2ntブログ

Entries

駿と由梨絵の物語

 駿由梨絵物語

 < 第 5 話 >

 シボレーは山を降り、いくつかの街中を抜けて、小麦畑が続く
校外の道へ……

 かれこれ一時間ほど走ると、はるか先の山腹に何やらチラチラ
白いものが見えてくる。

 『何だろう?』
 駿君が思っていると……

 実はその白いチラチラは、小高い丘の周囲を囲む長い長い白壁
だとわかる。
 「わあ、すごく大きな家、まるでお城みたいだ」
 駿君のボルテージが上がる。

 ギアがセカンドに入りシボレーは山道へ。

 そして、車が防風林となっている林を抜けた時だった、そこに
忽然として『お屋敷』という名がぴったりの洋館が現れたのだ。

 『わっ!でっかい……えっ!?……何もしてないのにいきなり
開いた』
 駿君の驚きをよそに、天を突くような巨大な鉄柵が開いて車を
敷地の中へと迎え入れる。

 さらに10分ほど山道のドライブを楽しんで、あげく到着した
のは20台のもの車が一度に泊められる広い広いガレージだ。

 「さあ、着いたよ」

 小学生にとって約一時間の通学はけっこう長い。
 通いなれた由梨絵は退屈な時間から開放されて一目散に玄関の
方へと駆けて行った。

 これに対し駿君は、久しぶりの小旅行がよほど楽しかったのか
興奮冷めやらぬ様子で顔が少し上気している。
 そして下車したあとも、名残惜しそうに居並ぶ外車たちを見学
していたから、伯爵も尋ねる。

 「自動車が好きかい?」

 「やっぱり伯爵様はお金持ちなんですね」
 彼の甲高い声がガレージの天井に当たって響く。

 「どうして?……こんなに沢山の車を持っているからかね?」

 「はい」

 目を輝かせる駿君に伯爵は笑った。
 「(ははは)これは売り物だよ。これが私の今の商売なんだ。
今の世の中、伯爵様では食べていけないからね。昔の伝を頼って
進駐軍が日本で乗り回していた中古車を安く買い取って来ては、
こうして売りさばいているのさ。……でも、さすがに男の子だな。
由梨絵なんか、ここにある車が全部入れ替わった時でもまったく
気づかなかったよ。そのくせ、胸ポケットのハンカチが変わった
だけでも、趣味が悪いとか、似合わないとか言い出す。髪型とか
衣装にはとても敏感なんだ。男の子と女の子の違いだな……」

 伯爵は駿君の小さな肩をだいて裏玄関へ。

 実はこの家、表玄関というのが別にあるのだが、そこを使うの
は大事なお客様がみえた時だけ。駿君もお客様といえばそうだが、
まだ子供なので正規の玄関は使わせてもらえない。それどころか
伯爵様でさえも、日常生活では表玄関を使わず、この裏玄関から
出入りするのが普通だったのである。

 もっとも『裏玄関』といっても庶民の家にある勝手口のような
ものを想像してはならない。そこは、まるで老舗ホテルのロビー
のような落ち着いたたたずまい。広さだけでも庶民の住宅の玄関
なら5つ6つ分はゆうにあろうかという立派なものだった。

 さて、その玄関先で……

 「お帰りなさいまし」
 「お帰りなさいまし」
 「お帰りなさいまし」
 異口同音に挨拶する女中たちに混じって一人の婦人がその女中
たちの前に出てきた。

 彼女は伯爵が差し出す小さな鞄を受け取ると、今度は伯爵の腰
のあたりに見え隠れする少年の姿に気づく。

 「あら、珍しい。お客様ですのね」
 彼女ははにかむ男の子を見て笑った。

 「こんにちわ、野上駿一といいます」
 緊張して奥様に挨拶する駿君。

 「由梨絵のクラスメイトだ。今日はここに泊めるから、面倒を
みてやってくれ」

 「さようでしたか。はい、承知しました」
 奥様はそう言って、二人を奥の居間へと案内する。

 もちろん、伯爵にしてみたらここはご自分の家なのだから案内
などそもそも不要なはずだが、そこが旧家の奥ゆかしいところ、
まるで初めてお見えになったお客様のような扱いで、二人は長い
廊下を進んでまずは居間へと向かうこととなった。

 『えっ!?』
 すると、駿君は長い廊下を歩くうちに、あることに気づいたの
である。

 玄関を入った時、そこはたしかに洋風の建物だったはずなのに、
それが、いつしかそれが和風のしつらえに変わっているのだ。

 伯爵家は、江戸時代にはお殿様だったお家柄。お城は手放して
しまったが、今、こうして御住まいのお屋敷だって、庶民サイズ
のお家ではない。古くて、大きくて、とにかく迷子になりそうな
くらい広いのだ。

 『えっ!?どこから変わったなんだろう』
 駿君は後を振り返ったが分からなかった。

 それを見て伯爵が尋ねる。
 「ん?どうしたんだい?……広いから怖くなったのかな?……
大丈夫だよ、帰る時は帰る時でちゃんと送ってあげるから……」

 「いえ、そうじゃなくて……入って来た時は、たしか洋館だと
思っていたのに、今、ここは違うから……」

 「ああ、そういうことか……もちろん、江戸時代に建てた時は
ここも純然たる日本建築だったんだけど、明治の頃になると洋館
の方がかっこいいという時代があってね、玄関部分は木造洋館風
に改築したんだ。チーゲル瓦や飾り窓、庭に西洋芝を張ったり、
噴水もあっただろう。今はないけど、玄関にバルコニーがあった
時代もあるんだ。……その後は何度か手直しして、今は、玄関の
あたり三分の一が洋風、残りは和風の造りかな。和洋折衷という
やつだ。だけど、これから行く居間は、庭が美しく見えるように
障子をガラス窓に変えたけど、造りそのものは江戸時代に建てた
時のままになってる。私はどちらかと言うと和風の方が落ち着く
から、居間はいじらなかったんだ」

 着いてみると伯爵の言った通りだった。
 伯爵の住まう居間は、昔ながらの日本建築。大きなガラス窓を
通して見える中庭も古風な日本庭園だ。

 雪見灯篭が苔むし、築山の紅葉はまだ蒼く、泉水池では大きな
錦鯉が跳ねている。鹿威しや水琴窟の音が心地よく、大人たちに
とっては落ち着ける場所になっていた。

 畳敷きの広間には厚いペルシャ絨毯が敷かれ、年代物のソファ
に腰を下ろした大人たちの歓談しているのが大きなガラス窓越し
に見える。声も部屋の中から漏れていた。


 部屋では由梨絵の家庭教師である西條先生や伯爵の古い友人の
合沢広志、踊りの師匠である花井桂秀など、いずれもこの家の主
とは親しい関係にある大人たちに混じって由梨絵までもがすでに
大人たちとの会話を楽しんでいた。

 そこへ主が見知らぬ子を連れてきたので、その瞬間だけは盛り
上がったが、もともと外交的な性格ではない駿君は口数も少なく
そんな大人たちの社交の場にあっては、やがて、蚊帳の外に追い
やられてしまう。
 そのうち、欠伸を連発しながら、どこかつまらなさそうに大人
たちの会話を聞いているだけになっていた。

 ところが、そんな彼にもやがて興味を示すものが現れる。

 それは中庭に隣接するトイレを借りた時のことだった。
 用を足し終え、手を洗おうとすると、その手水の水が玉砂利に
落ちると、そこで高い音を響かせている。

 『どうしてこんな音がするんだろう?』
 駿君、どうやら地中から響いてくる水琴窟の不思議な音に興味
を示したみたいで、しきりに聞き耳を立てては音の出所を探って
いた。

 しかし、とうとう分からずじまいで居間へ戻ることになる。
 すると、その間にお茶とお菓子が運ばれていた。

 「オヤツにしよう」
 伯爵に誘われて……

 「はい、……えっ、これ全部食べていいの」
 駿君の目が輝く。
 彼の目の前にチョコレートやチーズが山盛りになった大きな鉢
がいくつも置いてあるのだ。

 「やったあ~~」
 そこは11歳の少年、久しぶりに見せる子どもらしい顔だった。
 すると、この様子を見て周囲の大人たちの顔が一様にほころぶ。

 大きな鉢に山盛りに盛られたお菓子というのは、庶民感覚では
ごく自然な光景に映るかもしれないが、これは、今がフランクな
人たちの集まりということで仕掛けた伯爵の演出。普段のお茶会
でなら、お菓子は一人分ずつお皿に取り分けられて出てくるのが、
この世界の常識だった。

 駿君の場合も、寄宿舎で出されるおやつは小皿に盛られて各自
分出てくる。おかわりは自由だが全員の分が一つの皿で出される
ことはないのだ。
 そこで駿君、目の前にある大鉢を見てこれが全部自分の分だと
勘違いしたみたいだった。
 
 しかし、子どもにそう言われたからと言って『ダメだ』なんて
言う大人はいないわけで……

 「どうぞ、どうぞ、どれでも好きなものを好きなだけお上がり
なさい。全部食べてもいいのよ」
 大島をさらり着こなす花井桂秀が勧めればそれだけでその場が
なごむ。

 三つ揃えスーツにスキンヘッドの合沢も自分の近くにあった鉢
をわざわざ駿君の前に持って行って……
 「さあさあ、チーズも生ハムもある。遠慮しなくていいんだよ」

 「………………」
 ところが、今度は肝心の駿君が二の足を踏んでいる。どうやら、
自分が笑われていることに気づいたみたいだった。

 すると、縮こまってしまった駿君を見て合沢が……
 「どうしたの?」

 合沢はさらに言葉を繋いで……
 「そうかそうか、ここにあるクッキーやチョコレート、チーズ
なんてのは寄宿舎で普段食べてるものばかりだろうから、君には
珍しくもないだろう。今度来る時は、東京のデパートで何か調達
してあげるよ」

 駿君の勘違いをそのままにして合沢は豪快に笑う。

 彼の先祖は恵庭藩では代々家老の家柄で、伯爵からみれば臣下
に当たるが、伯爵とは馬が合うらしく幼馴染としてずっと親交が
あった。

 「さあ、いいから手を出しなさい」
 伯爵も勧めて、駿君はようやく菓子鉢に手を伸ばす。どうやら、
ここにはこれ以外にお菓子の皿はなく、誰もが自由にお菓子鉢に
手を伸ばしていいのだと、駿君、やっと気づいたみたいだった。

 すると、今度は一転、チョコレートをとても美味しそうに頬張
ってみせたのである。

 「なんだ、そんなに美味しいかい?」

 「はい、とても……」

 「でも、これはいずれもあの修道院からの贈答品だからねえ、
君だってオヤツに食べたことがあるんじゃないのかい?」

 「えっ!?あれと同じなの?……だけどオヤツに出てくるのは
全部形が崩れてて包装紙にも包んでないし、こんな風にちゃんと
したものは食べたことないから……」

 「なるほどオヤツには製品にならなかった物が出てくるのか」
 「おやおや、かわいそうに」
 「おそらく味は変わらんだろうが、見た目も大切な味の一部と
いうわけだな」

 大人たちは穏やかに笑っている。
 その笑顔のままが大人たちの旬君に対する気持だった。

 合沢氏が駿君に尋ねた。
 「時に、君は学校では有名な作曲家なんだろう?……たしか、
本も出してるよね。ピアノの練習曲を集めたやつ……」

 「あれは違うんです。僕が作ったメロディーラインをピアノの
安藤先生が編曲してくださったんです。だからあれは安藤先生の
ご本で……もとが僕の鼻歌というだけなんです」

 「おい、おい、小学生の台詞じゃないな。ずいぶんとしっかり
した言葉で謙遜してくれるじゃないか」

 合沢氏が再び天井を向いて笑うと、花井師匠も……

 「ああ、私も思い出しましたわ。あなた、確か給費生の野上君
よね。……そうそう、曾御爺様はあの道庵先生」

 「道庵って……蘭方医で初めて御殿医となった……あの」

 「そうですよ。伯爵、ご存知ありませんでしたか。この子は、
あの道庵先生のひ孫なんです」

 「時代がずれているから先生に直接お会いしたことはないが、
先々代の恒明様が、家臣の反対を押し切る形で抜擢されたことは
……でも、まさか、この子がひ孫だとは……そうかあ、この子が
そうなのか」
 伯爵もまた感慨深げだった。
 
 「何だ、それでこんなに利発なんだ。いやね、先ほど水琴窟を
あれこれ調べていた時から、これはただ者じゃないなと睨んでた
んだが……」

 「おやおや、そんなことでわかるんですか?」

 「わかるさ、自分に自信のある者は普段から視線が鋭く、目の
輝きが違うからね、会ってすぐにわかるんだ。それにまだ小学生
ぐらいだと知識も体力も大人にはとうてい及ばないから、大半の
子は大人と対峙する時、どこか弱腰になるものだが、彼にはそれ
が微塵も見えない。私が彼に何か質問しようとして視線を送ると、
自信にあふれた視線が返って来る。こんな子が優秀でないわけが
ないじゃないか」

 「さすがに上場企業の社長さんともなると違いますわね、人を
見る目がしっかりなさっておいでですわ」

 「多くの人と接する機会が多いとこうしたことは誰でも自然に
身に着くんですよ。普段子供と接する教師ならなおさらだ。……
ね、先生。……どうなの?先生のお見立ては?」

 「初めてこの子に会ったのは由梨絵ちゃんの教室でしたけど、
その時から彼は別格でしたね。私も元は教師の端くれでしたから
初めて訪れた教室でもひとあたり見回せば、だいたいこのクラス
で誰と誰が5を取っているかはわかります。でも、彼の場合は、
『猫の子の群れになぜか虎の子が一匹混じってる』ってくらいの
違いがあったんです」

 「そんなに凄いの!?いやあ、僕の想像以上だ」

 「ええ、授業を子供の目線じゃなく大人の目線で聞いてました
から」

 ところが、こんな自分を持ち上げている大人たちの会話なのに、
駿君、とても居心地が悪かった。

 そこで……
 「僕はそんなに凄い子じゃありません。テストだって間違える
し、廊下を走って先生に叱られるし、図工の粘土細工は下手だし」
 なぜか慌てて自分の欠点を並べ始めたのだ。

 実際、駿君は大人たちか褒められることが多かった。しかし、
何もしないで自分がこの位置にいるように思われているのは心外。

 『僕だって人並み以上に努力してこの場所にいる。僕は特別な
能力を持っていないし天才でもない』
 そんな思いがあったのだ。

 要するに上には上がいるという現実を彼は知っていたのである。

 「ははは、ずいぶん謙遜するじゃないか、僕もあそこに載って
いた曲をピアノで弾いてみたけど、どれも美しいメロディーで、
子どもの練習曲としてはなかなかのものだったよ。ちょうどいい、
ここにもピアノがあるから弾いてみてくれないか」

 伯爵様からのせっかくのお誘い。
 でも、駿君、その希望には答えられなかった。

 「えっ!それはできませんよ」

 「どうして?こんなところでは恥ずかしいのかな?それとも、
大作曲家の先生としては、アップライトなんかじゃいけないの?
ちなみに、うちの音楽室にはグランドピアノもあるから、そこへ
移ってもいいよ」

 「いや、そういうことじゃなくて………………………………」
 駿君は俯いたまま黙ってしまう。

 伯爵が茶化したのがいけなかったのか。
 いや、そうではない。

 しばしの沈黙の後、なぜか由梨絵から意外な答えが返って来た。

 「だって、この子、ピアノなんて弾けないんだもの」

 「?????」
 これには伯爵だけでなく、奥様も由梨絵の家庭教師も執事も、
そこにいた大人たちの目が一斉に点になる。まるで狐に抓まれた
みたいな顔になったのだ。

 それを由梨絵が説明する。
 「だって駿君はピアノなんて習ってないもの。この子が学校で
習ってる器楽はフルートだけ。それも恐ろしく下手くそよ。私、
譜面どおりに弾いたのなんて一度も聞いたことないんだから……」

 散々な言われように駿君の顔は真っ赤だ。

 「あらあら、そうなの。でも、お玉杓子は書けるんでしょう?
あんなご本も出してるくらいだもの」

 花井師匠がとりなすと、今度は本人が答えた。
 「簡単な和音くらいは知ってますけど、作曲の勉強なんてした
ことないし、先生がやってみなさいって言うから交響曲も作って
みたけど32小節の総譜を書くのに一週間も掛かっちゃったから」

 駿君は思わず自分の事で苦笑する。

 「交響曲だって……」
 合沢氏も当初は半笑いだったが、すぐに気を取り直して……
 「いや、いや、それも凄いじゃないか。何しろ君はまだ小学生
なんだから……そもそも、作曲はいつやってるんだい?」

 「いつって言われても、作曲はやろうと思ってやってるんじゃ
なくて、勉強してると自然に頭の中でわいてくるからそれを書き
留めてるだけ。詩も絵もみんな同じ。勉強してる時に沸いてきた
ものを書き留めて、物語にして、そこに学校で習ったことをはめ
込むんだ」

 「ほ~~何だかよく分からないけど、頭の中が大混乱しそうだ」
 「二束のわらじならぬ五束のわらじで勉強してるんだ」
 「勉強してる最中に作曲も詩作も絵まで描いちゃうわけ?」

 「そうだよ。国語や算数をやりながら、頭に浮かんだ詩や絵や
曲を雑記帳に書きながら勉強するの。物語の登場人物が色んな事
を教えてくれるから、意外と効率的なんだよ」

 「効率的って言われてもねえ……そんな難しいこと、おじさん
にはできないよ」
 合沢氏の言葉はそのまま周りの大人の空気だった。

 「だって、無味乾燥に暗記したてるよりこの方が楽しいもの。
そして、その雑記帳が、色んな教科のノート代わりもしていて、
リズムをとって机を叩き、イラストや詩の一節を見ながら物語を
変化させて教科の内容を入れ込むの。とにかく、すべてが一体に
なって頭の中をグルグル回ってる時はとっても楽しいんだから。
算数だけ、国語だけの勉強はしないの。僕はお地蔵さんみたいに
イスに座ったままでいると眠くなるだけで勉強できないんだ」

 「凄いな、五感すべてを使って考えて覚えちゃうんだ。でも、
それでいてロスが少ないなんて、まさに神業だね」

 「でも仕方ないんだ。普通に勉強してるとすぐに寝ちゃうから。
自分でお話を作って、BGMを奏でて、その中に教科で教わった
内容が散りばめられてる……そんな感じかな」

 「他の事と一緒になら続けられるんだ?」
 「……不思議な子だね」
 「僕なんか、一つの事に集中してないと何も出来なかったのに、
これはジェネレーションの違いか、能力の違いか、どっちかな」

 「……先生がよく言ってる。僕が勉強しているのを見てると、
まるでコントか独り漫才を見てるみたいだってさ」

 「なるほど。じゃあ、さぞや君の勉強風景は賑やかなんだろう
ね」

 「僕はあんまり感じないけど、そうみたい……だから、他の子
の迷惑になるからって自習室を追い出されちゃって、今は地下室
でやってるの」

 「地下室?じゃあ、寒いだろう?」

 「寒いよ。床も壁もコンクリートだから……でも、ほかの子に
迷惑かけられないもの。それに、あそだったらどんなに騒いでも
苦情がこないから、僕の方も気が楽なんだ」

 駿君はまるで他人事のように語るが、由梨絵が茶々をいれない
ところをみるとどうやら本当の事らしかった。

 由梨絵は部屋の隅でおとなしく駿君の話を聞いている。それは
伯爵の目には羨望の眼差しと映ったが……彼もまた、その様子を
是非一度見てみたいと思ったのだった。

 そこで……

 「さてと、それでは子どもたち」
 伯爵はポンと一つ手を叩くと、その場でソファから立ち上がり、
 「お二人は、まず、宿題を済ませてしまおうか」
 と、提案したのだった。

 すると、由梨絵からたちまち不満の声があがる。
 「え~~~今、オヤツ食べたばっかりで、もう、勉強するの。
私、見たいテレビあったのに……だってえ、今日は家に帰るのが
遅かったでしょう。今からじゃあ見逃しちゃうよ」
 (当然だが、当時はお金持ちの家でもビデオなんてない)

 「何言ってるんだ。家に帰ったらまず宿題をすませてしまうの
が当たり前じゃないか。テレビより宿題が優先なのはどの家でも
同じはずだよ。何よりお前は給費生なんだから、みんなの模範に
なるように行動しなくちゃ」

 「え~~~そんなのないよ~~~給費生、給費生って、それは
おじ様が無理やり……」
 由梨絵はなかなか引き下がらない。こんなことは珍しかった。

 「無理やりというのはひどいな。私は、お前に選択肢を出して
どうするねって尋ねたはずだよ」

 「だってあれは……」
 由梨絵は口を尖らす。

 「『あれは』何だね」
 伯爵が意地悪に問いかけた。

 「だって、あの時はおじ様が、『給費生になってここに残るか、
それとも施設に戻るか』って怖い顔で言うから……だってそうで
しょう。私、ここに来たのは3歳の時だもん。施設のことなんか
何も覚えてないし……ここに残るしかないと思って……」

 「だったら、頑張るしかないじゃないか。私もお前を給費生に
するについては、沢山の本を買い揃えたり、ニーナ先生の他にも
家庭教師の西條先生をお願いしたりで大変だったんだ。それに、
どっかの甘えん坊さんのために、私のお膝だって貸してあげてる
だろう?」

 「…………」
 由梨絵は思わず頬を赤らめると、そのまま下を向いてしまう。
 『おじ様のお膝』にはすぐに反論の言葉が浮かばなかったのだ。

 おじ様のお膝とは、伯爵が椅子に腰掛けた状態でその膝の上に
由梨絵が座って勉強すること。
 クッションのきいたその椅子は耳元で解けない問題のヒントや
答えが聞けたり、濡れたタオルで眠気を覚ましてくれたりする。
……ただ、それでもどうしても眠い時は、そのまま揺り篭として
も使える優れものだった。

 由梨絵はこの膝の上で文字を覚え、計算を解き、ピアノを弾き、
絵を描いて大きくなった。
 世界で唯一、甘えられるだけ甘えられる場所。彼女にとっては
どんな参考書や家庭教師よりこちらの方が大事な居場所だったの
である。

 そんな彼女に、便利な椅子と離れて施設へ戻るという選択肢は
あろうはずもなかった。

 「そうだ由梨絵。せっかくだから、今日はお前の部屋で駿君と
一緒に勉強してみたらいいじゃないか。お前だって、駿君の勉強
してるところを見てみたいだろう?」

 由梨絵は伯爵の提案に目を白黒……
 「えっ!?……私は別に……そんなこと……」
 と、否定したつもりだったが……

 「そうだ、それがいい。そうと決まれば俊君の机も用意しない
とな……お前たちは先に部屋へ戻ってなさい。すぐに駿君の机も
運ばせるから」

 伯爵が家の者にてきぱきと指示しているのを由梨絵は困惑した
表情で見ていた。が、それも……

 「どうした?嫌なのか?」
 と伯爵に再度迫られると、長続きはせず……

 「はい、そうします、おじ様」
 結局は妥協することになる。

 嫌なら嫌と言えばよさそうなものだが、当時の良家の子女は、
「はい、お父様」という言葉は教わっても「いやです、お父様」
という言葉は教わらないと揶揄されるほど、親には従順だった。

 実際、幼い頃の躾は庶民より厳しくて、教育、躾というより、
訓練を受けていると言ったほうが正しい日常生活なのだ。

 だから由梨絵のこんな対応も、当時の常識からすればそれほど
珍しいというわけではなく、当たり前と言えば当たり前だったの
である。

 男の子をまだ一度も自分の部屋に招きいれたことのない由梨絵
は、おじ様の決定に何だかがっかりした表情で立ち上がると……

 「こっちよ」
 目があった駿君に上から目線で指図する。

 「はい……わかった……今、行く……」
 駿君は慌てたような様子で菓子鉢の中に手を突っ込むと、今、
握れるだけのチョコレートをポケットにねじ込んで部屋を出た。

 すると、それを見ていた由梨絵に……
 「まったく、男の子って卑しいんだから。……もたもたしなで。
そんなの、後でおじ様に話せばもらえるわよ」
 叱られてしまった。

 そこで、
 「じゃあ、返してくる」
 と言うと……

 「もう、そんなことしないの。よけい恥ずかしいでしょう……
いいから、こっちよ」
 今度は呆れられてしまう。

 駿君と由梨絵は同学年だが、由梨絵の方がお姉さんみたいだ。
 駿君はしょんぼり彼女の後に着いて行く。
 薄暗い廊下を右に左にと折れ、由梨絵の部屋はその突き当たり
だった。

 「入っていいわよ」
 ドアを開けると南向きの窓から明るい日の光がさして来る。

 初めて入る同年代の女の子の部屋。
 部屋に足を踏み入れた瞬間、何だか良い香りがしたみたいだけ
ど、駿君の顔はちょっぴり不安そうだったのである。

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

最新記事

カテゴリ

FC2カウンター

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR