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伯爵と二人の娘

  伯 爵 と 二 人 の 娘

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 秋葉伯爵………60代半ばの紳士。白髪混じりの頭、浅黒い顔
は皺も刻まれているが、長身で背筋も伸びているロマンスグレイ

 金谷 瞳………赤毛のショートカットにソバカス顔。オーバー
オールがトレードマークの活発な女の子。美佳とは同じ孤児施設
で育った。

角田美佳………肩まで伸ばしたストレートヘアに端整な顔立ち。
清楚な女の子。なぜか『乙女の祈り』だけはピアノが弾ける。瞳
とは同じ時に施設に引き取られる。

松村(執事)……勤続年数12年、秋葉伯爵家に仕えて伯爵を
サポートしている。実直な人柄。

 ハナ(女中頭)…勤続年数30年、亡くなった奥様もその娘の
真理恵様も、そして今探索中の孫の瞳お嬢様まで、伯爵以外では
伯爵家の家族全員を知っている唯一の人。

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 雨の午後だった。玄関先に立った紳士が傘を畳んで白絹の手袋
でスーツの肩を一つ二つはたくとドアが開く。

 「お帰りなさいませ」
 執事といった感じの上品な物腰の男に迎え入れられた紳士は、
傘と手袋を預けてからその場を去ろうとする。

 大理石の床を叩くスリッパの音が高い天井のロビー数回こだま
してから。

 「あ、松村、今日二人客人がくる」
 との声。これに呼応するように。

 「どちら様でしょう」
 神妙な松村執事の顔をしばし低く見てから、伯爵はそれまでの
少し厳めしい顔を崩してから答えた。

 「ヤングレディーだ。金谷瞳嬢だ。この家が見てみたいという
ので誘った。……一晩泊めてやってくれ」

 「では、お嬢様が……」
 驚いた様子の執事に、伯爵は少しがっかりした様子をみせて。
 「あわてるな、確かに生年月日も名前も同じだったが、別人だ」

 「やはり、生い立ちが違っておりましたか……」
 「いや、そんなものは始めから聞かなかった。……ま、聞かず
とも会えばわかる。ここで生まれ、ここで教育を受けた者にしか
できぬ事は多い。それは二日や三日の訓練で物まねできぬものだ。
その仕草、身のこなし、ここで育った者ではなかった」

 「しかしながら、お嬢様がここを去られたのは、まだ、三歳の
お誕生日のころ。そのようなものは……」
 執事が不思議がると……

 「そうではないよ。三歳までにここで仕付けたことは、庶民の
それとは違うからね。たとえ成長していてもそのこん跡が消える
ことなどないのだよ」

 「では、やはり、財産目当ての詐欺ということでございましょ
うか?」

 「いや、それも違うな。たまたま名前と生年月日が一致したに
すぎない。このヤングレディーにしても施設の人たちにもその事
に悪意はないよ。それもまた会えばわかることだ」

 「しかし……それではなぜお招きを……」

 「彼女にも今回いろいろ手間を取らせたからな。その返礼だ」

 「それでは、お連れは?どのようなお方で?」
 「連れ?……ああ、ヤングレディーの連れか。……何でも彼女
の古い親友なのだそうな。…ま、古いといっても彼女の歳だから
ここ五、六年だろうが……」
 伯爵は寂しげに笑うのだった。

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 「美佳、見て!すごい噴水があるわよ」
「待って、私そんなに早く走れないわ」

 「すごいなあ。この前庭だけでうちの学校の校庭くらいあるわよ。
それにこんなにたくさんお花植えちゃって…維持費だけでも相当
なもんだわ……あっ、パンジーが咲いてる」

 「あっ、駄目よ、そこ!」
 美佳がそう叫ぶが早いか瞳の足を地を這うように一本長い木の
棒が襲う。

 「やだあ!」
 瞳は間一髪、その棒を飛び越える。
 「やだあ!何よこれ!」

 「花時計よ」

 「え!?」
 瞳は振り向く。そして少し離れて見て。
 「ほんとうだあ!信じられない!伯爵って、お庭に花時計まで
作るのね。でも、お金持ちってこれだから嫌いよ。どうせ花時計
を作るんなら、『ここに花時計があります』って書くべきよ」
 瞳は笑っていた。感激していた。憧れていたのだ。

 「ねえ、美佳、でもさあ、お金持ちってケチっていうじゃない。
それっては本当みたいね。だってこんな立派な噴水持ってるのに
水が出てないもん」
 彼女はそう言うと無遠慮に噴水のプールの中へと入っていく。

 「ほら、この女神様、私に似てない?」
 瞳は白亜の女神像に自分をだぶらせポーズを取る。
 そこはプールの中央にせり出した小さな舞台の上で、そこから
見ると周囲に配置された天使たちはまるで自分の僕(しもべ)の
ように見えるのだ。

 「私はヴィーナス。天使たちよ謳え、踊れ、私を称えよ」

 「もうやめなさいよ。急に噴水がでたらあなたびしょ濡れよ」
 得意がって奇声を上げる瞳を美佳はたしなめる。美佳の心に、
漠然とだが言いしれぬ不安の影がさしていた。

 「大丈夫よ。あなたって小心者ね。これってきっと壊れてるよ。
あなたもいらっしゃいよ。ここからの眺めサイコーなんだから。
まるで本物の女神様になった気分よ。『お前たちは何も知らない
人間のくせして、私の言うことがきけないの。こっちへおいで、
そんな恥知らずには私がたっぷりお仕置きしてあげるわ』」

 瞳はまるで女神様にでもなった気分でそう言ったのだろうが、
それは幼い頃お世話になった孤児施設の園長先生の口まね。瞳に
とっては大人の女性としてまず頭に思い浮かぶのは彼女だった。

 「やだ、三時よ、もう離れた方がいいわ」
 美佳の雄叫びが終わるか終わらない瞬間だった、大きな花時計
の秒針が、三時を告げに長針のもとへと戻ってくる。

 そして、秒針が長針と重なり終えた瞬間。

 「?!」

 それまで壊れていたものとばかり思っていた噴水の蛇口から、
一斉に水が噴き出し始める。

 「いやあ~やめてえ~」

 あっという間に水しぶきにかき消されて、瞳が見えなくなる。
美佳は慌てて助けに行こうとしたが滝のように叩きつける厳しい
水圧をはねのけることができない。

 「待ってて」
 美佳はそう言い残すと走り出し、大きな噴水の後ろへと回り込む。
 そこは女神様の背中。そこにすねた表情をしたキューピットの
像が一つ、池の外側を向いて飾ってあった。

 彼女は何を思ったかそのキューピットの股間に右手を差し入れ
ると、感じたコックを思いっきり右へと回したのだった。

 ほどなく噴水の水は止まり、ずぶぬれになった瞳が美佳の元へ
と泣きながら帰ってくる。

 「何よコレ。これから水が出ますって挨拶はないの。まったく
ここの伯爵は不親切なんだから」

 二人にとってはお屋敷を訪れた早々とんだ恐怖体験だったわけ
だが……しかし、このことを二人だけの秘め事とすることはでき
なかった。
 その一部始終を秋葉伯爵が書斎の窓から見ていたのである。

 「お呼びでしょうか?」

 「………………」
 執事がお呼びに従いまかり越したのに、当の伯爵はただ窓の外
を眺めるばかりだった。

 「………………」
 気になった執事が、主人の眺める先を見てやると、ずぶ濡れの
少女が一人、同じ年格好の娘に介抱されている。

 「察しはつきます。まったくもって不作法な連中で……さっき
三時を打ちましたからそれで濡れたのでございましょう」

 「そうだな……それにしても……だ」

 「……」主人の謎の言葉に執事は首を傾げる。

 気づいた伯爵が……
 「ああ、おまえ来てたか。……あの子にあう服を探してくれ、
まさかあのまま家に入れる訳にもいくまい」

 「承知いたしました」
 執事は言いつけに従い窓から離れて部屋を出たが、伯爵はまだ
窓の外を眺めたままだった。

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 玄関の呼び鈴が鳴り、メイド頭のハナが応対に出る。

 「ちょっと、何なのあなたたち、何なのその格好は…とにかく
裏へ回ってちょうだい。玄関は子供は使わないものよ」

 ハナがそんなことを言っている処へ伯爵がやってきた。

 「おう、これは、これは、よく来たね」
 「お招きいただき感謝いたします」
 型どおりの挨拶にも瞳はばつが悪そうだった。

 「ん?どうしたね?外は土砂降りだったのかい?」
 「いえ、噴水のしぶきが少しかかってしまって……」

 「そうか、普段はそんなこともないんだが、きっと風向きが悪
かったんだろう。あれは昼間だけ一時間おきに吹き上げるんだ。
置き時計だってそうだろう。四六時中ボンボンって鳴ってたら、
うるさいじゃないか」

 「そうなんですか」元気のない瞳の声に伯爵が続ける。
 「………でも、本当のことを言うとね、おじさんはケチだから
一時間に五分だけしか動かさないのさ」

 伯爵のイヤミに瞳はますます申し訳なさそうに尋ねた。
 「あのう、タオルを…お借してよろしいでしょうか?」

 「ああ、いいよ。ついでにシャワーを浴びるといい。お湯が出
るからね。少しは落ち着くはずだ」
 その時、執事の声がした。

 「旦那様、このようなものでいかがでしょうか」
 そう言って彼が差し出したのはメイド服だった。
 しかし、これを一瞥して伯爵の顔が曇る。

 「松村、これは女中のものだろうが……」
 「しかしながら、このお屋敷で女性ものとなりますと亡くなら
れた奥様のものか、さもなくば…あとは真理恵様の……子供用の
服はちょっと……」

 「そうだな」
 伯爵は納得したような素振りで美佳に視線を送る。
 何気ないものだが、投げかけられた美佳の心に波紋が広がって
いく。何がどうと理由は言えないのだが鼓動が早くなる。

 そんな二人に瞳が割って入った。
 「わたし、平気です。こんなこと慣れてますから。バスタオル
さえ貸していただければ服が乾くまでそれにくるまってますから」

 「ははは、お客様にそんなことはさせられないよ。まあいい。
ともかく二人ともシャワーを浴びて来なさい。美佳さん、あなた
の袖も濡れたみたいだ。それにしても、非常用のコックなんか、
よく分かったね」

 「いえ、それは……」

 美佳は口ごもった。実際、自分でもそのことは不思議だった。
あの場所からコックの在処(ありか)が見えていたわけではない。
よしんば見えてもそれが何の役立つなんて判断ができるはずも
ない。ましてや彼女は瞳とは異なり臆病な性格だったのである。

 「ともかく、しばらくの間は客用のバスローブがあるからそれ
で我慢してもらって……ハナさん、お二人をシャワー室へご案内
して」
 伯爵は二人のエスコートを女中頭のハナに頼んだ。ところが、
いつもならすぐに動くはずの彼女が、しばし立ちつくしたままで
いる。

 「ハナ、二人をお連れして……」
 「あっ、はい」
 さすがに二度目は慌てたようにその場を離れたが……
 「あ、ハナ、もういい、それは松村に頼むから」

 「申し訳ございません。歳のせいか、ついぼんやりしておりま
して……」
 ハナは恐縮して主人に詫びをいれた。自分がぼんやりしていた
ために仕事を取り上げられたと思ったのだ。

 「気にするな。お前には別の用を思いついたんだ。ちょっと、
こちらへ来てくれるか……」
 伯爵はハナを従え奥向きへと通じる廊下を進む。

 一方、シャワー室へは松村が案内する事になったのだが、ここ
でも、美佳が不可思議な行動をとる。松村の先導で進んだ廊下が
左右に分かれる処で、松村と瞳が右へと折れたのに美佳だけ左へ
折れてしまったのだ。

 「どうしたの?こっちよ」
 瞳の声に美佳はすぐに元へともどったが、なぜ自分だけ勝手に
左へ折れたのか、それは美佳自身にも説明できなかった。

 一方、伯爵はハナを連れて真理恵のクローゼットへ来ていた。
 「どうだろう、あの子にはこれが似合うんじゃないかと思うん
だが……」
 伯爵の取り出したのはレースをあしらった白いワンピース。

 それをハナは最初静かに眺めていたが、やがて……
 「それをオーバーオールのお客様にでしょうか?」
 と言ってみた。

 伯爵はハナの言葉に首を振る。その顔が何を訴えているのか、
ハナはすでに察している様子だった。

 「それはよろしいかと思います。体型も真理恵様とほぼ同じ様
に見えますし……」
 ハナのあえて抑揚を押さえた答えに伯爵はたまらずこう尋ねた
のである。

 「似ていないだろうか?」
 「……それは何とも……ただ、私は玄関を開けた瞬間、真理恵
様が帰られたのかと……」

 「そうか、私も同じ夢を見たよ。書斎から見ていると子供時代
の真理恵がそこにいるかのように感じられて、不思議な気分だ。
…もっとも、私があの子に最後に会ったのが三歳の時。よしんば
あの子がそうだとしても、この家の事をあれこれ覚えているはず
もないとは思うんだが……ただ、あのコックは外からは見えない
はずだし、あの子がどうしてわかったのかと思って……」

 ハナは伯爵の胸の内を察して慰めるように続ける。
 「物事はそう思って見れば何でもそう見えてしまうものです。
軽はずみな事はなさらない方がよいかと思います。まずは事実を
確かめませんと……」

 「そうだな」
 伯爵はそう言うのがやったとだった。

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 二人の少女がシャワーを終えて伯爵の居間へとやってくる。
 瞳は薄い絹のドレス。美佳は上質の綿を細かに編み込んだ純白
のワンピース。いずれも子ども時代の真理恵の服だが、二人には
あつらえたように似合っていた。

 「着いた早々ご迷惑おかけして申し訳ありません」
 美佳の涼やかな声が伯爵の耳に響く。
 「ありあわせのものだから、体に合わないかもしれないが……
バスローブよりましだろうから」

 「やだなあ、伯爵様ったら…今日は何か変よ。私と一緒の時は
そんなんじゃなかったじゃない。…外で気を遣うってのはわかる
けど、ここはお家の中だもん。もっとリラックスしなくちゃあ。
……ねえ、この子だってね、私と同じ孤児なの。何でも、薄汚い
婆さんが預けに来て、それっきりになっちゃったみたいよ」

 伯爵の動揺をよそに瞳は続ける。

 「でも、これっていいものよね。デザインはとってもシンプル
だけど。三万か五万くらいするんじゃない?美佳と私の…どっち
が高いんだろうね?」
 瞳は、美佳と自分のドレスの両方の袖を引っ張っては無邪気に
笑っている。

 「わあ、素敵。伯爵、このシャンデリアも高いんでしょう」

 もとより真理恵の着ていたドレスに一桁というのはない。瞳の
思う額なら摘んだ袖の布地代程度だ。高価な絹地を、名の通った
デザイナーに仕立てさせ、かつ『流行は追わないように』と注文
をつけるのが旧家の一般的な服の仕立て方だった。

 だが、家の者は誰一人そのことに触れない。彼らが気になるの
は、薄汚い婆さんのことなのだ。

 「美佳、伯爵様ってね、世界中を旅してるのよ?ヨーロッパや
アメリカだけじゃなくて、インドやブラジルやコンゴにも行った
ことがあるんだって……」

 独りではしゃぐ瞳を後目(しりめ)に、伯爵も、ハナも、どこ
か緊張してこの場に立っている。それが執事の松村にも伝わり、
やがて当の美佳へもその緊張感が伝わるりかけた時だった。それ
を断ち切るようにようにメイドが声をかける。

 「旦那様、お電話でございます」
 「どなただ」
 「弁護士の内村様と申されております」
 「わかった、出よう」

 こうして伯爵は電話室へといったん姿を消したが瞳は相変わら
ずだった。
 今度は部屋の奥にグランドピアノを見つけて鳴らし始める。

 猫をふんじゃったを得意げに叩く瞳に、悪びれた様子はない。
しばらくは、まるで自分のピアノのようにご満悦だった彼女が、
やがて美佳にもピアノを勧めた。

 「ねえ、あなたも弾いてみなさいよ。あなただってたった一つ
だけど弾ける曲があったでしょう」
 瞳にそう言われて背中を押され、美佳が弾き始めたのは『乙女
の祈り』だった。

 独学でものにした指はぎこちなく決して上手な弾き手ではない。
だが自分が弾いている時とは違う雰囲気がこの場を支配している
ことに瞳は初めて気づくのである。

 そんな緊張感の支配する空間に電話を終えた伯爵が戻ってきた。
彼は、暗い廊下の先に輝く逆光から流れ来る旋律にとうとうその
入口で足を止めてしまったのだった。

 「…………」照れくさそうに口を小さくして笑い「私ここまで
した弾けないんです」と言うと周囲から期せずして拍手が起こる。

 「いいなあ、可愛い子はなにやっても褒められるんだから」
 瞳のイヤミにも笑顔を見せて美佳が立ち上がろうとすると……
その視線に伯爵の顔がのしかかった。

 思わず知らず驚き惑い再び椅子に座り直すと、伯爵はそれ以上
は美佳には近づかず静かにこう尋ねるのだ。

 「この曲が好きなのかい?」
 「母がいつも弾いててそれで……おぼえて……」
 「お母さんは?元気?」
 「亡くなりました。五歳の頃に……」
 「…そう、残念だったね」

 伯爵の心にも美佳の心にも真理恵の姿が浮かぶ。伯爵にしてみ
れば可憐で純真無垢な娘の姿が、美佳にとっては心を病んで物憂
げな顔ばかりしていた母の面影が、いつも弾いていたこの曲と共
に思い出されるのである。

 「この曲は見よう見まねで覚えたのかい?」
 「母の思い出でしたから……施設のピアノを悪戯して覚えたん
です」
 「それにしても凄いじゃないか。独学なんだろう」
 「だからおかしいでしょう?」美佳は寂しくはにかんで俯く。

 「途中までなんです……それに、うるおぼえだし……」

 「いやあ、立派なもんだよ。五歳の記憶でここまで弾きこなす
なんて……」
 伯爵の弾んだ声が何を意味していたか、この時の美佳は知る由
もない。

 しかし、彼女にとって何より幸運だったのはこの曲を母以外の
人に習わなかったことだった。母のピアノの癖それも左右の手が
半音ずれて弾く母の癖をそのまま受け継いでいることが、伯爵に
血のつながった孫が目の前にいると確信させたのだった。

 『美佳、お前がなぜ瞳と名乗らなかったのか、それは知らない。
しかし、お前は三歳までこの屋敷で育ち、政治犯と駆け落ちした
真理恵と一緒に私のもとから姿を消した私の孫、瞳に間違いない
んだよ』

 今まさに自分を抱きしめようとする伯爵の潤んだ瞳は、この時
はまだ美佳の心に届いていなかった。が、伯爵のみならず周囲の
人の誰からも自分が熱く見つめられているという現実は、美佳も
また感じていたのである。

 「わたし……何か、いけないことしたんでしょうか?」
 「どうして?そんなことはないさ。……だから、とっても上手
なピアノだったって褒めてるだろう。……そうだ、こちらへ来て
くれないか、君に見せたいものがあるんだ」
 「何でしょう?」
 「君の知らない世界さ」

 伯爵はまるで恋人にでも話しかけるような口調で美佳を誘い
出す。
 そして連れて行かれたのはさっきシャワー室へ行く途中、自分
だけが左へ曲がり間違えた場所だった。

 左へ折れれば、やがて大きな扉に遮られた廊下は行き止まりに。

 「ここは?……」
 美佳の胸の内にわき起こる再びの焦燥感。
 そんな美佳の心の奥底を見透かしたように伯爵はこう言うのだ。

 「ほら、この扉を両手で思いっきり押してごらん」
 鍵が外された扉は大きくなった美佳には両手でなくとも開ける
ことができた。しかし、美佳が両手でその扉を押し開いた瞬間、
彼女の両手にもやもやしていた過去が蘇るのだ。

 『この先に母がいる』
 誰の声かは知らないが、誰かがそう心の中で叫んでいる。
 明確な記憶とも第六感とも違う心の声が聞こえるのだ。
 小走りに駆けていく自分の姿もまた、三歳のままだったに違い
なかった。

 さらに、障子を開けて入った部屋は和室。しかし、意外なほど
がらんとしていた。伯爵家の令嬢が暮らす部屋としてはあまりに
質素だったのである。

 「真理恵の部屋だ。昔のままにしてある。ほら、あそこに写真
があるだろう」
 いつの間にか後ろに立っている伯爵がその視線で指し示す先に
美佳にも懐かしい顔が……

 「若い!なんて美しい人なんだろう。……でも、これって……
母に似てる!」

 美佳はここで起こったことを色々頭の中で整理してから後ろを
振り向いた。

 そこにはそれまで柔和な顔を保ち続けていた初老の紳士が今は
少し厳しい顔をして彼女を見つめている。

 「あのう……わたし……ひょっとして……ここの」
 「そうだ。お前はここで生まれたんだ」
 「ということは、伯爵様が私のおじい……」
 そこまで言って伯爵はあえて美佳の口を塞ぐ。
 「違う。お父さんだ」
 伯爵はこの時初めて美佳を抱きしめたのだった。

 不可解な言葉を残して抱かれた胸は老いたりといえど男のごつ
ごつとした肉体に違いない。そんな太い腕の中では甘いコロンも
鼻を突く。小さな美佳の上半身は羽交い締めにされて、わずかな
後戻りも体を左右に振ることもできない。そんな彼女の脳裏に、
今、去来するのは甘いノスタルジーより一種の恐怖感だった。

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 押し扉の向こうは、元々伯爵のプライベートエリアで、戦前は
特効警察といえど容易に踏み込むことのできぬ聖域。使用人たち
も伯爵から特別の用を言いつかった者だけが立ち入ることを許さ
れていた。

 真理恵が赤ん坊だった『美佳』いや『瞳』を育てたのはそんな
場所だったのである。

 最も安全な場所に娘を囲い込み、危険な思想犯から娘を守ろう
とした伯爵だったが、真理恵の熱は容易に冷めず、彼女は子供を
連れて家を出てしまう。

 その家出した娘と孫を伯爵は探し続けていたのだった。
 
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 「ねえ、この先には本当に行けないの?」
 瞳が自分の肩を両手で掴んで離さないハナに尋ねると……

 「ここはご主人様の他はどなたもお通しできない処なんです」
 「でも、真理恵さんはここで暮らしてたんでしょう」

 「それは当たり前です。真理恵様は当主様のお嬢様ですもの」
 「だったら、私だって養女だもん、いいじゃないの」

 「養女って……誰が?」
 「私よ、伯爵様は施設にいる時、そうしてもいいって……」

 「まあ、図々しい。お嬢様が見つかった今、旦那様がそんな事
なさるはずがありませんよ」

 「どうしてよ?ここが気に入ったのなら、いつまでここにいて
もいいんだよっておっしゃったのよ」
 
 「だから、それはお嬢様が見つからない場合のことでしょう。
だいたい、あなた、本当にお嬢様の名前を知らないで使ってたの?」

 「だから何回も言ってるでしょう。知らないものは知らないわ。
私はねえ、あの施設では始めから金谷瞳って呼ばれてたもん」

 「だって、五歳にもなって自分の名前が変わったのに気づかな
いなんて子っているかしら?」

 「だから、気づかないんじゃなくて、逆らえなかったの。施設
の米原先生が『あなたは金谷瞳よ』っておっしゃったら、それが
私の名前だって思うしかないじゃない。何か文句あるの」
 瞳の声も甲高くなる。

 「でもねえ」
 ハナの言葉に積極的には同調はしないものの、執事の松村も、
若い女中たちも、そこにいた全員が瞳の話には懐疑的だったので
ある。
 彼らは瞳が美佳が伯爵家のお嬢様と知って彼女に成りすまそう
としたんじゃないかと疑っていたのである。

 しかし、この一連の騒動に瞳の責任はない。二人は孤児施設へ
収容される際、名札が取り違えられ、それがそのまま自分の名前
になっただけのことだった。

 「何を騒いでいるんだ」

 一段落ついた伯爵が、美佳を連れて使用人たちの待つ廊下へと
戻ってきた。

 「おじさん、やっぱり美佳がここんちの子だったの?」

 瞳は伯爵のあいた左手取りすがり唐突に尋ねる。伯爵は、やや
困った顔を見せたが……
 「わからない。まだ事情がはっきりしないからね。ただ、この
子の雰囲気が母親によく似ていることは確かだ」

 「雰囲気?雰囲気って何よ?」

 「そこはかとなく漂う気品のようなものだ」

 「気品ねえ!?そりゃあ、私にはないわね」
 瞳はあっけらかんとして笑って答える。

 しかし、思い出したように……
 「でも、まって。美佳と私は五歳の時から同じ施設で育ったのよ。
彼女だって特別扱いなんてされてこなかったし、そんなのやっぱ
り変よ」

 「別に変ではないんだ。その子の気品というは生まれてだいた
い三歳ころまでには決まってしまうものなんだ。『三つ子の魂百
までも』って諺を知っているかい」

 「…………」瞳は自信なさげに首を横に振る。

 「もし、この美佳が私の探し続けた瞳なら少なくとも三歳まで
はこの屋敷で暮らしているはずだから、その後がどんな環境でも
分かちがたい貴族の気品が備わっていなければならない。彼女は
三歳までを貴族の娘として暮らしたんだからね……」

 「ふうん、つまり『私にはない高貴なものが彼女にはあった』
そういう事ね」瞳はうさんくさそうな目で伯爵を一瞥。「…ま、
わからないでもないわ。そう言えば、美佳って、何やってもトロ
かったもん。おやつの時だって、あの子自分からお菓子を取りに
行こうとしないの。誰かが運んでくれるの待ってるみたいで……
ベッドメイクだって女の子じゃ一番遅いし……だから、ベッドも
おやつも、みんな私かやってあげたんだから……あの子ねえ、私
がいないと施設じゃ生きていけなかったのよ。きっと、そういう
のが貴族らしいってことなのね」

 すねたような冷めたような瞳の顔はすでにあきらめたと言って
いるようにも見える。

 「……つまり、私はもうお払い箱ってわけなんだ」
 しかし、瞳がこう言うと、伯爵の答えは違っていた。

 「お払い箱って?」

 「だって本物のお嬢様がご帰還されたんだもの。…偽物に用は
ないはずでしょ」

 「偽物?何を言っているだ。もともと君が本当の娘でないこと
は百も承知で養女の話を持ちかけたんだよ。本当の娘が現れよう
と現れまいと私の養女になって欲しいという私の気持ちに変わり
はないよ」

 これには瞳も驚いたが何より周囲の大人たちが驚く。養女の話
はまだ口約束だけで籍はまで入っていない。反古にすることなど
たやすいこと思えたのである。それを……

 「………」
 しかし、瞳は複雑な表情を浮かべて伯爵の肩越しに美佳を見る。

 確かに相続権がないとしても一介の孤児にすぎない瞳にとって
形はどうあれ伯爵が後ろ盾になってくれるはずの養女という地位
はシンデレラストーリーだ。
 しかし、すでに本物が現れたその家でこの先自分の立場がどう
なるか。

 これまで妹分として扱ってきた美佳をこれからはお嬢様として
自分が傅く立場になるのだ。
 『そんなことまでしてここにいなくても……』と思ったとして
もそれほど不思議な事ではなかったのである。

 「……」
 瞳は判断がつきかねていた。

 すると、今度は伯爵が、思いもよらぬことを言う。
 「なんだか不安そうだね。だけど、もう決まったことなんだ。
君の親代りだという真島先生とはすでに覚え書きも取り交わした
からね。子供の君が自分の意志では破談にはできないんだよ」

 「えっ……」

 「ただ、こういう事は無理強いしても幸せにはなれないからね。
どうしても君が嫌なら考え直してもいいよ」

 「……………………」

 伯爵が瞳の顔を見直すと、少女のほっぺが一瞬膨らんで見える。
しかし、それは伯爵にとって不快な出来事ではなかった。

 「君はまだ未成年だからね。少なくとも、あと七年半は、君が
自分の気持ちだけでどこに住みたいとは決められないんだ」

 「……………………」
 瞳はしばし押し黙ったままだったが、そのうちぽつりと……

 「……もし、逃げたら?」

 「私では不満なのかい?」

 「……そうではないけど……私は貴族の出じゃないから言葉は
乱暴だし、美佳みたいにお上品には振舞えないもの」

 「何だ、そんなことか……」伯爵は少し苦々しい顔になって…
「私は最初から君にお上品な振る舞いなんて期待していないよ。
明るくて、ほがらか、君が傍にいると私も楽しいからね。それで
養女の話をしたんだ。だから、君は君の姿で私に仕えてくれれば
それでいいんだよ」

 「要するに、まだ11歳の小娘くらいどうにでもなるってこと
なんでしょう」

 「…………」
 伯爵は瞳の少しふて腐れたような物言いに一つ大きく息をつく。

 事実はそうに違いなかったが、あけすけにそう言われるのは、
伯爵も好まなかった。瞳の利発さ押しの強さはもろ刃の剣だった
のである。

 伯爵はこの問題をはっきりさせておかなければならないと思っ
たのだろう。自ら中腰になると、子供たち二人を自分の目の前に
呼ぶ。

 「美佳も、ここへ来なさい」

 彼はそれまで聞き役にまわっていた美佳まで瞳の脇に立たせる
と……
 「瞳、それに、美佳、これからは私がお前たちのお父さんだ。
だから不満があっても伯爵家の一員としてそれにふさわしい立ち
居振る舞いをしなければならない」

 「もう、拒否はできないの」
 瞳が言うと……

 「できないよ。私は伯爵だからね。お前たちよりずっとずっと
偉い人なんだ」
 伯爵は苦々しい顔になって宣言する。本来なら自分の力を誇示
するようなまねはしたくなかったが、この場合は仕方がなかった。

 「……二人は、私たちとは別の社会で暮らしてきたから戸惑う
ことも多いと思うけど、慣れればここも決して住みにくい世界で
はないからね」

 「はい、お父様」
 美佳の言葉にまるでつられたように瞳までもが……
 「はい、お父様」
 と言ってしまったのである。

 「よかったわね」
 美佳に呼びかけられた瞳は、その瞬間、豆鉄砲を食らったよう
な顔になった。ものの弾みとはいえ軽率な自分の判断を恥じた形
だが結果的にはこれが瞳と伯爵の親子の契りとなったのである。

*****************************

 こうして二人の少女は、施設の四人部屋から伯爵の住まう横浜
の洋館へと住まいを移す。

 その屋敷は雑木林に囲まれた小高い丘の上にあって南側だけが
広く開け、日当たりも申し分ない。

 しかも、二人に与えられたのは二階の角部屋。海の見える一番
見晴らしのよい部屋が二人の居室となった。晴れた日には、遠く
外国航路の船が港に入ってくるのが見える。申し分のない眺望だ。

 狭くて暗くて女の子の体臭が壁にまで染み付いた部屋から見れ
ば夢のような、まさに劇的な暮らしぶりの変化だが、ただ一つ、
残念なことがあった。それはこの部屋に二人以外の同居人がいた
こと。
 実はこの部屋、伯爵の部屋だったのである。

 もちろん、彼女たちに与えるための部屋がないわけではない。
部屋はいくつも空いているが、伯爵自身が望んで同居させたので
ある。

 少女たちはこの時すでに11歳。思春期に首を突っ込んでいる
女の子たちにとって、大の大人、それも男性との同居は心穏やか
というわけにはいかなかった。

 それだけではない。伯爵は、当初二人の女の子たちに大人への
階段を登ることを認めなかった。

 下の毛をいつも綺麗に剃り上げさせ、胸が膨らみかけてもブラ
を認めず、お風呂にも一緒に入り、着替えも当然この部屋で行い、
夜は一緒のベッドで裸にして寝かせたのである。

 そう、むしろ伯爵は二人が赤ん坊の方へ戻ることを望んだので
ある。

 もう少し歳がいけば、それは耐えられないほどの苦痛だったの
かもしれないが、まだ子供の要素を残す微妙な年齢で、かつ親の
権威が重くて、二人がこれに逆らうようなこともなかった。

 では、伯爵はなぜこんな無理難題を押し付けたのか。

 それは一も二もなく娘たちに自分を親だと認知させる為だった。
当時の親は身分に関係なく自分の子供に絶対服従を誓わせていた。
絶対服従の存在として親は子どもから認知されなければならない
と考えられていた。ところが施設で自由奔放に育ってきた二人は
よくも悪しくも自立していて、それが伯爵には不満だったのである。

 そこで、遅ればせながら二人に当時の常識を授けるためには、
『幼児の時代から二人を育てなおさなければならない』と考えた
のだった。

 当初は、二人にオムツを穿かせ、哺乳瓶でミルクを与え、絵本
を読み聞かせ、乳母車を押して散歩にでたりもした。

 当然、二人ともイヤイヤは許されない。ミルクはおいしそうに
飲まなければならないし、絵本を読んでもらう時も楽しそうな顔
が必要だった。

 しかし、何より二人を最も悩ませたのはオムツだった。伯爵は
小学生とはいえ11歳にもなっていた二人にお漏らしまで命じた
のである。
 そして、出来なければ……

 所用から館へと戻った伯爵は真っ先に自分の書斎へと向かう。
そこには二人の少女がそれぞれロンパースを着て寝かされている。

 ドアを開けると、二つのベッドの傍らにはそれぞれの家庭教師、
瞳には小島先生、美佳には仁科先生が付き添っていた。

 この二人がいわば彼女たちの母親代わり。まだ貴族の暮らしに
慣れない二人に勉強や生活習慣などはもちろんのこと、言いつけ
を守れないとどうなるかを教え込むのも彼女たちの仕事だったの
である。

 「どうだね。瞳は?」
 二人の様子が気になる伯爵はまず小島先生に瞳の様子を尋ねた。

 「今朝、下剤を与えてましたのでお腹はかなりぐるぐるなって
いるようですが、まだ頑張っておいでです」
 小島先生が答えると、それを遮るように瞳が伯爵に訴える。
 「お父様、おトイレに行きたいんです。お願いです」
 瞳は切ない顔をして伯爵に頼みこむが……

 「瞳ちゃん、残念だけど、それはできないんだ。これから暫く
君はうんちやおしっこを今穿いてるオムツにしなきゃいけない
んだ」

 「どうして?」

 「前にも何回も説明したはずだよ。君は私の子どもになった。
子どもの最初は赤ちゃんだろう。赤ちゃんをやるのは私の子ども
になった君の義務なんだ」

 「だって、恥ずかしいもん」

 「それは分かってる。瞳はもう赤ちゃんじゃないからね。でも、
私の子どもで暮らす以上、これは必要な事なんだ。みんなオムツ
にうんちやおしっこをして、それを親に取り替えてもらいながら
大きくなってるんだ。お父様やお母様の前でたくさん恥ずかしい
ことをして大きくなった子だから可愛がってもらえるんだよ」

 「恥をかかない子は可愛がられないの?」

 「そうだ、お父様お母様の前で子どもはすべてをさらけ出さな
きゃいけないんだ。隠し事をしてはいけないんだよ。その心と体
のすべてをお父様お母様に捧げて、その代わりに、世界中にいる
他のどんな子供よりも飛び切り愛してもらうことができるんだ。
その第一歩が『こんなウンチが出ました』っていうご報告なんだ」

 「…………」
 瞳はこの奇妙奇天烈な理屈に黙して騙らなかったが、それは、
お父様の言っていることがへんてこだと思っていたからではなく、
自分の努力が足りない事を恥じてのことだったのである。

 「美佳、美佳はどうだい。やっぱりだめかな」
 伯爵は仰向けの美佳の顔を覗き込む。

 「ごめんなさい」
 彼女もまた、恥ずかしそうに答えた。

 「いいんだよ。謝らなくても……お父さんだって、お前たちが
とっても辛いことは承知しているからね。……きっと、『今さら
何でこんな事を……』って思ってるだろうけど、これは私達親子
らとっては大事なケジメだからね、外すわけにはいかないんだよ」

 「………ウンチが出そうになると、出さなきゃって思うんです。
でも、止まっちゃうんです」

 「分かるよ。それが当たり前だもの。でも、その当たり前を、
今日はあえてやめてほしいんだ。……このお父さんのために…」

 伯爵がそう言うと、傍らに立つ仁科先生が付け足した。
 「そして、それが何よりあなたのタメなの。……だってお父様
に可愛がっていただけなければあなたの幸せもないの。わかるで
しょう」

 「はい、先生」
 美佳は力なく答える。理屈はわかるのだ。お父様の言いつけ、
仁科先生の言いつけを守らなければならないという理屈は……。
 しかし、いざとなると……そんなハレンチなことは彼女の理性
がさせてくれないのである。

 「仕方ないですね。今日で三日目でしょう。これ以上は子ども
たちにも余計な負担になりますから……」
 伯爵が言えば、仁科先生も……

 「私も、それがよいと思いますわ」

 さらには小島先生までもが……
 「こうした場合、お薬を使うのがむしろ一般的ですから…気に
なさることはありませんわ。伯爵様はお優しいから」

 「わかりました。そうしましょう」
 伯爵が決断して話はまとまったようだった。
 ただ……

 『大人達は何を言っているのだろう』
 ベッドに寝かされた二人の少女たちは、依然としてその真意を
測りかねていたのである。

 「さあ、これからお浣腸しますからね。ある程度我慢したら、
お漏らしですよ」
 仁科先生はその頭を撫でながら美佳を説得する。

 「お浣腸?」

 「そう、お浣腸といってお尻の穴からお薬をいれるの」

 「痛いの?」

 「痛くはないわ。こうするとね、ウンチがしたくなるの」

 「また、我慢したら?」

 「我慢できないくらいウンチしたくなるわ」

 「えっ……」
 美佳の顔に不安の影がさす。

 「仕方ないでしょう。もう、これ以上お腹がはったら、その方
が健康に悪いわ」

 「…………」

*****************************

 それがどれほどの衝撃だったか、それは本人しか分からない。
 ただ、大人達のとてつもない力が自分に覆いかぶさり、自分は
何もできないでいるという現実だけを美佳は見ていた。

 パジャマのズボンが純白のショーツと一緒に引き下ろされて、
両足を高々と持ち上げられると、普段はあまり風を感じない場所
が大人達全員の目の前で明らかになる。

 そして、プラスチックの小さな突起がお尻の穴に差し込まれて
……

 「ア~アアアア~ああ~~」
 声を出していいものか迷った末にでたあえぎ声。
 何か目的があって発したのではない。生理的な声だ。

 イチヂクが潰され、その液体が体の中へと入って来た時の驚き。
 でも、声は出さない。出せないでいた。

 大人達への信頼と圧倒的な圧力の前に、美佳はどうしていいの
か分からない。分からないから、オムツを着けられる時も、声を
出さず抵抗もしなかった。

 ただ、次の衝撃だけは素直に受け入れることはできなかったの
である。

 「あっ!!」
 その瞬間はいきなり襲ってきて、しかも寸前だった。まるで、
山津波のように美佳のお腹を駆け下ってきたのだ。

 「おトイレに行かせてください」
 美佳は仁科先生に頼み込む。
 あっという間の脂汗。もう、一刻の猶予だってできない圧迫感
に身悶えてのお願いだったのだ。
 なのに先生は……

 「もう、少し待ちましょう。今ではまだお薬が完全に効かない
わ」

 つれない返事は予想していなかったからもちろんショックだが、
そんなことは言っていられない。一刻を争うから美佳はベッドを
跳ね起きる。必死にドアを目指そうとしたのである。
 ところが……

 「いやあ」
 おとなしい美佳の滅多に聞けない悲鳴。彼女はその悲鳴と共に
誰かに抱きかかえられたのだ。

 「美佳、我慢しておくれ。今日はおトイレは使えないんだ」

 「えっ!お、お父様」

 美佳は自分がお父様に抱かれている現実に驚いたが、だからと
いっておとなしくしているつもりはなかった。
 『とにかくトイレへ』という思いは変わらないから、抱かれて
いるその手を必死に振りほどこうとしたのである。

 「は、離してください。トイレ……トイレへ行きますから」

 美佳は幼いといってもすでに11歳。六十を過ぎた老人が簡単
に抱きかかえられるものでもないように思えるが、美佳もまた、
本当に全力では抜け出せない。

 「……(あっ!!)……(いやっ!!)……(だめっ!!)」

 身体に力を込めるたびにお臍の下がお留守になるからだ。
 何かやってるうちにオムツの中が暴発したら……そう思うと、
全身全霊でというわけにはいかなかった。

 「あ~、よい子だ。良い子だ。お前は私の赤ちゃんなんだから
ね。忘れてはいけないよ」

 伯爵は美佳がどんなに抵抗しようと、その身体を優しく抱き続
ける。しかし、そんな優しい伯爵の姿を抱かれている美佳は知ら
ない。今の美佳にそんな事を感じる余裕があるはずもなかった。

 「……だめ、……いや、……もうだめ、……だめ~~……」

 最初は黙って耐えていた美佳の口から、うわごとのような声が
漏れ始める、最初は激しく抵抗していた身体はいつの間にか伯爵
の胸の中でおとなしくなった。

 「……いや、……恥ずかしい、……だめ~、……だめ~……」

 しかし、その声も次第に小さくなっていく。

 『もう、どうにもならない』
 そう悟るしかなかった。

 「………あぁ………(はあ)……(はあ)……(はあ)……」
 荒い息を吐きながらちょっとでも動けば飛び出しそうな状態で、
美佳は伯爵の腕を必死に握っていた。悲しくて悲惨な現実だが、
こうしている自分が愛おしく、伯爵の胸の中もその瞬間は不思議
なほど満ち足りていたのである。

 「………………」
 クライマックスは無言のうちに訪れる。
 しかし、その今を、周囲の大人たちが知らぬはずがなかった。

 美佳は伯爵によって再びベッドに戻され、あとは誰もが無言の
ままに仕事をしていく。

 「いや!」

 オムツが外された瞬間、自分の物の匂いがして、美佳は思わず
顔を横に向けるが、抵抗したのはそれだけだった。

 「………………」

 あとは、黙々と自分の為にオムツ替えをする伯爵を見ていた。
 そんな美佳に仁科先生が尋ねる。

 「あなたは世が世なら15万石の御領主様だったかもしれない
お方におしもを取り替えてもらってるのよ。幸せ者ね。……でも、
なぜだか分かる?」

 「…………」

 「その方があなたのお父様だから。伯爵様は単に跡取りとして
あなたを迎え入れたんじゃないの。生まれた時から一緒に暮らす
本当の娘としてここに居てほしいの。本当の娘なら、その父親が
オムツを替えるのは当たり前でしょう」

 「瞳ちゃんも…」

 「もちろんそうよ。伯爵様は二人を一緒に愛そうとなさってる
の……二人に差をつけたりなさらないわ」

 「…………」

 仁科先生は美佳に今回のことを説明するものの、たった一回の
こんなパフォーマンスで幼い子に親の真意が伝わるはずもなく、
結局二人は半年にもわたってオムツを穿き続けることになる。

 二人がお浣腸に頼らず自分の意思でウンチをして、その恥ずか
しい場所を何の抵抗もなく伯爵の目の前に晒せるようになるまで
このパフォーマンスは続けられたのだった。

 そして、その間に二人が学んだのは、「お父様には何一つ隠し
事ができないこと」「お父様は自分達より遥に多くの知識や経験
を持った力持ちであること」そして何より、「自分たちを世界一
愛していること」だった。

 子供たちはお嫁に行くまでお父様には絶対服従。おいたをした
り、怠けたり、約束を破ったりすれば、たとえいくつになっても
お尻が真っ赤になるまで叩かれる厳しい親子関係だったが……
 ただ、それで二人が不幸を感じることはなかった。

 だって、嬉しい思いや悲しい思い。恥ずかしい思いや痛い思い
も、それはみんなみんな伯爵(お父様)の愛の中で起こるコップ
の中の嵐。愛し愛され続けている限り、二人に不幸はなかったの
である。

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このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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