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9/17 愛玩物としての子ども

     9/17 愛玩物としての子ども

*)エッセイ、繋ぎに書いたものですからスルーしてください。

 私の父と母はそれぞれに性格が真反対な人だった。母は勝気で
社交的、明るい性格から商売上手と評判だったが、他人に対して
はドライな面もある人。逆に、父は、学究肌でおとなしい性格、
慣れないととっつきにくい面はあるものの、誰に対しても優しく
接する人だ。

 こんな二人だが、共通していることもあった。
 自分の子ども、つまり私に対する接し方だ。

 私はこんな両親のもとで育ったからそれが当たり前だと思って
育ってきたが、実はこの二人、尋常でない程子どもを甘やかして
いたのだ。

 母親は僕が病気がちなのを口実に小3の頃までオムツをあてて
は楽しんでいた(?)し、天井ではメリーゴーランドが回り、枕
元には哺乳瓶が転がっているといったあんばいだった。
 当然、隣りでは母が毎晩添い寝している。
 要するに、全てが赤ちゃん仕様。それが我が家ではかなり成長
したあとも続いていたのである。

 父だってそうだ。僕がそばに寄れば、必ず抱き上げてあやす。
そう、あやすのだ。ほっぺスリスリ、頭なでなで、お尻よしよし、
お背中トントン。
 一通りスキンシップが終わるまでは許してくれなかった。
 断っておくが、これごく幼児の頃というわけではない。10才
を過ぎてなおこうなのだ。

 僕も、今でこそこんなことおかしいと感じるようになったが、
当時は父の行為をごく自然に受け止め、父のお膝にノンノすると、
笑って、そこで出された甘納豆を二人で美味しく食べていた。
 父に近寄るのはその甘納豆欲しさだったのだ。

 ついでに言うと、この二人、食事の時も僕を膝の上に乗せて、
スプーンで料理を口元まで運び。僕がパクリとやるのを見ては楽
しんでいた。
 そう、離乳食が始まった頃の赤ちゃんと同じ感覚。
 とても10才の少年が食事を食事をしている風景ではなかった
のである。

 硬い肉は親が何度か噛み噛みしてやってくるから原形をとどめ
ない。そこで、僕が「独りで食べる」と求めたりもするのだが…

 「だめよ、柔かい方が消化にいいのよ」
 というのが母の答えだった。

 僕の小学生時代というのは、単に過保護という枠をを超えて、
親からみたらお人形、オモチャとして扱われていたのである。

 今日を生きる人の感覚からすると、こんなこと異常と映るかも
しれないが、両親にしてみれば、これでもすこぶる真面目に子育
てしていたつもりなのである。

 テレビがこの世に存在してない時代、多くの人は娯楽に飢えて
いた。当時、映画館に人が溢れていたのは各家庭にテレビがまだ
普及していなかったためで、映画はそのテレビの普及と共に衰退
することになる。

 我が家は幸い質屋だったので私が生まれた頃、すでにテレビは
居間にあったが、人生の大半、テレビのない世界で生きてきた両
親にとって、子どもは映画同様何よりの娯楽に違いなかった。

 だから、言葉は悪いが、私を、しゃぶりつくせるだけしゃぶり
つくしたかったのである。
 それは、単に、食べさせて着せて寝かせるというだけではない。
子どもとはいろんな形でふれあい、かかわりを持ちたかったので
ある。

 そうやって培った我が子の情報は、失礼ながら今の親の比では
ない。

 今の親なら、ポーカーフェイスでいる我が子の『お腹がすいた』
『怒っている』『悲しんでいる』といった単純な感情を言い当て
るだけでも拍手喝采ものだろうが、うちの親はその程度ではなか
った。

 例えば、『あの子のことは世間には嫌いと言ってるけど本当は
好き』とか『嫌だけど、これはやらなきゃいけないとは思ってる』
とか『やりたいけど30%ぐらい不安がある』といったように、
他人になら言葉を使って発信しなければ伝わりようのない事まで、
しっかり把握しているのである。

 どうしてそんな事まで認識できるのかはわからないが、いずれ
にしても、これは、もう脅威という他はなかった。
 こんなことをされてはプライバシーもくそもなくなってしまう
からだ。

 実際、僕は親の前で嘘をつくのが苦手だった。
 長いこと幼児のように抱かれていたせいだろうか、両親の前で
嘘をつくと身体が震えてしまうのである。

 だから、抱かれていれば、もちろん答えは一発だった。
 「そうなの?」「それ、違うでしょう?」
 という母の声のもとで、まるで生まれたての子犬のように震え
ていたのである。

 ただ、成長するにつれ両親は私が嘘をついても責めなくなった。
 『誰かを愛している』
 『誰かに怒っている』
 『何かを悲しんでいる』
 その『誰か』『何か』は、たとえ両親でも分からない。しかし、
我が子が自分で下した決断が最良のものと信じているなら、もう
それ以上は何も言う必要はないと思ってくれてたみたいだった。

 今の人はまじめだから、愛玩なんて言葉を使うと快く思わない
かもしれないが、親の本音は、子どもをつくればこれをオモチャ
にできると思って子どもをつくるのであって、世の為、人の為、
ましてや天下国家のために子どもを作るわけではない、

 ところが今の世の中、そんな親の素朴な願望に水をさす部外者
があまりに多い。ぶっちゃけた話、チャイルドポルノというのは
親に性欲がある以上、親子にあっては常に存在するものなのだ。

 これを『他人的な感覚』や『おためごかし』で否定することは
もちろん簡単だが、それはどこまでも他人としての立場から見た
ものでしかない。

 教育評論家などと称する人たちの言い分は一見正論に聞こえる
が、それを実行して出てくる答えは、『親が他人になる』という
悲しい事実だけだと私は思っている。
 ただでさえ希薄になりがちな昨今の親子関係が苦行僧と化した
親の存在によってさらに希薄になるようななら子育てにとっては
本末転倒だろう。

 子どもの立場ばかりではなく、子どもと接する親の本音にも、
もっと耳を傾けるべきではないだろうか。

 今は世の中に娯楽が多すぎて、子どもだけを純粋には愛せない
かもしれないが、子どもを愛玩すれば、そこからは得られる情報
はITロボットとの会話の比ではないはずである。

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tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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