2ntブログ

Entries

第10章 カレンの秘密(4)

第10章 カレンの秘密

§4 薔薇の誘い(4)

 ブラウン先生はサー・アランに断りを言うと、ピアノの場所へ
と向う。

 「これはこれは、お久しぶりです。アンハルト伯爵夫人。……
お覚えありますでしょうか。ブラウンです」

 ブラウン先生はその時はすでに椅子に腰を下ろしていた夫人の
前でひざまずく。

 「勿論ですよ。ごきげんよう先生」

 先生はそう言って差し出された夫人の左手にハンドキスをする。

 すべては古式ゆかしい大戦前の習慣。戦後に育った若者たちに
してみれば、伯爵夫人も一介の老婆にすぎない。
 その老婆に膝まづくブラウン先生はむしろ奇異に映ったようだ
った。

 「こちらへはご旅行ですかな?」

 「ラックスマン教授が絵画の個展を開くというのでお祝いに」

 夫人がこう言うとブラウン先生は少し大仰に驚いてみせた。
 「おう、これはこれは、私としたことが何か勘違いをしまして、
御目がよくないと伺っていたのですが、今は、教授の絵がご覧に
なれるまでに回復されたのですか?」

 「相変わらず、先生は皮肉をおっしゃるのね。もとはイギリス
の方だからかしらね」

 「これは失礼いたしました。お気に障りましたか」

 「私は草深い田舎で育ったドイツ娘ですから、単刀直入にしか
ものは言えませんので、正直に申します。カレンさんのピアノが
聴きたくて、ここへ来たのです」

 「カレンのピアノ?……アンドレアの間違いではありませんか。
この子のピアノは幼児の弾くような簡単なもの。とても、夫人の
鑑賞に耐えるようなものは……」

 「あなた、今さらそんな白々しい嘘をついてどうなさるおつも
りなの」

 「嘘と申されても……」

 「あなたは、この娘のピアノがルドルフと同じ音を奏でている
現実を知らないはずがないわ。知ってて私に隠してたんでしょう。
私は、一度聞いてピンときたの。ルドルフの音が、脳裏で鮮明に
蘇ったもの。だから、もう一度聴きたいと願ったけど、あなたは
この子を隠し続けた」

 「隠すなどと滅相もない……この子はリサイタルなど開く技術
はまだまだ持ち合わせていないというだけです」
 ブラウン先生は自己弁護したが、伯爵夫人は聞く耳をもたない。

 「本当は、ラックスマン教授の個展の会場でじっくり聴かせて
いただこうと思っていましたが、はからずも、ここで聴くことが
できて満足です。これで、私も確信がもてました」

 「確信とは……どのような?」

 「もちろん、そこのカレンさんが、ルドルフの娘であるという
確信です。ブラウン先生、カレンさんを私にください」

 まさに青天の霹靂。当のカレンもこれには目を丸くした。

 「ご冗談を……」
 ブラウン先生は夫人に微笑み、そして今度は、脇に立つ現当主
に向って語りかけた。
 「伯爵、どうやらお母様はお疲れのご様子。ここは、いったん
帰還なさった方がよろしいのではありませんか?」

 すると伯爵は……
 「たしかに母は疲れています。今日だけの事ではなくね。……
お分かりでしょう?」
 と逆に水を向けられたのだった。

 「ええ、もちろん、先の大戦中、お兄様が行方不明になられた
事は存じ上げております。しかしそれはヨーロッパ戦線でのこと。
この子が生まれたのはアフリカのニジェールです」

 「それはこちらも知っています。……でも、兄も追われる身。
たとえアフリカへ逃げたとしても、それはそれで不思議ではない
と思いますよ」

 「敵の植民地にですか?それに彼女の父は楽器の修理で生計を
たてていたとか……そのような技術が一朝一夕に授かるものでは
ないでしょう」

 「あなたは勘違いをなさっている。いや、わざとそうやって、
勘違いしているふりをしていらっしゃるのかもしれないが……」

 「…………」

 「私たちが、兄ではないかと疑い、この子の父であるかもしれ
ないと疑念を持っているのはセルゲイ=リヒテル氏のことです。
もちろんこれは偽名でしょう。そして、自分の行く末を考えて、
娘をそのピアノ職人に託したとしても、これもそんなに不思議な
話ではないはずです」

 「ちょっと、待ってください。それはあくまで推測でしょう。
何の根拠もない憶測ですよ。あなたらしくもない。こうした事は
事実をはっきりさせてから語るべきことじゃないですか」
 ブラウン先生は慌てて伯爵の疑念を打ち消したが……

 「確かに、あなたがおっしゃることは正論です……でも、母は
そう信じているのです。……そう確信しているわけです」

 「あなたもそのようにお考えなのですか?」

 「分かりません。でも、私にとってもそれは兄のことですから、
事実は知りたいと願っています。そこで、今、ニジェールへ人を
やって調査しているところです」

 「なるほど」

 「ただ、これだけはわかっていただきたいのですが、私も母も
結果がどうであっても……つまり、セルゲイ=リヒテル氏が兄で
なくとも、彼女が兄の子供でなくても、彼女のピアノを聞いて暮
らしたいのです。おわかりいただけますか」

 「はい、存じ上げてますよ。あなたも、あなたの母上も、極め
て人道的な方だと……確かに、私のような貧乏人のもとで暮らす
より、お金持ちの家で暮らした方がこの子にとって幸せなのかも
しれません。それは理解しますが、私もまた彼女のピアノに癒さ
れている一人なのです。彼女を手放すつもりはありません」

 「…………」
 伯爵はしばらく考えていたが、ブラウン先生の気持に嘘がない
と悟ると、あらためてこう提案したのだった。

 「今、ニジェールは動乱で調査も進んでいません。仮に、何か
分かればその時またお願いするとして……どうでしょう、カレン
さんを週末だけでも私の処へ通わせていただけないでしょうか」

 「通う?……それはまた、どうされるおつもりなんですか?」

 「私たちは何も求めません。……ただ、お嬢さんが私の隣りで
ピアノを弾いてくれさえすればそれでいいのです」
 そう発したの夫人だった。

 「母の願いを叶えてもらえないでしょうか?」

 伯爵の母へ思いがブラウン氏の心を曇らせる。
 彼も今でこそSirの称号を得ているが、それは最近得た勲章で、
もともと家出同然から身を立てた身。母親が生きているうちには
親孝行らしい事などしたことがなかった。

 「カレン、聞いての通りだ。君はあちらでピアノを弾いてみる
気があるかね」
 ブラウン先生はまだ狐につままれたような顔をしているカレン
に尋ねた。

 そして、伯爵夫人もまた……
 「カレンさん。あなたの演奏料については、後日お父様とお話
するとして、他に望みがあれば言いなさい。できる限りのことを
しますよ」

 「…………」
 カレンは大人たちの話し合いに口をつぐんでいたが、その間も、
今の状況を彼女なりに冷静に整理していた。最後に、彼女はこう
思ったのだ。

 『仮に、お父様が私を伯爵の館へやりたくないなら、最初から
私の意向など確かめるはずがない。それを尋ねるのは私が応じて
もよいということだわ』

 そこで……
 「私、奥様が望まれるのなら、館へまいります。本をたくさん
買っていただいたお礼もありますから……」

 こう言うと、伯爵夫人は言下にカレンの言葉を否定する。
 「それは関係ないことよ。あなたの御本を買ったのはあくまで
こちらの都合なの。あなたが気にすることではないわ」

 「わかりました。では、一つだけ望みがあります。それを叶え
て下さるならそちらへ伺います」

 「わかりました。何でしょう?」

 「山荘の庭を管理しているニーナ・スミスが、伯爵様のお庭の
薔薇をたいそう褒めていて、……その苗木を分けてもらえません
か?」

 「わかりました。その方も一緒に来るといいわ。育て方を教え
ますから……」

 こうして、毎週土曜日の午後。カレンは伯爵の館を訪れる事と
決まったのである。

***************************

 次の日。
 カレンたち一行は、当初からの約束通り、ラックスマン教授の
個展が開かれているギャラリーへと向う。カレンがそこでピアノ
を弾く約束のためだ。

 日当たりの良い美術館の一角に展示スペースがあり、お客さん
はまばらだが、すでにアンハルト伯爵夫人は顔を見せていた。

 「カレン、待ってたわ。実はね、ルドルフも絵を描いていたの。
見てみる?」

 カレンは車椅子の夫人と目が合うと、さっそくにルドルフの事
で誘われる。
 恐々着いて行くと、そこに飾られていたのは、いずれも油彩の
肖像画だった。

 「お上手だったんですね」

 「ありがとう。とにかく、絵を描くことが好きだったわ」

 「肖像画ばかりなんですね。風景画は描かなかったんですか?」

 「風景はあまり描かなかったわね。でも、家の中を探したら、
出てくるかもしれないわ。スケッチに出かけたこともあるから。
……でも、どうして?」

 「いえ……」
 カレンは言葉を濁した。というのもリヒテルおじさんが描くの
はほとんどが風景画で、肖像画を描くことはなかったからだ。

 『やっぱりあれは別の人だったのね。おじさんは、風景画以外
の絵は描かなかったもの』
 カレンはほっと胸をなでおろした。

 カレンは伯爵夫人に同情していたし、できるならその力になり
たいとさえ思っていた。だが、自分がシンデレラになりたいとは
思っていなかった。
 たとえハレンチで厳しいお仕置きのある家でも、彼女は自分を
拾ってくれたブラウン先生のもとで暮らすことを望んでいたので
ある。

 カレンはをラックスマン教授の個展会場で求められるままに、
自分のピアノを弾く。

 それは、本来なら静かな環境での鑑賞を好むお客様たちにとっ
て、不快な音になるかとも思えたが、そのことに苦情を申し出る
者は誰もいなかった。

 むしろ、案内係に「この曲は何という曲ですか?」とか「誰の
演奏ですか?」はては「このレコード売ってますか?」と尋ねる
人までいたのである。

 しかし、カレンのピアノをこの日一番長く聴いたのは、やはり
アンハルト伯爵夫人だった。
 彼女はカレンがこの画廊を訪れる前からここに到着していて、
カレンがホテルに引き上げるまで、このギャラリーを離れなかっ
たし、カレンの弾くピアノの前さえも離れなかったのである。


 次の日、カレンのピアノの前にはギャラリーが出現していた。
 もちろん、カレンのピアノは脇役である。いわばBGMなのだ。
しかし、そこに人だかりができていた。

 そんな珍現象を見ながら、ラックスマン教授とブラウン先生、
二人の老人が語り合っている。

 「これでは壁に掛けた私の絵の方が引き立て役でしたな。……
(はははは)こんな事と知っていたら、ここをコンサート会場と
して開放してやればよかった」

 「いえいえ、あの娘にそれはまだ早いでしょう。弾きこなす曲
もそんなに多くありませんし……」

 「そんなことはありませんよ。彼女、ここへ来てもう10曲も
私の知らないメロディーをものにしている。あれは、即興なんで
しょうか?」

 「ええ、……ほおっておいたら、一日で20曲も30曲も……
書き留めるのが大変なんです」

 「羨ましい。まさに枯れることのない創造の泉というわけだ」

 「若いということですよ。若さのなせる業です」

 「では、将来は作曲家ですかな?……『20世紀のショパン』」

 「おからかいを……でも……クラシックは難しいでしょうが、
ポップスなら、あの子の才能を生かせる道があるんじゃないかと
思っているです」

 「先生のお国のジョンレノンやポールマッカートニーのように
ですか?」

 「ええ、それなら不可能ではないと思えるんです。……親馬鹿
ですかね」

 「あなたがそれを言ってどうするんですか。……あなたの方が
私なんかより専門家じゃないですか」

 「灯台下暗し。意外と近しいものの方が見えにくいのです」

 「確かに……でも、それならあえて一言だけ私に言わせていた
だけるなら……逆に、彼女の曲は美し過ぎやしませんか?ミルク
を飲み、ビスケットを頬張る子供ならそれでいいでしょうが……
酒におぼれる大の大人が彼女の音楽を好んで聴き、だみ声を張り
上げて歌う姿は想像しにくい」

 「さすがは教授、鋭いですな。まさに、そこがネックなのです。
だから、まずは安全に、初心者向けの教則本に彼女の曲を載せて
みたというわけなんです」

 「成功しましたな」
 ラックスマン教授が微笑み……

 「あなたのおかげです」
 ブラウン先生が笑った。

 「ありとあらゆる講演会やパーティーで褒めちぎりましたから
……売れてくれなければ、私の方が困ります」

 「ありがとうございます」
 ブラウン先生が意味深に笑うと……

 「ただ、これだけは誤解のないように言っておきますが、私は
たとえ誰かに頼まれても、つまらないものを立派なものだなんて
言い換えたりはしませんよ」

 「これはこれは恐れ入ります」

 「あれは本当にすばらしいかった。伯爵の館で聴いたピアノも、
本に載っていた作品も……だから、みなさんにも聴いて下さいと
勧めただけなんです」

 「嬉しいです。二台のピアノの理解者がそばにいらして……」

 「鳴らすピアノの音と鳴らないピアノの音ですか。……先生の
ご説にありましたね」

 「ええ、私も最初からルドルフ・フォン=ベール氏やカレンの
ピアノの秘密が分かったわけではないのです。でも、聴いていく
うちに段々とそのメカニズムのようなものがわかってきたのです」

 「ほう、興味深いですな……」

 「日本人がよく使う概念に『間』というのがあります。カレン
の音はそれなんです」

 「『MA』というんですか。それは休止符とは違うんですか」

 「間は、ただ単に音を鳴らさないという意味じゃありません。
すべての鼓動が停止して何も起こらない時間を意図的に作ること
で前後に起こる変化、つまりこの場合はピアノが鳴ってる状態を
聴衆の耳に際立たせるのです」

 「そうか、ピアノの音って、それがいつやんだかなんて聴いて
る方はわかりませんよね」

 「ええ、弾いてるピアニストだってそれは同じです。凡人には
関係のないことです。でも、人間は無意識のうちにそれも感じ取
っているんです。『今、音が切れた』という感覚をね。だから、
そこを揃えてやると、とても心地よく聞こえるというわけです」

 「でも自分の打音がいつ終わるかなんてわからないし、それは
今弾いてるピアノの状態によっても変わるんじゃないですか。…
…ましてや、それで和音を刻むなんてこと……」

 「そう、まさにその通りです。とても人間業じゃありません。
でも、ごく稀にはそんな能力を持つ人が世の中にはいるという事
ですよ」

 「そうか、だから彼女のピアノはどこまでも透明感があって、
雑味というものがまったく感じられないのか」

 「どんな天才ピアニストも所詮は音を塗り重ねて自分を美しく
仮装しているに過ぎません。でもカレンのピアノは、それらとは
まったく違う楽器の音の美しさなのです」

 「金のなる木を射止めたというわけだ」

 「いえいえ、これは商業的な魅力とはならないでしょう。私が
彼女を引き取ったのもそういう意味ではないのですから……実は、
最初、彼女が弾いていたピアノはあまりにオンボロだったんで、
まったく気づかなかったんです。ただピアノの性能が上がるたび
に、『まてよ、これは……』って、こちらも気づき始めたんです。
……『この音を出すピアニストが過去にもいた』ってね……」

 「では、彼女は外へは出さない?」

 「当然、そうです。できれば生涯、私の枕元でピアノを弾いて
くれれば……とさえ思っています。でも、もし好きな人ができて、
お嫁に行くようなことがあったら、それには反対はしませんよ。
女性にとっては、地位や名誉やお金よりそれが一番幸せな道です
から……」

 ブラウン先生にとって、カレンはすでに実の娘同然だったので
ある。

*****************(4)****

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

最新記事

カテゴリ

FC2カウンター

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR