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(1/11)        お灸

(1/11)        お灸

 今はもうある程度の年輩者でなければあの熱さは覚えていないだ
ろうが、お灸のお仕置きというのは、それ自体一種の虐待で、豆腐
屋のお婆さんが言うように一度やられただけでも生涯忘れられない
ほどのショックだった。
 とにかくこのお仕置き、熱いというのを通り越して痛いというの
が実感ですえられた処に穴が空くんじゃないかと心配するほどだっ
たのである。

 だから、母の「そんなことしてるとお灸にしますよ」という一言
で大概のことは白旗をあげることになる。まさに一罰百戒の効果あ
りというわけだ。

 もっとも、これも人によるらしく、私は従順で扱いやすいタイプ
の子供だったから、一度で懲りて二度とお灸のお世話にならなかっ
たが、弟は肝っ玉が据わっていたとみえて、親の折檻も二度三度と
続き、とうとうケロイド状の痕がお尻やお臍の下にまで残ってしま
った。
 本人がそのことを気にしている風がないのが幸いだが、女の子と
なると、やはりそこは親も気にして男の子と同じようにあたりかま
わずお灸をすえることはなかった。刑を執行する時も、なるべく目
立たぬ処へ艾も小さいもので間に合わすというのが普通だったよう
である。

 とはいえ、女の子にだってこの体罰が存在したのも事実。今では
驚きだろうが、子供の頃の私はそんな女の子たちの修羅場を幾度と
なく垣間見ている。なかにはわざわざ私を部屋に上げて見学させる
親さえあった。そんな社会風土だから家の中ではもっと過激なこと
が行われていたのかもしれなかったのだ。

 これはあくまで豆腐屋の婆さんが井戸端で話していたことだから
真意の程は分からないが、私の家の裏庭と庭続きになっているお宅
の一人娘(当時は小学四年)が女の子の最も大事な処にお灸をすえ
られたというのだ。その時は自分も行きがかりからその片棒を担い
でしまい気にしていたのだが、今はその痕も治ってほっとしている
という懺悔とも自慢話ともつかない事後報告を母にしにきていて、
それを私が立ち聞きしてしまったのである。

 実際、その家ではよく子供が親に叱られて泣き叫ぶ声が庭づたい
に我が家へも伝わってきていて、『それも、あながち……』と感じ
られたのである。
 もちろん我が家だって天国じゃない。さっき述べたお灸は仏壇の
引出しに常備してあったし、物差しで手足を叩いたり、納屋や押入
への閉じこめ、家から閉め出し、変わった処では、目的はあくまで
医療用だがお浣腸の際、過去の失敗をうじうじと蒸し返すなんての
まで。
 これなんか親しい関係だからできる親子の戯れみたいなものなん
だろうけど、今のように親子がうわべだけの愛情になってしまうと
「そんなの虐待じゃん」の一言で片づけられてしまう。寂しい限り
だ。

(1/12)     お仕置き指南

(1/12)     お仕置き指南

 この豆腐屋の婆さんは実に世話好き話し好きだった。学歴なんて
なかったがやりて時代に培った豊富な経験と知識は母を始めとする
当時の若妻たちには人気があって何かと知恵をつけてまわっていた
のである。

 お灸を子供のお仕置きに使ってみなさいとそそのかしたのも恐ら
く彼女に違いない。だから典子(仮名)ちゃんのお母さんをたきつ
けたのも恐らく……と思えるのだが、もちろん今となっては証拠の
ある話できない。

 実はこの婆さんの話には尾ひれがつくことが多く、そのあたりは
人として欠点とみるべきかもしれないが、そんなことは承知して、
母はこの婆さんとつき合っていた。

 そもそも女の井戸端会議というのは、常日頃から真実だけが語ら
れている場ではない。とりわけ私の田舎は多くの芸能人を輩出して
いることからもわかるように、虚実取り混ぜておもしろ可笑しくそ
の場を盛り上げることが友だちづきあいの条件で、たとえまことし
やかに話した内容が嘘で、その話に乗せられて損をしたとしても、
当人を責めないのが暗黙のルールとなっていた。つまり幼い頃から
芸能人になるべく訓練を積んでいたのである。

 まして婆さんはその昔遊郭の「やりて」だったわけで、男の心理
から色恋のテクニック、家事のやり方に至るまで、まだ人生経験の
浅い若妻たちを手玉にとることぐらいぞうさなかったに違いない。
 そんな彼女が足抜けをした遊女を折檻した時の話なんかはけっこ
う凄みがあって私がその後SM小説なぞを戯れに書いたときのネタ
本になっている。
どうやら典子ちゃんもそんな婆さんの術中にはまって悲劇をみたよ
うだった。

 それはともかく、この時代の親というのは典子ちゃんに限らず女
の子でも平気でなぐっていた。子供が多かったせいもあるだろうが、
夕暮れ時に町内を一周すると親の罵声と子供の泣き声が必ずセット
で聞こえてきたものだ。

 しかし、私はその時代を子供として生きて感じるのだが、当時の
親が今の親より子供を可愛がっていないとは思っていない。時代が
違うし価値観だって違うから一概に比較はできないが、少なくとも
その子を家族の一員として処遇していた点では今の親より優れてい
たと思うのだ。

 多くの子供が家の経済事情を知っていたし、綺麗事抜きに誰もが
ヒーローになれない現実も悟っていた。父親は強く、まずはその壁
を乗り越えなければ何事も始まらないことも承知していた。
 ペットならいずれも不要な素養だが。

(1/13)       軽便鉄道

(1/13)       軽便鉄道

 今はもう駅舎も線路も鉄橋も跡形すら残っていないが、私が子供
の頃まで街のはずれには軽便鉄道が走っていた。単行(一両編成)
の小さな電車で、朝夕を除けば車内はいつもガラガラ。緑豊かな田
園風景をトコトコと走る姿は私のお気に入りだった。

 私は子供の頃から不思議な少年で、何でも古いものが好みだった。
電車は新幹線よりローカル列車、飛行機もジェットよりプロペラ、
バスだって新型車両が来ると次を待って来年廃車と決まったポンコ
ツを選んで乗っていた。
 この軽便鉄道もピカピカの新造車両が走っていたら、たいして興
味がわかなかったに違いない。

 私は一週間分の小遣いを貯めると、日曜日はこの電車に乗って過
ごした。母には半ば住み込んで家事をしていたおばあさんの実家が
その沿線にあったからそこを尋ねるという大義名分を掲げて出かけ
ていたが、その実、おばあさんの家へ立ち寄ることはあまりなくて、
お気に入りの電車に乗ってお気に入りの場所に降り立ちお気に入り
の夕焼けを眺められればそれで満足だったように思う。

 おばあさんの家へ寄らないのは、彼女が嫌いだったからではなく、
行けば長い時間そこで足止めをくってしまうからで、私にしてみれ
ば小さなボタ山から眺める田園風景、とりわけ藁葺き屋根の向こう
に落ちる夕日が美しくて、何も考えずごつごつと寝心地の悪い山の
上で帰りの電車が来るまで何もせず寝ていた。
 私にとっての軽便鉄道はこれもまた癒しの旅だったのである。

 子供にしては随分すがれた趣味と思われるかもしれない。
 たしかに、私はどうも子供らしいはつらつさに欠けるところがあ
ったようで同年代の子供と遊ぶより、少し上の世代と一緒に過ごす
時間が長かったし、それが大人でも老人でも私的には何ら差し支え
なかった。
 もちろん相手方にしてみれば小うるさいチビ助につきまとわれて
迷惑千番だろうが、そんなことも含めて私はこうした目上の人たち
に取り入るすべを自然と身につけていったような気がする。

 とにかく、直情的で無礼な振る舞いの多い同年代より、理性豊か
で自分の知らない事をあれこれ教えてくれる年上の方がそばにいて
心地よかったのは事実で、それが叶わない時に訪れるのがこの軽
便鉄道、そしてこのボタ山だったのである。

(1/14)       母親

(1/14)       母親

 前にも一言述べたが、私の母親は大変に気位の高い人で、人を見
下すようなところがあって子供ながらいつも心配していた。本人に
悪気はないのだが、戦前は今以上に身分社会が色濃く残っていた
から、家の格だとか男女の役割の違いといったものが今以上にうる
さかったように思う。
私がバス通学を強いられたのも、教育熱心というより家の格から
してそこらの子供と同じ学校ではおかしいという思いがあったから
に違いなかった。

 こう言うと、母が何だか世間知らずで周囲から孤立していたよう
に聞こえるかもしれないが、実は彼女、気位が高い反面、仕事には
熱心で、娘時代にこなした習いごとのつてを頼ってその稽古場など
で流通品の展示即売会などを開いては家計を助けていたのである。
 そんな時の母は普段の気位もどこへやら『私は根っからの商売人
でございます』と言わんばかりに愛想をふりまく。決して媚びては
いないのだが、一度掴んだ客は逃がさなかった。

 もっとも母の頑張りには、父親がお人好しで商売に不向きという
我が家の特殊事情もあった。おかげで父は母にまったく頭が上がら
ずじまいで、巷では「あそこのご主人は婿養子かしら」なんて囁か
れていた。

 そんな事情もあってか母は自分が稼いだお金を自由に使い生活を
エンジョイしていた。もともと家事らしい家事は何一つできない人
だから稼いだお金でお手伝いさんや子守さんを雇い、余ったお金は
自分の衣装や子供たちの教育費へと消えていったのである。

 遠足のお弁当にしても、運動会の玉入れ用のお手玉作りも、図工
の時間に着る割烹着だって、我が家においては、すべてはハツさん
(お手伝いさん)の作品なのだ。それを「お母さんはお裁縫が上手
なのね」なんて事情を知らない人に褒められると、私の方がどこか
気恥ずかしい気分になるのだった。

 しかし、母にそんなことを話してみても気にとめている風はさら
さらなく、たまにケーキ作りなどに挑戦したこともあったが、普段
の家事さえまともにできない人にできるわけがなくそれを冷やかす
と、「そんなの商売にしてる人がやればいいのよ。人は向き向きの
仕事をすればいいの」と言ってはばからなかったのである。

 結婚してもどこか娘っぽいところがあった人で、衣装は子ども達
の分も含めデザイナーにデザイン画を送ってオリジナルの一点物で
揃え、スリッパのある暮らしがしたいと言って純然たる日本家屋を
改築して不思議な洋間を増築したりもした。
 今なら何でもない事も当時はひんしゅくものということも多くて
ご近所の奥さんたちからは「まるで娘さんみたい」と陰口を叩かれ
ていたのだが、生来の向こう気の強さと明るさで乗り切っていた。

 ちなみに貯金なんてケチくさいこともしない人だったから家計は
いつも火の車で、実家から毎月のように借金をしていのは、幼い私
ですら知っていたことだった。

(1/15)       酒屋

(1/15)       酒屋

 私の家の近くに酒屋があった。純然たる酒類販売だけでなくカウ
ンターだけの一杯飲み屋も兼ねていたから、日が暮れてからは男た
ちの歓声や癇癪やざれ歌なんかが店の外まで飛び出し店内は酒臭
くてそりゃあ賑やかだった。

 賑やかというより猥雑だったというべきかもしれない。けれど、
不思議に母はこの店へ私が足を踏み入れる事にはそれほどヒステリ
ックではなかった。
普段の彼女の言動からするとこういった処へ子供、それも幼稚園児
が出入りすることを快く思うはずないのだが、ここの酒屋がご近所
で、奥さんが友だちで、何より商売上のお得様ということがあった
のだろう。さしてためらいもせずに父の寝酒を買ってくるよう私に
命じることが多々あった。

 幼稚園児に一升瓶は重くよたよたして帰りかけると、酔った男達
が酒のつまみ代わりに私に声をかけてくる。たいてい無視するのだ
が、その日はなぜか心地よさそうに酔っているおじさんの懐へ飛び
込んでしまった。
 意外な珍客におじさんは自分で誘っておいて一瞬驚いた様子だっ
たが私が愛想良くしているとご機嫌になって、周囲の友だちと一緒
にしきりに自分の呑んでいた酒を勧めるのだ。

 そして、そのコップに残った僅かなお酒を舐めてみると、これが
けっこういけるのである。
 「お~、おまえいける口だな。よし、もう一杯いこう」
 おじさんはさらに機嫌がよくなって今度は一㎝ほど注いでくれ
る。
 で、これを飲み干すと次は二㎝。さらにその次は三㎝とメートル
が次第次第に上がっていく。が、なにせ相手は幼稚園児だから酔い
つぶすのに時間はかからなかった。
 しまいにはすっかりできあがってしまいその場に立っていられな
くなって店の土間で大の字になってしまった。天井はぐるぐる回っ
ていたが何と心地の良いことかという快感だけは今でも心の奥底に
残っている。

 「あんたら何やってるんだ!」
 聞き覚えのある声を夢の彼方で聞きつけて、どうやらこの辺りで
店の主人が気がついたようで、急性アルコール中毒にはならずにす
んだが、これを聞いた父親の怒るまいことか、普段は家の中で借り
てきた猫のように存在感のない人が、この時ばかりはそのおじさん
の胸ぐらを掴んでなぐりかかろうとしたのだから、親とはありがた
い(かな?)ものである。

 今だってそんな居酒屋や一杯飲み屋は全国に五万とあるだろう
が、そんな場所も今ではみんなが大人しくなってしまったような気
がする。

Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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