繰り返され、流血の事
態なんてことも珍しくない。
 そんな時代をくぐってきた身としては、今は随分大人しくみんな
お酒を飲んでいるなあと思うのだ。

 子供の世界にしたってそうだ。今の子たちは、この爺様世代から
みるとどの子も大変なおぼっちゃまで、彼らの人間関係を覗いてい
ると時折笑ってしまう事に出くわす。何かというと分かったような
分からないような不思議な理屈で相手を説得しようと試みるから
だ。多分に親や教師やテレビの影響なんだろうが、爺様にしてみれ
ばあまり感心できることではない。

 平和理に物事が解決すればそれにこしたことはないだろうとの意
見が世の大半かもしれないが、それでは彼らが世の中に出てから困
ろうというものだ。

 事を平和理に……なんていえば聞こえはいいが、詰まるところ、
身の保身を願ってうずくまるってことだから、最初から負け犬志願
というわけだ。

 そんなものは大人になってから身につければ良いことで、子供の
間はもっと大きな自然の摂理を学ばなければならない。

 世の中は、強い者が弱い者を虐げ、虐げられた者たちは集団にな
って身を守る。強者も自分一人の力ではやれる事は限られるから、
より大きな力を求めて他人を使うことを覚える。そしてそれを維持
するために組織のルールができて人々は安定した生活を送れるよう
になるのだ。いずれにしても、統治の理屈は最後にやってくるもの。
痛みなくして平和は体現できないものなのだ。

 大切なことは、ガキ大将グループが力の序列から始まってやがて
ルールによって統治されていく過程を子供のうちに体現してみる事
だ。地位は別に大将でなくてもよい。たとえその他大勢でも、そこ
で観察し体験した人間関係が大人になって組織の中で活動する時
に生きてくるのだ。

 人との触れ合いを嫌い理屈やマニュアルといったエッセンスだけ
頭に入れておけば世の中が渡れると信じる頭でっかちな人間は、
ともすると底浅い教養を独善的に使い、周囲を困惑させては自分
だけが悦に入っていたりする。

 そんな狭い了見に縛られた組織は危うく、共産主義社会が崩壊
したのもこの為だ。そして今、子供たちを見ていると我々の時代に
もあったそうした病魔が確実に広がりを見せていると感じられるの
である。

(1/17)       映画館

(1/17)       映画館

 私の家の近くに古い映画館があった。いわゆる名画座というやつ
でロードショウなんて言葉とは無縁な映画館だった。
 便所は臭いし、椅子は狭いしぐらつくし、売店の菓子なんていっ
たいいつ仕入れたのかって思ってしまうようなしろものだった。

 学校が夏冬春の休暇時は必ず子供向けのアニメがかかっていて、
あれ30円か50円だったか、とにかくお安く楽しめたし、ちょい
と話題性のある映画が手に入った時なんかはそれをかけるけど、や
はり圧倒的に多かったのはポルノ。当時はまだピンク映画なんて言
ってたか、おばちゃんの艶めかしい姿を描いたポスターが後生大事
にガラスケースに入れられて張り出されていた。

 当時の私にとってそれはエロスというよりグロテスクな化け物の
ようなもので性的な興味の対象ではなかったのだが、見てみたいと
いう欲求に代わりはなく、ある日友だちと謀って、それをのぞき見
する計画をたてたのである。

 戦略はこうだ。その日の午前中までは学校がお休みということで
アニメがかけられているが、その日の夕方からはポルノへ切り替わ
る事になっていた。今はそんなことはないみたいだが、当時は一日
の途中で出し物が変わるなんて事はそう珍しいことではなかったの
である。
 そこで私と悪童二人は午前中アニメを見たあとポルノ映画が始ま
るまでは便所へと隠れておいて、ポルノをちょこっと見たら、その
まま入口を全速力で駆け抜けようというのだ。

 しかし、10分や20分ならいざ知らずポルノ映画が始まるまで
は四時間。
便所といっても掃除用具をしまう物置みたいな処だから、臭いし、
暗いし、何より小学生にとってそんな長い時間は退屈でならなかっ
た。

 というわけで、二時間後甲高い声が劇場中に響き渡りおやじさん
に見つかりそうになる。その時は窮余の一策、隠れていた物置の板
塀を蹴破って外に出て難を免れたのだが……
 よせばいいのに一時間後自分たちが蹴破った板塀の処からもとの
物置へと舞い戻ってしまう。そりゃあ見つかるだろうという知恵は
当時の小学生にはなかった。

 でも館主のおじさんがいい人で蹴破った板塀の修理を手伝うと、
10分だけピンク映画を見せてくれた。そこはエロスとは関係ない
部分なのだが、大いに興奮したのを覚えている。そしてまだ五分と
立たないうちに映画館の入口を三人で猛ダッシュ。近くの児童公園
まで駆け抜けた。つまり成功したわけだ。

 それにしても四時間、バカとしか言いようのない苦労だ。しかし、
そんな無駄な時間が手に入るほど、当時の少年の生活はのんびりと
していたのである。

(1/18)       やくざ

(1/18)       やくざ

 私の街には皆から「やくざ」と呼ばれている人たちが沢山いた。
なかでも60歳前後だろうか、病気していたみたいで、強面という
感じの人ではないが、周囲の人たちの話を総合すると、どこかの組
の大親分ということらしい。

 そう言われてみると、ふいに眼光が鋭く変化することがあるから、
そんな時は「なるほど」と思わないこともないが、普段は大人しい
紳士である。

 何でも旅館業が本業らしいのだが、それは実質奥さんが切り盛り
していて自分は遊郭に入り浸って遊んでいるらしい。

 そんなこんなが井戸端会議で語られ、私の耳にも入ってくる。
 実際、この時代までは「やくざ」と称する人たちもその多くが私
たちと同じ一般市民として暮らしていた。もちろん道で出会えばお
互い挨拶もするし、極道と呼ばれてはいても別世界で暮らす異邦人
という感じではなかったのである。

 とはいえ幼い私とその人に接点などあろうはずもなく、本来なら
街で見かける程度の関係なのだろうが、実は、その組長さん、私に
一度だけ声をかけたことがあった。

 その日、私は母に叱られて一時的に家を追い出されていた。夕暮
れ間近の家の前で、当時はごく普通にどこにでもあった石造りの四
角いゴミ箱の上に乗っかってしょんぼり夕焼けを眺めていると……

 「おっ坊主、なんだ母ちゃんにまた追い出されたのか!?」
 と声をかけてくる。

 縞のどてらを羽織り、やりての婆さんから買ったであろう豆腐が
一丁浮いた鍋をかかえた姿は、どう見てもやくざの大親分には見え
ない。

 私は無視して横を向き泣きはらした目をこすった。
 すると、
 「しょうがねえなあ、おまえはあの母ちゃんのチンコロだからな」
 と続けるから……
 「なに?」
 と振り向くと……
 彼はただ微笑むだけで何も答えずその場を立ち去ったのである。

 話はこれだけ。からかわれたと言ってしまえばそれまでだが、私
は、彼がその瞬間見せた哀愁を込めた半分泣いているような笑顔を
理解できなかった。
 いや、その場だけでなく、かなり長いことそれは分からないでい
たのである。

 ただ意味は分からないくても、その瞬間、幼い私をバカにして、
そう言ったのではないということだけは何故か私の心に届いたのだ
った。

 時が流れ、私も多くの人生経験を積んで、今はやっと彼の言わん
とした事が分かるような気がする。

 彼は、私が母のチンコロ、つまりペットとしてしか認識されてい
ない現実を見抜いていたのだ。どんなに手間暇お金をかけようとも、
いざ自分のプライドに手がかかるととたんに冷淡になる。その事を
哀れんで微笑んだのだ。

 怖い人ではある。しかし、してみると今は哀れむべき子供の何と
多い事か。

(1/19)      タバコ屋

(1/19)      タバコ屋

 私という男は不思議な人で同世代の子供とはあまり遊びたがらな
かったが、大人たちは総じて好きであまり人見知りしなかった。声
をかけられれば誰でも愛想良く応じ、彼が好む話題に話を合わせる
器用さも心得ていた。

 何のことはない太鼓持ち芸なのだが、おかげでおもらいは多く、
これも母親の影響だなあとつくづく感じるのである。

 ただそうは言っても人間関係の機微に通じていたというわけでは
ないから人を感心させるような話ができるわけもなく、人生相談に
乗れるわけでもない。もっぱら、どこからか仕入れたのか出所の怪
しい自慢話を得意げにぶちまけてはお茶を濁していたに過ぎない。
ま、それでも当時は大人と対等に口のきける子供が少なかったため
か重宝され悪意にとられることも少なかった。

 特に自宅近くのバス停前に店を構えるタバコ屋のお婆さんは四六
時中暇をもてあましてる(?)ということもあってか、母親とハツ
さんを除けば一番たくさんの自慢話を聞いてもらった一人だ。

 その代償が毎度毎度5円のあめ玉一つでは商売に張り合いもでな
いだろうが、お婆さんも幼い私の話をさも興味深げに聞いてくれた
からこちらも調子に乗って時に30分も赤電話の前で話し続ける事
があった。

 「そうかい、それじゃあ気いつけて帰りなさいよ」

 最後はそう言って送られ、あめ玉をしゃぶって家の方へ向かえば
私の仕事はそれでおしまいなのだが、実はこのお婆さん、その後に
大事な仕事を抱えていたのである。

 私は前にもお話したとおり物心ついた頃から何かにつけてバスで
の通学を余儀なくされていた。このため、親も一応はそのあたりは
心配したのだろう、私が立ち回りそうな場所にはスパイを配置して
常にその動静を監視していたのだ。そして私がその場所を通過する
時間を見計らっては各スパイの処へ電話をかけ…

 「坊ちゃん今この前を通られましたよ」
 という声を聞いては安心するという日々だった。
 だから途中どこかで寄り道なんかしようものなら、玄関先で角の
生えた母と対面しなければならない。当初は、なぜこんな事が母に
ばれているのか不思議でならなかったのだが、それを教えてくれた
のがこのお婆さんだったのだ。

 その日私はいつものようにひとしきりお婆さんとお話して別れた
のだが、すこし話し足りないことがあって戻ってみた。
 すると、お婆さんが目の前の赤電話で誰かと話している。

 「坊ちゃん、今しがた帰られましたよ」
 というお婆さんに、受話器越しだが
 「いつもすみません」
 という何やら聞き覚えのある声が……

 『えっ、このばあちゃん、お母さんのスパイだったのか!』
 人生の厳しさを知った瞬間だった。

(1/20)       定期券

(1/20)       定期券

 私は物後心ついた頃からバス通いをしていたから当然バスの定期
は必需品だった。だったのだが不思議とこの有り難みをあまり感じ
たことがなかった。

 当然なきゃいけないものだが、持ち歩くにはちょっと恥ずかしい
ものなのだ。
 というのも、母親がこの定期券を紐につなげてランドセルにくく
りつけるからで、これが嫌で嫌で仕方がなかった。

 母親は何も特別な事を強制したわけじゃない。今でもごく普通に
見かける小学生の通学風景と同じなのだが、これが私には快くなか
ったのである。

 そもそも定期券というものは財布と同じようにポッケットの中で
独立して存在し、その瞬間、必要に応じて「サッ!」と取り出され
なければならない。
 かように考える時、紐やチェーンなどという無粋な物は存在して
はいけなかった。

 もちろん、
 「何言ってるの!だって、なくすでしょうが!」
 と言う母の言い分はまったくもって正しい。
 まったくもって正しいのだけれど、それは私の美学が許せなかっ
たのである。

 なぜって、大人はそうやって定期券を持ち歩いていないから。

 『大人のように振る舞いたい』常日頃そう願ってやまない少年に
とって、紐着きの定期券は子供の象徴。恥ずかしく惨めな存在だっ
たのだ。

 ならば、当時の私はそんなに大人に見えたのか。
 とんでもない。背が低く額が広く、細い足が股上の短い半ズボン
からにょっきりと生えていて、どこからどう見ても子供そのもの。
しかも何かというと独りよがりな意見をまくし立てるもんだから、
その甲高い声が後頭部へ突き刺さる瞬間は大人たちがこぞって眉を
ひそめたものだったが、本人はいたってまじめに、自分は大人と同
じだと信じていたのである。

 だから道で挨拶する時も、「こんにちわ」と穏やかにこちらが話
しかけたにもかかわらず、相手が「よっ、坊主、元気か!」なんて
頭を鷲づかみにしようものなら、とたんに機嫌が悪くなって、横を
向いてしまうというありさまだった。

 今も昔も小学生相手に「よっ、坊主、元気か!」と言ってみたと
ころで、何ら問題はないはずだが、『天狗の鼻が隣町まで伸びてる』
と評される私にとってそれは侮辱されたのと同じ感覚だったのであ
る。

 最後に、私は定期券を他の子より数多くなくしたかもしれない
が、それでもとうとう見つからなかったという事態に立ち至るの
は年に数回(^◇^;)程度。大半はその日のうちに見つかるのだから
……と、いたってのんきに構えていた。

 とはいえ、どこまでも紐付き定期券を嫌がる私に母は最後まで
いい顔はしなかった。おかげで…

 「もう、定期は買ってあげないからね」
 と、こんな言葉を一学期に何回か聞く羽目になる。

 紐を切り取るためやむなくランドセルに穴を空けた時など母親
の嫌がらせより交通費は自腹(お小遣い)で学校へ行かされた事
さえあったのだ。どうもこのあたり女には男の美学というものが
分かりかねるようだ。

(1/21)       質屋

(1/21)       質屋

 私の実家は質屋だった。質屋というと今の人たちは中古ブランド
品を売りに行く処だと思っているようだが、私がまだ子供だった頃
は質草と呼ばれる品物を担保に差し出してお金を借りる場所だっ
た。つまり、品物がいるサラ金みたいな処だったのである。

 このため、お客さんは持ち込んだ品物を1円でも高く値踏みして
もらって、より多くのお金を貸してもらえるようにと店主とやりあ
ったのである。勿論、借りたお金を返して差し出した質草を返して
もらうというのが本来の姿だが、なかには始めからその品物を処分
する気で借りたお金をそのままにする人も多かった。だから、差し
出された質草の値踏みを間違えて高いお金を貸してしまうと店側は
大きな損を被ることになったのである。

 そんなある日のこと、ある人が見かけないメーカーの腕時計を持
ち込んだことがあった。その時店番をしていた父はその時計を興味
深げにあれこれ調べていたがとうとうどのくらい価値があるかわか
らない。
 そこで『ちゃんと動いているし500円ならどのみち損はないだ
ろう』と考えて「500円でよければ」と言うと、そのお客さんは
「いくら何でもそりゃあ安いよ。もっと出してよ。まがりなりにも
動いてる腕時計なんだよ」とは言ったもののそれほどしつこく絡む
でもなく結局は父が提示した500円で手を打って帰っていった。

 実は私もその時点で、『おかしいな?』と思っていたのである。
私の父親というのは、商売人にはおよそ向かない気の小さな人で、
お客にすれば泣いても脅しても言いなりにお金を出しそうだと侮ら
れていたところがあった。だから500円だなんてこと言われたら
もう一押し粘るのが普通だったのである。
 現に名うてのお客たちは母が稽古事で店を離れる時間を知ってい
て、その時間になると店の前にたむろしていた。そして母が店を出
たとたん、店には常連さんによって行列ができたのである。

 父はたしかにこの店の店主に違いはなかったが店を実質的に経営
していたのは母で、もしこの母が商売から手を引いたら店は半年と
存続していないに違いなかった。ま、そんな事情だからそれは仕方
がないのだろうが母は父を見下しているところがあった。

 この時も、父が預かった腕時計は最近アメリカが大量生産に成功
して売り出した1ドル時計というもので当然売価は360円。
 数日前に質屋組合から注意書きが回されていたのだが、およそ商
売に熱心でない父はそれを読んでいなかった。

 この時、母が軽蔑した表情でその注意書きを父の面前に放り投げ
たのを今でもはっきり覚えている。我が家は始めから典型的なかか
あ天下だった。

(1/22)      母の結婚

(1/22)      母の結婚

 今の人たちは、結婚とは好きになった者同士が合意して行うもの
だと思っているかもしれないが、少なくとも私の父母の世代までは
本人同士の意思というのはあまり関係なかった。

 親同士がその利害関係から相手を決めていたケースも多く、私の
両親の結婚もまさに家同士の打算の産物だった。もちろん、二人が
結婚したのは戦後のことだが、それでも当時結婚について何が最も
重要かといえば、まずは家同士の問題だったのである。

 私の両親の結婚もそうした政略結婚みたいなものだから、最初か
ら二人のうまがあっていたわけではなかった。つまり、好き嫌いで
言えばお互い相手が好きということではなかった。

 父方の事情は、男三人の兄弟のうち二人は有名大学を出ていて、
田舎に帰り質屋の継ぐ気がないということ。頼りにしていた番頭さ
んも店を継ぐより別の場所で独立したいという意向を持っていた。
さりとて、自閉症ぎみの親父では荷が重く、江戸時代から続く質屋
は存続をめぐり行き詰まっていた。そこで祖父は商売のできそうな
娘を親父に嫁がせて実質的にその人に跡をついでもらおうと考えた
のである。
 もちろん、彼女が男の子が産んでなるべく早くその子が跡を継い
でくれることも期待していたに違いない。

 一方、母方の方は、海運事業を営んでいた両親に早く死に別れた
母たち兄弟は長兄を中心に規模を縮小してトラック運送と石油販売
だけで商売を続けていたのだが、伯父(長兄)がまだ大学を出たて
で経験不足ということもあり、銀行がなかなかお金を貸してくれず
資金繰りに苦しんでいた。
 そこへ私の祖父が母の評判を聞きつけて乗り込み。当時兄を手伝
っていた母の商売ぶりをみて、これならやれるとふんで親代わりだ
った長兄に話を持ち込んだのである。

 当初、長兄は「まだ何一つ女らしいことをさせていないから」と
断ったが、祖父が「家事なんてものは女中にやらせればいい」と言
って口説き落としたらしい。当然、多額の支度金が父方から出たの
は間違いない。おまけに最初から家事一切はできないものとしてお
嫁に来ていたから本人もそのことには引け目も感じていないようだ
った。
 ま、それでもへこむ人はいるだろうが彼女の場合は平気だったよ
うだ。

 つまり母にとってこの結婚は一つビジネスとしてとらえている節
があった。つまり多額の支度金の代わりに旧家でもある質屋の家を
守り男の子を産んで彼に跡を継がせる。そんなギブアンドテイクで
この結婚を考えていたようだった。
 だから私を育てるというのも愛情というより一種の義務だったの
である。

(1/23)      海草電車

(1/23)      海草電車

(*)
この項は事情があって割愛しました。
ごめんなさい。m(__)m



ラップ電車<小>
注)この写真は物語とは無関係です。

(1/24) 制服

(1/24) 制服

(*)
この項は事情があって割愛しました。
ごめんなさい。m(__)m


ぽっぽ汽車<小>
注)この写真は物語とは無関係です。

(1/25)   赤ん坊

(1/25)      赤ん坊

 私を評するクラスメイトのお母さんたちのお世辞はたいてい決ま
っていた。

 「しっかりした坊ちゃんで、とっても利発で、何より大人びてら
っしゃるからお母様も手がかからないでしょう。うらやましいわ。
うちの子なんて、ほら、まだこんなに甘えて。赤ちゃんがぬけない
から困りものだわ」

 だいたいこんな言葉が母にかえってくる。だが、彼女自身はこん
な私への評価をどのよう受け止めていたのだろうか。ふとそんなこ
とを考えてみた。

 お友だちのお母さん方の評価はあくまで外でみせる私の姿が基
準。しかし、私にとって外での姿はあくまで営業用のものであって
家の中でみせる人格は恐らく同級生の中でも一番赤ん坊に近かった
かもしれなかった。

 実際、母親は勉強や習い事には熱心だったが、いわゆる仕付けに
は甘くて、自慢にならないからこれまで人には話さないできたが私
の部屋からほ乳瓶が消えたのが小学五年生の時。小学四年生頃まで
はお風呂におまるが置かれていた。何のためかというと、これが一
緒に入る母の前で用を足すのが好きだからというんだからとんでも
ない困ったちゃんである。小学六年生の頃でも母親の前でならフル
チンは当たり前。おチンチンもお尻の穴も母親からなら握られても
覗かれても何ら関係なかった。

 昼間がそんな調子だから、夜だって当然のごとく母と同じ布団で
添い寝。母が私と添い寝しなくなったのが、13歳も終わりの頃。
これだって母が私を嫌ったというよりは私の方が何となく気まずく
なって別れたのである。

 しかも、事はこれだけではない。
 母は私を舐めて育てた。比喩的にではなく本当に事あるごとに舐
めていた。昼間はさすがに人目があるから指やほっぺぐらいなもの
だが、夜、布団の中ではどこといって体に制限がなかったような気
がする。小学校も高学年になれば性欲もまったくないわけではない
から何やら妙ちくりんな気分が体中を包みこんだことも一度や二度
ではなかった。

 もちろん『近親相姦』だなんてそんなたいそうなものではないが
その入口くらいは母が手ほどきしたということになるのかもしれな
い。

 子供なんだからマザコンは当たり前だろうが、それにしてもその
ラヴラブぶりは近所でも評判だったことだろう。やくざの親分の言
う『チンコロ』もそれはそれで的を得た表現だったに違いなかった
のである。

 色んな事情からやむを得ず父と結婚した母にとって私はたんなる
息子以上の存在だったのかもしれない。それは父方の家に対しては
大事な商品であり、対社会的にはプライドの一部。そして内なる世
界ではペットでもあったのだ。

 恋人?その一線は越えていないはずだが『抱き合えば言葉はいら
ない』というような関係ではあったような気がする。とにかく不思
議なそして強烈なインパクトを持った親子だったことに違いはなか
った。

(1/26)     紙芝居

(1/26)       紙芝居

 私は小学校に入ったあとも近所の子どもたちとまったく縁がなく
なった訳ではなかった。前に述べたように孤立児で人付き合いが下
手だから誰とでもという訳にはいかないが、隣近所の子どもたちと
はその後もいささかのつきあいがあった。

 将棋を指したりプラモを組み立てたりゴロベースをしたり町内会
の子供祭にだって参加していた。そんな近所の子供たちが、毎日の
ようにたむろしている場所、それは駄菓屋か公園。だから学校は違
っても放課後そこで落ち合えば彼らの次の遊びから帯同できたので
ある。

 母はその現実をよく承知していたから公園が見渡せるタバコ屋の
おばさんに私のスパイを依頼していたのだった。

 あえて説明は無用かもしれないが、駄菓子屋というのはその名の
通り子供のささやかな小遣いでも買える安いお菓子を専門に売って
いるお店のことで、我が家に一番近い駄菓子屋は児童公園そばにあ
った。

 そこは小学一年の頃わざわざ新築してまでお店を開いたくらいだ
から当時はそれだけ子供が多かったのだろう。

 私も近所の子供たち同様五円十円握りしめてその社交場へ通った
一人だが、おやつは家で別に用意されていたから駄菓子屋でお腹一
杯にになってはいけなかった。
 それだけではない。私の場合、試験管に入ったゼリーは体にあわ
なくて、食べれば必ず蕁麻疹だったから母親からは絶対に手をつけ
てはいけないと言われていたのだが、友だちに「勇気がない」と言
われると手を出さないわけにはいかず、よく母を徹夜させてしまっ
たのを覚えている。

 一方、公園には紙芝居がやってきた。拍子木につられて集まった
子ども達に水飴や薄いせんべいなんかを売ってから絵物語りが始ま
る。当時は個別にビニール掛けがしてあるなんてことはないから、
水飴にはハエがたかるし、せんべいもおじさんの薄汚れた手で手渡
しされるからかなり不衛生だ。

 おじさんは「買わない子は見ちゃいけないよ」なんて因業なこと
を言っていたが、それはかぶりつきの場所が確保できるかどうかの
差でしかなかった。

 お菓子を買わない子は離れてみていればよかったのである。

 そんな可哀想な子(?)に水飴をやると私は少し離れた処を散歩
して時間をつぶす。おじさんの紙芝居は他の子にとっては面白いも
のだったかもしれないが、私はごく幼い頃をディズニーの絵本で育
っているせいか、あの毒々しいイラストが好きになれなかった。
 ならば水飴も買う必要もないわけだが、これまた、不思議と義理
だけは欠かさなぬ子だったのである。

(1/27) おやつ

(1/27) おやつ

 私の家ではおやつが出た。

 今の人に言わせると「それがどうした?当たり前じゃないか」と
思うかもしれない。しかし、昭和の30年代というのは、まだまだ
貧しい時代で、多くの家庭では子供に小遣いを与え駄菓子屋で何か
買っておやつにするというのが一般的なスタイルだったのだ。

 ただ我が家に限って言えば、絶対的な権力者である母親がこれを
快く思っていないこともあって、おやつは家の中で母親の膝の上で
食べるものだったのである。

 そこに出てくるものとしては、水菓子か虎屋の羊羹、風月堂のゴ
ーフル、モロゾフのチョコレートあたりが多かったように記憶して
いる。いずれにしても大人のお茶会で子供の口にはあわないものが
多かった。

 いえ美味しくないというのではない。ただ、コビトチョコレート
の銀紙の裏に当たりの字を見つける喜びや細いタコ糸を引寄せた瞬
間大きな三角飴が動いた感動に比べればそれはつまらない行事だっ
たのだ。

 おやつの時間というのは、母が近所のお母さんたちを招いて井戸
端会議を主催する時間でもあったから母にとってはそこに私が座っ
ている方が何かと都合が良かったのである。

 母にとっての井戸端会議は、
 「昨日P社のデザイナーさんに頼んでおいたこの子の服が届いた
の」と言ってはその服を私に着せてファッションショーを始めたり、
「今度この子が学級委員に選ばれたの」と言ってはその証のバッチ
をわざわざ制服から外させて閲覧させたりとやりたい放題。
 黙っていても何ら差し支えないことを次から次に披瀝するご自慢
大会なのだ。正直、聞いてるこっちが赤面する話も多くて、そう言
う意味でもここで出されるお菓子は美味しくなかったのである。

 母のお道楽はこれだけではない。先ほど述べたが……自ら描いた
デザイン画を子供服メーカーに送って完全オーダーメードの子供服
作らせたり、外国雑誌に載ったオモチャが今はまだ東京のデパート
にしか卸されていないと聞くと、地元デパートの外商部を呼びつけ
て取り寄せさせたり。はては本屋が仕入れた全集物をそっくり買い
あさり天井まで届くような立派なガラス書棚に並べては私の部屋を
飾りたてたりもした。
 いずれも大変な労力と出費だろうが、生まれながらにして母の赤
ちゃんだった私にすれば、それがごく普通の日常だったのである。

 息子をダシに平気で自慢話を続ける母に嫌気が差し膝の上でその
まま寝てしまった事もたびたびだったが、今となってはむしろこん
な母の道楽につき合ってくれた近所のお母さんたちにただただ頭が
下がる思いがするのである。


(1/28)   先頭シートの特等席

(1/28)   先頭シートの特等席

 私がお世話になったバスの営業所からは五系統ほどの路線が出て
いたが、そのうち四路線は田舎の中では比較的人口の密集した場所
つまり田舎の中の都会へ行くバス。都会へ出ていくのにポンコツじ
ゃ恥ずかしいということだろうか、この四路線には親会社から比較
的新しい機種が常に導入されていて互いの性能を競うようかのよう
に走っていた。

 とりわけ私が通学に利用していた路線は一年と言わず半年に一台
くらいもすると新車がおりてくるから田舎の中では花形路線だった
のだろう。営業所住まい(?)の私はその役得として、一般乗客に
先駆けてぴかぴかの車内に一番乗りすることが許されていた。特に
一番前にある二人がけクロスシートは私の寝室にもなるシートで、
私は普段からその座り心地や寝心地をつねにチェックしていたので
ある。私が電車よりバスを好んだのはこのためだった。

 この先頭部分、今のバスでは前ドアの部分にあたるため存在しな
くなったが、当時は車掌さんが乗りこんでいたせいで出入り口は真
ん中に一つあればよく、運転席と同じ並びの先頭部分は乗客用の座
席になっていたのである。

 ここに本来なら大人二人が座れるはずだが、私の乗るバスだけは
仕付けのなっていない不届きな幼児が一人で占拠していたため席が
一つ少なくなっていた。(^^ゞ

 私はそのクッションのきいたシートをトランポリン代わりにして
遊んだり甲高い声を張り上げて運転手さんと雑談したり、ベッドと
しても使っていたがそんな不作法を一般のお客さんが注意したこと
は一度もなかった。今なら苦情が会社に来てその運転手さんは怒ら
れていたかもしれない。

 私のこうした交友を今の人たちは作り話だと思っているかもしれ
ないが、昭和の30年代の頃というのは、たとえ規則は今と同じで
もその運用は大変おおらかで、今のように乗客の苦情一つで即クビ
なんて事にはならなかった。
 ま、始末書ぐらいですんだはずである。

 ところがそんなある日のこと、たった一度だけだが、詰め所の中
に私が入れないことがあった。小雨の降る冷たい朝で、私はその日
も当然のごとくストーブの明かりが見える小窓を叩いたが、中から
の反応は意外にも冷たいものだった。一人の運転手さんがしーしー
っと私を追い払おうとするのだ。

 理由が分らぬまま部屋の奥を覗き込むと、何やら偉そうな人が仁
王立ちになって声を荒げている。よく分からないが今は駄目という
ことはわかった。
 しばらく待って、それでも訓辞が終わらないから始発の停留所へ
向かってとぼとぼ歩き出すと、いつものバスがさっと私の足下に横
付けて……
 「乗れ、坊主!」


神社への階段 <小>
注)写真は記事とは無関係です。

(1/29) ボンネットバス

(1/29) ボンネットバス

 その日私は駐車場の隅にぽつんと置かれたボンネットに目を留め
る。普段なら「なんだボロバスかあ」で終わりだが、その日に限っ
ては、まるでそのオンボロバスが私を呼んでるような気がした。

 今でこそどこにもいなくなってしまったからみんなで「懐かしい」
なんて言って乗りに行くけど、当時の常識ではボンネットの走る処
はど田舎。

 「お前んとこまだボンネットかよ」なんてバカにされたもんだっ
た。

 営業所で見かけたこのバス、型式も古そうだし、いつ見てもタイ
ヤやボディーが泥だらけ。エンジンを掛けると人一倍黒い煙を出す
し、走り出す瞬間も、「おや壊れたんじゃないか」って心配するほ
どもの破裂音をまき散らさないと走り出さない。

 そんな引退寸前のバスがある時から気になって仕方なくなったの
である。

 そこである日とうとうお小遣いをためて終点まで行ってみること
にした。いや、一区間だけならすぐにでも乗れたが、それじゃ歩い
ても行ける処までしか乗れないから、降りたところで見慣れた風景
でしかない。それじゃあ、つまらないと考えたのだ。

 でも、案の定というか、町を離れた処で車掌さんに声をかけられ
た。

 「おい坊主、今日はどこへ行く。あんな田舎におまえ知り合いで
もいるのか?」

 こちらから見れば見かけない人だが、何しろ営業所管内では有名
人だからすぐにわかってしまうのだ。

 「何にもないよ。このバスに乗りたかっただけだから」
 「このボロにか?物好きだなあ、おまえ」
 「だって珍しい形してるから」
 「珍しい?…そうか、お前、知らないんだ。昔はバスっていった
らみんなこんな形してたんだぜ。お前、バスって始めからマッチ箱
みたいだって思ってたんだろう。そう言やあ、こいつもそろそろ廃
車になるって言ってたなあ。あそこもついに田舎から卒業ってわけ
だ。めでたし、めでたしだな」
 「帰りのバスはいつ出るの?」
 「向こうに着いて10分後。おまえ、どうせ行って戻って来るだ
けだろう?」
 「うん」
 「だったら、そのままここに乗ってな。誤車扱いにしてやるから。
無駄に小遣い使うことないだろう」

 こんな会話があって、向こうに着いたらほんのちょっと散歩して
同じバスで帰ってきた。それだけの旅だがこれが不思議に楽しい。
でも料金はちゃんと払ったよ。そういう事だけはきっちりしている
質屋の息子だったのである。

(1/30)      書斎

(1/30)      書斎

 私の家は例の学校からはかなり離れた処にあって、子供の足だと
電車バスを乗り継いでもゆうに1時間はかかった。この1時間とい
うのが大事で、当時の学校の内規ではこれ以上遠い処からは通えな
いことになっていたのである。

 このため母は最初だけでも学校近くにアパートを借りて近くに移
り住もうかなどと本気で考えていた。

 でも、そのもくろみをうち砕いたのが、私の無類のバス好き電車
好きだった。私は「バスや電車に乗れないんなら学校へは行かない」
とさえ言い放ってだだをこねたのである。

 ただ、最初の頃は時間がかかってもすべてバスで通した。電車を
利用すると早くは着くのだが、2回も乗り換えが必要でまとまった
自分の時間が取りにくいから困るのである。

 実は私、幼稚園当時から『バスや電車の中が一番心安らぐ』とい
う不思議な少年だった。母も、教師も、友だちも…それら人たちが
ことさら嫌いというのではないのだが、そばにいるとうざったい気
がして一人でいられる時間がほしかったのである。
 (だから孤立児なんて言われてしまうのだが……)

 もちろん何度も述べているように運転手さんや車掌さんとは仲良
しだった。だから何かやってるとすぐにちゃちゃを入れてくる事も
多かったが、乗客が残り数人となる地元営業所近くにならなければ
お互いおしゃべりはしないという不文律はできあがっていたから、
それはそれほど気にはならなかった。

 私はこの狭い空間で宿題をし、絵を描き、小説を書き作曲までし
ていた。いわばここが私の書斎代わりだったのである。この書斎で
過ごす40分間が私には貴重だったのである。自宅近くの営業所か
ら出る最も長い路線で終点まで乗って行き、そこで別の路線に乗り
換えて15分。さらに歩いて10分。

 今にして思えば一時間半もかけてよく通ったなあと思わないでも
ないが、何事も慣れの問題で通っていた当時はそれほど苦痛を感じ
たことはなかった。それもこれもこの激しく揺れる狭い書斎あって
のことだったのかもしれない。

 当時は私の街から遠くの学校へ通おうなんて物好きは我が家だけ
だったから物珍しさもあったのだろう。狭い管内だけの話だが、私
は常にアイドルだった。

 ところが、四年生になると私の前にライバルが現れる。私の指定
席にもう一人同じ制服を着た少年が無遠慮にも隣に座るようになる
のだ。こいつは、私と名字が同じということもあって最初から妙に
馴れ馴れしく初めは邪険にしていたのだが、そのたびに「ほら兄弟
なんだから」と車掌さんに言われて仕方なくそばにおいてやること
にした。

 しかし、何より不満だったのは彼の方が私より数段可愛いという
事。たちまち車内アイドルの座は何も知らない弟に奪われてしまっ
たのである。

(1/31) ローカル列車 

(1/31) ローカル列車

 私はマニアというほどではないが鉄道が好きな少年だった。それ
も最新鋭の機種には興味がなく、廃線寸前の鉄路をボロボロの車両
がノタノタと走る姿に憧れを持っていた。

 私が人生最初に手にしたカメラは子供にはちょっと贅沢な質流れ
品だが、これで撮った写真は鉄道の写真かその沿線の風景。それも
ローカル線と汽車ばかりだった。新幹線が開通したというので、父
に連れられてわざわざ東京まで乗りに出かけたが、結局「撮るもの
がなかった」という理由でとうとう一枚もシャッターを切らなかっ
たという変わり種である。

 その思いは小四のノートにあった。

 『こいつ(新幹線)は20年も30年もここを走り続けるだろう。
ならば、今乗らなくたってなくなりやしない。でも、赤字続きのロ
ーカルは、来年もここを走っているとは限らないじゃないか。今、
そこにわき起こる風を、今この車窓で受けとめて、感じられる生気
を大事にしよう。今しかないこの時を。どちらへ先に行くべきか、
そんなのあきらかだ』

 世間知らずの坊やの筆が踊っている。でもそれは当時の正直な気
持だろう。古い電車や汽車、ディーゼルなんてものは武骨で仰々し
くておよそなめらかという言葉からはほど遠い存在だが、それだけ
にどこか人間臭く、いかにも『お前のために働いてるぞ』って姿勢
に好感がもてたのである。

 私は生身の人間にはヒューマニティーを求めないくせにそんなも
のがないはずの機械にはこれを求めるのである。

 こんなこと書いてるとさぞ本人も他の子のために骨を折ったんだ
ろうなあ、なんて邪推されるといけないのであえて断っておくが、
当時の私は同世代の子供達と比べてもそんなにヒューマンな人間で
も徳の高い聖人でもなかった。

 それが証拠に、いつも見栄を張って学級委員の選挙に出たりする
が底の浅い人間性を見透かされて同性の票はいっこうに伸びない。
 いつも女の子の票でかろうじて当選していた。

 ちなみに、うちの県は恐ろしく男尊女卑の色彩の強いところで、
文部省が『男女二人の学級委員を選出』と書いてよこすと、勝手に
それを解釈、正副をこしらえて、事実上、男が正学級委員、女が副
学級委員になるよう人事配置していた。だから本来なら私がすべて
にイニシアティブを取らなければならないのだが、私は生来責任感
に乏しく日常の大抵の仕事は副委員長に任せっぱなしだった。

 むしろ話は逆で、不徳の固まり煩悩の固まりみたいな人間だから、
ヒューマンなものに憧れるのかもしれない。


電車<赤>
注)写真はこの記事とは無関係です。



プロフィールに代えて

<プロフィールに代えて>

 これは文字通り幼年期を回想して書いたもので、
本人以外が読んでも感動はないと思いますが、
あくまで自己紹介の代わりということです。
 (よって、Hな箇所はありません)

 『ちいちゃんの思い出』という小説のネタ本でも
ありますから、両者重なっている箇所も多いかと
思います。

 それと……これは「回想録」と言っておきながら
言いにくいのですが、事実をそのままではあまりに
恥ずかしい部分も多くて、脚色してしまった部分も
あります。

 よってこれも100パーセント事実ではありません。
あしからずご了承くださいませ。m(__)m


 

朝のしきたり < 第 1 回 >

❈❈❈❈❈❈❈❈ ちいちゃんの思い出 ❈❈❈❈❈❈❈❈

******* (第1章)朝のしきたり ********


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ TK(著)~~

<登場人物>
僕(小2)……ちいちゃん
長男だから何かと優遇されている幸せ者

弟(小2)……みいちゃん
僕よりちょっぴり気弱だけどとってもよい子

姉(小5)……お姉ちゃん
近所ではメジラと呼ばれ恐れられている乱暴者
茜ちゃんとも呼ばれている

従姉妹(中1)…セイちゃん
僕はマリア様みたいに思ってるお姉ちゃん

お父さん……お金にならないことばかりして暮らしている道楽者

お母さん…… 怒ると信じられないほど怖いけど普段は優しい一家
の大黒柱

おばあちゃん……お姉ちゃんにはなぜかやたら厳しいお灸マニア

お手伝いさん……ハナさん
お母さんの代わりに主婦しているおばあちゃん

***************************

  ❈❈❈❈❈❈❈❈❈❈ [ 第1回 ]❈❈❈❈❈❈❈❈❈❈


まあ子供とどう戯れるかはその家の個性かもしれないけれど、僕の
家はちょっと変わっていた・・・と思う。
「思う」というのは、ほかの家の子になったことがないから。
変わっているかどうかはみなさんが判断してください。(^0^)

朝、お母さんが僕たちを起こす。
「ちいちゃん、みいちゃん朝ですよ」ってね。
これはごく普通のこと。

でも、いとこやお姉ちゃんに言わせるとここからが変みたい。

いわく、
「私たちが鼻を摘んでもお尻蹴ってもあんなにすやすや寝てたのに
お母さんが呼んだだけでどうしてそんなに急に飛び起きられる
の?」
「今の声ようく聞いてないと聞こえないくらい小さな声だったのに
夢のなかまで届くのね」
二人はとっても不思議がります。
(¬―¬)

たしかに不思議だけどげんにそうなんだからしょうがない。
どんなに楽しい夢を見ていてもお母さんの声がすると二人して目が
覚めてしまう。
それがどんなに小さな声でもやっぱり同じなのだ。

そしてこれはお姉ちゃんやいとこのセイちゃんには起こらないこと
らしい。僕たち男の兄弟だけなのだ。
(^_^)

でもね、そんなことは僕らにはどうでもいいこと。
起きたらまずやることがあるからね。
(^o^)

たいてい起きるのが「みいちゃん」(双子の弟)と一緒だから競争
になるけど、お布団を蹴ったらお母さんの待つ台所へダッシュする。
(^^ /""(^^ /~~

そしてまずはお母さんの腰のあたりに体当たり。
「おっはよう~(^0^)おっはよう~(^0^)」
って言ってお母さんのエプロンで顔をすりすり。

これは僕だけじゃないよ。たいてい向こうの腰ではみいちゃんが同
じことをしているから。
(⌒o⌒)

で、これが終わるとテーブルにおめざましが用意してあるからそれ
をむしゃむしゃ。
(^3^)(^3^)

[おめざましって何だ?](@_@)

おめざましというのは・・・要するに『朝ご飯の前のおやつ』
でも、ほんのちょっぴりなんだよ。
羊羹半切れとか、金平糖が五粒とか、そんなもんなのネ
(+_+)

でも僕たちには楽しみなんだなあ・・これが・・フフフ)^o^(

で、それが終わると顔を洗って歯を磨く。

[えっ?歯磨きは食事のあとじゃないのか?](¬―¬)

固いこと言わないの。これは我が家の習慣なんだから。

でもって、パジャマを着替えたら行くところがある。
朝、きっかり起きて来るのはこのためなんだ。
子供を釣るエサにしてもあまりにショボイお菓子だけどお母さんに
義理だてして行かなきゃいけない所があるんだ。

[断れるかって?]

もち、強制(+_+)。
『今日はおめざまし食べてないからいいでしょう』なんてわけには
いかないのだ。

[それって、そんなに辛いことかって?]

辛いというより退屈なんだなあ・・(*_*)

ここにはおねえちゃんもいとこのセイちゃんもやってくる。
つまり子供たちは全員参加なんだ。

で、何をするかなんだけど……やるのはお母さんだけ。
子どもたち四人を仏壇の前に正座させると、自分もそのすぐ後ろに
正座して、古い古い蛇腹になった本を読み始めるんだ。
あまりに近くで読んでるから僕の頭に息がかかったり唾(つばき)が
飛んだりする。
(+_+)

お姉ちゃんに聞いたらあれは般若真経っていうお経なんだって。
そのわけのわからない呪文を正座して聞いてなきゃいけないんだ。
お線香の煙が部屋中漂って煙いし、退屈だし、何でこんなことしな
きゃいけないのかさっぱりわからない。

でもお母さんはだけは真剣で、よそ見なんかしてるとたちまち大き
な手が頭の上にやってくる。
でもって頭を鷲掴みにすると仏様の方へ向き直させるんだ。

おまけにただでさえ煙たくて仕方がないお線香の煙をほかの子以上
に頭に擦り込まれたりもするんだ。
お経を読みながらだよ。(;_;)

これってお仕置きだよね。(T_T)

でもお姉ちゃんに言わせると違うんだって。
でも、ちょっぴりだけどいいことだってある。

お母さんはお経が終わると、子供たちを一人ずつ抱き締めて、
「今日も一日この子がよい子でいますように」
って、仏様や観音様にお願いするんだ。
その時お顔全体で、お母さんのおっぱいをすりすりできる。

普段は、
「ほらあ、もう赤ちゃんじゃないんだから甘えないの!」
って叱られてばっかだけどこの時だけは赤ちゃんしててもいいん
だ。
これもおめざましのお菓子と同じで、ほんのちょっぴりだけどね。
(^.^)

で、これがすまないと朝のご飯にならないからお母さんはちゃんと
起きない子に厳しいんだよ。
(⌒o⌒)

「お勤めに起きてこない子に朝ご飯はありません」
ってみんなが食べてるのに僕だけ後回しになかったことがあった。

しかもその時は裸にされて仏間に連れて行かれたあと、あの呪文を
唱えながらだっこされてこれでもかってくらいお線香の煙を体じゅ
うに塗りつけられちゃった。
(T_T)

お勤めってそんなに大事なことなのかなあ。
とにかく我が家では大事な儀式なんだよね。(+_+)

お勤めが終わるといよいよ朝ご飯。
食堂に行くとお勤めの間にハナさんが料理を並べていてくれる。

ちなみにお母さんは自分で料理を作ることがほとんどない。
お父さんが言ってたけどお母さんが作れるのはサンドイッチぐらい
なんだって。お嫁に来た時はご飯もたけなかったって。

だからハナさんがお休みの日曜日の朝はいつもパン食なんだ。

でもってこの頃になるとお父さんが起きてくる。
のっしのっしって感じで、象さんみたいにゆっくりゆっくり廊下を
歩いてくるんだ。
そして眠そうにおはようって言って一番奥の一回り大きくて立派な
椅子に腰を下ろすんだ。新聞広げて。

[えっ?、お父さんはお勤めはしなくていいのかって]

いいみたいだね。それだけじゃないよ。我が家ではお父さんは全て
において特別なんだ。

[どう特別なのか?だって]

だって、遅くまで起きててもお母さんが文句言わないし、おかずも
僕たちより多いし、学校にもいかないし、お掃除も手伝わない。
とにかくいばってるんだ。

そのくせお姉ちゃんやセイちゃんにはやさしくて、お姉ちゃんなん
かお母さんに叱られそうになると「パパ~パパ~」ってお父さんの
所へすぐに逃げ込むんだ。
でも僕たちにはあんまりやさしくない。不公平だよ、まったく。
(¬―¬)

***************************

朝のしきたり < 第 2 回 > 

❈❈❈❈❈❈❈❈❈ [ 第2回 ]❈❈❈❈❈❈❈❈❈


僕の家では食事する場所に決まりがあるんだ。

お父さんが一番奥でその左隣にいとこのセイちゃんが座る。

セイちゃんはよその子だけどお母さんがいないしお父さんはお仕事
で忙しいからお家で預かったんだ。

家に来たのは小六の時だけど、その時から体が大きくてしっかり者
だったから誰もが「中学生かい?」って聞くくらいだよ。
お勉強もよくできるから、お母さんのお手伝いで僕たちのお勉強を
みたりもするんだ。
僕たちにとっては、本当のお姉ちゃん以上に優しいお姉ちゃんだと
思ってる。

で、その次の席が本当のお姉ちゃんの席。
セイちゃんとは二つ違いだけど、こいつは性格がまるで違うんだ。

陰険で見栄っ張りで、わがままで、おまけに乱暴者で、寝てる僕達
を平気で蹴ったり電気按摩にかけたりする。
お父さんやお母さんに言いつけたらお仕置きだけどそれでもわざと
やるんだ。ホント、意地悪なんだから。

学校でも男子より喧嘩が強いからメスゴジラ、通称メジラって呼ば
れて恐れられてるんだよ。

頭だって悪い。いつもテストのことでお母さんに叱られてるもん。
僕達は男の子だからお母さんが許してくれる合格点は90点以上。
お母さんは僕達が100点取ったぐらいじゃ褒めてくれないんだ。
それに比べれば、お姉ちゃんなんて女の子だから基準点も甘くて、
80点でいいというのに、それさえ取れないんだから、やっぱり、
馬鹿だよ、あいつは。

あっ、でもこれお母さんには内緒だよ。

お母さんは僕たちにきたない言葉を使っちゃいけませんってきつく
言うんだ。
お母さんだってお姉ちゃんのことぼろくそに言ってるのに僕たちが
言うと……

「あなたたちは天から授かった天使さまなのよ。天使さまは、天使
さまにふさわしい御心を持たなくちゃいけないわ」
なんて言うんだよ。

実は、お母さんが僕たちを産んだ日、二人の天使さまがお腹の中に
入って来た夢を見たんだって、以来、産まれた僕たちは天使さまに
違いないと信じてるんだ。

[えっ!さっきお母さんが般若真経をあげてなかったか?だって]

するどい。(@_@)

お母さんはその場その場で自分にもっとも都合のいい宗教を信じる
ことにしてるの。ご都合主義の人なのよ。
(^o^)

お母さんに言わすとね、別にお寺にお説教を聞きに行ったりもしな
ければ、日曜のミサに行くわけでもないから誰にも迷惑かけてない
って。
信仰はあるけど宗派の教義にがんじがらめになって暮らしたくない
んだって。

彼女にとっての宗教は一種のファッションみたいなもので、気に入
れば何でもありなんだよ。
(^0^)

食堂には大黒様と並んでマリアさまが飾られてるけど僕たちもそれ
を不思議に思ったことは一度もないんだ。
(^∇^)

お母さんは兄弟姉妹の中で唯一大学を出てない事にコンプレックス
を持ってるからね。きっと何かにすがりたいんだと思うよ。
それでもって「子供たちには何が何でも大学を」って心に決めてる
みたいなんだ。まったく迷惑な話さ。(;_;)

おかげで、わりと自由放任な家なのにお勉強とか言葉遣いだけは別。
我が家では宿題のほかに毎日たっぷり二時間は勉強しなきゃいけな
くて、怠け者はお仕置きって決まってるんだ。
(>_<)

言葉遣いだってお姉ちゃんには特に厳しくて、お外で乱暴な言葉を
使ってるとその場でスカートをめくってお尻を叩くんだ。
小学二年生頃まではパンツも脱がしてたらしいよ。

「お外でぶつのやめてよ」ってお姉ちゃんが抗議したら……
「あ、そう。だったら別の方法にしましょう」と言われて……
仏間に連れ込まれると、お線香が二本も燃え尽きるまでお灸をすえ
られちゃったんだ。
(T_T)

やられたことのない人にはわからないだろうけど、あれってたった
一回でも死ぬほど熱いんだよ。
あの太いお線香二本が燃え尽きるまでやられたら・・・(T_T)
想像したくないくらいの恐怖だ。
(>_<)

僕たちはメジラが嫌いだけど、こんな時は同情しちゃうね。
(;_;)

でも、お勉強のことでぶたれる時はあんまり同情しないの。
(¬―¬)

だってお母さんが見てないことをいいことにこっそり本を読んだり
マンガ描いてることが多いんだもん。自業自得だよ。
この間もお父さんからお仕置きされて、ものすごい声で泣き叫んで
ごめんなさいを何度も言ってるのを聞いたけど……

「ざまあみろ」
って思ってた(;_;)

お父さんが言ってたよ。
「課題をちゃんとこなせば取れるはずのお点が取れないのは茜が
怠けてるせいだ」
ってね。

まったくだよ(¬―¬)。
下手なマンガばかり描いてるから叱られるだ。
これからも受難の日々は続くね。きっと。

そういえば、この間お母さんが、
「今度怠けたら女の子の大事な処にもお灸ですからね」
って言ってたけど、女の子の大事な処って?いったいどこなんだろ
う?(^^;)

何だか話があっちこっちになっちゃったけど、そんなところがテー
ブルの向こう側ね。

対するお父さんの右側には僕たち男の子とお母さんが座ってるん
だ。

お母さんの左腰にみいちゃんがいて、僕が右腰にへばりついてる。
いつもお母さんの椅子に僕たちは椅子をくっつけて、三人で仲良し
して食べるんだ。

ただ、一応僕たちの目の前にもおかずがあるんだけどあまり自分で
取っては食べないよ。お母さんが次に何を食べさせるかを決めて、
その食べ物を乗せたスプーンが僕たちのお口の前まで来たら、
それをパクリとやる。

そして口の中で十回くらいもぐもぐやったら「おいしい(^o^)」
っていう笑顔を見せるんだ。こうするとお母さんが喜ぶからね。

[えっ!それじゃあ君たちはまだ赤ちゃんなのか?]

……そう、そう、この間から離乳食になったばかり(^◇^;)……って、
ち、違うよ!この時は小学二年生。でもまだ幼いからね。お母さん
も気を遣ってくれるんだ。

……はて?……だけど小学校を卒業するまではこのスタイルで食事
してたような?
(^∇^)

とにかくだ。この習慣は赤ちゃんの時からずっと続けてきたスタイ
ルなんだ。
だって、三年生まではみいちゃんと交代でだっこしてもらいながら
うまうましてたことだってあるんだからね。(*^_^*)
……って自慢するなってか。(^◇^)

お肉なんて固い物は特にそうだけどお母さんとの共同作業なんだ。

[えっ、お肉が固い?]

固いよ!鯨のお肉は最高だよ。
固くない肉はお母さんに自分でかみかみしなさいって言われちゃう
もん、つまんないじゃないか。(¬―¬)

固いお肉は、お母さんが一度お口にいれてもぐもぐやってから僕の
お口に入れてくれるけど、時間があれば僕たちの口から移してもう
一度お母さんが口の中で噛み噛みして戻してくれるんだ。
(^_^)

何だよう、その軽蔑した目は・・(^^ゞ

****************************


朝のしきたり < 第 3 回 >

❈❈❈❈❈❈❈❈❈❈ [ 第3回 ] ❈❈❈❈❈❈❈❈❈❈


僕たち二人がお母さんのお給仕で食事をするのは、ともかくも我が
家の習慣なんだ。
お父さんだってちゃんと認めてることなんだから。(^◇^;)

「いつまでも赤ちゃんじゃないんだから、そろそろお膝から…」(..;)
ってお父さんがそこまで言ったら、
「あなたには関係ありません。坊やは私が見てるんですから」(-。-;)
ってお母さんに言われてそれっきりになっちゃった。

お姉ちゃんだって、同じように食べさせてもらってたはずなのに、
僕たちがお母さんにやってもらってるのを見ると「みっともない」
って軽蔑するんだ。
一緒に食事をしてて箸を折りそうなくらい青筋たててることがある
もん。

「そんなのお母さんがやってくれることだもん、お姉ちゃんに関係
ないじゃないか」
って反論すると、あいつはお鼻の先をつんと天井に向けて黙っちゃ
う。
ひがんでるんだね、きっと。
(¬―¬)

だいたい僕たちは給食だってちゃん一人で食べられるし、お着替え
だってお母さんがいなくても大丈夫さ。
だけどお肉はお母さんのお口からもらった方がごはんは美味しい
し、お母さんと一緒にお着替えした方が楽しいもん。(^0^;)
もち、お母さんにならおOんOんを見られたってへっちゃらだよ。
σ(^◇^;)

お母さんに聞いたけど、そもそもお姉ちゃんは「自分でやりたい」
と言ってお母さんのお給仕を降りたんだろう?
それが今になって僕たちがお母さんの膝からなかなか降りないから
って、そんなこと言うのはおかしいよ。
お姉ちゃんだって僕たちがいない時はお父さんに肩車してもらって
中庭を散歩してるじゃないか。知らないとでも思ってるのか。
(¬―¬)

そんなこと五年生にもなった女の子がやってもらうことじゃない
よ。僕たちと同じじゃないか。

僕たち子供はみんなお母さんの愛の中で暮らしているからね。お母
さんのしてくれることが何でも好きなんだ。
お母さんと一緒にお風呂にも入るし、一緒にネンネだってするよ。
赤ちゃんじゃないけどね。

どうだ、うらやましいだろう。
って・・ん?・・君、また軽蔑のまなざしで僕を見たね。(^_^;)

なになにお姉さんの言っているのが当たり前な気がするって。
いくら小学生でも節操がなさすぎるんじゃないかって。
(*_*)

ふうん、そういうもんかなあ。
じゃあもっと驚くこと言ってあげようか。
(^_^)

実は僕たちネンネの時はお母さんの本当のおっぱいを代わりばんこ
にしゃぶってるんだ。
もちろんミルクは出ないし、お母さんからは「いけませんよ」され
ちゃうけど、これって一種の快感なんだよ。
結局、小六までやってたけど、その頃になるとさすがに僕たちの方
が変な気持ちがするようになったからやめたんだ。
これってお姉ちゃんにはないしょだよ。∈^0^∋

[えっ、お母さんには内緒でなくてもいいのか?]

だって、お母さんは知ってるもん。
(^◇^)

お母さんに「変な気持ちがする」って言ったら、
おOんOんに手をやって、
「そう、坊やたちもやっと大人になったのね」
ってそれだけだよ。

お母さんへの気持ちは昔のままだったんだけど、この頃からなんと
なくヤバイ気がしてやめたんだ。
お母さんはお勉強や言葉づかいにはうるさかったけど、あとは甘や
かし放題。とっても優しいよ。

[まるで赤ちゃんみたいだ?!]
(+_+)

かもしれないね。
(^0^)

そりゃあお母さんに反発したことも一度や二度じゃなかったけど、
そんなときはお母さんが大きく息を吸ってからこう言うとたいてい
解決するんだ。

「おだまり、がたがた言うならお灸だよ」
(゜◇゜)ガーン
ってね。
(^0^)

それでも効かないなら奥の手。

お母さんが恥も外聞もなく泣いちゃうんだ。
「ちいちゃんとみいちゃんがいじめる」
ってね。
(T_T)

これで問題が解決しないなんてことはただの一度もなかった。
(^∇^)

僕たちだって馬鹿じゃないからお母さんが泣き真似してるのはわか
ってるけど、でも、そうされると、やっぱ、ごめんなさいなんだよ。
(;_;)

そうするとお母さんの顔は一変するね(^.^)

僕たちをこれでもかって力で抱き締めほっぺをすりすりする。
(+_+)

きっと僕たち親子は世間では、過保護とか、過干渉って呼ばれてる
のかもしれないけど僕たちはお母さんの赤ちゃんで幸せだったよ。
だって、お母さんは何も言わなくても僕たちの気持ちが理解できる
もん。

夜は必ずお母さんの布団で寝るけど、その時今日あったことを全部
お話するんだ。
するとお母さんが困ったことは全部やり方を教えてくれる。
「それはこうしましょうね」「先生にはこうご返事なさい」「お友達
にはこう言って説明なさい」
ってな具合でどうしたらいいか教えてくれるんだ。
そしてとっても大事なことは「お言いつけ帳」というのがあって、
そこに書いてあるのを予行演習してから行動するんだ。
(^^;)

こんなこと普段は誰にもお話ししないけど、特別に話してもうた。
(⌒o⌒)

君はこんなの読んだらこいつら学校ではどんな暮らししてるんだろ
うって興味がわくかもしれないけど、学校はもちろん一歩でも外に
出たら二人ともこんなにでれでれはしてないよ。

むしろ近所じゃ硬派で通ってるんだ。
[…………………]
なんだよ、そのにやけた笑いは……
(¬―¬)

信じてないな。これでも毎年一学期と二学期はミイちゃんと交代で
学級委員なんだぞ。
でも無理ないかこんな話聞いちゃうと信じられないかもしれない
ね。
(;_;)

だからお姉ちゃんが笑うんだ。
友達と口喧嘩していても、お母さんが、
「おだまり」
って言うと、ぴたっと黙っちゃうから。
まるでマンガだって。

かもしれない。
(⌒o⌒)

でも、反抗したこともあるんだよ。
あんまりだと思ったから、抗議の意味を込めてわざと二人でお漏ら
しをしたら、お返しの方がきつかった。

その時すぐに二人のパンツは取り替えてくれたんだけど、
「こんなことが二度とできないようにお腹をからっぽにしておきま
しょう」
って浣腸されちゃったんだ。
(?_?)エ?

それまで未経験だったからね。驚いたのなんのって……、二人とも
パニックになっちゃってた。
\(◎o◎)/!

「いくらかわいい天使さまでもやっていいことと悪いことがありま
すよ」って、
さんざんお説教されて、(`_´)
その間、おトイレを許してもらえなかったんだ。(/_;)

なんとかお漏らしせずに用は足したけど二人並んでおまるだった
し、お母さんはこれ以上ない怖い顔でおまるにしゃがんだ僕たちを
睨み付けてるし、大変なお仕置きだったんだ。(^^ゞ

****************************

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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