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第5章 / §3 月下に流れるショパンの曲(2)

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第5章 ブラウン家の食卓

§3/月下に流れるショパンの曲(2)


 「アリス、大丈夫ですか?」

 ブラウン先生はすぐさまアリスを抱きかかえてくれたが、彼女
は先生の差し出すその手を遠慮して自ら起き上がる。

 「ごめんなさい。カエルは苦手なんです」

 アリスは青い顔でソファに座りなおすと自分の心臓が今も動い
ていることを確認してほっとした様子だった。

 「リック、謝りなさい」

 ブラウン先生が叱っても、リックはカレンにあげたはずの蛙を
手のひらに収めなおすと、その子を愛おしく観察しながら、少し
頬を膨らまして立っている。

 しかし、ロベルトがリックの両肩を掴むと、彼は渋々カレンに
頭を下げた。

 「ごめんなさい」

 もちろん、謝ったのはリックだが、アリスにはその後ろに立つ
ロベルトが謝ってくれたようで、心を落ち着けることができたの
である。

 「カレン、ダージリンを飲みますか?気持が落ち着きますよ」

 「いえ、結構です」

 「では、部屋に戻りますか?今日は、この子たちにもあなたの
ピアノを聞かせてあげようと思ったのですが、それはまたの機会
ということにしましょう」

 「……!……」

 そんな時だった。ロベルトが奏でるチターのメロディーが居間
に流れ始める。すると、カレンはブラウン先生の親切心にその事
を忘れかけていたが、彼女にはまだ大事な仕事が残っていたのを
思い出したのである。

 「大丈夫です。先生、わたし、うまく弾けるかどうか分かりま
せんけど、とにかく弾いてみますから……」

 彼女はまだ脈打つ自分の心臓に手を置くと、静かに立ち上がっ
てピアノ椅子に向かう。
 すると、ブラウン先生も、これなら大丈夫だと感じたのだろう。
カレンを止めず、彼女の好きにさせたのだった。

 「それでは、お願いしましょうか」

 話がまとまり、ロベルトのチターの音色がいったん途絶えるが、
アリスはあえてその音色を求めた。

 やがてカレンはロベルトの弾く『第三の男』に自らのピアノを
添わせる。そして、ロベルトが演奏をやめた後も、彼の心を引き
継いぐように、今、この瞬間に生まれたばかりのノックターンを
奏で続けたのである。

 「(美しい、何て美しい旋律なんだ。でも、これって何という
曲なんだろう)」

 ロベルトは思った。彼はカレンのピアノが今という瞬間にしか
聞くことの出来ない儚いものだとは、この時はまだ知らなかった
のである。

 思うがままに一曲弾きあげたカレンにブラウン先生が尋ねる。

 「ときにカレン、あなたは譜面が書けますか?」

 「…………」
 カレンは、頭の後ろから聞こえてくる先生の声に恥ずかしそう
に首を振る。
 彼女は正規の音楽教育を受けていないから、簡単なメロディー
程度は書けても、細かな表現まで譜面に現すことができなかった
のだ。

 「もったいないですね。実にもったいない。これまで、数百、
いや数千の楽曲がビールの泡のように毎晩消えていたとは………
ほらほら、静かにしなさい」

 カレンが振り返ると、ブラウン先生は思いもよらない姿になっ
ていた。
 キャシーに背中から抱きつかれ、膝にはワンパク小僧を乗せて
いる。そのフレデリックの頭を撫でながら呟いたのだった。

 そんな老人の呟きは、間近にいた一人の少年、一人の少女の耳
にも届いたようで……

 「あのくらい僕だって弾けるよ」

 フレデリックが言えば……キャシーも……

 「わたしの方がうまいもん……」

 二人は争って先生の身体を離れる。そしてキャシーの方が一歩
早くカレンの膝にのしかかる。

 「こら、お行儀が悪いですよ」
 ブラウン先生はキャシーをたしなめたがカレンは構わなかった。

 そして、今しがた自分で弾いた曲を、再び稚拙なピアノで聞い
たのである。

 「どう、ぴったりでしょう」
 キャシーは自慢げだが、フレデリックが茶々を入れる。

 「嘘だね、そうじゃなかったよ」

 彼はキャシーをカレンの膝から剥ぎ取ると、今度は自分がその
椅子に腰掛けようとしたのである。

 「えっ!」

 カレンは驚く。キャシーとフレデリックでは身体の大きさ重さ
が段違いなのだ。
 慌てたカレンが、その場を外れようとすると……

 「あっ、けちんぼ、いいじゃないか。僕も抱っこしてよ」
 公然と要求したのである。

 「フレッド、君はもう大きいんだよ。カレンの迷惑を考えなさ
い」

 ブラウン先生に言われて、また口を尖らすので……
 「いいわ、でも、あまり激しく動かないでよ」
 カレンの方が妥協したのである。

 そうやって始まった演奏。
 「…………!……………!……………!……………!…………」

 フレッドの弾いた曲にカレンは驚いた。夜想曲を弾いたはずの
自分の曲が彼にかかればまるっきりマーチなのだ。音程の怪しい
処、和音を外れる処もあったが、とにかく楽しい。心が浮き浮き
する。

 「(人は見かけによらないわね)」

 ただこの演奏は何より本人が浮かれていて、重たいお尻を浮か
せては盛んにドスンドスンとやるもんだから、カレンは膝の痛み
に耐えての鑑賞だったのである。

 そんな大変な一曲を弾き終わって、フレデリックは満足したの
か、意気揚々、カレンの膝を下りて行く。

 「ねえ、お父様、私の演奏、どうだった?」
 「ああ、よかったよ。キャシー。だいぶ、耳がよくなったね」
 「ほんと!やったあ~~」
 「ねえ、僕のは……」
 「上手だったよ。相変わらずいいセンスをしているね。どこの
音楽会社からだって編曲の仕事が今すぐにでも舞い込みそうだ」

 ブラウン先生は自分に抱きつく二人の子供たちをとにかく褒め
ちぎる。いつもは厳しい先生も、この時ばかりは一人のやさしい
お父さん、好好爺となっていた。

 カレンにも当然そんなご機嫌な先生の声は聞こえているから、
『今のうちに…』とでも思ったのだろう。今度はフレデリックの
演奏を自分もまねてみたのである。

 そして、それが終わると……
 カレンは今の演奏の評価を求めて先生の方を振り返ろうとした。
 ところが、そこに思わぬ大きな人影が立っていたものだから……

 「えっ!!!」

 慌てた彼女はピアノ椅子を飛び退く。
 わけも分からず、ただ反射的にカレンは身を引いたのだ。

 すると、その人影は何も言わずにカレンが退いた椅子に座り、
さきほど彼女が弾いていた夜想曲を弾き始めた。

 そして、その一音一音を確かめるように頭の中に浮かべて感じ
取ると、譜面台の五線紙に音符を載せていくのである。

 「ロビン、拾えましたか?」

 再びチビちゃんたちの拷問に会っている先生はそう言って尋ね
たが、ロベルトは返事をしなかった。

 『まだ、何かが足りない』
 そんな不満が、『できました』という答えにならないのだ。

 彼は一通り楽譜を書き終えると、その譜面に則してカレンの曲
を弾いてみる。

 たしかに、それは、今しがたカレンが弾いた曲に似ている。

 カレンもまた……
 「(私の弾いた曲だわ)」
 と思った。

 しかし……
 「(何かが違う)」

 ただ、その何かは、当のカレンにもわからなかった。

 「ん~~~~好い線いってますけどね」
 わだかまりの残る二人の中へ満を持して先生がやってきた。

 「私がやってみましょうか」
 今度はブラウン先生がロビンからピアノの席を奪うと、静かに
カレンの曲を弾き始めた。

 「………………………………………………」
 「………………………………………………」

 唖然とする二人。先生はカレンのノックターンを寸分たがわず
弾いてみせたのである。

 カレンは感激する。
 「(これだわ、私が、今、弾いたのは)」

 そして、それが終わると……
 もの凄い勢いで、さっきロビンが仕上げたばかりの楽譜に音楽
記号を書き足していく。殴り書くといった感じで……

 「ん~~~そうですねえ~~~こんなものでしょうかね」

 結果、単純で耳障りのよさそうなカレンの曲のために、楽譜は
紙が真っ黒になるほどのお玉杓子を乗っける事になったのだった。

 「ロビン、あなたにこれが弾けますか?」

 ブラウン先生に尋ねられたロベルトはしばらくその楽譜を見て
考えていたが、とうとう首を横に振ってしまう。

 「でしょうね、カレンだってそれは同じはずです。彼女にして
も、主旋律くらいは覚えているでしょうが、細かなタッチまでは
すでに忘れてしまうでしょうから。…ですからね、カレンの曲は
厳密には、一生に一度だけ出会う名曲なんです」

 「一期一会?」

 「そう、カレンはね、その瞬間、瞬間で、今どんな音色が最も
周囲の人を感動させられるかを感じとる能力を持っていて、それ
をピアノで表現しているんです。ですから、僅かでも時が移ろう
と、もう次の瞬間はその音色そのメロディーにはならないんです。
つまり、一期一会というわけです」

 「……そんなあ~~、私はただ適当にピアノを叩いているだけ
なんです。そんなこと考えてません」

 カレンは、先生の言い方が、まるで自分を化け物のように見て
いる気がして心地よくなかった。

 「(はははは)こんなこと、考えてできるもんじゃないよ」

 珍しくすねてみせるカレンの姿にブラウン先生は笑う。
 しかし、それはカレンには理解できなくてもロビンには感じる
ことのできる感性だったのである。

 「つまり、映画のBGMを常に即興で作り出せる能力ってこと
ですか?」

 「あなた、うまいこと言いますね。そういうことですよ」

 ブラウン先生はやっと出てきた共感者に満足そうな例の笑顔を
浮かべると、こう続けるのである。

 「ですからね、細かなことはいいのです。あなたのできる範囲
で……あなたにカレンのピアノを拾ってあげて欲しいんです」

 「えっ、僕がですが?」

 「そうですよ。他に誰がいるんですか?……まさか、このチビ
ちゃんたちにできる芸当じゃないでしょう」

 「僕だってできるよ、それくらい。和音くらい知ってるもん。
コールドウェル先生に作曲の仕方も習ったんだから……」
 フレデリックは先生の袖を引いたが、ブラウン先生は彼の頭を
撫でただけ。

 一方、驚いたロビンは……
 「それって、毎晩ですか?」

 「そうです。いい耳の訓練になると思いますよ」

 「だって、そういったことは先生ご自身がなさった方が……」
 ロベルトが不満げにこう言うと……

 「…………」先生はことさら渋い顔になってロビンを見つめる。
 それは引き受けざるを得ないということのようだった。

 「私は、眠り薬の代わりにこの子のピアノが聞きたいと思って
引っ張ってきたんです。寝る間際にそんな余計な事ができるわけ
ないでしょう。だいたい、君はその時間、マンガなんか読んでる
みたいですね。だったらこの方がよほど有意義な時間の過ごし方
というものですよ」

 ブラウン先生の厳とした物言いで、そのことは決着したようだ
った。

 「さあ、チビちゃんたちはもうベッドの時間ですよ」

 ブラウン先生は、チビちゃんたちをベッドへと追いやったが、
同時にご自身も……

 「今日は少し早いですが、私達も、もう寝ましょうか」

 先生の一言で、三人はそのまま先生の寝室へ。

 そしてこの夜、カレンはブラウン先生の為に最初の夜の眠り薬
を調合し、ロビンがその製法を書き記したのだった。

*************************

 月光の差し込む屋根裏部屋で、カレンはアンが弾く今夜最後の
ピアノを聴いた。

 カレンにとってはカレニア山荘での最初の一日。色んなことが
あったが、彼女の日記には、この時に聞いたアンのピアノの事が
記されていた。

 『私はピアノのことはわからない。だから、アンが何という曲
を弾いているのかも知らない。…でも、今、私の心は彼女の音に
引き寄せられるている。私には、こんなにも人を鼓舞するような
魅惑的なピアノは生涯弾けないだろう。羨ましい。先生が言って
いたアンの本当の実力って…ひょっとしたら、こんな事なのかも』

 カレンはそんなことを思いながら、床についたのである。

********************(3)*****

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tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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