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(1/21) 質屋
(1/21) 質屋
私の実家は質屋だった。質屋というと今の人たちは中古ブランド
品を売りに行く処だと思っているようだが、私がまだ子供だった頃
は質草と呼ばれる品物を担保に差し出してお金を借りる場所だっ
た。つまり、品物がいるサラ金みたいな処だったのである。
このため、お客さんは持ち込んだ品物を1円でも高く値踏みして
もらって、より多くのお金を貸してもらえるようにと店主とやりあ
ったのである。勿論、借りたお金を返して差し出した質草を返して
もらうというのが本来の姿だが、なかには始めからその品物を処分
する気で借りたお金をそのままにする人も多かった。だから、差し
出された質草の値踏みを間違えて高いお金を貸してしまうと店側は
大きな損を被ることになったのである。
そんなある日のこと、ある人が見かけないメーカーの腕時計を持
ち込んだことがあった。その時店番をしていた父はその時計を興味
深げにあれこれ調べていたがとうとうどのくらい価値があるかわか
らない。
そこで『ちゃんと動いているし500円ならどのみち損はないだ
ろう』と考えて「500円でよければ」と言うと、そのお客さんは
「いくら何でもそりゃあ安いよ。もっと出してよ。まがりなりにも
動いてる腕時計なんだよ」とは言ったもののそれほどしつこく絡む
でもなく結局は父が提示した500円で手を打って帰っていった。
実は私もその時点で、『おかしいな?』と思っていたのである。
私の父親というのは、商売人にはおよそ向かない気の小さな人で、
お客にすれば泣いても脅しても言いなりにお金を出しそうだと侮ら
れていたところがあった。だから500円だなんてこと言われたら
もう一押し粘るのが普通だったのである。
現に名うてのお客たちは母が稽古事で店を離れる時間を知ってい
て、その時間になると店の前にたむろしていた。そして母が店を出
たとたん、店には常連さんによって行列ができたのである。
父はたしかにこの店の店主に違いはなかったが店を実質的に経営
していたのは母で、もしこの母が商売から手を引いたら店は半年と
存続していないに違いなかった。ま、そんな事情だからそれは仕方
がないのだろうが母は父を見下しているところがあった。
この時も、父が預かった腕時計は最近アメリカが大量生産に成功
して売り出した1ドル時計というもので当然売価は360円。
数日前に質屋組合から注意書きが回されていたのだが、およそ商
売に熱心でない父はそれを読んでいなかった。
この時、母が軽蔑した表情でその注意書きを父の面前に放り投げ
たのを今でもはっきり覚えている。我が家は始めから典型的なかか
あ天下だった。
私の実家は質屋だった。質屋というと今の人たちは中古ブランド
品を売りに行く処だと思っているようだが、私がまだ子供だった頃
は質草と呼ばれる品物を担保に差し出してお金を借りる場所だっ
た。つまり、品物がいるサラ金みたいな処だったのである。
このため、お客さんは持ち込んだ品物を1円でも高く値踏みして
もらって、より多くのお金を貸してもらえるようにと店主とやりあ
ったのである。勿論、借りたお金を返して差し出した質草を返して
もらうというのが本来の姿だが、なかには始めからその品物を処分
する気で借りたお金をそのままにする人も多かった。だから、差し
出された質草の値踏みを間違えて高いお金を貸してしまうと店側は
大きな損を被ることになったのである。
そんなある日のこと、ある人が見かけないメーカーの腕時計を持
ち込んだことがあった。その時店番をしていた父はその時計を興味
深げにあれこれ調べていたがとうとうどのくらい価値があるかわか
らない。
そこで『ちゃんと動いているし500円ならどのみち損はないだ
ろう』と考えて「500円でよければ」と言うと、そのお客さんは
「いくら何でもそりゃあ安いよ。もっと出してよ。まがりなりにも
動いてる腕時計なんだよ」とは言ったもののそれほどしつこく絡む
でもなく結局は父が提示した500円で手を打って帰っていった。
実は私もその時点で、『おかしいな?』と思っていたのである。
私の父親というのは、商売人にはおよそ向かない気の小さな人で、
お客にすれば泣いても脅しても言いなりにお金を出しそうだと侮ら
れていたところがあった。だから500円だなんてこと言われたら
もう一押し粘るのが普通だったのである。
現に名うてのお客たちは母が稽古事で店を離れる時間を知ってい
て、その時間になると店の前にたむろしていた。そして母が店を出
たとたん、店には常連さんによって行列ができたのである。
父はたしかにこの店の店主に違いはなかったが店を実質的に経営
していたのは母で、もしこの母が商売から手を引いたら店は半年と
存続していないに違いなかった。ま、そんな事情だからそれは仕方
がないのだろうが母は父を見下しているところがあった。
この時も、父が預かった腕時計は最近アメリカが大量生産に成功
して売り出した1ドル時計というもので当然売価は360円。
数日前に質屋組合から注意書きが回されていたのだが、およそ商
売に熱心でない父はそれを読んでいなかった。
この時、母が軽蔑した表情でその注意書きを父の面前に放り投げ
たのを今でもはっきり覚えている。我が家は始めから典型的なかか
あ天下だった。
(1/22) 母の結婚
(1/22) 母の結婚
今の人たちは、結婚とは好きになった者同士が合意して行うもの
だと思っているかもしれないが、少なくとも私の父母の世代までは
本人同士の意思というのはあまり関係なかった。
親同士がその利害関係から相手を決めていたケースも多く、私の
両親の結婚もまさに家同士の打算の産物だった。もちろん、二人が
結婚したのは戦後のことだが、それでも当時結婚について何が最も
重要かといえば、まずは家同士の問題だったのである。
私の両親の結婚もそうした政略結婚みたいなものだから、最初か
ら二人のうまがあっていたわけではなかった。つまり、好き嫌いで
言えばお互い相手が好きということではなかった。
父方の事情は、男三人の兄弟のうち二人は有名大学を出ていて、
田舎に帰り質屋の継ぐ気がないということ。頼りにしていた番頭さ
んも店を継ぐより別の場所で独立したいという意向を持っていた。
さりとて、自閉症ぎみの親父では荷が重く、江戸時代から続く質屋
は存続をめぐり行き詰まっていた。そこで祖父は商売のできそうな
娘を親父に嫁がせて実質的にその人に跡をついでもらおうと考えた
のである。
もちろん、彼女が男の子が産んでなるべく早くその子が跡を継い
でくれることも期待していたに違いない。
一方、母方の方は、海運事業を営んでいた両親に早く死に別れた
母たち兄弟は長兄を中心に規模を縮小してトラック運送と石油販売
だけで商売を続けていたのだが、伯父(長兄)がまだ大学を出たて
で経験不足ということもあり、銀行がなかなかお金を貸してくれず
資金繰りに苦しんでいた。
そこへ私の祖父が母の評判を聞きつけて乗り込み。当時兄を手伝
っていた母の商売ぶりをみて、これならやれるとふんで親代わりだ
った長兄に話を持ち込んだのである。
当初、長兄は「まだ何一つ女らしいことをさせていないから」と
断ったが、祖父が「家事なんてものは女中にやらせればいい」と言
って口説き落としたらしい。当然、多額の支度金が父方から出たの
は間違いない。おまけに最初から家事一切はできないものとしてお
嫁に来ていたから本人もそのことには引け目も感じていないようだ
った。
ま、それでもへこむ人はいるだろうが彼女の場合は平気だったよ
うだ。
つまり母にとってこの結婚は一つビジネスとしてとらえている節
があった。つまり多額の支度金の代わりに旧家でもある質屋の家を
守り男の子を産んで彼に跡を継がせる。そんなギブアンドテイクで
この結婚を考えていたようだった。
だから私を育てるというのも愛情というより一種の義務だったの
である。
今の人たちは、結婚とは好きになった者同士が合意して行うもの
だと思っているかもしれないが、少なくとも私の父母の世代までは
本人同士の意思というのはあまり関係なかった。
親同士がその利害関係から相手を決めていたケースも多く、私の
両親の結婚もまさに家同士の打算の産物だった。もちろん、二人が
結婚したのは戦後のことだが、それでも当時結婚について何が最も
重要かといえば、まずは家同士の問題だったのである。
私の両親の結婚もそうした政略結婚みたいなものだから、最初か
ら二人のうまがあっていたわけではなかった。つまり、好き嫌いで
言えばお互い相手が好きということではなかった。
父方の事情は、男三人の兄弟のうち二人は有名大学を出ていて、
田舎に帰り質屋の継ぐ気がないということ。頼りにしていた番頭さ
んも店を継ぐより別の場所で独立したいという意向を持っていた。
さりとて、自閉症ぎみの親父では荷が重く、江戸時代から続く質屋
は存続をめぐり行き詰まっていた。そこで祖父は商売のできそうな
娘を親父に嫁がせて実質的にその人に跡をついでもらおうと考えた
のである。
もちろん、彼女が男の子が産んでなるべく早くその子が跡を継い
でくれることも期待していたに違いない。
一方、母方の方は、海運事業を営んでいた両親に早く死に別れた
母たち兄弟は長兄を中心に規模を縮小してトラック運送と石油販売
だけで商売を続けていたのだが、伯父(長兄)がまだ大学を出たて
で経験不足ということもあり、銀行がなかなかお金を貸してくれず
資金繰りに苦しんでいた。
そこへ私の祖父が母の評判を聞きつけて乗り込み。当時兄を手伝
っていた母の商売ぶりをみて、これならやれるとふんで親代わりだ
った長兄に話を持ち込んだのである。
当初、長兄は「まだ何一つ女らしいことをさせていないから」と
断ったが、祖父が「家事なんてものは女中にやらせればいい」と言
って口説き落としたらしい。当然、多額の支度金が父方から出たの
は間違いない。おまけに最初から家事一切はできないものとしてお
嫁に来ていたから本人もそのことには引け目も感じていないようだ
った。
ま、それでもへこむ人はいるだろうが彼女の場合は平気だったよ
うだ。
つまり母にとってこの結婚は一つビジネスとしてとらえている節
があった。つまり多額の支度金の代わりに旧家でもある質屋の家を
守り男の子を産んで彼に跡を継がせる。そんなギブアンドテイクで
この結婚を考えていたようだった。
だから私を育てるというのも愛情というより一種の義務だったの
である。
(1/23) 海草電車
(1/24) 制服
(1/25) 赤ん坊
(1/25) 赤ん坊
私を評するクラスメイトのお母さんたちのお世辞はたいてい決ま
っていた。
「しっかりした坊ちゃんで、とっても利発で、何より大人びてら
っしゃるからお母様も手がかからないでしょう。うらやましいわ。
うちの子なんて、ほら、まだこんなに甘えて。赤ちゃんがぬけない
から困りものだわ」
だいたいこんな言葉が母にかえってくる。だが、彼女自身はこん
な私への評価をどのよう受け止めていたのだろうか。ふとそんなこ
とを考えてみた。
お友だちのお母さん方の評価はあくまで外でみせる私の姿が基
準。しかし、私にとって外での姿はあくまで営業用のものであって
家の中でみせる人格は恐らく同級生の中でも一番赤ん坊に近かった
かもしれなかった。
実際、母親は勉強や習い事には熱心だったが、いわゆる仕付けに
は甘くて、自慢にならないからこれまで人には話さないできたが私
の部屋からほ乳瓶が消えたのが小学五年生の時。小学四年生頃まで
はお風呂におまるが置かれていた。何のためかというと、これが一
緒に入る母の前で用を足すのが好きだからというんだからとんでも
ない困ったちゃんである。小学六年生の頃でも母親の前でならフル
チンは当たり前。おチンチンもお尻の穴も母親からなら握られても
覗かれても何ら関係なかった。
昼間がそんな調子だから、夜だって当然のごとく母と同じ布団で
添い寝。母が私と添い寝しなくなったのが、13歳も終わりの頃。
これだって母が私を嫌ったというよりは私の方が何となく気まずく
なって別れたのである。
しかも、事はこれだけではない。
母は私を舐めて育てた。比喩的にではなく本当に事あるごとに舐
めていた。昼間はさすがに人目があるから指やほっぺぐらいなもの
だが、夜、布団の中ではどこといって体に制限がなかったような気
がする。小学校も高学年になれば性欲もまったくないわけではない
から何やら妙ちくりんな気分が体中を包みこんだことも一度や二度
ではなかった。
もちろん『近親相姦』だなんてそんなたいそうなものではないが
その入口くらいは母が手ほどきしたということになるのかもしれな
い。
子供なんだからマザコンは当たり前だろうが、それにしてもその
ラヴラブぶりは近所でも評判だったことだろう。やくざの親分の言
う『チンコロ』もそれはそれで的を得た表現だったに違いなかった
のである。
色んな事情からやむを得ず父と結婚した母にとって私はたんなる
息子以上の存在だったのかもしれない。それは父方の家に対しては
大事な商品であり、対社会的にはプライドの一部。そして内なる世
界ではペットでもあったのだ。
恋人?その一線は越えていないはずだが『抱き合えば言葉はいら
ない』というような関係ではあったような気がする。とにかく不思
議なそして強烈なインパクトを持った親子だったことに違いはなか
った。
私を評するクラスメイトのお母さんたちのお世辞はたいてい決ま
っていた。
「しっかりした坊ちゃんで、とっても利発で、何より大人びてら
っしゃるからお母様も手がかからないでしょう。うらやましいわ。
うちの子なんて、ほら、まだこんなに甘えて。赤ちゃんがぬけない
から困りものだわ」
だいたいこんな言葉が母にかえってくる。だが、彼女自身はこん
な私への評価をどのよう受け止めていたのだろうか。ふとそんなこ
とを考えてみた。
お友だちのお母さん方の評価はあくまで外でみせる私の姿が基
準。しかし、私にとって外での姿はあくまで営業用のものであって
家の中でみせる人格は恐らく同級生の中でも一番赤ん坊に近かった
かもしれなかった。
実際、母親は勉強や習い事には熱心だったが、いわゆる仕付けに
は甘くて、自慢にならないからこれまで人には話さないできたが私
の部屋からほ乳瓶が消えたのが小学五年生の時。小学四年生頃まで
はお風呂におまるが置かれていた。何のためかというと、これが一
緒に入る母の前で用を足すのが好きだからというんだからとんでも
ない困ったちゃんである。小学六年生の頃でも母親の前でならフル
チンは当たり前。おチンチンもお尻の穴も母親からなら握られても
覗かれても何ら関係なかった。
昼間がそんな調子だから、夜だって当然のごとく母と同じ布団で
添い寝。母が私と添い寝しなくなったのが、13歳も終わりの頃。
これだって母が私を嫌ったというよりは私の方が何となく気まずく
なって別れたのである。
しかも、事はこれだけではない。
母は私を舐めて育てた。比喩的にではなく本当に事あるごとに舐
めていた。昼間はさすがに人目があるから指やほっぺぐらいなもの
だが、夜、布団の中ではどこといって体に制限がなかったような気
がする。小学校も高学年になれば性欲もまったくないわけではない
から何やら妙ちくりんな気分が体中を包みこんだことも一度や二度
ではなかった。
もちろん『近親相姦』だなんてそんなたいそうなものではないが
その入口くらいは母が手ほどきしたということになるのかもしれな
い。
子供なんだからマザコンは当たり前だろうが、それにしてもその
ラヴラブぶりは近所でも評判だったことだろう。やくざの親分の言
う『チンコロ』もそれはそれで的を得た表現だったに違いなかった
のである。
色んな事情からやむを得ず父と結婚した母にとって私はたんなる
息子以上の存在だったのかもしれない。それは父方の家に対しては
大事な商品であり、対社会的にはプライドの一部。そして内なる世
界ではペットでもあったのだ。
恋人?その一線は越えていないはずだが『抱き合えば言葉はいら
ない』というような関係ではあったような気がする。とにかく不思
議なそして強烈なインパクトを持った親子だったことに違いはなか
った。