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(1/19)      タバコ屋

(1/19)      タバコ屋

 私という男は不思議な人で同世代の子供とはあまり遊びたがらな
かったが、大人たちは総じて好きであまり人見知りしなかった。声
をかけられれば誰でも愛想良く応じ、彼が好む話題に話を合わせる
器用さも心得ていた。

 何のことはない太鼓持ち芸なのだが、おかげでおもらいは多く、
これも母親の影響だなあとつくづく感じるのである。

 ただそうは言っても人間関係の機微に通じていたというわけでは
ないから人を感心させるような話ができるわけもなく、人生相談に
乗れるわけでもない。もっぱら、どこからか仕入れたのか出所の怪
しい自慢話を得意げにぶちまけてはお茶を濁していたに過ぎない。
ま、それでも当時は大人と対等に口のきける子供が少なかったため
か重宝され悪意にとられることも少なかった。

 特に自宅近くのバス停前に店を構えるタバコ屋のお婆さんは四六
時中暇をもてあましてる(?)ということもあってか、母親とハツ
さんを除けば一番たくさんの自慢話を聞いてもらった一人だ。

 その代償が毎度毎度5円のあめ玉一つでは商売に張り合いもでな
いだろうが、お婆さんも幼い私の話をさも興味深げに聞いてくれた
からこちらも調子に乗って時に30分も赤電話の前で話し続ける事
があった。

 「そうかい、それじゃあ気いつけて帰りなさいよ」

 最後はそう言って送られ、あめ玉をしゃぶって家の方へ向かえば
私の仕事はそれでおしまいなのだが、実はこのお婆さん、その後に
大事な仕事を抱えていたのである。

 私は前にもお話したとおり物心ついた頃から何かにつけてバスで
の通学を余儀なくされていた。このため、親も一応はそのあたりは
心配したのだろう、私が立ち回りそうな場所にはスパイを配置して
常にその動静を監視していたのだ。そして私がその場所を通過する
時間を見計らっては各スパイの処へ電話をかけ…

 「坊ちゃん今この前を通られましたよ」
 という声を聞いては安心するという日々だった。
 だから途中どこかで寄り道なんかしようものなら、玄関先で角の
生えた母と対面しなければならない。当初は、なぜこんな事が母に
ばれているのか不思議でならなかったのだが、それを教えてくれた
のがこのお婆さんだったのだ。

 その日私はいつものようにひとしきりお婆さんとお話して別れた
のだが、すこし話し足りないことがあって戻ってみた。
 すると、お婆さんが目の前の赤電話で誰かと話している。

 「坊ちゃん、今しがた帰られましたよ」
 というお婆さんに、受話器越しだが
 「いつもすみません」
 という何やら聞き覚えのある声が……

 『えっ、このばあちゃん、お母さんのスパイだったのか!』
 人生の厳しさを知った瞬間だった。

(1/20)       定期券

(1/20)       定期券

 私は物後心ついた頃からバス通いをしていたから当然バスの定期
は必需品だった。だったのだが不思議とこの有り難みをあまり感じ
たことがなかった。

 当然なきゃいけないものだが、持ち歩くにはちょっと恥ずかしい
ものなのだ。
 というのも、母親がこの定期券を紐につなげてランドセルにくく
りつけるからで、これが嫌で嫌で仕方がなかった。

 母親は何も特別な事を強制したわけじゃない。今でもごく普通に
見かける小学生の通学風景と同じなのだが、これが私には快くなか
ったのである。

 そもそも定期券というものは財布と同じようにポッケットの中で
独立して存在し、その瞬間、必要に応じて「サッ!」と取り出され
なければならない。
 かように考える時、紐やチェーンなどという無粋な物は存在して
はいけなかった。

 もちろん、
 「何言ってるの!だって、なくすでしょうが!」
 と言う母の言い分はまったくもって正しい。
 まったくもって正しいのだけれど、それは私の美学が許せなかっ
たのである。

 なぜって、大人はそうやって定期券を持ち歩いていないから。

 『大人のように振る舞いたい』常日頃そう願ってやまない少年に
とって、紐着きの定期券は子供の象徴。恥ずかしく惨めな存在だっ
たのだ。

 ならば、当時の私はそんなに大人に見えたのか。
 とんでもない。背が低く額が広く、細い足が股上の短い半ズボン
からにょっきりと生えていて、どこからどう見ても子供そのもの。
しかも何かというと独りよがりな意見をまくし立てるもんだから、
その甲高い声が後頭部へ突き刺さる瞬間は大人たちがこぞって眉を
ひそめたものだったが、本人はいたってまじめに、自分は大人と同
じだと信じていたのである。

 だから道で挨拶する時も、「こんにちわ」と穏やかにこちらが話
しかけたにもかかわらず、相手が「よっ、坊主、元気か!」なんて
頭を鷲づかみにしようものなら、とたんに機嫌が悪くなって、横を
向いてしまうというありさまだった。

 今も昔も小学生相手に「よっ、坊主、元気か!」と言ってみたと
ころで、何ら問題はないはずだが、『天狗の鼻が隣町まで伸びてる』
と評される私にとってそれは侮辱されたのと同じ感覚だったのであ
る。

 最後に、私は定期券を他の子より数多くなくしたかもしれない
が、それでもとうとう見つからなかったという事態に立ち至るの
は年に数回(^◇^;)程度。大半はその日のうちに見つかるのだから
……と、いたってのんきに構えていた。

 とはいえ、どこまでも紐付き定期券を嫌がる私に母は最後まで
いい顔はしなかった。おかげで…

 「もう、定期は買ってあげないからね」
 と、こんな言葉を一学期に何回か聞く羽目になる。

 紐を切り取るためやむなくランドセルに穴を空けた時など母親
の嫌がらせより交通費は自腹(お小遣い)で学校へ行かされた事
さえあったのだ。どうもこのあたり女には男の美学というものが
分かりかねるようだ。

(1/21)       質屋

(1/21)       質屋

 私の実家は質屋だった。質屋というと今の人たちは中古ブランド
品を売りに行く処だと思っているようだが、私がまだ子供だった頃
は質草と呼ばれる品物を担保に差し出してお金を借りる場所だっ
た。つまり、品物がいるサラ金みたいな処だったのである。

 このため、お客さんは持ち込んだ品物を1円でも高く値踏みして
もらって、より多くのお金を貸してもらえるようにと店主とやりあ
ったのである。勿論、借りたお金を返して差し出した質草を返して
もらうというのが本来の姿だが、なかには始めからその品物を処分
する気で借りたお金をそのままにする人も多かった。だから、差し
出された質草の値踏みを間違えて高いお金を貸してしまうと店側は
大きな損を被ることになったのである。

 そんなある日のこと、ある人が見かけないメーカーの腕時計を持
ち込んだことがあった。その時店番をしていた父はその時計を興味
深げにあれこれ調べていたがとうとうどのくらい価値があるかわか
らない。
 そこで『ちゃんと動いているし500円ならどのみち損はないだ
ろう』と考えて「500円でよければ」と言うと、そのお客さんは
「いくら何でもそりゃあ安いよ。もっと出してよ。まがりなりにも
動いてる腕時計なんだよ」とは言ったもののそれほどしつこく絡む
でもなく結局は父が提示した500円で手を打って帰っていった。

 実は私もその時点で、『おかしいな?』と思っていたのである。
私の父親というのは、商売人にはおよそ向かない気の小さな人で、
お客にすれば泣いても脅しても言いなりにお金を出しそうだと侮ら
れていたところがあった。だから500円だなんてこと言われたら
もう一押し粘るのが普通だったのである。
 現に名うてのお客たちは母が稽古事で店を離れる時間を知ってい
て、その時間になると店の前にたむろしていた。そして母が店を出
たとたん、店には常連さんによって行列ができたのである。

 父はたしかにこの店の店主に違いはなかったが店を実質的に経営
していたのは母で、もしこの母が商売から手を引いたら店は半年と
存続していないに違いなかった。ま、そんな事情だからそれは仕方
がないのだろうが母は父を見下しているところがあった。

 この時も、父が預かった腕時計は最近アメリカが大量生産に成功
して売り出した1ドル時計というもので当然売価は360円。
 数日前に質屋組合から注意書きが回されていたのだが、およそ商
売に熱心でない父はそれを読んでいなかった。

 この時、母が軽蔑した表情でその注意書きを父の面前に放り投げ
たのを今でもはっきり覚えている。我が家は始めから典型的なかか
あ天下だった。

(1/22)      母の結婚

(1/22)      母の結婚

 今の人たちは、結婚とは好きになった者同士が合意して行うもの
だと思っているかもしれないが、少なくとも私の父母の世代までは
本人同士の意思というのはあまり関係なかった。

 親同士がその利害関係から相手を決めていたケースも多く、私の
両親の結婚もまさに家同士の打算の産物だった。もちろん、二人が
結婚したのは戦後のことだが、それでも当時結婚について何が最も
重要かといえば、まずは家同士の問題だったのである。

 私の両親の結婚もそうした政略結婚みたいなものだから、最初か
ら二人のうまがあっていたわけではなかった。つまり、好き嫌いで
言えばお互い相手が好きということではなかった。

 父方の事情は、男三人の兄弟のうち二人は有名大学を出ていて、
田舎に帰り質屋の継ぐ気がないということ。頼りにしていた番頭さ
んも店を継ぐより別の場所で独立したいという意向を持っていた。
さりとて、自閉症ぎみの親父では荷が重く、江戸時代から続く質屋
は存続をめぐり行き詰まっていた。そこで祖父は商売のできそうな
娘を親父に嫁がせて実質的にその人に跡をついでもらおうと考えた
のである。
 もちろん、彼女が男の子が産んでなるべく早くその子が跡を継い
でくれることも期待していたに違いない。

 一方、母方の方は、海運事業を営んでいた両親に早く死に別れた
母たち兄弟は長兄を中心に規模を縮小してトラック運送と石油販売
だけで商売を続けていたのだが、伯父(長兄)がまだ大学を出たて
で経験不足ということもあり、銀行がなかなかお金を貸してくれず
資金繰りに苦しんでいた。
 そこへ私の祖父が母の評判を聞きつけて乗り込み。当時兄を手伝
っていた母の商売ぶりをみて、これならやれるとふんで親代わりだ
った長兄に話を持ち込んだのである。

 当初、長兄は「まだ何一つ女らしいことをさせていないから」と
断ったが、祖父が「家事なんてものは女中にやらせればいい」と言
って口説き落としたらしい。当然、多額の支度金が父方から出たの
は間違いない。おまけに最初から家事一切はできないものとしてお
嫁に来ていたから本人もそのことには引け目も感じていないようだ
った。
 ま、それでもへこむ人はいるだろうが彼女の場合は平気だったよ
うだ。

 つまり母にとってこの結婚は一つビジネスとしてとらえている節
があった。つまり多額の支度金の代わりに旧家でもある質屋の家を
守り男の子を産んで彼に跡を継がせる。そんなギブアンドテイクで
この結婚を考えていたようだった。
 だから私を育てるというのも愛情というより一種の義務だったの
である。

Appendix

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tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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