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第3章 / §2

第三章
    カレンの旅立ち


§2


 次の日、車の後部座席には三人が乗り込む。
 ブラウン先生にラルフ、それにカレンだ。
 そのカレンは、古いピンクのトランクに着替えだけをねじ込むと、
白いレースのハンカチが乗った籐製のバスケットを一つ手に持っ
ていた。
 まるでピクニックにでも行くようないでたち。

 「先生、色々ありがとうございました」
 お嬢様のお見送りはなかったが、サー・アランが車寄せで一行
を見送る。

 「それでは、これでおいとまします。吉報をお待ちください」

 「申し訳ありません。フランソワは何だか気分がすぐれないと
申しておりますので……」

 「いえいえ、お見送りは結構です。私は私の仕事をこなすだけ
ですから」

 ブラウン先生はいつもの様にこやかな笑顔。しかし、次の瞬間
は、その顔を少し引き締めて、こう付け加える。

 「……でも、これだけはお嬢様にお伝えくださいますか?」

 「何でしょう?」

 「『もし、あなたが音楽院に行くようなことになったら、この
程度のことで部屋に引きこもっている暇はありません』」

 「なるほどそうでしょうね。わかりました。伝えましょう」

 「音楽院というのは子ども相手の音楽教室とは訳が違います。
みんなが演奏家としてプロを目指して集まって来る処ですから、
毎日毎日全神経を音楽のことにだけに費やして暮らしています。
利用できるものは全て利用しても、最後に頼れるのは自分だけと
いう厳しい世界なんです。それを乗り越えさせる原動力はピアノ
で相手を振り向かせたい、自分の思いを伝えたい、と願う純粋で
愚かしい心だけなのです」

 「愚かしい?ですか?」

 「そう、愚かしいことです。人を振り向かせるには、音楽より
言葉の方が有効でしょう。権威やお金、容姿や暴力、計略だって
あります。それを音楽だけで、ピアノだけで、と願うのに合理性
なんてありません。馬鹿げています。でも、その愚かしさを貫く
人にしか、人を感動させるピアノは弾けないのです」

 「娘は愚かしくないというわけですか?」

 サー・アランが少し渋い顔をするが……

 「いえいえ、娘さんはまだ若い。やりたいもたくさんおありで
しょう。それはそれで大変結構なことです。多種多様の感性は、
その音楽に深みと余韻を与えます。でも、常に最後にはピアノが
残らないのなら、音楽院での暮らしは、ただただ空虚なものにな
ってしまうと申し上げているのです」

 「それを、昨夜、あなたが教えてくださったんだ」

 「いえいえ、そんな厚かましいことは想っていませんよ。ただ、
音楽院というところは一般社会より一世紀も昔の時計が支配して
いますからね……それをお嬢様に伝えたかっただけなのです」

 「野蛮なところなんでしょうかね?」

 「外の方にはそう見えるかも知れません。でも、何かをなそう
とすれば、そこはくぐらなければならない試練の火の輪なのです。
時計は古くても、それが必要だからそこに掛かっているんです。
そうしたことはいかなる分野にあっても同じでしょうが……おお、
これはこれは、話し込んでしまって、すっかり遅くなってしまい
ました。最後に、素敵なピアノありがとうございました。あの様
な名品を頂戴できるとは身に余る光栄です」

 「どういたしまして、でも、本当に必要だったのは、どうやら
演奏者の方だったようですね?」

 「ははは(^_^;)……それでは」
 先生はそれには答えず、フェルトで作られたハットのひさしに
軽く右手を添えると、例の調子で微笑んでみせた。

 「お願いしますよ」
 先生は運転手に一声かけて前を向く。
 車はこうして広い広いサー・アランの屋敷を出発したのだった。

****************************

 「何だかサー・アランは彼女の才能を知っていたみたいでした
ね?」

 ラルフが言うと……

 「当然です。音楽の事は知らなくても、彼は立派な教養人です。
私の気持ちを汲んで取りはからってくれたのでしょう。それは、
私も同じです。彼の気持ちに答えなければなりません。それが、
紳士というものです」

 凛とした先生の視線は何だが自分だけのけ者にされたようで、
ラルフには少し抵抗感がある。そこで……

 「はいはい、さようですか、私も大人なんですけどね……」
 と、少し腐った様子で言うと……

 「そう、そう、たしかに年齢的には……君も……そうですね」

 先生は、一人前の紳士を主張するラルフの顔を、まるで背伸び
する子供を見下ろす親のような目で見つめる。

 「あのう……」
 そんなブラウン先生に、今度はカレンが口を開いた。

 「先生、よろしかったらどうぞ。サンドイッチ作ってきました
から」

 すると、とたんに先生の顔色が変わった。

 「おう、これはこれは…忘れていました。ありがとうカレン。
あなた、気が利きますね」

 「いえ、これ、本当はスコルビッチさんが作ったんです」

 「おう!そうでしたか。あなたはなかなか正直だ」

 ブラウン先生の満面の笑みがお気に召さないのか、ラルフは、
つまらなさそうに、こう呟いた。

 「女の子は得ですね。何を言っても褒められるんだから」

 そんなラルフを無視して、先生はサンドイッチを一つ手にいれ
る。

 「君、つまらないひがみは、紳士の品格をさげますよ」

 ブラウン先生はそう言ってラルフをたしなめたが、すぐに、手
にしたサンドイッチに挟み込まれた小さな紙片に気づくことに
なる。

 「なんですか?それ?」

 異変に気づいて、ラルフが頬をすり寄せると、先生は少し厄介
そうな顔を作りながらも、こう言ったのである。

 「ナターシャ・スコルビッチ先生の伝言ですね。……『この子
を世に出してください』とだけ書いてありますね」

 「この子って?」

 「カレン以外にいますか?」

 気色ばむ先生にラルフはネクタイを緩めながら……

 「いや、お嬢様のことかと……」

 「だったら、こんなことする必要がないじゃないですか。面と
向かって、『お願いします』でいいでしょう。……彼女もやはり、
あなたの才能には目をつけていたみたいですね。あなたは幸せ者
だ」

 「わたしのこと?」

 「そうです。誰もがあなたのピアノに感動し、あなたの音楽を
今一度聞きたいと願っています。ピアニストにとってこんな嬉し
いことはありません」

 ブラウン先生はそう言ってカレンの頭をなでた。

 「……ただ、残念ながら、クラシックの道は……もう遅いかも
しれませんね。あそこは杓子定規で融通の利かない世界ですから
……」

 先生の目じりの皺が深くなり柔和な笑顔がのぞく。まるで実の
娘か孫でも見ているような優しい目だ。

 「……でも、大丈夫。型にはまったクラシックだけが音楽じゃ
ありませんから……ジャズ、ポップス、映画音楽……万人が感動
できる音楽にこそ値打ちはあるのです。軽音楽だなんて言って、
馬鹿にしちゃいけません」

 先生はいつの間にかまっすぐ前を見ている。
 そこには、広い広い葡萄畑の真ん中をまっすぐ切り裂くように
未舗装の道が丘の向こうへと続いていたが、あるいはもっと遠い
世界が、先生には見えていたのかもしれなかった。

******************(2)******

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tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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