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駿と由梨絵の物語

駿由梨絵物語

 < 第 6 話 >

 由梨絵の部屋は八畳間。

 昔のことで床はフローリングではなく畳敷き。その畳に大きな
ペルシャ絨緞が敷き詰められているのは先ほどまでいた居間と
同じ。昔はこんな部屋の造りが多かった。

 壁一面を覆うガラス戸付の本棚や勉強机、ベッドなどはすべて
木製でマホガニー。いずれも子供が使うにしては大振りだから、
多分、伯爵から譲り受けたものだろう。いずれも、まだ物の価値
が分からない子供が使うには贅沢過ぎる家具ばかりだ。

 これでもし、犬のぬいぐるみやピンク色のスタンド式ハンガー
ラックに可愛い制服が掛かっていなければ、『なるほど、ここが
伯爵の書斎か』と、誰もが思うに違いなかった。

 ただ、それはあくまで大人の場合で、駿君の興味は、そこには
ない。

 「へえ~講談社の『少年少女文学全集』がある。こちらの方が
学校の図書館にあるのより新しい版だね。……あっ、ブリタニカ
……少年朝日年鑑も毎年揃ってる。……凄いなあ~……これって、
おじさんが揃えてくれたの?学校の図書室と同じじゃないか」

 駿ちゃんは部屋に入るなり、天上まで届くような大きな本棚を
見上げると、その場で釘付けになっている。

 そんな羨望の眼差しを向ける駿ちゃんとは対照的に、由梨絵は
あっさりしたもので……
 「なんだ駿ちゃん、そんなご本に興味があるんだ。いいわよ、
見たきゃ見ても……」

 「いいの?」

 「だって、どうせ、私はその中にある本は読まないから」

 「どうして?」

 「だって、学校のお勉強にそんなの必要じゃないし……私には
教科書と参考書とマンガがあれば十分。だいいち、私、そんなの
見てる暇がないもの」

 「そんなに忙しいの?」

 「忙しいなんてもんじゃないわ。殺人的なスケジュールなんだ
から……」

 「殺人的?オーバーだなあ」
 駿君の目が泳ぎ、少し笑ったようにも見える。

 「オーバーじゃないわよ。ねえ、私、いくつ習い事抱えてると
思ってるの?」

 「いくつって……学校でやってるあのピアノだけじゃないの?」

 「違うわ。バカいわないでよ。あれは学校でのことでしょう。
それだけじゃないんだから……お琴、いけばな、日舞、英会話、
書道、水泳、……あっ、絵画教室も……」

 「す……凄い……それ、全部一人でやってるの?」

 「そう、一日二つ掛け持ちしてるところだってあるんだから。
一週間で習い事のないのは今日だけ。土曜日の午後だけなの」

 「へえ~~そんなに……」
 駿君は驚いたあと、続ける。
 「でも、やりたいことがそんなにたくさんあるなんて、君って
欲張りなんだね」

 「何言ってるの。あんた、バカじゃないの!」
 由梨絵はベッドに飛び乗ると、ポンポンとその場でジャンプ。
駿君の顔を呆れ顔で見下ろす。
 それを数回やってから自分もベッドに腰を下ろした。

 「変なこと言わないでよ。一つや二つならともかく、そんなに
沢山のこと、いっぺんにやりたいわけないでしょう……あ~あ、
駿ちゃんって何にも知らないのね。」

 「やりたいわけないって……じゃあ、なんでやってるのさ」

 「だから、おじ様に言わせると、この家で暮らす以上それなり
の素養や教養が必要なんだって」

 「お父さんにやらされてるんだ」

 「ま、そういうことね。……でもお父さんじゃなくてオジサン」

 「それなのに、君、給費生なの?」

 「そうよ、いけない?」

 「だって、給費生っていうのは、家が貧しくて学費が払えない
子がなるんじゃないの?……君んち、そんなに貧しいの?」
 駿君は由梨絵の部屋を見回す。

 でも、部屋のどこを見ても、そんな感じは微塵もなかった。
 ここは見るからにお嬢様って感じの部屋だからだ。

 「さあ、どうかな。実のところおじ様がどれくらいお金持ちで、
どれほど貧乏か、なんてこと、私には分からないの。おじ様は、
『私も戦争で多くの物を失ったが、まだまだお前を育てるだけの
お金は残ってるから安心しなさい』って言ってるわ……」

 「ふ~~~ん」

 由梨絵は、また自分のベッドをトランポリン代わりにして飛び
跳ねている。この時、俊君の目に由梨絵の白いパンツがチラッと
見えた。
 自宅にいる気楽さからだろうかベッドに腰を下ろす時も立膝だ。

 もちろんパンツが見えたと言ってもほんの一瞬、偶然の出来事
なのだが、その瞬間、駿君の顔が思わず笑顔になる。
 駿君だって男の子ってことだ。

 さて、話を戻そう。
 今も昔もそうだろうが、親の経済状況を細かく知ってる子ども
なんて、実はそう多くはないのだ。

 「……でもさあ、変だよね、こんな大きなお家に住んでるのに
わざわざ給費生だなんて……」
 駿君が不思議がると……

 「みたいね……でも、うちの場合そうなの……おじ様からは、
『もし、おまえが給費生でなくなったら、学校はやめさせて施設
に入れる』って言われてるの」

 「ふ~ん、厳しいんだ。……で、もし、学校をやめさせられて、
……それから、どうなるの?……施設に行くの?」

 「さあ、知らないわ、そんなこと……考えたくないもの。……
今は、おじ様に気に入られるように頑張るだけよ」
 由梨絵は両手を頭の後ろで組むとベッドに仰向けに倒れこみ、
焦点の定まらない目で天井を眺める。

 『そうか、由梨絵ちゃんって、こんな立派なお屋敷に住んでて
も、そんなにパッピーじゃないんだ』
 駿君は口に出さなかったが由梨絵ちゃんに思わず共感していた。

 思えば、駿君も由梨絵ちゃんも同じ孤児。舎監のおばちゃんや
シスター先生、みんなから優しくしてもらってるから寄宿舎での
生活にもそんなに不満はないけど、もし本当はやりたくないこと
を先生達から『どうしてもこれをやりなさい』って命じられたら
……『僕、そんなの嫌です』って、きっぱり言えるだろうか……

 そこは駿君にしても自信がなかった。

 もしこれが本当の親なら、……少しぐらい我がまま言っても、
命じられたことに膨れっ面しても、親子の絆が断ち切られること
ないって信じられるんだろうけど、どんなに親切にしてもらって
いてもこれが他人となると、心が勝手にブレーキをかけてしまう。

 駿君だって、寄宿舎で知らず知らず大人たちに気を使っている
自分の姿が分かっていた。

 そんな実の親に育てられていない者同士。俊君は由梨絵ちゃん
に普段からシンパシーを抱いていて、この日も彼女がお仕置きを
受けると聞き、園長室の近くで様子を窺っていたのだ。

 「ねえ、由梨絵ちゃんはおじさんからお仕置きってされたこと
ってあるの?」

 「えっ、!?」
 突然尋ねられて、由梨絵は困惑する。

 『ない』と言えば嘘だけど、『ある』とは言いたくなかった。
 当時は、親や教師が体罰で子ども正しい道へ導くことは当然の
躾と考えられていたから、由梨絵だってそこは例外ではなかった
のだ。

 ましてや二人が通っていた学校は、その教義で子供への体罰を
是認するキリスト系の私立学校。一つの過ちが、学校でぶたれ、
家でぶたれ、あげく日曜日のミサの席でもぶたれる、なんてこと
まである世界だった。

 お仕置きが、人を代え場所を代えて一度や二度ではすまないと
いう現実を二人は共有していたのだ。

 しかし、それでも女の子は、自分の恥ずかしいことを他人の…
それも男の子になんか絶対に口にしなかった。

 だから、どう答えてよいものか、迷いながら黙っていると……
二人とは関係ない場所から声がする。

 「俊君、女の子ってのは聞分けが良いからね、滅多にお仕置き
なんて受けないんだ。由梨絵だってそれは同じさ」

 それは今まさに駿君のために机を運んできた伯爵の口から出た
言葉だった。

 「よし、これでいいだろう」
  伯爵は間に合わせにしては立派すぎる机と椅子を由梨絵の机
の脇にデーンと備え付ける。

 二人仲良く勉強しなさいというわけだ。

 「さあ、駿君、君はこの机で宿題をやってごらん」

 机を二つ並べて、二人は学校から出された課題をこなし始める。
 伯爵はその様子を口に出さず後ろでただじっと見てつめいたが、
二人の力の差は歴然だった。

 例えば算数のドリル。
 一応、一時間が規定時間だが、由梨絵はそれを30分もあれば
解けるだろう。これだってクラスの中では早い方かもしれない。
ただ、同じ問題を、俊君にかかれば鼻歌交じりで僅か12分だ。

 『やれやれ、もう終わったみたいだな。ほとんど解くスピード
が大人なみだ。これじゃ由梨絵がかなうわけがない』

 伯爵が俊君のスピードに驚きつつ、由梨絵の様子も気になって
しばしそれを見ていたのだが……

 『おや?……あいつ、どこへ行った?』
 気がつくと、駿君が席についていない。

 彼は、ドリルを仕上げると、さっさと席を立って本棚の方へと
移動。勝手にガラス戸を開くと、ブリタニカや少年朝日年鑑など
を手当たり次第に物色して床に置き、彼が腰を下ろした床には、
すでに置けるだけの本が積み上げていたのである。

 伯爵が再び視界に捕らえた駿君は、まるでウォークマンを聞い
てるように身体全体が小気味よく揺れている。聞いたことのない
メロディを口ずさみ、顔は笑っている。彼を見ていると、まるで
マンガでも読んでるかのように楽しげだ。

 『なるほど、これが一人漫才というやつか。確かに楽しそうに
見えるが、目だけは食いつきそうな勢いで本を読んでる。今にも
獲物に飛び掛ろうとしている、ヒョウかライオンってところだ。
彼にとっては世にある知識がエサ。今は新しい知識が次から次に
頭の中に入って来てるから、ご機嫌って顔だな』

 伯爵は、本来、由梨絵の為に買ってやった本を駿君がむさぼり
読んでいる姿を見ても不快感はまったくなかった。むしろそれを
微笑ましく感じていたのである。

 ところが……
 次の瞬間、俊君はそれまでとはまったく別の種類の本に手を出す。

 『あっ、駿ちゃん、それは違うぞ』
 思わず、伯爵は声を出しそうになったが……

 『ま、いいか』
 と、次の瞬間は苦笑してそれを許してしまう。

 駿ちゃんが手にしたのは、由梨絵がつけていた……というか、
つけさせられていた日記。
 表紙が革張りで立派そうに見えるがこれはそもそも本ではない。

 このノートは由梨絵がまだ幼稚園の頃、文章を書く習慣を身に
つけさそうと伯爵が強制的につけさせてきたもの。
 よって内容は陳腐、文章も稚拙、俊君の知的好奇心を刺激する
ようなものではなかった。

 だからだろう、伯爵は駿君がそんなものすぐに厭きると思って
いたのだ。

 『???』

 ところが、伯爵のその思惑は外れる。
 俊君がその本をなかなか手放さないのだ。いや、それどころか、
気がつけば俊君はその本を読み返している。それはもう熟読して
いると言ってよかった。

 と、ここで、由梨絵があたりの異変に気づく。

 彼女は机を並べていた俊君がいないことに、今の今、気づいた
みたいで、あたりを見回し、彼を見つけて、その危険に恐怖した
のである。

 「ちょっと、何するのよ!!!」
 由梨絵は血相変えて俊君に襲い掛かった。

 「何、勝手に人のもの見てるのよ!!」
 捨てゼリフを残して日記帳を取上げる。

 「……ごめん……」
 駿君も、一応、謝りはしたものの、どうやら、解きすでに遅し
の感だった。

 駿君は計算だけが早いのではない。文字を読むのもそれを理解
するのも人並み外れて早いのだ。
 だから、由梨絵が日記帳を取り戻した時には、すでに俊君の頭
の中には、その日記の内容が完全にインプットされていたに違い
なかった。

 日記は取り戻せても、その記憶までも取り返すことはできない
わけだから由梨絵にしても万事休すだ。

 昔の恥ずかしい記憶が、これからずっと劫駿君の頭の中に残る
のかと思うと由梨絵は全身鳥肌が立つ思いだったのである。

 ところが、そんな由梨絵に対して伯爵は冷たい一言を言い放つ。

 「由梨絵、まだドリルが終わってないんだろう?」

 「えっ!?……あ、はい、そうです」

 「だったら、机に戻りなさい。俊君はもう終わったから他の事
始めたんだよ」

 「はい、おじ様」
 由梨絵は日記を抱いて素直に引き下がるしかない。
 このあたり、良家の子女は決して悪あがきをしなかった。

 すると、由梨絵がドリルの宿題に戻ったのを確認してから……
伯爵は駿君に対して手招きをする。

 そして、そばまで来た駿君の肩を抱くと、何も言わずに部屋の
外へ……

 廊下を少し歩き、普段は使われていない部屋へと案内する。

 そこは床の間のある部屋ではあったが、中に置いてあるのは、
古ぼけた家具や大きな花瓶、埃をかぶった掛け軸や鳥の剥製など、
どうやら納戸として使われている部屋のようだった。

 二人は雑然と置いてある古道具の数々をよけながら窓辺の方へ
と進んで行く。

 「ここまでくれば、由梨絵にも二人の声は聞こえないからね。
………いいから、そこへ座りなさい」
 先に座った伯爵の勧めに応じ、駿君も窓辺に置いてある、これ
また埃を被った古ぼけたソファに腰をおろす。

 どうやら、伯爵は駿君と男同士の話し合いが持てる場を作りた
かったみたいだった。

 「ねえ、駿君。あの本は由梨絵が幼い頃に書いてた日記なんだ」

 「みたいですね。きっと幼稚園の頃ですよね。文章がとっても
上手だったから驚きました。僕は、幼稚園の頃、あんなに上手な
文章は書けなかったからビックリしました」

 「ああ、あの日記の文章かい。あれは、私が考えたものだよ。
由梨絵には、私の言う通り書きなさいって、命令しただけなんだ。
その方が書き方の練習にもなっていいだろうと考えてね。だから
原稿は私、書いたのはあの子ってわけ」

 「じゃあ、あれって本当のことじゃないんですか?」

 「あれって?」

 「幼稚園の帰り道。峠道で車を止めさせて、崖の傍まで行って
オシッコしたって書いてあったから……」

 「ああ、それね。もちろん本当だよ。あの子は、幼稚園時代、
はお腹をこわすことが多くて、ある日の帰り道、家までもとても
我慢できないって言うから、仕方なく人気のない崖の近くに車を
止めて用を足させたんだが、どうやら景色の良い崖の上でお尻を
捲るのが気持ちよかったらしくて、その後は、峠道に差し掛かる
たびに『オシッコしたい』と言うようになってしまってね……」

 「女の子がですか?」

 「女の子と言っても、まだ赤ちゃんみたいな時期だからあまり
恥ずかしいとは感じてなかったんだよ。私の方は『こんな処でも
誰かに見られるかもしれないからやめなさい』って叱ったんだが、
あの子もいったん言い出すときかなくて、往生したよ」

 「そのほかにも、色々書いてありましたけど……」

 「みんな読んだのかい?あんな短い時間で……」
 伯爵は笑うしかなかった。

 「ええ、まあ、……ざあっとですけど……」
 駿君は伯爵の苦笑に、一瞬まずかったのかなあとも思ったが、
今さらどうすることも出来なかった。

 「凄いな……君は……」
 伯爵は開いた口が塞がらないとでも言いたげに首を横に振る。

 「ま、読んだのなら仕方がない。だったら、分かると思うけど、
あの日記の最後は、たいてい、その日どんなお仕置きを受けたか、
が書いてあっただろう?」

 「ええ、まあ……」

 「あの日記は、私があいつをお仕置きした時に、反省の意味も
込めて、ことの顛末を日記として書かせたものなんだ。私がまず
子供らしい語り口の文章を考え、それを由梨絵が清書させたんだ。
だから由梨絵のやつ、あの日記を他の人に見られたくないんだ。
……それはわかるだろう?」

 「…………」
 駿君は何も答えなかったが、ちょっとビックリした。

 だって、あの日記にはとっても厳しいお仕置きがこれでもかと
いうくらいたくさん書かれてあったからなのだ。

 『こんなに優しそうな伯爵様なのにあんな厳しいことするんだ』
 駿君は思った。

 給費生の駿君にしてみたら、由梨絵ちゃんというのはお姫様。
 そのお姫様が、あんなことやこんなことまでお仕置きでされて
……そんなこと、にわかには信じられなかったのである。

 「そこでだ、知れてしまったことは仕方ないとして、あの日記
の中身は誰にも言わないで欲しいんだ。……由梨絵も恥ずかしい
だろうから」

 「……はい、大丈夫です。誰にも話しませんから……」
 駿君は唾を一口飲んだが、それが終わると二つ返事で答える。

 駿君があまりにあっさりし承諾したのでちょっと拍子抜けして
しまった伯爵だったが、やがて、笑みを浮かべながらこう言うの
だった。

 「ありがとう、君はまだ11歳だというのに、もう立派な紳士
なんだな。どこでそんな素養を身につけたのか……羨ましいよ。
うちの由梨絵なんかそれに比べたらまだ山猿だな」

 「…………」
 伯爵は謙虚にそう言っただけだが、この時、駿君の顔は真っ赤
になっていた。

 伯爵の言った由梨絵と山猿、二つの言葉が頭の中でリンクして、
駿君、由梨絵ちゃんの裸を連想していたのである。

 「目を開けてしゃべっている時はそれでも子供とわかるんだが、
目を閉じてしまうと、まるで大人と話しているような落ち着きが
あるから感心するよ」

 伯爵の褒め言葉に、駿君は、一瞬、戸惑った顔になったものの
……

 「…………ありがとうございます」
 結局は、お礼を言うことにした。

 すると、今度は……

 「そんな大人びた君にこんな事を頼んだら、君がどう思うか、
ちょっぴり心配なんだが……」

 「?????」
 伯爵の思わせぶった前振りに駿君はきょとんとした顔になる。

 「私の膝にこないか……君を抱っこしてみたいんだ」

 伯爵は古びたソファーにあらためて腰を下ろすと、手招きして
駿君を待ち構える。

 「………………」
 その瞬間、言い知れぬ不安が駿君の心を縛る。

 「なんだ、ダメかい?」
 決心がつかないまま、伯爵の言葉を聞く。

 これがもう少し幼い頃なら、駿君だって何も考えずにその膝に
飛び乗ったかもしれない。しかし早熟の彼には分別がありすぎた。

 『伯爵は悪い人には見えないけど……』
 駿君は思う。
 伯爵は今日であったばかりの一人の大人。つまり他人なのだと。

 ただ、その一方で、
『お世話になった伯爵の望みはきいてあげなければ…』とも思う
わけで、彼なりの葛藤がそこにはあったのである。

 そしてこれはあくまで理性の判断。駿ちゃんは恐る恐る伯爵に
近寄っていくと、ゆっくり回れ右。そうっと、自分のお尻を伯爵
の膝に下ろしてみるのだった。

駿と由梨絵の物語

 駿由梨絵物語

 < 第 5 話 >

 シボレーは山を降り、いくつかの街中を抜けて、小麦畑が続く
校外の道へ……

 かれこれ一時間ほど走ると、はるか先の山腹に何やらチラチラ
白いものが見えてくる。

 『何だろう?』
 駿君が思っていると……

 実はその白いチラチラは、小高い丘の周囲を囲む長い長い白壁
だとわかる。
 「わあ、すごく大きな家、まるでお城みたいだ」
 駿君のボルテージが上がる。

 ギアがセカンドに入りシボレーは山道へ。

 そして、車が防風林となっている林を抜けた時だった、そこに
忽然として『お屋敷』という名がぴったりの洋館が現れたのだ。

 『わっ!でっかい……えっ!?……何もしてないのにいきなり
開いた』
 駿君の驚きをよそに、天を突くような巨大な鉄柵が開いて車を
敷地の中へと迎え入れる。

 さらに10分ほど山道のドライブを楽しんで、あげく到着した
のは20台のもの車が一度に泊められる広い広いガレージだ。

 「さあ、着いたよ」

 小学生にとって約一時間の通学はけっこう長い。
 通いなれた由梨絵は退屈な時間から開放されて一目散に玄関の
方へと駆けて行った。

 これに対し駿君は、久しぶりの小旅行がよほど楽しかったのか
興奮冷めやらぬ様子で顔が少し上気している。
 そして下車したあとも、名残惜しそうに居並ぶ外車たちを見学
していたから、伯爵も尋ねる。

 「自動車が好きかい?」

 「やっぱり伯爵様はお金持ちなんですね」
 彼の甲高い声がガレージの天井に当たって響く。

 「どうして?……こんなに沢山の車を持っているからかね?」

 「はい」

 目を輝かせる駿君に伯爵は笑った。
 「(ははは)これは売り物だよ。これが私の今の商売なんだ。
今の世の中、伯爵様では食べていけないからね。昔の伝を頼って
進駐軍が日本で乗り回していた中古車を安く買い取って来ては、
こうして売りさばいているのさ。……でも、さすがに男の子だな。
由梨絵なんか、ここにある車が全部入れ替わった時でもまったく
気づかなかったよ。そのくせ、胸ポケットのハンカチが変わった
だけでも、趣味が悪いとか、似合わないとか言い出す。髪型とか
衣装にはとても敏感なんだ。男の子と女の子の違いだな……」

 伯爵は駿君の小さな肩をだいて裏玄関へ。

 実はこの家、表玄関というのが別にあるのだが、そこを使うの
は大事なお客様がみえた時だけ。駿君もお客様といえばそうだが、
まだ子供なので正規の玄関は使わせてもらえない。それどころか
伯爵様でさえも、日常生活では表玄関を使わず、この裏玄関から
出入りするのが普通だったのである。

 もっとも『裏玄関』といっても庶民の家にある勝手口のような
ものを想像してはならない。そこは、まるで老舗ホテルのロビー
のような落ち着いたたたずまい。広さだけでも庶民の住宅の玄関
なら5つ6つ分はゆうにあろうかという立派なものだった。

 さて、その玄関先で……

 「お帰りなさいまし」
 「お帰りなさいまし」
 「お帰りなさいまし」
 異口同音に挨拶する女中たちに混じって一人の婦人がその女中
たちの前に出てきた。

 彼女は伯爵が差し出す小さな鞄を受け取ると、今度は伯爵の腰
のあたりに見え隠れする少年の姿に気づく。

 「あら、珍しい。お客様ですのね」
 彼女ははにかむ男の子を見て笑った。

 「こんにちわ、野上駿一といいます」
 緊張して奥様に挨拶する駿君。

 「由梨絵のクラスメイトだ。今日はここに泊めるから、面倒を
みてやってくれ」

 「さようでしたか。はい、承知しました」
 奥様はそう言って、二人を奥の居間へと案内する。

 もちろん、伯爵にしてみたらここはご自分の家なのだから案内
などそもそも不要なはずだが、そこが旧家の奥ゆかしいところ、
まるで初めてお見えになったお客様のような扱いで、二人は長い
廊下を進んでまずは居間へと向かうこととなった。

 『えっ!?』
 すると、駿君は長い廊下を歩くうちに、あることに気づいたの
である。

 玄関を入った時、そこはたしかに洋風の建物だったはずなのに、
それが、いつしかそれが和風のしつらえに変わっているのだ。

 伯爵家は、江戸時代にはお殿様だったお家柄。お城は手放して
しまったが、今、こうして御住まいのお屋敷だって、庶民サイズ
のお家ではない。古くて、大きくて、とにかく迷子になりそうな
くらい広いのだ。

 『えっ!?どこから変わったなんだろう』
 駿君は後を振り返ったが分からなかった。

 それを見て伯爵が尋ねる。
 「ん?どうしたんだい?……広いから怖くなったのかな?……
大丈夫だよ、帰る時は帰る時でちゃんと送ってあげるから……」

 「いえ、そうじゃなくて……入って来た時は、たしか洋館だと
思っていたのに、今、ここは違うから……」

 「ああ、そういうことか……もちろん、江戸時代に建てた時は
ここも純然たる日本建築だったんだけど、明治の頃になると洋館
の方がかっこいいという時代があってね、玄関部分は木造洋館風
に改築したんだ。チーゲル瓦や飾り窓、庭に西洋芝を張ったり、
噴水もあっただろう。今はないけど、玄関にバルコニーがあった
時代もあるんだ。……その後は何度か手直しして、今は、玄関の
あたり三分の一が洋風、残りは和風の造りかな。和洋折衷という
やつだ。だけど、これから行く居間は、庭が美しく見えるように
障子をガラス窓に変えたけど、造りそのものは江戸時代に建てた
時のままになってる。私はどちらかと言うと和風の方が落ち着く
から、居間はいじらなかったんだ」

 着いてみると伯爵の言った通りだった。
 伯爵の住まう居間は、昔ながらの日本建築。大きなガラス窓を
通して見える中庭も古風な日本庭園だ。

 雪見灯篭が苔むし、築山の紅葉はまだ蒼く、泉水池では大きな
錦鯉が跳ねている。鹿威しや水琴窟の音が心地よく、大人たちに
とっては落ち着ける場所になっていた。

 畳敷きの広間には厚いペルシャ絨毯が敷かれ、年代物のソファ
に腰を下ろした大人たちの歓談しているのが大きなガラス窓越し
に見える。声も部屋の中から漏れていた。


 部屋では由梨絵の家庭教師である西條先生や伯爵の古い友人の
合沢広志、踊りの師匠である花井桂秀など、いずれもこの家の主
とは親しい関係にある大人たちに混じって由梨絵までもがすでに
大人たちとの会話を楽しんでいた。

 そこへ主が見知らぬ子を連れてきたので、その瞬間だけは盛り
上がったが、もともと外交的な性格ではない駿君は口数も少なく
そんな大人たちの社交の場にあっては、やがて、蚊帳の外に追い
やられてしまう。
 そのうち、欠伸を連発しながら、どこかつまらなさそうに大人
たちの会話を聞いているだけになっていた。

 ところが、そんな彼にもやがて興味を示すものが現れる。

 それは中庭に隣接するトイレを借りた時のことだった。
 用を足し終え、手を洗おうとすると、その手水の水が玉砂利に
落ちると、そこで高い音を響かせている。

 『どうしてこんな音がするんだろう?』
 駿君、どうやら地中から響いてくる水琴窟の不思議な音に興味
を示したみたいで、しきりに聞き耳を立てては音の出所を探って
いた。

 しかし、とうとう分からずじまいで居間へ戻ることになる。
 すると、その間にお茶とお菓子が運ばれていた。

 「オヤツにしよう」
 伯爵に誘われて……

 「はい、……えっ、これ全部食べていいの」
 駿君の目が輝く。
 彼の目の前にチョコレートやチーズが山盛りになった大きな鉢
がいくつも置いてあるのだ。

 「やったあ~~」
 そこは11歳の少年、久しぶりに見せる子どもらしい顔だった。
 すると、この様子を見て周囲の大人たちの顔が一様にほころぶ。

 大きな鉢に山盛りに盛られたお菓子というのは、庶民感覚では
ごく自然な光景に映るかもしれないが、これは、今がフランクな
人たちの集まりということで仕掛けた伯爵の演出。普段のお茶会
でなら、お菓子は一人分ずつお皿に取り分けられて出てくるのが、
この世界の常識だった。

 駿君の場合も、寄宿舎で出されるおやつは小皿に盛られて各自
分出てくる。おかわりは自由だが全員の分が一つの皿で出される
ことはないのだ。
 そこで駿君、目の前にある大鉢を見てこれが全部自分の分だと
勘違いしたみたいだった。
 
 しかし、子どもにそう言われたからと言って『ダメだ』なんて
言う大人はいないわけで……

 「どうぞ、どうぞ、どれでも好きなものを好きなだけお上がり
なさい。全部食べてもいいのよ」
 大島をさらり着こなす花井桂秀が勧めればそれだけでその場が
なごむ。

 三つ揃えスーツにスキンヘッドの合沢も自分の近くにあった鉢
をわざわざ駿君の前に持って行って……
 「さあさあ、チーズも生ハムもある。遠慮しなくていいんだよ」

 「………………」
 ところが、今度は肝心の駿君が二の足を踏んでいる。どうやら、
自分が笑われていることに気づいたみたいだった。

 すると、縮こまってしまった駿君を見て合沢が……
 「どうしたの?」

 合沢はさらに言葉を繋いで……
 「そうかそうか、ここにあるクッキーやチョコレート、チーズ
なんてのは寄宿舎で普段食べてるものばかりだろうから、君には
珍しくもないだろう。今度来る時は、東京のデパートで何か調達
してあげるよ」

 駿君の勘違いをそのままにして合沢は豪快に笑う。

 彼の先祖は恵庭藩では代々家老の家柄で、伯爵からみれば臣下
に当たるが、伯爵とは馬が合うらしく幼馴染としてずっと親交が
あった。

 「さあ、いいから手を出しなさい」
 伯爵も勧めて、駿君はようやく菓子鉢に手を伸ばす。どうやら、
ここにはこれ以外にお菓子の皿はなく、誰もが自由にお菓子鉢に
手を伸ばしていいのだと、駿君、やっと気づいたみたいだった。

 すると、今度は一転、チョコレートをとても美味しそうに頬張
ってみせたのである。

 「なんだ、そんなに美味しいかい?」

 「はい、とても……」

 「でも、これはいずれもあの修道院からの贈答品だからねえ、
君だってオヤツに食べたことがあるんじゃないのかい?」

 「えっ!?あれと同じなの?……だけどオヤツに出てくるのは
全部形が崩れてて包装紙にも包んでないし、こんな風にちゃんと
したものは食べたことないから……」

 「なるほどオヤツには製品にならなかった物が出てくるのか」
 「おやおや、かわいそうに」
 「おそらく味は変わらんだろうが、見た目も大切な味の一部と
いうわけだな」

 大人たちは穏やかに笑っている。
 その笑顔のままが大人たちの旬君に対する気持だった。

 合沢氏が駿君に尋ねた。
 「時に、君は学校では有名な作曲家なんだろう?……たしか、
本も出してるよね。ピアノの練習曲を集めたやつ……」

 「あれは違うんです。僕が作ったメロディーラインをピアノの
安藤先生が編曲してくださったんです。だからあれは安藤先生の
ご本で……もとが僕の鼻歌というだけなんです」

 「おい、おい、小学生の台詞じゃないな。ずいぶんとしっかり
した言葉で謙遜してくれるじゃないか」

 合沢氏が再び天井を向いて笑うと、花井師匠も……

 「ああ、私も思い出しましたわ。あなた、確か給費生の野上君
よね。……そうそう、曾御爺様はあの道庵先生」

 「道庵って……蘭方医で初めて御殿医となった……あの」

 「そうですよ。伯爵、ご存知ありませんでしたか。この子は、
あの道庵先生のひ孫なんです」

 「時代がずれているから先生に直接お会いしたことはないが、
先々代の恒明様が、家臣の反対を押し切る形で抜擢されたことは
……でも、まさか、この子がひ孫だとは……そうかあ、この子が
そうなのか」
 伯爵もまた感慨深げだった。
 
 「何だ、それでこんなに利発なんだ。いやね、先ほど水琴窟を
あれこれ調べていた時から、これはただ者じゃないなと睨んでた
んだが……」

 「おやおや、そんなことでわかるんですか?」

 「わかるさ、自分に自信のある者は普段から視線が鋭く、目の
輝きが違うからね、会ってすぐにわかるんだ。それにまだ小学生
ぐらいだと知識も体力も大人にはとうてい及ばないから、大半の
子は大人と対峙する時、どこか弱腰になるものだが、彼にはそれ
が微塵も見えない。私が彼に何か質問しようとして視線を送ると、
自信にあふれた視線が返って来る。こんな子が優秀でないわけが
ないじゃないか」

 「さすがに上場企業の社長さんともなると違いますわね、人を
見る目がしっかりなさっておいでですわ」

 「多くの人と接する機会が多いとこうしたことは誰でも自然に
身に着くんですよ。普段子供と接する教師ならなおさらだ。……
ね、先生。……どうなの?先生のお見立ては?」

 「初めてこの子に会ったのは由梨絵ちゃんの教室でしたけど、
その時から彼は別格でしたね。私も元は教師の端くれでしたから
初めて訪れた教室でもひとあたり見回せば、だいたいこのクラス
で誰と誰が5を取っているかはわかります。でも、彼の場合は、
『猫の子の群れになぜか虎の子が一匹混じってる』ってくらいの
違いがあったんです」

 「そんなに凄いの!?いやあ、僕の想像以上だ」

 「ええ、授業を子供の目線じゃなく大人の目線で聞いてました
から」

 ところが、こんな自分を持ち上げている大人たちの会話なのに、
駿君、とても居心地が悪かった。

 そこで……
 「僕はそんなに凄い子じゃありません。テストだって間違える
し、廊下を走って先生に叱られるし、図工の粘土細工は下手だし」
 なぜか慌てて自分の欠点を並べ始めたのだ。

 実際、駿君は大人たちか褒められることが多かった。しかし、
何もしないで自分がこの位置にいるように思われているのは心外。

 『僕だって人並み以上に努力してこの場所にいる。僕は特別な
能力を持っていないし天才でもない』
 そんな思いがあったのだ。

 要するに上には上がいるという現実を彼は知っていたのである。

 「ははは、ずいぶん謙遜するじゃないか、僕もあそこに載って
いた曲をピアノで弾いてみたけど、どれも美しいメロディーで、
子どもの練習曲としてはなかなかのものだったよ。ちょうどいい、
ここにもピアノがあるから弾いてみてくれないか」

 伯爵様からのせっかくのお誘い。
 でも、駿君、その希望には答えられなかった。

 「えっ!それはできませんよ」

 「どうして?こんなところでは恥ずかしいのかな?それとも、
大作曲家の先生としては、アップライトなんかじゃいけないの?
ちなみに、うちの音楽室にはグランドピアノもあるから、そこへ
移ってもいいよ」

 「いや、そういうことじゃなくて………………………………」
 駿君は俯いたまま黙ってしまう。

 伯爵が茶化したのがいけなかったのか。
 いや、そうではない。

 しばしの沈黙の後、なぜか由梨絵から意外な答えが返って来た。

 「だって、この子、ピアノなんて弾けないんだもの」

 「?????」
 これには伯爵だけでなく、奥様も由梨絵の家庭教師も執事も、
そこにいた大人たちの目が一斉に点になる。まるで狐に抓まれた
みたいな顔になったのだ。

 それを由梨絵が説明する。
 「だって駿君はピアノなんて習ってないもの。この子が学校で
習ってる器楽はフルートだけ。それも恐ろしく下手くそよ。私、
譜面どおりに弾いたのなんて一度も聞いたことないんだから……」

 散々な言われように駿君の顔は真っ赤だ。

 「あらあら、そうなの。でも、お玉杓子は書けるんでしょう?
あんなご本も出してるくらいだもの」

 花井師匠がとりなすと、今度は本人が答えた。
 「簡単な和音くらいは知ってますけど、作曲の勉強なんてした
ことないし、先生がやってみなさいって言うから交響曲も作って
みたけど32小節の総譜を書くのに一週間も掛かっちゃったから」

 駿君は思わず自分の事で苦笑する。

 「交響曲だって……」
 合沢氏も当初は半笑いだったが、すぐに気を取り直して……
 「いや、いや、それも凄いじゃないか。何しろ君はまだ小学生
なんだから……そもそも、作曲はいつやってるんだい?」

 「いつって言われても、作曲はやろうと思ってやってるんじゃ
なくて、勉強してると自然に頭の中でわいてくるからそれを書き
留めてるだけ。詩も絵もみんな同じ。勉強してる時に沸いてきた
ものを書き留めて、物語にして、そこに学校で習ったことをはめ
込むんだ」

 「ほ~~何だかよく分からないけど、頭の中が大混乱しそうだ」
 「二束のわらじならぬ五束のわらじで勉強してるんだ」
 「勉強してる最中に作曲も詩作も絵まで描いちゃうわけ?」

 「そうだよ。国語や算数をやりながら、頭に浮かんだ詩や絵や
曲を雑記帳に書きながら勉強するの。物語の登場人物が色んな事
を教えてくれるから、意外と効率的なんだよ」

 「効率的って言われてもねえ……そんな難しいこと、おじさん
にはできないよ」
 合沢氏の言葉はそのまま周りの大人の空気だった。

 「だって、無味乾燥に暗記したてるよりこの方が楽しいもの。
そして、その雑記帳が、色んな教科のノート代わりもしていて、
リズムをとって机を叩き、イラストや詩の一節を見ながら物語を
変化させて教科の内容を入れ込むの。とにかく、すべてが一体に
なって頭の中をグルグル回ってる時はとっても楽しいんだから。
算数だけ、国語だけの勉強はしないの。僕はお地蔵さんみたいに
イスに座ったままでいると眠くなるだけで勉強できないんだ」

 「凄いな、五感すべてを使って考えて覚えちゃうんだ。でも、
それでいてロスが少ないなんて、まさに神業だね」

 「でも仕方ないんだ。普通に勉強してるとすぐに寝ちゃうから。
自分でお話を作って、BGMを奏でて、その中に教科で教わった
内容が散りばめられてる……そんな感じかな」

 「他の事と一緒になら続けられるんだ?」
 「……不思議な子だね」
 「僕なんか、一つの事に集中してないと何も出来なかったのに、
これはジェネレーションの違いか、能力の違いか、どっちかな」

 「……先生がよく言ってる。僕が勉強しているのを見てると、
まるでコントか独り漫才を見てるみたいだってさ」

 「なるほど。じゃあ、さぞや君の勉強風景は賑やかなんだろう
ね」

 「僕はあんまり感じないけど、そうみたい……だから、他の子
の迷惑になるからって自習室を追い出されちゃって、今は地下室
でやってるの」

 「地下室?じゃあ、寒いだろう?」

 「寒いよ。床も壁もコンクリートだから……でも、ほかの子に
迷惑かけられないもの。それに、あそだったらどんなに騒いでも
苦情がこないから、僕の方も気が楽なんだ」

 駿君はまるで他人事のように語るが、由梨絵が茶々をいれない
ところをみるとどうやら本当の事らしかった。

 由梨絵は部屋の隅でおとなしく駿君の話を聞いている。それは
伯爵の目には羨望の眼差しと映ったが……彼もまた、その様子を
是非一度見てみたいと思ったのだった。

 そこで……

 「さてと、それでは子どもたち」
 伯爵はポンと一つ手を叩くと、その場でソファから立ち上がり、
 「お二人は、まず、宿題を済ませてしまおうか」
 と、提案したのだった。

 すると、由梨絵からたちまち不満の声があがる。
 「え~~~今、オヤツ食べたばっかりで、もう、勉強するの。
私、見たいテレビあったのに……だってえ、今日は家に帰るのが
遅かったでしょう。今からじゃあ見逃しちゃうよ」
 (当然だが、当時はお金持ちの家でもビデオなんてない)

 「何言ってるんだ。家に帰ったらまず宿題をすませてしまうの
が当たり前じゃないか。テレビより宿題が優先なのはどの家でも
同じはずだよ。何よりお前は給費生なんだから、みんなの模範に
なるように行動しなくちゃ」

 「え~~~そんなのないよ~~~給費生、給費生って、それは
おじ様が無理やり……」
 由梨絵はなかなか引き下がらない。こんなことは珍しかった。

 「無理やりというのはひどいな。私は、お前に選択肢を出して
どうするねって尋ねたはずだよ」

 「だってあれは……」
 由梨絵は口を尖らす。

 「『あれは』何だね」
 伯爵が意地悪に問いかけた。

 「だって、あの時はおじ様が、『給費生になってここに残るか、
それとも施設に戻るか』って怖い顔で言うから……だってそうで
しょう。私、ここに来たのは3歳の時だもん。施設のことなんか
何も覚えてないし……ここに残るしかないと思って……」

 「だったら、頑張るしかないじゃないか。私もお前を給費生に
するについては、沢山の本を買い揃えたり、ニーナ先生の他にも
家庭教師の西條先生をお願いしたりで大変だったんだ。それに、
どっかの甘えん坊さんのために、私のお膝だって貸してあげてる
だろう?」

 「…………」
 由梨絵は思わず頬を赤らめると、そのまま下を向いてしまう。
 『おじ様のお膝』にはすぐに反論の言葉が浮かばなかったのだ。

 おじ様のお膝とは、伯爵が椅子に腰掛けた状態でその膝の上に
由梨絵が座って勉強すること。
 クッションのきいたその椅子は耳元で解けない問題のヒントや
答えが聞けたり、濡れたタオルで眠気を覚ましてくれたりする。
……ただ、それでもどうしても眠い時は、そのまま揺り篭として
も使える優れものだった。

 由梨絵はこの膝の上で文字を覚え、計算を解き、ピアノを弾き、
絵を描いて大きくなった。
 世界で唯一、甘えられるだけ甘えられる場所。彼女にとっては
どんな参考書や家庭教師よりこちらの方が大事な居場所だったの
である。

 そんな彼女に、便利な椅子と離れて施設へ戻るという選択肢は
あろうはずもなかった。

 「そうだ由梨絵。せっかくだから、今日はお前の部屋で駿君と
一緒に勉強してみたらいいじゃないか。お前だって、駿君の勉強
してるところを見てみたいだろう?」

 由梨絵は伯爵の提案に目を白黒……
 「えっ!?……私は別に……そんなこと……」
 と、否定したつもりだったが……

 「そうだ、それがいい。そうと決まれば俊君の机も用意しない
とな……お前たちは先に部屋へ戻ってなさい。すぐに駿君の机も
運ばせるから」

 伯爵が家の者にてきぱきと指示しているのを由梨絵は困惑した
表情で見ていた。が、それも……

 「どうした?嫌なのか?」
 と伯爵に再度迫られると、長続きはせず……

 「はい、そうします、おじ様」
 結局は妥協することになる。

 嫌なら嫌と言えばよさそうなものだが、当時の良家の子女は、
「はい、お父様」という言葉は教わっても「いやです、お父様」
という言葉は教わらないと揶揄されるほど、親には従順だった。

 実際、幼い頃の躾は庶民より厳しくて、教育、躾というより、
訓練を受けていると言ったほうが正しい日常生活なのだ。

 だから由梨絵のこんな対応も、当時の常識からすればそれほど
珍しいというわけではなく、当たり前と言えば当たり前だったの
である。

 男の子をまだ一度も自分の部屋に招きいれたことのない由梨絵
は、おじ様の決定に何だかがっかりした表情で立ち上がると……

 「こっちよ」
 目があった駿君に上から目線で指図する。

 「はい……わかった……今、行く……」
 駿君は慌てたような様子で菓子鉢の中に手を突っ込むと、今、
握れるだけのチョコレートをポケットにねじ込んで部屋を出た。

 すると、それを見ていた由梨絵に……
 「まったく、男の子って卑しいんだから。……もたもたしなで。
そんなの、後でおじ様に話せばもらえるわよ」
 叱られてしまった。

 そこで、
 「じゃあ、返してくる」
 と言うと……

 「もう、そんなことしないの。よけい恥ずかしいでしょう……
いいから、こっちよ」
 今度は呆れられてしまう。

 駿君と由梨絵は同学年だが、由梨絵の方がお姉さんみたいだ。
 駿君はしょんぼり彼女の後に着いて行く。
 薄暗い廊下を右に左にと折れ、由梨絵の部屋はその突き当たり
だった。

 「入っていいわよ」
 ドアを開けると南向きの窓から明るい日の光がさして来る。

 初めて入る同年代の女の子の部屋。
 部屋に足を踏み入れた瞬間、何だか良い香りがしたみたいだけ
ど、駿君の顔はちょっぴり不安そうだったのである。

駿 と 由梨絵 の 物語

駿由梨絵物語

 < 第 5 話 >

 シボレーは山を降り、街中を抜けて、小麦畑が続く校外の道へ
……

 かれこれ一時間ほど走ると、やがて前方にチラチラ白いものが
見えてきた。

 『何だろう?』
 駿君が思っていると……

 その白いチラチラしたものが、実は長い長い白壁だとわかる。
 そして、防風林の林を抜けると、お屋敷という名前がぴったり
の建物が、彼の目の前に忽然と現れたのだった。

 『何もしてないのにいきなり門が開いた』
 駿君の驚きをよそに、天を突くような巨大な鉄柵が開いて車は
敷地の中へと入っていく。

 さらに10分ほどドライブを楽しんだあげくに到着したのは、
20台のもの車が一度に泊められる広い広いガレージだった。

 「さあ、着いたよ」

 小学生にとって約一時間の通学はけっこう長い。
 通いなれた由梨絵は退屈な時間から開放されて一目散に玄関の
方へと駆けて行った。

 これに対し駿君は、久しぶりの小旅行がよほど楽しかったのか
顔が少し上気して笑顔だ。そして下車したあとも名残惜しそうに
乗ってきたシボレーや居並ぶ外車たちを振り返っていた。

 「自動車が好きかい?」

 「やっぱり伯爵様はお金持ちなんですね」
 彼には珍しく元気な声が響く。

 「どうして?……こんなに沢山の車を持っているからかね?」
 「はい」
 駿君は目を輝かせる。

 「(ははは)これは売り物だよ。これが私の今の商売なんだ。
今の世の中、伯爵様では食べていけないからね。昔の伝を頼って
中古外車を売りさばいて商売しているんだ。でも、さすがに君は
男の子だな。由梨絵なんか、ここにある車が全部入れ替わったと
してもまったく気づかないよ。そのくせ、胸に挿したハンカチの
折り目がほんのちょっと変わっただけでも気づく。髪型とか衣装
にはとても敏感なんだ」

 伯爵は駿君の小さな肩をだいて裏玄関から家の中へ。

 実は、この家には表玄関が別にあるのだが、そこを使うのは、
大事なお客様がみえた時だけ。駿君もお客様といえばそうだが、
まだ子供なので正規の玄関は使わせてもらえない。それどころか
伯爵様でさえも日常生活ではこの裏玄関から出入りするのが普通
だったのである。

 もっとも『裏玄関』といっても庶民の家にある勝手口のような
ものではない。まるで老舗旅館のような落ち着いたたたずまいの
入口は、広さだけでも庶民の住宅なら5倍6倍はゆうにあろうか
という立派なものなのだ。

 さて、その玄関先で……

 「お帰りなさいまし」
 「お帰りなさいまし」
 「お帰りなさいまし」
 異口同音に挨拶する女中たちに混じって一人の婦人がその女中
たちの前に出てきた。

 彼女は伯爵が持ち歩いていた小さなかばんを受け取ると、主人
の腰のあたりに見え隠れする少年の姿に気づく。

 「あら、珍しい。お客様ですのね」
 彼女は笑った。

 「こんにちわ、野上駿一といいます」
 緊張して奥様に挨拶する駿君。

 「由梨絵のクラスメイトだ。今日はここに泊めるから、面倒を
みてやってくれ」

 「さようでしたか。はい、承知しました」
 奥様はそう言って、二人を奥の居間へと案内する。

 もちろん、伯爵にしてみたらここはご自分の家なのだから案内
などそもそも不要なはずだが、そこが旧家の奥ゆかしいところ、
まるで初めてお見えになったお客様のような扱いで、二人は長い
廊下を進んでまずは居間へと向かう。

 『えっ!?』
 駿君は、長い廊下を進むうち、あることに気づいた。

 玄関を上がった時、そこは洋風の建物だったはずだが、それが
長い廊下を渡るうち、いつしかそれが和風のしつらえに変わって
いるのだ。

 どこから変わったのか、戻ってみたくなって後を振り返ったが、
分からなかった。

 伯爵家は、江戸時代にはお殿様だったお家柄。お城は手放して
しまったが、今、御住まいのお屋敷だって庶民サイズではない。
古くて、大きくて、とにかく迷子になりそうなくらい広いのだ。

 もちろん江戸時代に建てた当初は純然たる日本建築だったはず
だが、明治の頃にその時代の潮流にあわせて改築。その後は何度
か手直しして、今は玄関のあたり三分の一が洋館という和洋折衷
の造りになっていた。

 駿君は日本庭園の中庭が一望できる落ち着いた造りの居間へと
通される。
 畳敷きの広間に厚いペルシャ絨毯が敷かれ、年代物のソファが
置かれた大人の空間。ここでも和洋折衷のつくりだった。

 大きな窓越しに見る景色は、雪見灯篭が苔むし、築山の紅葉は
まだ時期的に蒼くて、池では大きな錦鯉が跳ねている。鹿威しや
水琴窟の音が心地よく大人には落ち着ける場所になっていた。

 広い居間では先ほどから子供たちの家庭教師や伯爵の古い友人、
妻の踊りの師匠などに混じって由梨絵までもが大人会話を楽しん
でいる。

 そんな大人たちの会話の中にあって新参者の駿君だけが蚊帳の
外。あくびを連発しながら、どこかつまらなさそうに大人たちの
会話を聞いて時間を潰していたのだ。

 ところが、そんな彼が唯一興味を示したものがあった。
 それは中庭に隣接するトイレを借りた時のこと。

 用を足し終え、手を洗おうとすると、その手水の水が玉砂利に
落ちて高い音を響かせるのだ。
 どうやら地中から響く水琴窟の音には興味を示したみたいで、
その不思議な音に対してはしきりに聞き耳を立てていたのである。

 駿君が居間へ戻ると、その間にお茶とお菓子が運ばれていた。

 「オヤツにしよう」
 伯爵に誘われて……

 「はい、……えっ、これ全部食べていいの」
 駿君の目が輝く。
 そこは11歳の少年、久しぶりに見せる子どもらしい顔だった。

 すると、この部屋にいた大人たちの顔が一様にほころぶ。

 大きな鉢に山盛りに盛られたお菓子は庶民感覚ではごく自然な
光景に映るが、これは、今がフランクな人たちの集まりだからと
いうことで仕掛けた伯爵の演出。普段のお茶会でなら、お菓子は
一人分ずつお皿に取り分けられて出てくるのが常識だったのだ。

 駿君の場合も、寄宿舎でのおやつは小皿に盛られて一人分出て
くる。だから目の前にある大鉢を見てこれが自分一人分と勘違い
したのだった。

 「どれでも好きな物を好きなだけ食べればいいよ。もっとも、
クッキーとチョコレートとチーズ……どれも、寄宿舎で食べてる
だろうから珍しくもないだろうけど、よかったらお食べなさい」

 そんな勘違いをそのままにしてお菓子を勧めたのは合沢広志と
いうスキンヘッドの紳士だった。
 彼はもともと家老の家柄で、伯爵からみれば臣下筋に当たるが
伯爵とは馬が合うのか幼馴染としてずっと親友だったのである。

 伯爵も勧めて、駿君はようやく菓子鉢に手を伸ばす。どうやら、
ここにはこれ以外にお菓子の皿はなく、誰もが自由にお菓子鉢に
手を伸ばしていいのだと気づいたみたいだった。

 すると、それはとても嬉しそうで美味しそうだったのである。

 「そんなに美味しいかい?」

 「はい、とても……」

 「でも、これはいずれもあの修道院の特産だからね、君だって
オヤツに食べたことがあるんじゃないのかい?」

 「えっ!?あれ、そうなんだ……だけどオヤツに出てくるのは
全部形が崩れてて包装紙にも包んでないし、こんな風にちゃんと
したものは食べたことないんです」

 「なるほどオヤツには製品にならなかった物が出てくるのか」
 「おやおや、かわいそうに」
 「おそらく味は変わらんだろうが、見た目も大切な味の一部と
いうわけだな」

 大人たちは穏やかに笑っている。
 その笑顔のままに合沢氏が駿君に尋ねた。

 「時に、君は学校では有名な作曲家なんだろう?……たしか、
本も出してるよね。ピアノの練習曲を集めたやつ……」

 「あれは違うんです。僕が作ったメロディーラインをピアノの
安藤先生が編曲してくださったんです。だからあれは安藤先生の
ご本で……あれはたまたま口づさんだ僕の鼻歌なんです」

 「おい、おい、小学生の台詞じゃないな。ずいぶんとしっかり
した言葉で謙遜してくれるじゃないか」

 合沢氏が天井を向いて笑うと、踊りの師匠の柳原女史が……

 「ああ、思い出したわ。あなた、給費生の野上君よね。確か、
曾御爺様は道庵先生」

 「道庵って……蘭方医で初めて御殿医となった……あの」

 「そうですよ。この子はあの道庵先生のひ孫です。……伯爵も
当然、ご存知ですよね。先々代の恒明様が家臣の反対を押し切る
形で抜擢されたと聞いております」

 「時代がずれているから先生に直接お会いしたことはないが、
もちろん知ってるよ……そうか、この子がそうなのか」
 伯爵は感慨深げだった。
 
 「何だ、それでこんなに利発なんだ。いやね、先ほど水琴窟を
あれこれ調べていた時からただ者じゃないなと睨んでたんだ」

 「おやおや、そんなことわかるんですか?」

 「わかるさ、自分に自信のある者は視線が鋭く目の輝きが違う
からね、会ってすぐにわかるんだ。それにまだ小学生ぐらいだと
知識も体力も大人にはとうてい及ばないから、大半の子が大人と
対峙する時、どこか弱腰になるものだが、彼にはそれが見えない。
私が彼に何か質問しようとして視線を送ると、彼の目は自信に
あふれていた。こんな子が優秀でないわけがないじゃないか」

 「さすがに上場企業の社長さんともなると違いますわね、人を
見る目がしっかりなさっておいでですわ」

 「多くの人と接する機会が多いとそうしたことは誰でも自然に
身に着くみたいだな。……どうなの?先生はもっと昔からこの子
をご存知なんでしょう?どんな印象でしたか?」

 「私もそうした意味ではプロですから、初めて入った教室でも
ひとあたり見回せば、このクラスでどの子とどの子が5を取って
いるかはわかります。でも、この子の場合は、もっと凄くて……
子猫の群れの中に一匹だけトラの子が混じってるって感じでした」

 大人たちの会話に、駿君、居心地が悪くなったのだろう。
 「僕はそんなに凄い子じゃありません。テストだって間違える
し、廊下を走って先生に叱られるし、図工の粘土細工は下手だし」
 慌てて自分の欠点を並べ始めた。

 実際、駿君にしてみたら、何もしないで自分がこの位置にいる
ように思われているのは心外だった。僕だって人並み以上に努力
してこの場所にいるんだから、僕は特別な能力を持っていないし
天才でもない。という思いがあったのだった。

 「ははは、ずいぶん謙遜するじゃないか、僕もあそこに載って
いた曲をピアノで弾いてみたけど、どれも美しいメロディーで、
子どもの練習曲としてはなかなかのものだったよ。ちょうどいい、
ここにもピアノがあるから弾いてみてくれないか」

 伯爵様からのお誘い。でも、その希望には答えられなかった。

 「えっ!それはできませんよ」

 「どうして?恥ずかしいの?それとも大作曲家の先生としては、
アップライトじゃいけないのかな?音楽室にはグランドピアノも
あるよ」

 伯爵が茶化すと、駿君からは意外な言葉が返って来た。

 「だって、僕、ピアノは弾けないんです」

 「?????」
 これには伯爵だけでなく、奥様も由梨絵の家庭教師も執事も、
そこにいた大人たちの目が一斉に点になった。

 それを由梨絵が説明する。
 「だって駿君はピアノなんて習ってないもの。学校で習ってる
器楽はフルートだけ。それも恐ろしく下手くそなんだから。譜面
どおりに弾いたの聞いたことないんだから……」

 「あらあら、そうなんだ。でも、お玉杓子は書けるんだろう?」

 伯爵の疑問に今度は本人が答える。
 「簡単な和音くらいは知ってますけど、作曲の勉強なんてした
ことないし、先生がやってみなさいって言うから交響曲を作って
みたけど32小節の総譜を書くのに一週間も掛かっちゃったから」

 駿君は苦笑する。

 「でも、それって凄くないかい?君はまだ小学生なんだから」

 「わかんない、だって、作曲はやろうと思ってやってるんじゃ
なくて、勉強してると自然に頭の中でわいてくるからそれを書き
留めてるだけなんだ。詩も絵もみんな勉強時間に一緒に創るの」

 「ほ~~二束のわらじならぬ五束のわらじで勉強してるんだ。
勉強してる最中に作曲も詩作も絵も描いちゃうのかい?」

 「そうだよ。国語や算数をやりながら、頭に浮かんだらそれを
雑記帳に書くんだ。そして、その落書きだらけの雑記帳が教科の
ノート代わりもなってて、音符やイラストや詩の一節を見ながら
教科の内容を反芻させて覚えていくの。とにかくすべてが一体に
なって頭の中を回ってるから、算数だけ国語だけっていう勉強は
苦手……というより僕には最初からできないんだ」

 「凄いな、五感全てを使って覚えちゃうんだ。でも、それでは
時間のロスが大きいんじゃないのかね」

 「そうかもしれない。でも仕方ないんだ。普通に勉強してると
すぐに眠くなって寝ちゃうから……僕は同じ教科を五分以上続け
られないからこうして勉強してるんだもん……」

 「他の事と一緒になら続けられるんだ?」

 「そういうこと……先生がよく言ってる。僕が勉強しているの
を見てると、まるでコントか独り漫才みたいなんだってさ」

 「なるほど……じゃあ、さぞ賑やかなんだろうね」

 「みたいだね……ただ、お前がいると他の子の迷惑になるから
って、自習室を追い出されちゃって、今は地下室でやってるの」

 「地下室?じゃあ、寒いだろう?」

 「寒いよ。床も壁もコンクリートだから……でも、ほかの子に
迷惑かけられないもの。それに、あそだったらどんなに騒いでも
苦情がこないから、僕も気が楽なんだ」

 駿君はまるで他人事のように語るが、それって伯爵にしてみる
と興味津々だった。そして、その様子をぜひ一度見てみたいと思
ったのである。

 「さてと、それでは子どもたち。二人は、まず宿題を済ませて
しまおうか」

 伯爵が提案すると由梨絵からたちまち不満の声があがった。
 「え~~~オヤツ食べたばっかりで、もう、勉強するの。私、
見たいテレビあったのに~~~だってえ~~今日は家に帰るのが
遅かったから見逃しちゃうよ」

 「何言ってるんだ。家に帰ったらまず宿題をすませてしまうの
が当たり前じゃないか。テレビより宿題が優先なのはどの家でも
同じだよ。何よりお前は給費生なんだから、みんなの模範になる
ように行動しなくちゃ」

 「え~~~そんなこと言ったって、給費生はおじ様が無理やり
……」
 由梨絵はなかなか引き下がらない。こんなことは珍しかった。

 「無理やりというのはひどいな。私は、お前に選択肢を出して
どうするねって尋ねたはずだよ」

 「だってあれは……」

 「『あれは』何だね」
 伯爵が意地悪に問いかけた。

 「だって、あの時はおじ様が、『給費生になってここに残るか、
それとも施設に戻るか』って、怖い顔で言うから……だって私、
がここに来たのは3歳の時だもん。施設のことなんか何も覚えて
ないし……ここに残るしかないと思って……」

 「だったら、頑張らなくちゃ。お前を給費生にするについては
こちらも沢山の本を買い揃えたり、ニーナ先生の他にも家庭教師
の西條先生をお願いしたり……どっかの甘えん坊さんのために、
私のお膝だって貸してあげてるじゃないか」

 「…………」
 由梨絵は頬を赤らめると下を向く。
 『おじ様のお膝』にはすぐに反論の言葉が浮かばなかったのだ。

 おじ様のお膝は、一般的に言うとパパのお膝と同じ、揺り篭と
同じ意味になる。

 由梨絵はこの膝の上で、文字を覚え、計算をし、ピアノを弾き、
絵を描いて大きくなった。
 世界で唯一、甘えられるだけ甘えられる場所。彼女にとっては
どんな参考書や家庭教師より大事な居場所だったのである。

 3歳でこのお屋敷に連れて来られた由梨絵にとってそれ以前の
記憶はほとんどない。気がつけばおじ様のお膝にいたという感じ
の人生だ。

 そして、それは今でも続いているのだから、彼女に施設へ戻る
という選択肢があろうはずがなかったのである。

 「そうだ、せっかくだから今日はお前の部屋でやろう。由梨絵、
お前も駿君と一緒に勉強してみたらいいじゃないか。お前だって
駿君の勉強してるところを見てみたいだろう?」

 由梨絵は伯爵の提案に目を白黒させて……
 「えっ!?……私は別に……そんなこと……」
 と、否定したつもりだったが……

 「そうだ、それがいい。そうと決まれば俊君の机も用意しない
とな……お前たちは先に部屋へ戻ってなさい。すぐに駿君の机も
運ばせるから」

 伯爵が家の者にてきぱきと指示しているのを由梨絵は困惑した
表情で見ていたが、それも長続きはせず……

 「はい、そうします、おじ様」
 結局は妥協することになった。

 実際、良家の子女は「はい、お父様」という言葉は教わっても
「いやです、お父様」という言葉は教わらないと言われるほど、
両親には従順に従うよう幼い頃から躾けられている。
 由梨絵のこんな対応も当時の常識からすれば当たり前と言えば
当たり前だった。

 「こっちよ」
 男の子をまだ一度も自分の部屋に招きいれたことのない由梨絵
は、何だかがっかりした表情で立ち上がると、目があった駿君に
上から目線で指図する。

 「はい」
 駿君は大きな菓子鉢の中に手を突っ込んでから立ち上がりると、
ポケットを膨らませてから部屋を出て、彼女の後に着いて行く。

 暗い廊下の進み、突き当たりの部屋。

 「入っていいわよ」
 ドアを開けると南向きの窓から明るい日の光がさしていた。

 初めて入る同年代の女の子の部屋に緊張する駿君。
 その顔はちょっぴり不安そうだった。

駿 と 由梨絵 の 物語

 駿由梨絵物語

 < 第 4 話 >

 学校に戻ったシボレー。しかしその車がそこに長居することは
なかった。

 由梨絵が伯爵と一緒に寄宿舎を訪ねると、最初に応対した舎監
のおばさん、いえ、先生は……
 「まあ、理事長先生からのお招きなんて光栄なことですわ」
 という返事。
 たまたまそばにいたシスターもまた……
 「是非、お願いします」
 とのこと。

 たちまち駿君が呼ばれ……
 「あなたビックニュースよ。この週末、伯爵様がね、あなたを
ご自宅にご招待してくださるそうなの。こんなチャンス、滅多に
ないわよ。よかったわね」
 となった。

 「さあさあ、よそ行きの服にさっさと着替えてらっしゃい……
そうだ、臙脂のタータンチェックのジャケットがあったでしょう。
あれがいいわ。」
 「急いで着替えるのよ。伯爵様をお待たせしてはいけないわ」

 それは大人たちにとっても青天の霹靂。しかし、何しろ理事長
の鶴の一声なんだから嫌も応ない。選択の余地なんてなかった。

 一介の給費生でしかない駿君は、口を開く間さえない早業で、
宿題ドリルの入ったランドセルを背負わされる

 「あのう~~ぼく……どうすれば……」
 そう言っただけ。後はそのまま伯爵様に黙って着いて行くだけ
だった。

 シボレーが再び発車すると今度は駿君が助手席に座り由梨絵は
後部座席に回った。
 駿君は伯爵にとってはお客様ということのようだった。

 流れる景色をぼんやりと眺めている駿君に向かって伯爵が……
 「おじいさんが亡くなったあとは、週末はずっと学校だったの?」

 「だいたい、そう……」

 「そうか……だったら誰もいなくなった学校に一人ぼっちじゃ
寂しかっただろう?」

 「もう、慣れてるから……たまにシスターが参加する催し物に
一緒に着いて行くこともありますけど……」

 「催し物って?」

 「寄付集めのバザーだとか、聖書の読書会だとか……」

 「ああ、なるほど、そういうことね。遊園地とかじゃないんだ」
 伯爵が思わず失笑する。

 「そういうのは……遠足でなら行ったことがあります」

 「じゃあ普段は勉強ばっかりの生活というわけだ?大変だね。
息が詰まっちゃわないか?」

 「そんなことありません。知識を身につけるのは楽しい事です
から……」

 「おやおや、誰かさんに聞かせたいことばだな」

 伯爵が呆れてため息をつくと……
 「誰かさんって誰よ」
 由梨絵が返事をした。

 「それにたくさん勉強しないと立派な聖職者になれませんから
……」

 「聖職者…か……君は、もう将来のことを決めているのかい?」

 「はっきりとは……でも、僕みたいな給費生はだいたいみんな
そうみたいだから……」

 「そうでもないさ、給費生だから聖職者にならなきゃいけない
と決まってるわけじゃない。学校の先生になる人は大勢いるし、
大学の先生や研究者の道に進んだ人も少なくないんだよ。まあ、
プロ野球選手とかいうのは難しいかもしれないけど……ひょっと
して舎監さんとか、シスター先生に何か言われたのかい?」

 「別にそういうわけじゃないけど……でも、僕は、お爺さんが
死んで後ろ盾が何もないから……」

 「おやおや若い美空で随分と消極的だなあ。まだ若いんだから
もっと大きな夢を持たなきゃ……いいかい、今の世の中、中世の
昔とは違うんだ。給費生だって君に能力さえあれば、パトロンは
自然に集まるんだ。沢山の人が君を後押ししてくれるよ。君は、
なまじ頭がいいもんだから、世の中の事を先読みしすぎるみたい
だね。どんな扉も叩いてみなければ開かない。チャレンジせずに
諦めちゃいけないな。……そもそも君はまだ小学生じゃないか。
今からそんな弱気でどうするんだ」

 「………………」
 駿君は相変わらず外の景色ばかり眺めている。

 そこで……
 「私がパトロンになってあげようか?」

 その瞬間、駿君の顔色が微妙に変化したのを、伯爵は運転席で
見逃さなかった。

 『脈ありということか……』
 伯爵は心の中で思う。
 そこで、さらに誘ってみた。

 「何なら週末はいつも私の家に来ればいい。誰もいない寄宿舎
なんかより、こっちの方がずっと楽しいぞ。私も、ちょうど君の
ような男の子を探していたところなんだ。由梨絵は良い子だが、
勉強がからっきしだめなんだ。そこで、給費生にでもしてみたら
少しは頑張るかと思ったんだが、相変わらず怠け者で困ってるよ。
そこで適当な競争相手というか家庭教師がいないかと探していた
ところなんだ」

 伯爵が俊君を誘う間、由梨絵は後部座席から足で運転席を蹴り
続けていた。きっと怠け者とかなんか言われて頭にきたのだろう。
もちろん運転する背中に由梨絵の衝撃は届いてはずだが、伯爵は
お構い無しに話を続ける。

 「えっ!!?」
 いきなり持ちかけられた話に戸惑う駿君。

 しかし、伯爵の目にその顔は『嫌ではないな』と映った。

 「ちょっと、変なこと言わないでよ。駿ちゃんはクラスメイト。
私と同じ歳なのに私の家庭教師になんかなれるわけないじゃない」
 それまでおとなしくしていた由梨絵が二人の会話に嘴を挟む。

 すると、伯爵は上を向き、明るい笑顔で……
 「なれるさ。確かに歳は同じだけど、むしろお前が同じなのは
それだけだじゃないか。勉強、運動、図工や音楽、素行にいたる
までお前が駿君より勝ってるものなんて何もないだろう。駿君と
比べたら、月とすっぽん。お前にはちょうどいい家庭教師だよ」

 これを聞いた由梨絵はさらに強く前の座席を蹴った。

 「もう、嫌!いつもそうやって、私をバカにするんだから……」
 由梨絵は自分の座席に置いてあったクッションで伯爵の頭を…

 「バカ、やめないか、運転しているのに危ないだろうが……」
 
 由梨絵は自分と接している時はどちらかと言うとおとなしい子。
悪戯にせよ、おふざけだったにせよ、そもそも、由梨絵がこんな
行動に出ること自体、伯爵には意外だった。

 「まったくしょうがない子だ。そんな癇癪持ちなら、駿君にも
お前をお仕置きする権限を与えてあげないといけないな」
 腹立ち紛れにこう言うと今度は由梨絵の攻撃がピタリと止まる。

 「えっ!」
 由梨絵はおじ様の怒りに戸惑い身体が固まってしまったのだ。

 冗談にもせよ自分が駿君からお尻叩きを受けるなんて、思わず
想像してしまっただけでも背筋が寒くなるほどのショックだった。

 ただ、それって駿君が嫌いだからそうなったのではない。
 むしろ俊君が好きだからこそ、自分の想像が心の中をどぎまぎ
とさせ、身体を硬直させたのだった。

 「君は模範生だから学校でも寄宿舎でもお仕置きなんてされた
ことないだろうが、こいつは私の家でも学校でもしょっちゅうだ。
もし、悪さしたら遠慮なくお尻を引っぱたいて構わないからな」

 「ちょっと、おじ様、バカ言わないでよ」

 由梨絵はむくれたが、伯爵は無視して笑うだけだった。

 「私もお尻をぶたれたことぐらいあります。小学校の一二年生
の頃は学校の先生や舎監の先生、シスターさんからも……」

 「ほう、君でもやっぱりあるのか。そんなことが……」

 伯爵は大仰に驚いてみせ……そして、後部座席に向かって叫ぶ。
 「よかったな、由梨絵。お尻ぶたれたのは、どうやらお前だけ
じゃなかったみたいだぞ」

 「何がよかったのよ。そんなの当たり前じゃない」
 由梨絵はクッションを膝の上に抱きかかえて、ちょっぴり恥ず
かしく、そしておかんむりだった。

 「あ、そうか、わかったぞ。そいつはたいてい膝の上でだろう。
ズボンの上から平手でお尻ペンペンってやつだ。どうせ鞭なんて
使わないんだろう」

 「はい、鞭でぶたれたことはありません。それに、終わると、
そのまま膝の上で抱きしめてもらって、頭や背中を良い子良い子
って撫でてもらうんです。それがけっこう嬉しくて……たまに、
わざと悪戯したこともあったんです」

 「おやおや、わざと……それもまた凄いな」

 「……でも、すぐにわざとだって、バレちゃって……」

 「ま、先生たちはプロだからな。幼児の言ってることが本当か
嘘か、一発で見抜けるようじゃなきゃ仕事にならないかもしれ
ないな。で、そんな時はどうしたの。やっぱり、お尻をぶたれた?」

 「いえ、その時はお膝の上にノンノしてよい子よい子だけです」

 「なるほど、そういうことか……でも、君の言うお仕置きは、
たいてい先生たちの戯れだよ」

 「戯れ?」

 「戯れで悪ければスキンシップだ。可愛くて仕方がないのさ」

 「可愛いって……誰が?」

 「誰がって、君に決まってるじゃないか」
 伯爵は内心ほくそ笑む。

 駿君の説明に伯爵は表情こそ変えなかったものの、心の内では
……
 『そうか、この子、お仕置きに憧れがあるのか。すべての人に
愛されて育った子は、お仕置きさえも愛としかとらえられないと
言うが、まさに幸せの王子様というわけだ。……境遇はともかく
私と同じ匂いがする子だ。……抱いてみたいが……どうするか』

 伯爵は、心の境遇をが自分と似通っているこの子を益々自分の
手元に置きたいと願うようになったのである。

駿 と 由梨絵 の 物語

 駿由梨絵物語

< 第 3 話 >

 由梨絵が園長室の厚いドアを開いて外に出ると、何やら前にも
嗅いだことのある甘い香りがかすかに鼻をくすぐる。

 由梨絵は気になって辺りを見回したが、そこには誰もいない。
 真理と瞳が由梨絵に気づいて駆け寄ったが……

 『この子たちの匂いじゃないわ』

 女の子たちとは少し離れた処にもう一人。男の子だ。駿がいた。
でも、その子でもない。

 『駿ちゃんでもないわよね。……まさか……嘘でしょう』

 そんなことを思っていると、駆け寄った女の子たちがさっそく
おしゃべりを始める。

 「ねえ、大丈夫だった?」
 と、真理。
 「大丈夫なわけないでしょう、お仕置きなんだもん」
 と、瞳
 「ねえ、悲鳴あげたの?」
 「大丈夫よ、安心して、ここからは聞こえなかったから」
 「ねえ、パンツ脱がされた?あの先生、そんなこと平気なのよ」
 「あんた、無神経ね、そんなこと聞かなくてもいいでしょう」
 「いいじゃないの、女の子同士なんだもん」

 由梨絵は、いきなり真理と瞳に取り巻かれ質問攻めにあったが、
あの香りが気になって聞いてなかった。だから真理と瞳が二人で
しゃべっている。

 そんな身近な喧騒をよそに、由梨絵は少し離れた柱の影から、
こちらを窺っている少年の姿を気にし始めた。

 女の子同士でなら何とでも、しかし、彼には、園長先生の前で
パンツを脱いだことやそのお尻が真っ赤になったこと、仕方なく
あげた悲鳴のことだって絶対に知られたくなかったのである。

 そんなことを心配していると、さっき嗅いだ甘いパイプの香り
がまた急に強くなる。

 『えっ!やっぱり、まさか!』
 ハッとして振り返ると……

 『お……おじ様!!』
 声は出なかったが生唾は飲んだ。伯爵が学校の催しもの以外で
ここを訪れるなんて、滅多になかったからだ。

 それだけ気にかけていたんだろうが、由梨絵にしたら迷惑千万
なことだ。

 「ごきげんよう、伯爵様」
 「ごきげんよう、伯爵様」
 真理と瞳が気づき、慌てた様子で挨拶する。

 左足を半歩引いて膝を曲げ、両手でスカートを摘んでお辞儀。
 この時代錯誤した仰々しい挨拶は学校を訪れたお客様に生徒が
投げかけるいわば儀式だった。

 「やあ、君たちは、由梨絵のお友だちかね」

 「はいそうです。真理といいます」
 「瞳です」

 「ひょっとして、……君たちは由梨絵のお仕置きが終わるのを
ここで待っていてくれたのかい?」

 「そうです。心配でしたから……」
 「それはお友だちですから、当然です」

 「ありがとう、これからも由梨絵と仲良してやってくださいね」

 「はい、もちろんです」
 「私たちいつも一緒なんです」

 「ねえ、伯爵様は由梨絵ちゃんのお父様なんでしょう」
 「ばかねえ、当たり前じゃない」
 二人は伯爵に迫ったが……

 「よかったな由梨絵。私はてっきりお前が一人ぼっちで園長室
を出てくるものとばかり思っていたから迎えに来てみたんだが、
余計なことだったかもしれないな。お前にこんな情に厚いお友達
が二人もいるなんて知らなかったよ」
 伯爵はそう言って由梨絵の頭を撫でる。

 一方、由梨絵はというと、伯爵に頭を撫でてもらっている間も
なぜか駿君の姿を追っていた。
 ただ、由梨絵のいる位置から彼の姿が見えない。
 どうやら自分の出る幕はないと思ったのか先に帰ってしまった
ようだった。

 ここは女子修道院が経営する学校。男の子も受け入れているが
生徒も先生も女の子が中心の社会。校舎や校庭は隅々まで掃除が
行き届き、教室や廊下には塵一つ落ちていない。全校生徒で管理
する花壇は運動場より大きくて、いつ行っても四季折々の草花が
咲き乱れている。
 休み時間には響く甲高い声も授業時間になるとぴたりとやみ、
先生が講義する声の他は生徒が本のページを捲る音しか聞こえて
こなかった。

 生徒たちによって丹精された草花の庭を通って、伯爵は子ども
たちと一緒に薔薇のアーチをくぐる。このアーチが学校の内と外
を分けているわけだが、ここに校名を刻んだプレートなどはなく、
外から見るとまるで誰でもが入れる公園のような場所だったので
ある。

 校門を出ると、その近くには大きな車寄せがあって、ずらりと
高級外車が並んでいる。
 真理や瞳の顔を見るなり、ワーゲンやシトロエンの運転席側の
ドアが開く。運転手さんたちが自分の仕事に気づいたのだ。

 二人の女の子たちとはここでお別れ。

 「ごきげんよう、伯爵様、ここで失礼します」
 「私もここで……ごきげんよう、失礼いたします」

 「はい、お二人とも今日はありがとう。明日もまた仲良くして
あげてくださいね」

 「ごきげんよう、由梨絵さん」
 「ごきげんよう、明日、また遊びましょうね」
 二人は伯爵と由梨絵に挨拶して別れると、それぞれ自分たちの
屋敷から差し回された車のもとへ。

 子どもたちが自家用車で通学するのは、親たちにとってそれが
一番安全な通学方法だったからだ。

 「ごきげんよう……さようなら」
 「ごきげんよう……さようなら」

 二人は家路へ出発した後もその車内から由梨絵の車に向かって
手を振る。
 伯爵様も車内に乗り合わせた彼らの家庭教師に軽く会釈した。

 戦前、上流層の挨拶は、それが朝でも夕方でも、出合った時も
別れる時も、そのすべてで『ごきげんよう』の一言だった。
 『おはよう』も『さようなら』も、彼らにとっては必要のない
挨拶だったのである。

 ただ戦後になると、世間の常識から乖離してはならじとばかり、
学校でも『おはようございます』『先生、さようなら』といった
言葉が登場してくる。
 二人はそれを思い出して付け足したのだった。

 二人の黒塗りが車寄せを出た後、伯爵も娘の為に愛車シボレー
のドアを開ける。
 ところが……そこには見かけないクッションが置いてあった。

 「……?……」
 由梨絵が不思議そうな顔でそれを手に取ると……

 「お尻がまだ痛いだろうと思ってね、お家から持ってきたんだ」
 伯爵がお姫様の為にした気遣いだったのだが……

 「いらないわ、こんなの。だってお尻なんてもう痛くないもの」
 由梨絵はそっけない。

 すると……
 「おやおや……それじゃあ、私のお膝の上にも乗れるかな?」
 伯爵が悪戯っぽく笑って運転席で膝を叩くと……

 「いいわよ、乗れるわよ」
 由梨絵の顔が急に幸せそうな笑みになる。

 由梨絵は、幼い頃から伯爵の膝の上に乗ってドライブするのが
大のお気に入りだったのだ。浜辺や空き地、民間の駐車場(当時
はまだ多くの駐車場が未舗装だった)など、公道以外のデコボコ
地面を疾走するのは大きなアメ車でもけっこうスリリングだ。

 「ヤッホー」
 歓声と共に小さなお尻が大きな膝の上で跳ね回る。

 「コラコラ、あんまり跳ねると運転できないじゃないか」
 伯爵はハイテンションの由梨絵を叱るが、彼もまたそんな空気
の車内がまんざらでもない。どこかロデオ気分だ。

 伯爵は揺れる車内で由梨絵のスカートの中、お尻や太股に左手
を滑らせると、幾度となくさすっている。由梨絵も幼い頃からの
習慣だからだろうか、安心しきっていてその進入してきた左手を
とがめだてする様子は微塵もなかった。

 やがて、伯爵は由梨絵にハンドルだけでなくクラッチレバーも
切り替えさせるようになる。
 もちろん由梨絵が握るハンドルやクラッチには伯爵の大きな手
が添えられてはいるのだが、こうなると、由梨絵も自ら運転して
いる気分だ。

 「吉田のおじちゃん、ヤッホー、もう一人で運転できるように
なったよ」
 由梨絵は開け放った車の窓から左手を出して振る。
 ちょうど庭の手入れをしていた植木職人のおじさんを見つけた
ところで、もう上機嫌だった。

 その後、伯爵は由梨絵を膝の上に乗せたまま広い車寄せのある
庭を何週かしてみせた。

 普段おとなしいと思われている由梨絵がこの時ばかりは満面の
笑み。正直言ってお尻はまだ痛かったが、おじ様のお膝はいつも
のように快適そのもの。興が乗ると、伯爵が自ら膝を上下に揺ら
してくれるのもいつものことで、その間は由梨絵のはしゃいだ声
が辺り一帯に響いていた。

 だから、本当はこのままおじ様のお膝の上に乗ったまま家まで
帰りつきたいところなんだが……

 「さあ、そろそろ家に帰るよ。降りなさい」
 一息つくと、伯爵に膝から降りるよう命じられてしまう。

 「え~~もうおしまいなの」

 「お前を抱っこして街中を運転してると警察がうるさいんだよ」

 「あ~~あ、つまらないの。おじ様、私、運転上手なんだし、
私が運転してもいいでしょう。何とかならないの。おじ様、伯爵
なんでしょう」
 由梨絵は粘ったが……

 「何ともならないね。だいいち、今の私は伯爵じゃないよ」

 「えっ!違うの?」

 「戦争前まではそうだったから慣例でみんなそう呼んでるけど、
今の私は冠位なんて何もないから、他の人と同じ一人の市民さ。
ちっとも偉くなんてないんだよ。……さあ、降りた、降りた」
 伯爵は車を止めて由梨絵を助手席に移す。

 と、その時だった。
 あれほどはしゃいでいた由梨絵の動きが一瞬、止まってしまう。

 どうやら彼女、その瞬間何かに気づいたみたいだった。

 由梨絵の見つめる先には男の子が一人、サッカーボールを踏ん
づけてこちらを見ている。

 鼻筋の通ったクールな瞳が特徴的なその少年はまだ前髪を切り
揃えた坊ちゃん刈りで赤いほっぺや愛らしい口元から推測すると
どうやら由梨絵と同年代らしかった。

 「……ん?……あっ、そうか、あれは駿君だね……昔一度だけ
話したことがあるけど、その時はまだ赤ちゃんぽかったが………
でも大きくなったなあ……そうだ、思い出したよ。彼、君と同じ
給費生じゃなかったかい?……そうだろう………ん?どうした?
……彼のこと、好きなのか?」
 伯爵は思わず先走ってしまう。

 すると、すぐにちょっぴり怒ったような反応が返って来た。
 「……な、わけないでしょう。関係ないわよ」

 由梨絵の即座な反応。その強い調子。たとえママゴトにしても
まんざらでもないと思った伯爵が、帰り際あらためて車を俊君の
近くへ回し、その顔をあらためて確認することになる。

 「やあ、君、サッカーが好きなの?」

 伯爵が車の窓を開けて尋ねると……
 少年は何も言わず寄宿舎の方へと走り去ってしまった。

 伯爵は由梨絵に悪いことをしたと思ったが、仕方なかった。

 給費生は、身元のしっかりした後見人がいない限り学園生活の
大半を隣接する寮で暮らすことになっている。それは、経済的に
恵まれていない子が多い給費生を環境の整わない家庭に戻しても
その高い学力を保持できないだろうし、何より戻った家や風紀の
悪い地域でよからぬ遊びをおぼえないとも限らないと考えたから
だった。

 給費生というのはそんな窮屈な籠の鳥ではあったが、一方で、
学園側も彼らのことを慮り、なるだけ一般の子と大差のない生活
が送れるよう努めてはいたのである。

 学用品はもちろんのこと、制服や私服、玩具、お小遣いだって
ちゃんと出る。寄宿舎の設備は充実していたし、話し相手になる
教師やシスターもいる。

 ただ、それでも給費生の日常というのは決して楽ではなかった。
 一般の生徒と比べて決定的に欠けているものがあるからだ。

 それは肉親からの愛。

 どんなに親切にされても教師やシスターは所詮他人でしかない。
もちろん仕事の範囲内で是々非々での対応はしてくれるだろうが、
それ以上踏み込んでの面倒はみてくれないことを、彼らは知って
いるのだ。紋切り型の愛情では出てこない暖かさを一般の生徒は
持っている。その現実を彼らは肌で感じているのだった。

 駿君がこの時見ていたのもそんな暖かさだったのかもしれない。


 伯爵の車は由梨絵を助手席に乗せて学園の建つ山を下りて行く。

 すると突然、伯爵が車を止めて……
 「寄宿舎の入口にいた子。あの子、何であそこにいたんだろう?
実家に帰らなかったのかなあ」
 伯爵が由梨絵に尋ねた。

 「だって、あの子、帰る家がないんだもの。すごっく可哀想な
子なんだから。去年、おじいさんが亡くなってちゃって帰る処が
ないみたいなの。孤児になっちゃったって……」

 「ああ、あの子がそうか、去年、一度だけ会議の議題になった」

 「どんなことで?」

 「おじいさんが亡くなって身元引受人がいなくなったんだから
ここを退学させて施設に預けるべきじゃないかって意見がでてね。
ま、規則としてはそうなんだが、シスターや教師たちから異論が
相次いでこっちも驚いたよ」

 「で、どうなったの?」

 「結局、教会が預かるという形でこの学校は卒業させることに
なったんだ」

 「そうか……やっぱり可哀想な子なんだ……」

 「可哀想、可哀想って……まるで他人事みたいに言ってるけど、
お前だってそうじゃないか。私は、お前のお父さんじゃないぞ」

 伯爵がすました顔でまっすぐ前方を見つめて言い放つと由梨絵
は少しすねたような顔をして伯爵に右肩に自分の左肩をぶつけて
くる。

 たしかに由梨絵は伯爵とは赤の他人だ。しかし、伯爵は三歳で
由梨絵を自宅に引き取って以来、実の娘のように可愛がってきた。
 だから由梨絵も、戸籍がどうあれ、この世に伯爵以外の父親は
いなかったのである。

 他人の前で、おじ様と呼ぼうが、伯爵様と敬ってみせようが、
このドライバーは、彼女の頭の中ではその全ての場面でお父様と
変換されてしまう人。二人はそんな不思議な親子だった。

 ところが、そんな由梨絵が、今、気にしているその男の子は、
伯爵にとっても気になる存在だったのである。
 そこで……

 「由梨絵、お前は駿君のことが好きか?」

 伯爵の一言に由梨絵のほほが赤くなった。
 「何でそんなこときくの?……べ…別に……そんなんじゃない
って言ってるでしょう」

 「『そんなんじゃ』って……どういうこと?」
 伯爵はそ知らぬふりで尋ねる。

 「えっ!?」
 由梨絵は思わず出た本音にさらに顔を赤くする。
 結局……

 「だから、それは……単なるクラスメートというだけのことで
……あんまり、口きいたことないし……今日だって私がお仕置き
されてる園長室の近くでこっちを見てたんだから……男の子が、
女の子のお仕置きを待ってるなんて……きっと変なこと思ってる
んだから……薄気味悪いったらないわ」

 「じゃあ、嫌いか?」

 「嫌いって……そういうわけじゃあ……」

 「何だ?どっちなんだ?……まあいい、わかった。それじゃあ、
まず、私が親しくなってみるか」

 伯爵はそう言うと、急ハンドルを切って車をUターンさせる。

 「えっ!どういうこと?」
 由梨絵の身体が大きく左右に振れ、背もたれに頭をぶつける。

 「その子、どうせ週末でも帰る家がないんだろう。だったら、
一度くらいうちに招待してあげようじゃないか。……幸いお前が
部屋の飾りにしてるエンサイクロペディアや文学全集、図鑑類も
彼なら興味があるんじゃないかと思ってさ……」

 「えっ、どういうことよ?……だって、そんなの学校の図書館
にもあるじゃないの」
 由梨絵は慌てて伯爵を引き止めようとしたが……

 「あそこにあるのは版が古いんだ。中には戦前に出版された物
もある。旧字体で書かれた物は今の小学生には読みにくいだろう。
それに知識は常に新しくなるから、できるだけ新しい版のものを
見なきゃ」

 「ふ~~ん。でも、何でうちに呼ぶのよ」

 「いいだろう呼んでも。たまには男の子とも話してみたいんだ」

 「えっ?」
 由梨絵は伯爵の意外な答えに、しばしぽかんとなったが……

 「痛い、こら、やめないか!」

 由梨絵は、次の瞬間、運転手の右足を思い切り蹴ったのだった。

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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