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第8章 愛の谷間で(3)

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第8章 愛の谷間で

§3 日本という国

 アンの全国大会は3位という結果だった。

 ラックスマン教授やビーアマン先生、ホフマン博士やフリード
リヒ伯爵までもが国際列車でブリュセルまで応援に駆けつけてく
れたのだから、本当は優勝したかったが、ヨーロッパじゅうから
猛者が集まる中での3位なのだからまずまずの成果だろう。

 少なくとも、関係者一同にアン・ブラウンという名前を覚えて
もらうには、それは十分だったのかもしれない。

 そう、アンはこの時、正式にブラウン家の養女となったのだ。

 「養女と言っても、紙切れだけの話です。別に私の財産が引き
継げるわけではありませんから。あれは里子たちの養育費として
残しておかなければなりませんからね。誰にも渡すわけにはいか
ないんですよ。……それでよければ、どうです。………カレン、
いいですよ。あなたも私の養女になってみますか?」

 ブラウン先生は軽口を叩く。
 ちょうどその時、先生はアンとハンス、それにお供で付き添わ
せたカレンと一緒に駅の改札へと向っていたのである。

 すると、見慣れた顔が待合室に見える。
 しかも彼女、何だかとても心配そうな様子だったのだ。

 「どうしました?アモンさん。賞を逃してがっかりでしたか?」

 ブラウン先生はそう言って尋ねたが、サンドラはきりっと口を
閉じて横を向いてしまう。

 「おやおや、嫌われてしまいましたかね。……どうでしょう。
察するに、あなたコンクールとは別のことで何か困りごとを抱え
ているのではありませんか?」

 こう問われると少女は下を向いてしまった。

 「やっぱりそうですか。私はこう見えても、たくさんの子ども
たちのお父さんですからね、そのあたりは察しがいいんですよ。
……時に、マクミラン先生のお顔が見えませんが、どちらに?」

 「先生は急に演奏会の代役を頼まれて、先にボンへ帰っちゃっ
たんです」

 「そりゃまた、随分と薄情ですね」

 「仕方ないんです。契約は今日までなんで……」

 「では、お父様やお母様は?」
 「いるけど……ここへはこないわ。あの人たちピアノに興味が
ないもの。……お父様はいつも忙しい人だし、お母様は継母なの。
私の事なんか知ったことじゃないわ」

 「そうですか?……では、今日の列車で帰るんですか?」

 「それができないから困ってるのよ?マクミランの奴、日にち
間違えちゃって明日のキップ買って渡したのよ。駅の人に頼んで
みたけど、席があいてないからダメだって言うし……ホテル代も
ないから今日はここで野宿かなって思ってたとこなの」

 「そりゃまた大変ですね。そういう事情でしたらどうでしょう。
私たちとご一緒しませんか?同郷のよしみということで……実は、
私たちも明日の切符なんですよ。今日の夜はコンサートを聴いて、
明日はサッカーの試合を見て帰る予定です。もちろん、ホテル代
や入場料くらいは私がもちますよ」

 「えっ!?」
 サンドラは驚き、困惑の顔になった。
 見ず知らずとは言わないまでも、これまでそれほど親しく付き
合いのない大人にいきなり誘われたからだ。

 『ひょっとして人攫い』
 なんて……12歳の少女の脳裏に、一瞬そんな言葉がよぎった
としても不思議ではないだろう。
 だから、答えは容易に出てこないのだ。

 「そうだ、まずはあなたのお宅に電話をしないと……きっと、
あなたのこと、ご両親が心配しておられますよ」
 ブラウン先生は、まず彼女の実家に電話をかけることにしたの
である。

 すると、電話口の相手は丁寧な応対ぶりで、すべてをブラウン
先生に任せると言う。
 そこで、一人増えて五人での道中が決まったのだった。

 「コンサートって?……今、何かやってましたっけ……」
 サンドラが尋ねるので、ブラウン先生は恥ずかしそうに……
 「コンサートといっても有名なオーケストラではないんです。
日本の楽団ですから……」

 「日本って?」
 サンドラが尋ねると……

 「極東の島国よ。中国の先にちょこっとだけある小さな国」
 カレンが最初に説明して……

 「先生は、昔、そこで捕虜になってたことがあったんだけど、
結核になって入院したから他の人たちと一緒には帰れなかったの。
病気は治ったんだけど戦争の混乱で迎えの船が来ないもんだから
三ヶ月間もその国の軍医さんの自宅で同居することになった」
 アンが続く。

 「でも、そこで暮らしがよほど気に入ったみたいで、先生は、
日本人がこちらへ来るたびに世話をやいているんだ」
 ハンスが締めくくった。

 「あまり聞かないけど、その国のオーケストラって上手なの?」
 サンドラの質問に今度はブラウン先生が答えた。

 「残念ながら上手じゃありません。紹介記事を書くのにとても
苦労しますから。でも、一生懸命やっていますからね。つい情に
ほだされてしまうんです」

 「要するに才能がないんだ」

 「それは仕方がありませんよ。彼らは、我々の文化からは遠く
離れた処に住んでいる人たちです。我々なら容易に耳にすること
のできる最上の交響楽団の音を子供の頃に聞いてませんからね。
本物がどういうものか、そもそもわかってないんです」

 「じゃあ、ハーモニーがめちゃくちゃなの?」

 「いえいえ、そんな事はありません。とても綺麗なハーモニー
ですよ」

 「じゃあ、何がいけないの?」

 「音が小さいんです。補聴器が必要です」
 ブラウン先生は笑う。

 「えっ、そんなに……」
 サンドラが真に受けたような顔をするので……
 「冗談ですよ。でも、金管楽器の音量が不足しているのは事実
です。彼らは身体も小さく肺活量が小さいので、金管楽器を吹き
こなすのに苦労しているみたいなんです」

 「日本人って小人の国なんだ」

 「そんな事もありませんが、みんな背は低いです。……でも、
もっといけないのは、その弱い金管楽器を基準に音を組み立てて
しまうことです。彼らは弱い金管楽器が耳障りになってハーモニ
ーを阻害すると思ってるみたいですがオーケストラの音色という
のは弱い処があっても美しく響かせることはできるんです。ただ、
彼らはそうしてできあがった音楽を美しいと感じないから、全て
が整った音であることにこだわるんです」

 「金管パートが弱かったら、後からついてこさせればいいのに
……他のパートが犠牲になるなんておかしいですよ」
 ハンスが言うと……

 「もし、それでも金管パートの人たちがついてこれなかったら?」
 アンが尋ねた。

 「その時は仕方がないじゃないか。今できるところまでで聞い
てもらうさ。金管パートの人たちだって自分たちが遅れていると
思えばそれだけ努力するだろうし………だいいち、そんなこと、
恥ずかしいことでも何でもないもの」

 「ハンス、それはね、私たちの価値観なんです。彼らはそれが
とっても恥ずかしいことだと感じてしまうからできないんですよ」

 「つまらない人たちですね。本来10ある力を、5にも3にも
削ってしまうなんて……」

 「でも、そう捨てたものでもありませんよ。そんな文化だから
こそ、あんな小さな島に一億もの人たちが同居できるんですから」

 「イ・チ・オ・クって?……そんなにいるんですか?」

 「そうですよ。一億人もいるんです。たとえ、トランペットや
ホルンが吹けなくても、サッカーが下手くそでも、仲良く暮らす
ということだけ考えたら、彼らは天才的な技能者集団なんです。
とりわけ、母親の慈愛は凄くてね、我々から見ると、どうして、
こんなにも献身的な愛を子供に注げるのか不思議なくらいです。
ですから、成長した彼らも母親をとっても敬愛していましてね、
彼らは自分の国のことは『母国』とは呼んでも『父国』とは呼ば
ないくらいなんです」

 「故国は母の国ですか」

 「そういうことです。西欧人は日本は国会議員や社長に女性が
少ないから、女性が虐げられていると誤解しているようですがね、
事実は逆なんです。これほど女性の意見が通る国は世界でも珍し
いんですよ。むしろ、ストレスを感じないからあえて責任のある
表舞台には出ないんです。考えてもごらんなさい。夫が稼いだ金
を全部自分の懐に入れて、悠々と家計をやりくりできる国なんて
このヨーロッパにありますか?」

 「えっ!そんなことできるんですか?初耳です。そんな風習が
あるなんて初めて聞きました。……でも、夫はそんなことさせて
大丈夫なんですか?」
 ハンスは先生のご機嫌をとって食いつくように尋ねる。

 「大丈夫ですよ。いくら自分の処にあるお金といってもあの国
の奥さんは自分のものだけ買ったりはしませんからね。だから、
夫だって安心して任せているんです。……政治の世界も同じでね。
女性の代議士がいなくても、労働者出身の代議士がいなくても、
その予算は十分に確保されていますからね、急進的な左翼も育た
ないし女性もあえて代議士を目指さないんです。女性というのは、
本来杓子定規な世界があまり好きではありませんからね。代議士
なんかに誘われても、なかなか腰が重いんですよ。…そんな平和
な国で暮らしていると『いったい、どっちが先進国なんだろう』
って考えさせられることが何度もありました」

 ブラウン先生が日本のことについて話し始めると、止まらなく
なるのは子供たちみんなが知っていること。だからハンスに子守
を頼んで、脇では女の子たちがサンドラと井戸端会議を楽しんで
いた。

 「サンドラ、あなたのお母さんって継母なの?」
 アンが口火を切る。

 ぶしつけな質問にもサンドラはそれほど嫌そうな顔を見せなか
った。

 「ええ、そうよ。ここに来る時だって、玄関に向って『行って
らっしゃい』って言っただけ。私が振り向いたら、もうTIME
を読んでたわ。だから、私が道に迷ったって、探しもしないし、
そもそも迎えに来るような人じゃないのよ」

 「お父様は?」

 「あの人はいつも忙しくて私にはノータッチ。そもそも滅多に
家にいないもの」

 「でも、マクミラン先生にレッスンを受けてるんでしょう?」
 アンに続いてカレンも加わる。
 「そうそう、なかなかハンサムな先生よね」

 「どうだか。あの先生とはビジネスライクなお付き合いなの」

 「ねえ、言い寄られたことってないの?」

 「言い寄るって?」

 「だから……『君が好きだよ』とか……」

 「馬鹿馬鹿しい。あの人、女の子に興味なんてないもん。……
お友達に女の子はいないわ。みんな男ばっかり………そうそう、
そこのハンスさんなんかお友達になれるんじゃないかなあ」

 「ハンスがあ~~」
 アンは笑うが……
 「だって、なかなかハンサムじゃない」
 「そうかなあ」
 アンにとってハンスは幼馴染。あまりに近過ぎて、そうは思え
ないのだった。

 「ねえ、何でピアノ始めたの?」
 カレンが尋ねると……

 「私が学校に行かなくなって、ご近所に体裁が悪いもんだから、
継母が強制したのよ。新しい曲が弾けるようになると、そのたび
に教会へ行ってご近所の人たちに聞いてもらってたんだけど……
お義理にでも拍手をもらえるのが嬉しくて続けてたの」

 「でも、すごいテクニックよね」

 「超絶技巧っていうのかしらね。私もまねできないわ」

 「だって、聞いてる人たちは音楽とは関係ない人たちだもん。
テンポの速い曲をどれだけ華麗にかっこよく聞かせるかが大事な
の。それで拍手をもらうんだもん。テンポの遅い曲は、そんなに
難しそうに聞こえないからだめなのよ」

 「なるほど、そういう事情でしたか」
 ここで、ブラウン先生が女の子たちの中へと割り込む。しかし、
それは女の子たちのお話に割り込むためではなく、引率者として
の注意事項を説明するためだった。

 「さあ、コンサート会場へ着きましたよ。皆さんにとっては、
退屈な時間かもしれませんが、とにかく、一人でも多くの頭数を
増やさないといけませんから、お父さんを助けると思って椅子に
座っててくださいね」

 ブラウン先生はこう注意して会場内へと入る。

 なかでは、ラックスマン教授やビ-アマン先生、ホフマン博士
などといったいつものお仲間に加えて、地元の名士などへも挨拶
回りをしなければならない。
 そして何より、西田と名乗る紳士に会わなければならなかった。

 「ブラウン先生、このたびはご協力ありがとうございます」

 「いやいや、私の力などは取るに足りませんが、まずは盛況で
何よりです」

 「実は、お手紙でもご相談した件なのですが……」
 彼は恐縮そうな顔で傍らにいた少女の背中を押す。

 そこには、まだ可愛らしいという表現がぴったりとくる女の子
が立っていた。

 「ご挨拶しなさい」
 父親に促されて、お人形が口を開く。

 「始めましてアイコ、ニシダです。よろしくお願いします」

 「おう!これはこれは可愛いお嬢さんさんだ。……始めまして、
私がトーマス・ブラウンです。何でもピアニストになりたいんだ
とか……」

 ブラウン先生がそう言った直後、彼は少女がほんの一瞬暗い顔
になったのを見逃さなかった。

 「はい、先生」
 娘はすぐに明るい顔を取り戻して先生に微笑んで見せたのだが
……。

 「それで、今回はシュリーゲル音楽院のピアノ科に入学させた
いと思っているのですが……何しろ、親ばかで……冷静になって
娘の実力を測りかねているのです。……そこで先生に忌憚のない
ご意見をいただけないかと思いまして……よろしければ、一度、
娘のピアノを聞いていただけないかと……」

 「ええ、その件は承知しております。明日、午前10時にここ
でお会いしましょう。……あっ、そうそう、私も他の用事の帰り
でしてね、子供たちを抱えているんですが、同席させてよろしい
でしょうか?」

 「ええ、かまいませんよ。なにぶん、よろしくお願いします」

 二人は、その夜、こんな会話をして分かれた。

*******************(3)******

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このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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