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(1/28)   先頭シートの特等席

(1/28)   先頭シートの特等席

 私がお世話になったバスの営業所からは五系統ほどの路線が出て
いたが、そのうち四路線は田舎の中では比較的人口の密集した場所
つまり田舎の中の都会へ行くバス。都会へ出ていくのにポンコツじ
ゃ恥ずかしいということだろうか、この四路線には親会社から比較
的新しい機種が常に導入されていて互いの性能を競うようかのよう
に走っていた。

 とりわけ私が通学に利用していた路線は一年と言わず半年に一台
くらいもすると新車がおりてくるから田舎の中では花形路線だった
のだろう。営業所住まい(?)の私はその役得として、一般乗客に
先駆けてぴかぴかの車内に一番乗りすることが許されていた。特に
一番前にある二人がけクロスシートは私の寝室にもなるシートで、
私は普段からその座り心地や寝心地をつねにチェックしていたので
ある。私が電車よりバスを好んだのはこのためだった。

 この先頭部分、今のバスでは前ドアの部分にあたるため存在しな
くなったが、当時は車掌さんが乗りこんでいたせいで出入り口は真
ん中に一つあればよく、運転席と同じ並びの先頭部分は乗客用の座
席になっていたのである。

 ここに本来なら大人二人が座れるはずだが、私の乗るバスだけは
仕付けのなっていない不届きな幼児が一人で占拠していたため席が
一つ少なくなっていた。(^^ゞ

 私はそのクッションのきいたシートをトランポリン代わりにして
遊んだり甲高い声を張り上げて運転手さんと雑談したり、ベッドと
しても使っていたがそんな不作法を一般のお客さんが注意したこと
は一度もなかった。今なら苦情が会社に来てその運転手さんは怒ら
れていたかもしれない。

 私のこうした交友を今の人たちは作り話だと思っているかもしれ
ないが、昭和の30年代の頃というのは、たとえ規則は今と同じで
もその運用は大変おおらかで、今のように乗客の苦情一つで即クビ
なんて事にはならなかった。
 ま、始末書ぐらいですんだはずである。

 ところがそんなある日のこと、たった一度だけだが、詰め所の中
に私が入れないことがあった。小雨の降る冷たい朝で、私はその日
も当然のごとくストーブの明かりが見える小窓を叩いたが、中から
の反応は意外にも冷たいものだった。一人の運転手さんがしーしー
っと私を追い払おうとするのだ。

 理由が分らぬまま部屋の奥を覗き込むと、何やら偉そうな人が仁
王立ちになって声を荒げている。よく分からないが今は駄目という
ことはわかった。
 しばらく待って、それでも訓辞が終わらないから始発の停留所へ
向かってとぼとぼ歩き出すと、いつものバスがさっと私の足下に横
付けて……
 「乗れ、坊主!」


神社への階段 <小>
注)写真は記事とは無関係です。

(1/29) ボンネットバス

(1/29) ボンネットバス

 その日私は駐車場の隅にぽつんと置かれたボンネットに目を留め
る。普段なら「なんだボロバスかあ」で終わりだが、その日に限っ
ては、まるでそのオンボロバスが私を呼んでるような気がした。

 今でこそどこにもいなくなってしまったからみんなで「懐かしい」
なんて言って乗りに行くけど、当時の常識ではボンネットの走る処
はど田舎。

 「お前んとこまだボンネットかよ」なんてバカにされたもんだっ
た。

 営業所で見かけたこのバス、型式も古そうだし、いつ見てもタイ
ヤやボディーが泥だらけ。エンジンを掛けると人一倍黒い煙を出す
し、走り出す瞬間も、「おや壊れたんじゃないか」って心配するほ
どもの破裂音をまき散らさないと走り出さない。

 そんな引退寸前のバスがある時から気になって仕方なくなったの
である。

 そこである日とうとうお小遣いをためて終点まで行ってみること
にした。いや、一区間だけならすぐにでも乗れたが、それじゃ歩い
ても行ける処までしか乗れないから、降りたところで見慣れた風景
でしかない。それじゃあ、つまらないと考えたのだ。

 でも、案の定というか、町を離れた処で車掌さんに声をかけられ
た。

 「おい坊主、今日はどこへ行く。あんな田舎におまえ知り合いで
もいるのか?」

 こちらから見れば見かけない人だが、何しろ営業所管内では有名
人だからすぐにわかってしまうのだ。

 「何にもないよ。このバスに乗りたかっただけだから」
 「このボロにか?物好きだなあ、おまえ」
 「だって珍しい形してるから」
 「珍しい?…そうか、お前、知らないんだ。昔はバスっていった
らみんなこんな形してたんだぜ。お前、バスって始めからマッチ箱
みたいだって思ってたんだろう。そう言やあ、こいつもそろそろ廃
車になるって言ってたなあ。あそこもついに田舎から卒業ってわけ
だ。めでたし、めでたしだな」
 「帰りのバスはいつ出るの?」
 「向こうに着いて10分後。おまえ、どうせ行って戻って来るだ
けだろう?」
 「うん」
 「だったら、そのままここに乗ってな。誤車扱いにしてやるから。
無駄に小遣い使うことないだろう」

 こんな会話があって、向こうに着いたらほんのちょっと散歩して
同じバスで帰ってきた。それだけの旅だがこれが不思議に楽しい。
でも料金はちゃんと払ったよ。そういう事だけはきっちりしている
質屋の息子だったのである。

(1/30)      書斎

(1/30)      書斎

 私の家は例の学校からはかなり離れた処にあって、子供の足だと
電車バスを乗り継いでもゆうに1時間はかかった。この1時間とい
うのが大事で、当時の学校の内規ではこれ以上遠い処からは通えな
いことになっていたのである。

 このため母は最初だけでも学校近くにアパートを借りて近くに移
り住もうかなどと本気で考えていた。

 でも、そのもくろみをうち砕いたのが、私の無類のバス好き電車
好きだった。私は「バスや電車に乗れないんなら学校へは行かない」
とさえ言い放ってだだをこねたのである。

 ただ、最初の頃は時間がかかってもすべてバスで通した。電車を
利用すると早くは着くのだが、2回も乗り換えが必要でまとまった
自分の時間が取りにくいから困るのである。

 実は私、幼稚園当時から『バスや電車の中が一番心安らぐ』とい
う不思議な少年だった。母も、教師も、友だちも…それら人たちが
ことさら嫌いというのではないのだが、そばにいるとうざったい気
がして一人でいられる時間がほしかったのである。
 (だから孤立児なんて言われてしまうのだが……)

 もちろん何度も述べているように運転手さんや車掌さんとは仲良
しだった。だから何かやってるとすぐにちゃちゃを入れてくる事も
多かったが、乗客が残り数人となる地元営業所近くにならなければ
お互いおしゃべりはしないという不文律はできあがっていたから、
それはそれほど気にはならなかった。

 私はこの狭い空間で宿題をし、絵を描き、小説を書き作曲までし
ていた。いわばここが私の書斎代わりだったのである。この書斎で
過ごす40分間が私には貴重だったのである。自宅近くの営業所か
ら出る最も長い路線で終点まで乗って行き、そこで別の路線に乗り
換えて15分。さらに歩いて10分。

 今にして思えば一時間半もかけてよく通ったなあと思わないでも
ないが、何事も慣れの問題で通っていた当時はそれほど苦痛を感じ
たことはなかった。それもこれもこの激しく揺れる狭い書斎あって
のことだったのかもしれない。

 当時は私の街から遠くの学校へ通おうなんて物好きは我が家だけ
だったから物珍しさもあったのだろう。狭い管内だけの話だが、私
は常にアイドルだった。

 ところが、四年生になると私の前にライバルが現れる。私の指定
席にもう一人同じ制服を着た少年が無遠慮にも隣に座るようになる
のだ。こいつは、私と名字が同じということもあって最初から妙に
馴れ馴れしく初めは邪険にしていたのだが、そのたびに「ほら兄弟
なんだから」と車掌さんに言われて仕方なくそばにおいてやること
にした。

 しかし、何より不満だったのは彼の方が私より数段可愛いという
事。たちまち車内アイドルの座は何も知らない弟に奪われてしまっ
たのである。

(1/31) ローカル列車 

(1/31) ローカル列車

 私はマニアというほどではないが鉄道が好きな少年だった。それ
も最新鋭の機種には興味がなく、廃線寸前の鉄路をボロボロの車両
がノタノタと走る姿に憧れを持っていた。

 私が人生最初に手にしたカメラは子供にはちょっと贅沢な質流れ
品だが、これで撮った写真は鉄道の写真かその沿線の風景。それも
ローカル線と汽車ばかりだった。新幹線が開通したというので、父
に連れられてわざわざ東京まで乗りに出かけたが、結局「撮るもの
がなかった」という理由でとうとう一枚もシャッターを切らなかっ
たという変わり種である。

 その思いは小四のノートにあった。

 『こいつ(新幹線)は20年も30年もここを走り続けるだろう。
ならば、今乗らなくたってなくなりやしない。でも、赤字続きのロ
ーカルは、来年もここを走っているとは限らないじゃないか。今、
そこにわき起こる風を、今この車窓で受けとめて、感じられる生気
を大事にしよう。今しかないこの時を。どちらへ先に行くべきか、
そんなのあきらかだ』

 世間知らずの坊やの筆が踊っている。でもそれは当時の正直な気
持だろう。古い電車や汽車、ディーゼルなんてものは武骨で仰々し
くておよそなめらかという言葉からはほど遠い存在だが、それだけ
にどこか人間臭く、いかにも『お前のために働いてるぞ』って姿勢
に好感がもてたのである。

 私は生身の人間にはヒューマニティーを求めないくせにそんなも
のがないはずの機械にはこれを求めるのである。

 こんなこと書いてるとさぞ本人も他の子のために骨を折ったんだ
ろうなあ、なんて邪推されるといけないのであえて断っておくが、
当時の私は同世代の子供達と比べてもそんなにヒューマンな人間で
も徳の高い聖人でもなかった。

 それが証拠に、いつも見栄を張って学級委員の選挙に出たりする
が底の浅い人間性を見透かされて同性の票はいっこうに伸びない。
 いつも女の子の票でかろうじて当選していた。

 ちなみに、うちの県は恐ろしく男尊女卑の色彩の強いところで、
文部省が『男女二人の学級委員を選出』と書いてよこすと、勝手に
それを解釈、正副をこしらえて、事実上、男が正学級委員、女が副
学級委員になるよう人事配置していた。だから本来なら私がすべて
にイニシアティブを取らなければならないのだが、私は生来責任感
に乏しく日常の大抵の仕事は副委員長に任せっぱなしだった。

 むしろ話は逆で、不徳の固まり煩悩の固まりみたいな人間だから、
ヒューマンなものに憧れるのかもしれない。


電車<赤>
注)写真はこの記事とは無関係です。



Appendix

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tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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