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第10章 カレンの秘密(3)

第10章 カレンの秘密

§3 薔薇の誘い(3)

 子供たちの集いの場に、やがて、大人達が現れた。

 「カレン、待たせたね」
 ブラウン先生の言葉にカレンはほっと肩の荷を下ろした。

 彼は、そばにいたフランソワーズにも挨拶する。
 「ごきげんよう、フランソワーズ」

 すると、そのお嬢様は……
 「お久しぶりです。ブラウン先生」

 恭しく膝を曲げて挨拶する。
 こんなことは以前なら考えられないことだった。

 そこで、サー・アランが……
 「私たちもここでご一緒しようか」
 と誘うと……それには……

 「私はクリスチャンと一緒に……」
 と言って断るから……サー・アランが……

 「だったら、彼も一緒にここに来ればいい」
 と水を向けると……

 「私、女中と一緒に食事したことがありませんから……」
 と言って、その場を離れようとした。

 そこで……
 「待ちなさい、フランソワーズ」
 思わず声が大きくなる。

 「!」
 その瞬間、彼女の肩甲骨がきゅんと締まったのを見てブラウン
先生は驚いた。
 彼がかつてフランソワのお尻を叩いた時には見られない光景だ
ったからだ。

 『これは、驚いた。超絶な進歩をとげたのは、どうやらお嬢様
だけではなかったようですね』
 ブラウン先生はお腹の中で思ったのである。

 「君はカレンのことを言っているのかもしれないけど、彼女は
すでにブラウン先生の娘さんだ。我が家の女中ではないんだよ。
そんな無礼な物言いは、私が許さないよ」
 サー・アランが厳として言い放つと、フランソワーズの身体が
それ以上前へ進まなくなってしまった。

 『サー・アランは私があの館を去ってからこの子のお尻を叩い
ていますね。この分じゃ、夏休みに帰省した時もやってますね。
ま、まさか、この場ではやらないでしょうが、これはお嬢様の為
にも、とりなしてやらなきゃいけないでしょうね』
 ブラウン先生は、そう考えて声をかけた。

 「いや、お待ちを……娘さんの言う通りです。カレンは、私の
実の娘でも養女でもありません。今はまだ里子にすぎないのです。
ですから、女中と言えばそれもあながち間違いではありません」

 ブラウン先生はサー・アランに向ってそう言うと……
 今度はカレンに……

 「カレン、悪いが、今日は席を外してくれないか」

 「あっ……はい……お義父様」

 カレンは突然のことに驚いたようだったが、お義父様の言葉に
は逆らわない。
 そそくさと席を立とうとするから、サー・アランが慌てて……

 「カレンさん、いいんです。席に着いてください」
 と、とりなした。

 ただ、それに対してブラウン先生は……
 「サー・アラン、大変、申し訳あげにくいのですが、今回は、
私たちが客です。ですから、ここは私たちの顔を立てて、カレン
を外さしてください」

 こう、申し出たのだった。
 そして、カレンには……

 「あなた、今回は遠慮して、向こうでピアノでも弾いててくだ
さいな」

 「はい、失礼します」
 こう言ってカレンが大人達の席を離れると、フランソワーズは
もう逃げることができなかった。
 彼女が目論んだ、クリスチャンとのデートも流れてしまったの
である。

 いや、それだけではない。
 席を離れてカレンが向った先。そこではさっきまで一緒だった
クリスチャンが一足早くやって来て、ピアノを弾いていたのだ。

 それを見たフランソワーズの心中は穏やかではない。

 彼はカレンに気づくと、当然のようにその椅子を譲ってしまう。
 そんなクリスチャンにまるで肩を抱かれるようにして演奏する
カレンを横目で見ながら、フラソワーズが平静に食事できるはず
がなかった。
 心ここにあらずのフランソワーズだが、今は、どうすることも
できなかったのである。

 『何よ、このチンケなメロディーは……こんなの誰だって考え
つくわよ。誰が先生ですって…女中の分際でいい気なもんだわ。
だいいち、なんであの子のピアノはこんなに小さい音しかでない
のよ』
 腹の虫が収まらないフランソワーズにとってカレンのピアノは
耳障りでしかなかった。

 ただ、そんな不評を口にするのは、このレストランにいる大勢
の人々の中で、彼女一人だけ。
 実は、各々のテーブルでは色んなことが起きていたのである。

 商談を始めた二人がお互い無言になったり、コーヒーを断って
帰りかけていた紳士が再び席に座り直したり、喧嘩していた若い
カップルがどちらからともなく「ごめん」と言ったりした。

 誰もが、今はこの場を離れたくなかったからだ。そして、もう
しばらくはカレンの弱々しいピアノに耳をそばだてていたかった
のである。

 それは、ピアノのそばで聴いていた青年クリスチャンも、勿論
そうだったし、部屋の片隅にある目立たぬテーブルで紅茶を飲み
ながら聴いていたアンハルト伯爵夫人もまた同じだった。

 「フリードリッヒ。間違いないわ。これは、ルドルフの音よ。
他の人には出せない、あの子にしか出せないはず音なの。その音
を、今、あの娘は出してるの。だから、ごらんなさい。誰も席を
立たないでしょう。……あなた、そこで見ていて誰か席を立った
人がいるかしら」

 「いいえ」
 フリードリヒはやさしく母に答えた。

 アンハルト伯爵夫人は目が見えない。しかし、その気配で人の
動きが分かるのだ。

 「私、あの子が七つの時に同じ光景を見たわ。サロンがはねて
誰もが帰り支度。その時、あの子が悪戯にピアノを弾き始めたら、
その後、誰もが仕事を抱えているというのに、誰も席を立とうと
しなかったの。まるで、魔法を見てるみたいだったわ。そして、
あの娘にも息子と同じ血が流れてるはずよ」

 「それはあまりに短絡なお考えかと……あまり、軽々なことを
申されますとお母様の品位にかかわります。……今、現地に人を
やって調査させてはいますが、なにぶん、ニジェールは混乱状態
でして、事の真相をたしかめにはもう少し時間が必要かと……」

 フリードリヒは申し訳なさそうに答えたが、夫人は彼の事務的
な答えには何も期待していなかった。

 「私ね、目が見えなくてもそれくらいはわかるのよ。あの子を
触った時、感じたの。この娘はルドルフの娘だって……だって、
あの子と同じ感触、同じ匂いがしたもの。間違いないわ。だから
あなたの力で、ブラウン先生からあの娘を貰い受けて欲しいの。
……わかるでしょう。私の孫なんですもの。一緒に住むのが当然
だわ」

 フドルフは今一度辺りを見回す。
 なるほど、確かに誰も席を立っていないかった。そして、誰も
が物音を立てなくなっていたのである。
 だからこそ、母の暴走は彼を悩ますのだった。

 レストランの客席とは思えないほどの静けさの中で、カレンの
ピアノはタバコの煙と油の香りの海の中を部屋中に流れていく。

 誰もが心癒される音に身を委ねるなか、ただ独り不機嫌な人も
……
 「何なの、あのもたもたしたピアノは……ピアニストは『洗練』
って言葉を知るべきね」
 フランソワーズが腹立ち紛れにつぶやくと……

 「マドモアゼル。洗練という言葉が無駄や虚飾を一切削いだ音
という意味なら、私は、これ以上洗練されたピアノの音を聴いた
ことがありません。だから、一音でも半音でも聞き逃せば全体の
バランスが崩れるのです。それをここにいる誰もがみんな知って
いるから、誰一人音を立てずに聴いているのです。……どうぞ、
お静かに願います」

 ブラウン先生は相変わらず人の悪いことを平気で口にする。
 しかし、それは当然、言われた方の機嫌をそこねるわけで……
 
 「そうですか。では、私が、もっともっと洗練された音にして
ごらんにいれますわ」
 フランソワーズはそう言って席を立った。

 心配したラルフが小声で……
 「大丈夫ですか?喧嘩になりませんか?」
 と言うと……

 「喧嘩?…そんなものには、なりようがないでしょうね」

 「どうして?」

 「だって、お嬢様に、あの音は絶対に出せませんから……いえ、
お嬢様だけでなく、ここにいる誰にもそんな真似はできませんよ」

 「先生、カレンはそんなに難しいことをしているんですか?」
 サー・アランが尋ねると、ブラウン先生はこう例えた。

 「『エベレストを馬で登るくらい簡単だ』と豪語する人も世の
中には大勢います。お気になされませんように……」

 「そうですか。カレンのピアノとは、そんなにも凄いものなん
ですね。そんなことなら、私の処にいる時も先生をつけてやれば
よかった。私はピアノのことは分かりませんから、あの子が単に
ピアノが好きなだけかと思っていました」

 サー・アランはあらためて一台のピアノにたむろする若者達を
見つめる。その眼差しはどこまで優しかった。

 「何を基準に凄いと言うのかにもよりますけど、あの子がある
種の天分を持って生まれてきているのは確かです。それは一般人
の我々がいかに努力してもどうにもならない程度の問題なんです」

 「天才ってことでしょうか?」

 「天才?…さあ、どうでしょうか?…そこは微妙な問題です。
ただ過去に一度だけ、私はこの音に出会ったことがあるんですよ」

 お酒の回り始めた先生は上機嫌になっていた。
 ところが……

 「誰です?その人?」

 ラルフの声に、一瞬我に返ったような顔になった先生はその顔
を急に曇らせ、ほどなく営業笑いになって、こう言ったのである。

 「はて?………そういえば、誰でしたか?………(はははは)
忘れてしまいました。……(はははは)私ももうろくしました」

 「それにしても、……お嬢さん、勢い込んで出かけたわりには、
なかなかピアノを弾きませんね」

 ラルフが言うと、ブラウン先生は……
 「弾かないんじゃなくて、弾けないんです。彼女だってそれは
ここにいた時から分かっていたと思いますよ。でも、そんな事は
どうでもよかったんです」

 「どういうことです?」

 「まったく、いつもながら鈍い人ですね。それでよく私の秘書
が勤まりますね」

 「仕方ないじゃないですか。私にはカレンのような天分なんて
ありませんから……」

 「お嬢さんは、私たちのようなむさくるしい爺さんたちのそば
にいるより、若い青年と一緒にいたいんですよ」
 ブラウン先生は小声でラルフに伝えたが、ラルフはその何倍も
大きな声で相槌を打つ。

 「なるほど、そういうことか………」
 ラルフはいったん納得したが………
 「……でも、先生。お嬢様、ピアノ、弾くみたいですよ」

 「おう、チャレンジしますか?」

 「できないんじゃないんですか?」
 ラルフが言うと……

 「できなくてもチャレンジしてみるのが、同じ道を志す芸術家
ですよ。私だって幾度となくチャレンジはしてみましたから……
とにかく聴いてみましょう」


 フランソワーズがピアノを奏で始める。

 それはカレンと同じような軟らかなタッチ。いわゆるもたもた
した感じだ。
 しかし、そうやって弾けたのは8小節だけだった。

 彼女は思わず苦笑いを浮かべると、さらにその先を弾き始める。
 それは傍目にはさしたる変化がなかったようにも聞こえるが、
やがて、周囲がその変化を伝えるのだった。

 別のテーブルではどちらからともなく商談が再開し、恋人達は
おしゃべりを始め、急用を思い出した人はコーヒーを断って店を
出てしまった。

 「何だか、店が少しざわつきだしましたね」
 ラルフが言うと……

 「魔法が解けてしまったんですよ」
 ブラウン先生は得意の笑顔で答えた。
 「でも、お嬢様は頑張りましたよ。今日聞いたばかりのカレン
のピアノをいきなり4小節まで遣りおうせたんですから、立派な
もんです」

 「でも、彼女、それからもピアノを弾いてましたよ」

 「ええ、8小節までチャレンジを続けましたが、あとは諦めて
自分のピアノを弾き始めたんです」

 「それで途中から騒がしくなったんだ」

 「お嬢様のピアノは確かに上手にはなってますが、音楽関係者
にしてみると、それはどこででも聞ける音ですからね。あえて、
立ち止まって聴く必要はないわけです」

 「でも、よくぐれませんでしたね。フランソワなら腹立ち紛れ
にピアノを蹴ってますよ」

 ブラウン先生は、ラルフの言葉に、思わず苦虫をかみつぶした
ような顔になった。

 「いいですか、ラルフ。あなたもこの仕事をずっと続けていき
たいならもっと言葉を選ぶ訓練をしなさい」

 「どういうことです?」

 「ここには、お父様がいらっしゃるのですよ」

 「あっ、そうか……」
 ラルフは急に肩をすぼめ恐縮した顔になった。

 「いえ、いいんですよ。ラルフさん。確かに、家にいた頃の娘
ならそうしたでしょうから……私も、娘がブラウン先生からお尻
を叩いてもらってからというもの。考え方をあらためたんです。
娘といえど、猫かわいがりだけでは成長しませんから……」

 サー・アランの穏やかな口調は紳士的だった。
 だから、ブラウン先生も大人として穏やかに受ける。

 「それは今回お目にかかって私も感じました。お嬢様は人間的
にも成長されています。それに、今はお父様以外にも心の支えが
おありのようで……その意味でもピアノは蹴れませんよ」

 「私、以外と言いますと……」

 「クリスチャンと言いましたか、私の目にはなかなかの好青年
と映りましたが……」

 「えっ!彼ですか……」
 サー・アランは『意外』という顔をした後、頬を僅かに緩める。

 「なるほど……」
 父親は納得したようだった。


 そんな大人達が見つめる若者達の後ろに一人の黒い影が立つ。

 『あれはアンハルト伯爵夫人。やはりここに来ておられました
か』
 ブラウン先生にしたら、それは不吉な影というべきものだった
のである。

******************(3)****

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このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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