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第7章 祭りの後に起こった諸々(1)
<<カレンのミサ曲>>
第7章 祭りの後に起こった諸々
************<登場人物>**********
(お話の主人公)
トーマス・ブラウン<Thomas Braun>
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン<Ralph Morgan >
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン<Karen Anderson>
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。
(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘
<使用人>
ニーナ・スミス<Nina>
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品
ベス<Elizabeth>
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー<Denny>
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ<Anna>
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム<Graham>
……カレンの前のピアニスト
<カレニア山荘の里子たち>
リサ<Lisa >
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー<Sally>
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー<Patty>
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア<Maria >
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー<Kathy>
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アン<Andrea>
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
ロベルト<Robert>
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック<Friderick>
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。
リチャード<Richard>
……(12歳)ポエムや絵画が好きな心優しい子。
<先生たち>
ヒギンズ先生<.Higgins>
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生<Caldwell>
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生<Sheehan>
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。
アンカー先生<Anker>
……絵の先生。
エッカート先生<Eckert>
……数学の先生
マルセル先生<Marcel>
……家庭科の先生
<先生のお友達>
ラックスマン教授<Laxman>
……白髪の紳士。ロシア系。
ビーアマン先生<Biermann>
……獣医なので先生とは呼ばれているが、もとはカレニア山荘で
子供達のお仕置き係をしていた。今は町のカフェの店主。
アンハルト伯爵婦人
……戦争で息子を亡くした盲目の公爵婦人
ホフマン博士<Hoffmann>
……時々酔っ払うが気のいい紳士
<ライバル>
ハンス=バーテン<Hans=Barten>
……アンのライバル、かなりのイケメン。
サンドラ=アモン<Sandra=Amon>
……12歳の少女ピアニスト。高い技術を持つがブラウン先生の
好みではない。
<幻のピアニスト>
セルゲイ=リヒテル(ルドルフ・フォン=ベール(?))
……カレンにとっては絵の先生だが、実はピアノも習っていた。
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第7章 祭りの後に起こった諸々
§1 楽しい休日の暗転
リチャードの詩を何度読んでも、カレンには曲ができなかった。
そこで実際に村のあちこちも歩いてみた。
この村はあの詩の通りだ。
若草色の山々に紫色の厚い雲がわき、そこから地面に向かって
差し込む光の帯は、たとえそこから天使が降りてきても驚かない
ほどに神々しい。
森に住む動物たち植物たち、そのすべてが神からの賜り物だと
カレンは思った。
きっとお祭りの当日は、数多くの花火が上がって山々に村々に
雷鳴を轟かすことだろう。それは神からの賜りものであり、村人
全員の感謝のしるしでもあるはずだ。
子供の詩だから中身は単純、詩の意味は分かっている。
でも、メロディーは浮かばなかった。
彼女が生まれ育ったアフリカは赤い土と砂嵐の国。緑は僅かに
オアシスの町に申し訳程度にあるだけ。
人々は高い塀を巡らして砂嵐を避けながら囲い込んだ緑を必死
に守って暮らしている。
こんな豊かな大自然の歌などカレンにはできそうになかった。
ところが、曲を作り始めて三日目の朝、彼女はあることを思い
出すのである。
『リヒテル先生からもらった絵があったわ』
カレンはサー・アランの屋敷から送られてきたばかりのピアノ
の一部を剥ぎ取る。
そこにはリヒテル先生が故郷を偲んで書いたという板絵が貼り
付けてあったのだ。
動乱の故国から脱出する時、いくつも荷物を作ることができな
いから、苦肉の策でアップライトのピアノに貼り付けた絵だ。
逆に言うと、それほど大切な絵だったのである。
若草色の森と霞む山々。沸騰したように湧き出す厚い雲と深み
のある青い空。手前に描かれた可憐な白百合との対比が美しい絵
だ。
『これをむこうで見ていた時は、こんなのおとぎ話だと思って
みていたけど、この絵って、ここの風景に似ているわ』
カレンは思った。
そして、リヒテル先生との楽しかった思い出を、あれこれ想像
しながらいくつもの曲を作ったのである。
七つ、八つ、簡単なメロディーラインだけを書いて先生の処へ
持っていくと、あとは先生の方で選んでくれて、こまかな作業は
全部先生がやってくれたのだった。
「ん~~いいできです。やっぱり、あなたに頼んでよかった」
こう言われると、カレンは肩の荷がおりる思いがしたのである。
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村のお祭りは、仮装行列が村じゅうを練り歩いたり、重い砂袋
を持ち上げる重量挙げや棒倒しのような男たちの競技があったり、
女たちが開くバザーのお店があったり、幼児達が王子様やお姫様
に扮して寸劇を披露したりと、学校の運動会と文化祭がごっちゃ
になったような催しで終日賑わったが、その間、入れ替わり立ち
代り楽器演奏を披露したのはカレニア山荘の子供たちだった。
もちろん、村を讃える歌は山荘の人たち全員、つまり、大人も
子供もブラウン先生も混じって合唱した。
もちろん、口パクの人もいたし音程を外す人もいたが、そんな
のはここではご愛嬌だったのである。
そんなお祭りはもちろん誰にとっても楽しかったが、楽しい事
の後は、当然、疲れがやってくるわけで、とりわけ大人たちは、
次の日は休養をとるのが習慣になっていた。
だから、学校も仕事もその日はお休み。
ただ、若ければそれも心配ないわけで……
「いいよ、カレンが一緒なら行っておいで……」
眠そうなお父様からアンは外出の許可をもらう。
せっかくのお休みも、家でゴロゴロするだけじゃもったいない
し、ピアノの練習も気乗りがしなかった。
『この日は息抜き』と二人は村のお祭りの前から決めていたの
だった。
「『太陽がいっぱい』っていう映画が町に来てるのよ。主演の
アラン・ドロンがかっこいいんだから……」
アンはそういってカレンを誘ったのだ。
ルートはいつも通り。馬車で山を降りて、駐車場となっている
農家の庭先からはタクシーに乗る。
そうやって、町の古ぼけた映画館で映画を観るわけだが、この
映画だって封切りというわけではなかった。二年も前に公開され
た昔の映画だ。
しかし、娯楽の少ないこの地方の少女たちにとってはこれでも
十分な娯楽だったのである。
「よかったわね」
「よかったわ。今年一番の感激よ」
二人は映画を観終わって感激を分かち合ったが、感激したもの
はお互いに違っていたのである。
カレンにとって、この映画はアラン・ドロンの映画であり、彼
の裸の肉体が脳裏から離れない。
一方、アンはというと、ニーノ・ロータ(Nino Rota)の切ない
音楽が耳から離れなかった。
「ねえ、お腹すいたわ。カフェでお食事しない」
アンが提案すると、カレンが不安そうにしているから……
「あなた、お父様からいくらもらったの?」
アンはカレンの財布を覗き込む。
「なんだ、まだこんなにあるじゃない。大丈夫。これだけあれ
ば夕食だって食べられるわ。ホテルにだって泊まれそうじゃない。
あなた、よほどお父様から信頼されてるのね。私、こんなにお小
遣いもらったことないわよ」
二人は街角のカフェに入った。
目の前に美しい町の公園が広がって、まるでこの店がこの公園
を所有出てるように見える。
お昼も、もうだいぶ過ぎていたが、店内はそこそこのお客さん
でにぎわっていた。
そこで、二人はサンドイッチとココアを注文して昼食。
映画館で買ったパンフレットを見ていた。
すると、誰かが声をかけた。
「アンドレアお嬢様、ごきげんよう」
アンがその声に驚いて見つめる先には、ロマンスグレーの中年
紳士が立っている。
「おじさん!?……わあ、見違えたわ。カッコいいじゃない。
……ってことはまさか……」
「そのまさか。先月からここの支配人まかされちゃったんだ」
「じゃあ、子供達のピアノ教室は?」
「それも続けてる。掛け持ちなんだ」
その顔にはカレンも見覚えがあった。
『たしか、この人は……ビーアマン先生』
アンのコンクールの日、お父様に紹介された中に彼の顔もあっ
たのをカレンは思い出したのだ。
「おう、これはこれは、眠り薬のカレン嬢もご同席ですね」
「こんにちわ」
カレンは眠り薬云々を言われることには抵抗があったが儀礼的
に挨拶する。
すると……
「今日はいつも頼んでるピアノ弾きが風邪を引いて休んでてね。
アン、1時間だけその穴を埋めてくれないかなあ。お礼はするよ」
ビーアマン先生は、通りに面したガラス張りの部屋に客寄せで
置いていた白いピアノへ視線を投げかけるのだが、アンはにべも
ない。
「おあいにく様、私達、今日は休暇できてるの。仕事でピアノ
を弾くなんてまっぴらよ。それに、企業秘密もあるから他所では
ピアノを弾かないようにってコールドウェル先生にも釘をさされ
てるし……」
「つれないなあ」
「ピアノ教室はまだやってるんでしょう。教室のチビちゃん達
にでも弾かせれば?」
「それが、今日は学校の遠足でね、ここには来てないんだ」
「じゃあ仕方ないじゃない。諦めるのね。だいいち、こうして
ピアノの流れない日があってもいいじゃないの。静かでいいわ。
私なんて下手なピアノを聴かされるより、こっちの方がよっぽど
落ち着くわよ」
「そりゃあ、君はそうだろうけど……ここはピアノの生演奏が
売りのカフェだからね。……」
ビーアマン先生はそこまで言って、ふっと気がついた。
「そうだ、カレン、君、コンクールは関係ないだろう。弾いて
くれないか?」
「えっ!?私が……」
カレンは驚いたが……
「やめた方がいいわ。カフェのピアノなんて………お父様は、
こんな処でピアノを弾くのを喜ばないわ」
アンが止めたのだ。
「こんな処はないだろう。……今だって、こうして食事をして
るじゃないか」
「今はお昼だからよ。……だって、夜はここ、酔っ払いの天国
だもん。こんな処でピアノなんて弾いてたらお父様から大目玉よ」
「ねえ、アン、あなた言葉が過ぎるわよ。おじさまに向かって」
カレンがアンの耳元でささやく。彼女はアンがビーアマン先生
に対してあまりにも馴れ馴れしいのが気になっていたのだ。
すると、アンが怪訝な顔をするので……
「ねえ、ビーアマン先生って、何の先生なの?」
と尋ねるもんだから、今度はアンが笑い出した。
「いやだ、知らなかったの。おじさんは、三年前まではうちで
働いてたの。もともとは獣医さんよ。だから、いちおう先生って
呼ぶんだけど……やってたのは動物じゃなくて、子供たちの世話。
それもお父様に命じられてのお仕置きの世話だったわ。そりゃあ
私たちにしてみたら怖い人なんだけどね、どっか気安いのよ」
「ねえ、アン。あなたはお父様からお仕置きなんてされたこと
あるの?」
「当たり前じゃない。男の子、女の子に関わらず、お父様から
ぶたれたことのない子なんてカレニア山荘には誰もいないわよ。
そんな時がビーアマン先生の出番なの。彼から私たちお浣………
ま、いいわ。……それは……」
アンは思わず口を滑らせた自分を恥じる。
「ねえ、アン、私、あのピアノ弾いちゃダメかなあ」
「えっ、あなた弾きたいの?」
「今日観てきた映画のBGM。あれが弾いてみたくなったの」
「ふうん、そりゃあいいけど…でも、あまり長い時間はだめよ。
……ここ、夕方になると酔っ払いとか来るから……」
「じゃあ、君が弾いてくれるのかい?」
ビーアマン先生は大喜び。
こうして、カレンのミニリサイタルが開幕したのだった。
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やがてニーノ・ロータ(Nino Rota)の哀愁を帯びたメロディー
がカフェの店内に響く。
その時、客席に何か変化があったわけではなかった。
コーヒーを飲む人、タバコを吸う人、おしゃべりが途中で途絶
えたわけでもない。
しかし、カレンが一曲弾き終わると、あちこちで小さな物音が
聞こえ、……ある種の緊張感から解放された時のような安堵感が
カフェ全体を包む。
まるでコンサート会場のようだ。
カレンのピアノの音は最初とても小さく繊細で耳をそばだてて
いなければ決して聞き取れないほどだが、最後はほとんどの人が
ある種の高揚感をもって自分がその席にいることに気づく。
そんなカレンのピアノを三曲も聴けば、彼女が席を立とうとす
る時……
「僕は楽器のことは分からない。でも、あなたのピアノは好き
だから、もう一曲、お願いできないだろうか」
こんな紳士が現れても不思議ではなかったのである。
「でも……」
カレンはそれを言うのが精一杯だった。
その紳士だけではない。カフェ全体の雰囲気がカレンの次の曲
を望んでいた。その空気がカレンにも感じられるのである。
「ねえ、アン。これは笑わないで聞いてほしいんだけど、……
彼女のピアノを聴いてるとね、ピアノって、本当に打楽器なんだ
ろうかって疑ってしまうんだよ。僕も数多くのピアニストの音を
聞いてきたけど、こんなのは初めてだ。ひょっとして彼女は今、
ギターを弾いてるんじゃないか?そんな錯覚に陥るんだ」
ビーアマン先生の言葉がアンの心にも残る。
そんな中、カレンはお客の注文に従いすでに六曲を弾き終えて
いた。さすがに疲れたので次の一曲で必ず終わりにしようと心に
決めて、「さて…」と思った時、自然とその指が動く曲があった。
アフリカにいた頃、カレンの子守りをしてくれていたセルゲイ
おじさんといつも二人で弾いていた曲。おじさんがなくなった後
はカレンが彼のパートも弾いていた。
題名はないが、優しく穏やかな曲を最後に選んだのだった。
カレンはこの曲を弾くたびに思い出すことがあった。
それは、セルゲイさんが最初ピアノの鍵盤を強く叩かせなかっ
たこと。
弱く、弱く、音が聞こえる限界まで弱く叩いた音でメロディー
を奏でていた。
最初は振動なのか音なのかわからない処から始まって、次第に
大きな音をそれに加えて制御していく。
カレンのピアノは本来の音を弱めて音の深みを出しているので
はない。むしろ弱い音がベースとなり、すでにメロディーも完成
させているところへ、普通の音を入れて華やかさを演出している
のだ。
カレンの奏でる音には、本来は外からは見えない根がちゃんと
存在していたのである。一見不要に見えるこの根があるからこそ、
そこに育つ草や木も自然に見えて、人の心を打つのだった。
そんなカレンの音楽に弾かれるのは、何もカフェのお客ばかり
ではない。街行く人もまた、彼女の音を耳にすると、まるで吸い
込まれるように店の中へと入ってくる。
そんな中に、黒ずくめの服を着た老女が一人、介添えの青年を
引き連れて入って来る。
しかし、その瞬間だけはカフェ全体に少し異様な空気が流れた。
老女は目が不自由で介添えの青年が手を取らなければ何もでき
そうにない。にも関わらず店に入った彼女はカレンの弾くピアノ
の方へ一直線に歩いていったのである。
椅子につまづき、テーブルに進路を阻まれ、人にぶつかり……
お客が飲んでいたコーヒーカップさえ払い除けた。
「ガシャン」
という音がしてそのカップは床で砕けたが、そんなことさえも
彼女には関係なかったのである。
彼女はついにカレンのピアノの前までやってくるが、そんな中
でカレンがピアノを続けられるはずもない。
困惑と恐怖の中で、カレンは彼女の最初の声を聞くのだった。
「ルドルフ、お前、生きていたのかい」
歩行も困難、目も不自由な黒ずくめの老婆のわけの分からない
言葉に縮み上がっていると、一歩遅れた青年がよろけて膝をつい
た老女を抱く。
「お母さん、これは兄さんじゃない。若い娘さんだよ。女の子
が弾いてたんだ」
青年は老女の肩を抱いてとりなしたが、老女はきかなかった。
「ルドルフ、お前、そこにいるんだろう。声を聞かせておくれ。
ルドルフ、後生だから、もう一度、母さんと呼んでおくれよ」
老女はカレンの弾いていたピアノにすがりつく。
身の危険を感じたカレンはすんでのところでその場を離れたが、
再び倒れこんだ拍子に鍵盤を叩いて……
「ガシャン」
という音が店内に響いた。
そして、崩れ落ちたピアノの床で彼女は泣き続けたのである。
『何なの?これ……』
もちろん、カレンにはわけがわからない。
単なる狂人の乱入なのか、でも、それにしては老女の身なりは
しっかりしているし、顔立ちも狂った人のようには見えない。
介添え役の青年もそれは同じだった。
困惑するカレンの両肩をいきなり掴む者がいる。
「!!!」
カレンの心臓は一瞬縮みあがったが、犯人はアンだった。彼女
は小声で……
「さあ、出ましょう。長居は無用よ」
そう言って、カレンにこの店からの脱出を促したのである。
もちろん、カレンにとっても反対する理由はなかった。
だから、二人してそっとその場を離れようとしたのだったが…
「あ、君。君はここへ残って」
それまで、床にひれ伏して泣き続ける老女を介抱していた青年
がいきなり、この場を立ち去ろうとしたカレンを呼び止めたので
ある。
「いいから、行きましょう」
アンは青年の言葉にかまわずカレンの腕を掴んだが、その様子
を見た青年はもっと強い言葉を二人に投げかけたのである。
「いいか、これは命令だ。お前ら、そこへ立ってろ!」
彼は何の権限があってそうしたのかわからないが、二人にはっ
きりそう命じられたのだった。
「……………………………………………………」
「……………………………………………………」
もちろん、二人にそんなことを言われる覚えも義務もなかった
が、そこは世間を何も知らない小娘のこと。
震え上がったまま、その場に立ち尽くしてしまったのである。
もし、これが単なるならず者なら、ビーアマン先生にしても、
カフェのお客さんだってこの二人の少女にもっと協力的だったの
だろうが、彼らは単なる無法者ではなかったのである。
そうこうしているうちに事態はさらに悪化する。
異変に気づいたこの老婆と青年の配下とおぼしき男達がカフェ
に入ってきたのだ。
すると、青年はやっと落ち着きを取り戻した老婆を椅子に座ら
せたまま、そこからその屈強な男たちに向かってこう命じるのだ
った。
「このお二人を私の屋敷にお連れしろ。くれぐれも粗相のない
ようにな」
こうして二人はわけがわからぬままに青年の屋敷に招待、いや、
連行されたのだった。
********************(1)****
第6章 同床異夢のピアニスト(2)
<<カレンのミサ曲>>
第6章 同床異夢のピアニスト(2)
§2 二人の月光/心を伝えるピアノ
地方大会が終わり、すぐに本選出場の三名が決まった。
一人はアン、もう一人はハンス、そして最後の一人にサンドラ
という名の女の子が選ばれた。
装飾音に彩られた彼女のピアノはボリューム感があって華やか。
とても12歳とは思えない超絶技巧の持ち主だったから審査員の
心を捕らえたのだろう。
しかし、ブラウン先生の評価が何故か今一だったのを、カレン
は隣りの席で感じていた。
いずれにしても選ばれた三人は大会後のパーティーに出席して
その会場で一曲演奏しなければならない。
ブラウン先生は、ここでも他の家族は返したが、カレンだけは
このパーティーに参加させたのである。
ここで、カレンはアンに声をかけた。
「おめでとう。アン」
「ありがとう、久しぶりにうまくいったわ。すべては私の実力。
でも、ちょっぴりあなたのおかげよ。これ、しばらく貸しといてね」
アンはそう言って、カレンの赤いスカーフを目の前でひらひら
させる。
「それ、またお尻に敷くつもり?」
「そうよ、まさか、あなたをお尻には敷けないでしょう」
「えっ!?」
カレンは開いた口が塞がらなかった。
そこで、尋ねてみた。
「私がそんなに嫌いですか?」
「嫌いよ。いけない?……だって、あなたは、私が裸にならな
きゃできないことをいとも簡単にやってのける人ですもの。私が
面白いわけないじゃない」
「…………」
カレンにはアンの言っている意味が分からない。
それを説明してくれたのはブラウン先生だった。
「カレン、アンが言いたいのはね、あなたの集中力なんですよ。
あなたはピアノの前に座れば、即座に自分の世界にのめりこむ事
ができるでしょう。それが羨ましいと言っているんですよ」
すると、アンがさらに続ける。
「それに、私には二台のピアノを同時に弾きこなすなんてまね、
できないもの」
「????」
カレンが首をひねっていると、男の声がした。
「何なの?二台のピアノって……」
「何だ、ハンス。あなたそこにいたの!他人の家の痴話喧嘩を
立ち聞きするなんて、趣味が悪いわよ」
「痴話喧嘩って?君が演奏前によく裸になるってことかい?」
ハンスがそう言うと、アンは大きな目をさらに大きく見開き、
赤いほっぺをさらに真っ赤にしてから、ハンスの頬を平手打ちに
しようする。
すると、彼はそれをかわし、襲ってきたアンの右手を取ると、
こう言うのだった。
「そうかあ、フレデリックの言ったのは本当だったんだ」
『あのやろう』
そう思ったかもしれないが、後の祭りだった。
アンの顔は血の気を失い目はうつろになって、その場に立って
いられないほどのショックをハンスに見せてしまったのである。
「いいじゃないか、集中力を高める方法は人それぞれだもん。
でも、会場のどこで裸になったんだ。トイレかい?」
「わたし、そんなこと、してません!!!」
ハンスの言葉にアンは大声を出して横を向いてしまう。
そして、ブラウン先生もまた……
「ハンス君、失礼ですよ。ヤングレディーにそんな言い方は…
………」
凛とした態度で若僧を注意したが、彼の耳元までくると……
「大丈夫ですよ。ハンス君。今はもっと効果的なものが見つか
りましたから……」
「効果的なもの?……あっ、そう言えば、今日は何か椅子下に
敷いてましたね。あれって、何かのおまじないですか?」
「まあ、おまじないといえば、そうですが……この子が、その
おまじないの正体です」
ブラウン先生はカレンの両肩を持ってハンスの前に押し出す。
「えっ!?」
いきなりハンスの鼻と30センチの処にまで近づいたカレンは、
戸惑い、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
「へえ、この子が?」
「正確に言うと、この子のピアノがおまじないの正体なんです」
「この子もピアノを弾くんですか?」
「ええ、簡単なものだけですがね、即興で……」
「ひょっとして、二台のピアノを同時に弾くって……」
「そう、彼女の事です」
「聞きたいなあ、アンにそこまでさせたピアノを……」
「ただ、ここではちょっと……」
「いけませんか?パーティーも無礼講になってるみたいだし、
誰がピアノを弾いても硬いことは言いませんよ」
「ええ、そうでしょうね。……でも、ここでは騒がしすぎます」
ブラウン先生はあたりを見回す。そこはパーティー会場だから
多少騒わついてはいるものの騒々しいというほどではなかった。
にもかかわらず、先生は難色を示すのだ。
代わりに……
「おう、サンドラ嬢が弾き始めましたね。こういう席には……
ああいう、ピアノの方が似合いますよ」
「なるほど、曲芸みたいな超絶技巧だ。あの歳でこんなにたく
さんテクニックがあるんだから、うらやましいですよ」
「ホントに……?」
ブラウン先生は疑い深そうな目をして笑う。
「だって、いろんなテクニックがあれば、それだけ表現の幅が
広がりますからね」
「そりゃそうです。でも、もっと大切なことがありますよ」
「もっと、大切なもの?」
「そもそも、どんな音楽を相手に伝えたいのか。その完成形が、
あの子の音楽にはないのです。『私はこんなこともできますよ』
『あんなこともできますよ』という自慢話の羅列だけなんです」
「そんなこと言っても、あの子はまだ幼いんだし……」
「そんなことはありません。アンにしろ、あなたにしろもっと
幼い頃からそれはありました。お互い、たくさん名演奏を聞いて
育ちましたからね。何が人にとって心地よいことなのかがわかっ
てピアノを叩いています。だって、二人とも目標とする音がある
でしょう?」
「そりゃあ、もちろん」
ハンスが答え、アンが頷いた。
「ところが、あの子にはそれがない。ただ、先生に言われた事
を一生懸命練習して身につけたから、聞いてくださいというだけ
のピアノなんです。ああいうのは、道行く人を驚かす大道芸では
あっても、芸術じゃありません」
「厳しいですね。相変わらず先生は……」
ブラウン先生の会話に、白髪の紳士が割り込んだ。
「これは、ラックスマン教授。お耳に入ってしまいましたか。
お恥ずかしい」
「いえ、私も彼女のついてはそうしたことを考えないわけでは
なかったのです。でも、歳も若いし経験を積ませてやるのもいい
かと思ってね」
「確かに……せっかく全国大会へ出かけるんですから、彼女も
そうしたことを学んで来てくれるといいんですが……ただ、そう
考えると、12という歳はむしろ、もう遅いかもしれませんね」
大人たちの話を聞きながら、カレンは話題の主のピアノを見て
いた。
『鳴っている。鳴っている。ピアノが鳴り響いている。まるで
タイプライターのようにカタカタと……あれも、月光なのね……』
カレンは思った。それは同じ楽譜をもとに弾いているはずなの
にまるで別の曲のように聞こえたからだ。
彼女は吸い寄せられるようにサンドラのピアノの前に立った。
まるで彫刻家が鑿と鎚で石を刻むような険しい表情。揺ぎ無い
信念と情熱がその顔にはほとばしっている。
『12歳というこの少女が目指しているのはいったい何なのだ
ろうか?』
カレンには理解できなかった。
彼女にとっての音楽は自分の心をなごますものでしかない。
『ブラウン先生は私のピアノを褒めてくれるけど……だったら、
先生のためのピアノが弾けるだろうか。…………無理だわ。……
だって、私のピアノは私のためだけのもの。……私と、お父様と、
それにリヒテル先生のためのものだもの』
そんなことを思っているカレンの脇を、演奏を終えたサンドラ
がすれ違う。亜麻色の髪にフローラルな香りが残った。
その跡を、背の高い青年が追う。
彼が、サンドラのピアノの先生なのだろう。ウェーブの掛かっ
た灰色の髪をなびかせ、神経質そうな顔をしている。
二人はブラウン先生への挨拶が目的だったようだ。
そこで見せる彼女の笑顔は、ピアノを弾いている時とはまるで
別人だった。
満面の笑みを浮かべ、さかんに、全国大会へ出場できるように
なったことの感謝を大人達の前で述べている。
しかし、その姿は心からの感謝というより、必死に自分を売り
込んでいるように見えて、カレンにはこの子が末恐ろしくさえ感
じられたのだった。
そんなサンドラの人当たりにほだされたカレンはそこから視線
を外して、主のいなくなったピアノをみた。
そして、それを見ているうちに、今度は、そのピアノが無性に
弾きたくなったのである。
もちろん、ここでこのピアノを弾けるのは本選にでる三人だけ。
そんなことは百も承知だから、カレンは物欲しげにピアノを撫で
て回るだけ。
それで満足するしかなかった。
ところが、そこへ……
「おい、お姉ちゃん、ピアノは撫でてるだけじゃ鳴らないぜ」
こう言ってカレンに近寄ってくる男がいた。
ホフマン博士だ。
彼は予選会の前に出会った時は、もちろん立派な紳士だったが、
この宴会もお開きに近くなったせいか、かなり酒が回っていた。
『まずいわ』
カレンはとっさに作り笑いを浮かべて、その場を立ち去ろうと
した。ところが、一足早く酔っ払いの中年男に捕まってしまう。
「いや、」
羽交い絞めにされたカレンは、大声を出して人を呼ぼうとした
もののできなかった。
それほどまでに、彼は素早く、カレンを生け捕ってしまったの
である。
酒臭い息を吹きかけながら、博士はカレンを抱きかかえると、
まるで子供のように膝の上に乗せて、十八番にしているショパン
の前奏曲を弾き始める。
彼は、ピアニストでも芸術家でもないから、そのピアノの音は
この会場では騒音のようなもの。
周囲もビアノが鳴り始めた瞬間だけ振り向くが十六小節すべて
を聴く者はいなかった。
『また、先生が酔って弾いているのか』
という顔をしたあとはまたそれぞれの仕事に戻ってしまう。
「さあ、弾いてみな」
博士は短い曲を弾き終えたあと、カレンにピアノを勧めた。
というより、それは強制したというべきなのかもしれないが、
背中を押してくれたのである。
それに応えて、カレンがピアノに手をつける。
ベートーベンの月光だった。
さっき博士が弾いていたから、当初は、誰も気にも留めないが、
そのうち、誰かがその違いに気づいてピアノの方を向くと、その
数がしだいに増えていく。
とうとうブラウン先生たちのグループまでもがそれに気づいた
のである。
『カレン!』
押っ取り刀でカレンの前に現れたブラウン先生は渋い顔だった。
それに慌ててカレンは演奏をやめてしまうが……
「おう、お父さん登場ですな。なるほど、これはいい眠り薬を
お持ちだ」
先に口を開いたのはホフマン博士だった。
「他人の薬を、こっそり試し飲みとは感心しませんな」
ブラウン先生はホフマン博士をたしなめたあと…
「カレン、このピアノは本選に出場する三人のために用意され
たものです。あなたのものではありませんよ」
と叱ってみせた。
そこで、カレンは慌ててホフマン博士の膝をを下りたのだが、
その時はすでに多くの人がピアノの前に集まって、ブラウン先生
の眠り薬の効き目を確かめたあとだったのである。
**************************
帰りのバスの中、ブラウン先生は不機嫌そうな顔で外の景色を
眺めているから、カレンはずっと申し訳なさそうにしていたが、
バスを下り、カレニア山荘に向かう馬車の中では、アンが小声で
話掛ける。
「気にすることないわ。お父様、今はもうそんなに怒ってない
から……」
「…………」
「私はあなたより付き合いが長いから分かるの。あの先生は、
いつもあんな調子なのよ。あなたのせいじゃないわ」
「でも……」
「それより、あなたの月光は絶品ね。サンドラなんか目じゃな
かったわ」
「そんなこと」
「それが証拠に、あの部屋にいたほとんど全ての人が集まって
きたじゃない。あれはあなたの奏でる二台のピアノを聴きたくて
みんな集まったの」
「二台のピアノ?」
「そう、音の鳴るピアノと音の鳴らないピアノよ」
「音の鳴らないピアノって?」
「余韻ですよ。音を鳴らすだけがピアニストの仕事なら、自動
ピアノは天才的なプレヤーなんでしょうけど、誰もそんなことを
言う人はいないでしょう。それは機械では無音の部分をどうにも
デザインできないからなんです。あなたのピアノに感激するのは
鳴るピアノと鳴らないピアノのハーモニーが絶妙だからその音が
美しく響くんですよ」
突然、先生が二人の話しに口を出す。こんな狭い馬車の荷台、
どんなに小声で話していても、その声が先生に伝わらないはずが
なかった。
カレンは恐縮したが、カレンに先生の言葉の意味は理解できな
かった。彼女が弾くピアノはあくまで天性のもの。理屈があって
奏でるものではなかったのである。
だから、カレンは黙ってしまう。
そのカレンに向かって先生は……
「まあ、いいでしょう。本当はあんな酔っ払いの膝の上ではなく、
もう少し勿体をつけてあなたの才能を発表したかったのですが、
仕方ありません。その代わり、その赤いスカーフはもう少しだけ
アンに貸してやってくださいね」
ブラウン先生は、また元の笑顔を取り戻してカレンを見つめる
のだった。
***************************
夕食のあと、カレンはリチャードの部屋へ行く。
朝、あのサウナの中で先生に頼まれた作曲の仕事がずっと気に
なっていたからだ。
すると、そこにはすでにアンの姿が……。
「あら、カレン。あなた、この子の出来損ないの詩にあわせて
曲を作れって、お父様に命じられたんですって……」
アンはリチャードのベッドに大の字になると、その詩が書かれ
た紙を天井を向いて詠んでいた。
「えっ……ええ、……まあ……」
「それにしても相変わらず、下手くそな詩ね。無理に、こんな
大人びた表現にしなくていいのよ。…書いてるの、どうせあなた
だってわかってるんだから……」
こう言われたから、そこにいたリチャードが反論する。
「だって、最初書いたのはお父様が『子供っぽくて村のお祭り
にふさわしくない』って……」
彼はそう言うと書いた詩をアンから取上げる。
「こんな韻を踏んだような詩、今どき流行らないわ。最近は、
大人だってビートルズを聴く時代なんだから……お父様は、頭が
古いの。化石化してるのよ。………ねえ、カレン、あなただって、
そう思うでしょう」
「それは……」
自信のないカレンは歯切れの悪い言葉でお茶を濁す。
「ただ、わたし、教養がないから、こんな難しい詩にどうして
曲をつけていいのか、かわからなくて……」
本音を正直に吐露すると……
「簡単よ。ミサ曲と同じで韻を踏む感じで和音を合せるの。…
…といっても、あなた楽譜のこと、まるっきり知らないそうね。
……いいわ、私がやってあげる。全国大会までは少し時間がある
から……ときどき、お父様も無理な注文つけるから困るのよね」
「でも、それじゃあ……私が頼まれたことですし……」
「それじゃあ、あなた、自分でできるの?」
「それは……」
「こんなものは創作活動というより塗り絵みたいなものなの。
誰がやっても、そう大きく違わないわ。スカーフのお礼よ。……
それよりさあ、六時十四分。あれ、もう一度聴かしてくれないか
しら」
「六時十四分って?」
「だって、題名しらないもの。あなたが私のレッスン場で弾い
た曲のことよ。六時十四分に弾いたでしょう。だから六時十四分」
「でも、あれは……」
カレンは口をつぐんだ。
カレンの弾く曲は一期一会。本人でさえ二度と弾けないのだ。
ところがそれを……
「だったら、私にちょうだいよ。私が色んな処で弾いて広めて
あげるわ」
アンは明るくおねだりするのだった。
困惑するカレンを尻目にアンは彼女の手を引き、居間へ。
そして、そこのピアノで『六時十四分』を再生する。
「たしか、こう、だったわよね」
アンは自らピアノを弾き、聴き覚えたカレンのピアノを楽譜に
起こしていく。それは、昨夜、ロベルトやブラウン先生がやって
くれたのと同じ作業だった。
ただ違うところがあるとすれば、出来上がった楽譜がすっきり
していること。先生がつけた装飾音などなくとも、その音はより
シンプルに誰の心にも美しく響いたのである。
こうして二人の取引は無事収まったようにみえたたのだが……
「カレン、これは君の曲ではないですね。……アン、ですかね、
……こんなお茶目な曲をつけるのは……」
村のお祭りで詠う曲を先生の処へ持って行ったカレンは、再び
ブラウン先生の渋い顔に出会うのだった。
「この詩はたしかに韻を踏んで書かれています。でも、あなた
サー・アランの屋敷にいた頃、私に言いましたよね。私が奏でる
ミサの曲は韻を踏んだものじゃないと……私は明るいメロディー
が好きなんだと……」
「ええ……」
「だからそれでいいんですよ。私はあなたに曲を乗せてほしい
とは言いましたが、それはこんな韻を踏んだ旋律を期待したから
ではないんです。あなたの感性でメロディーをつけてください」
「…………」
カレンが黙っていると……
「だから、簡単なことだ言ったでしょう。私はあなたにそんな
難解な宿題なんて出しませんよ。これはね、あなたなら一時間も
あればできますよ。詩を何度も何度も読み直してください。詩の
心を自分の心とすれば、メロディーは自然にあなたの脳裏を流れ
ます。今までだってあなたはそうして音楽と向き合ってきたじゃ
ありませんか」
ブラウン先生はそう言ってアンの作った曲を付き返した。
「ごめんなさい。作りなおします」
カレンが申し訳なさそうにそれを受け取って、部屋を出ようと
すると……
「そうだ、肝心なことを忘れてました。『六時十四分』あれは
いい曲ですね。最近、アンが、よく弾いてますけど……あれは、
あなたの曲でしょう」
「あれは……」
カレンはそこまでしか言わなかったが、ブラウン先生はカレン
の顔色を見て判断する。
「やはり、そうですか。アンに聞いたら『これは私のものです』
なんていいますからね。おかしいと思っていたんです。あなた達、
ひょっとして楽曲を取替えっこしたんじゃないんですか?アンは
あなたにお祭りの歌を提供して、あなたのピアノ曲を得た。そう
いうことですね」
「…………」
「音楽は誰に権利があるかではなく、誰の心にあるかで決まる
んです。きっとアンはあなたに憧れを持っているんでしょうね。
あなたの曲をじぶんの物にしようと一生懸命練習していました。
おかげで、コールドウェル先生はまたおかんむりですよ」
「私にアコガレ?」
「そうですよ。……何か不思議ですか?……私もそうですよ。
…いえ、これからはもっと増えるでしょうね。いずれ、あなたの
ピアノはこれから楽譜として出版されるでしょうから」
「そんなこと……」
「予定してますよ。そんなこと……」
ブラウン先生はお茶目に笑ったあと、こう続けるのだった。
「どんなに精緻な譜面を残しても、どんなに高性能な録音機で
音を残しても、その音楽を真に弾きこなせるのは本人しかいない
んです。アンが、どんなに憧れようと、どんなに練習しようと、
あなたの曲があなたの身体を離れることはないんですよ」
********************(2)****
第6章 同床異夢のピアニスト(2)
§2 二人の月光/心を伝えるピアノ
地方大会が終わり、すぐに本選出場の三名が決まった。
一人はアン、もう一人はハンス、そして最後の一人にサンドラ
という名の女の子が選ばれた。
装飾音に彩られた彼女のピアノはボリューム感があって華やか。
とても12歳とは思えない超絶技巧の持ち主だったから審査員の
心を捕らえたのだろう。
しかし、ブラウン先生の評価が何故か今一だったのを、カレン
は隣りの席で感じていた。
いずれにしても選ばれた三人は大会後のパーティーに出席して
その会場で一曲演奏しなければならない。
ブラウン先生は、ここでも他の家族は返したが、カレンだけは
このパーティーに参加させたのである。
ここで、カレンはアンに声をかけた。
「おめでとう。アン」
「ありがとう、久しぶりにうまくいったわ。すべては私の実力。
でも、ちょっぴりあなたのおかげよ。これ、しばらく貸しといてね」
アンはそう言って、カレンの赤いスカーフを目の前でひらひら
させる。
「それ、またお尻に敷くつもり?」
「そうよ、まさか、あなたをお尻には敷けないでしょう」
「えっ!?」
カレンは開いた口が塞がらなかった。
そこで、尋ねてみた。
「私がそんなに嫌いですか?」
「嫌いよ。いけない?……だって、あなたは、私が裸にならな
きゃできないことをいとも簡単にやってのける人ですもの。私が
面白いわけないじゃない」
「…………」
カレンにはアンの言っている意味が分からない。
それを説明してくれたのはブラウン先生だった。
「カレン、アンが言いたいのはね、あなたの集中力なんですよ。
あなたはピアノの前に座れば、即座に自分の世界にのめりこむ事
ができるでしょう。それが羨ましいと言っているんですよ」
すると、アンがさらに続ける。
「それに、私には二台のピアノを同時に弾きこなすなんてまね、
できないもの」
「????」
カレンが首をひねっていると、男の声がした。
「何なの?二台のピアノって……」
「何だ、ハンス。あなたそこにいたの!他人の家の痴話喧嘩を
立ち聞きするなんて、趣味が悪いわよ」
「痴話喧嘩って?君が演奏前によく裸になるってことかい?」
ハンスがそう言うと、アンは大きな目をさらに大きく見開き、
赤いほっぺをさらに真っ赤にしてから、ハンスの頬を平手打ちに
しようする。
すると、彼はそれをかわし、襲ってきたアンの右手を取ると、
こう言うのだった。
「そうかあ、フレデリックの言ったのは本当だったんだ」
『あのやろう』
そう思ったかもしれないが、後の祭りだった。
アンの顔は血の気を失い目はうつろになって、その場に立って
いられないほどのショックをハンスに見せてしまったのである。
「いいじゃないか、集中力を高める方法は人それぞれだもん。
でも、会場のどこで裸になったんだ。トイレかい?」
「わたし、そんなこと、してません!!!」
ハンスの言葉にアンは大声を出して横を向いてしまう。
そして、ブラウン先生もまた……
「ハンス君、失礼ですよ。ヤングレディーにそんな言い方は…
………」
凛とした態度で若僧を注意したが、彼の耳元までくると……
「大丈夫ですよ。ハンス君。今はもっと効果的なものが見つか
りましたから……」
「効果的なもの?……あっ、そう言えば、今日は何か椅子下に
敷いてましたね。あれって、何かのおまじないですか?」
「まあ、おまじないといえば、そうですが……この子が、その
おまじないの正体です」
ブラウン先生はカレンの両肩を持ってハンスの前に押し出す。
「えっ!?」
いきなりハンスの鼻と30センチの処にまで近づいたカレンは、
戸惑い、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
「へえ、この子が?」
「正確に言うと、この子のピアノがおまじないの正体なんです」
「この子もピアノを弾くんですか?」
「ええ、簡単なものだけですがね、即興で……」
「ひょっとして、二台のピアノを同時に弾くって……」
「そう、彼女の事です」
「聞きたいなあ、アンにそこまでさせたピアノを……」
「ただ、ここではちょっと……」
「いけませんか?パーティーも無礼講になってるみたいだし、
誰がピアノを弾いても硬いことは言いませんよ」
「ええ、そうでしょうね。……でも、ここでは騒がしすぎます」
ブラウン先生はあたりを見回す。そこはパーティー会場だから
多少騒わついてはいるものの騒々しいというほどではなかった。
にもかかわらず、先生は難色を示すのだ。
代わりに……
「おう、サンドラ嬢が弾き始めましたね。こういう席には……
ああいう、ピアノの方が似合いますよ」
「なるほど、曲芸みたいな超絶技巧だ。あの歳でこんなにたく
さんテクニックがあるんだから、うらやましいですよ」
「ホントに……?」
ブラウン先生は疑い深そうな目をして笑う。
「だって、いろんなテクニックがあれば、それだけ表現の幅が
広がりますからね」
「そりゃそうです。でも、もっと大切なことがありますよ」
「もっと、大切なもの?」
「そもそも、どんな音楽を相手に伝えたいのか。その完成形が、
あの子の音楽にはないのです。『私はこんなこともできますよ』
『あんなこともできますよ』という自慢話の羅列だけなんです」
「そんなこと言っても、あの子はまだ幼いんだし……」
「そんなことはありません。アンにしろ、あなたにしろもっと
幼い頃からそれはありました。お互い、たくさん名演奏を聞いて
育ちましたからね。何が人にとって心地よいことなのかがわかっ
てピアノを叩いています。だって、二人とも目標とする音がある
でしょう?」
「そりゃあ、もちろん」
ハンスが答え、アンが頷いた。
「ところが、あの子にはそれがない。ただ、先生に言われた事
を一生懸命練習して身につけたから、聞いてくださいというだけ
のピアノなんです。ああいうのは、道行く人を驚かす大道芸では
あっても、芸術じゃありません」
「厳しいですね。相変わらず先生は……」
ブラウン先生の会話に、白髪の紳士が割り込んだ。
「これは、ラックスマン教授。お耳に入ってしまいましたか。
お恥ずかしい」
「いえ、私も彼女のついてはそうしたことを考えないわけでは
なかったのです。でも、歳も若いし経験を積ませてやるのもいい
かと思ってね」
「確かに……せっかく全国大会へ出かけるんですから、彼女も
そうしたことを学んで来てくれるといいんですが……ただ、そう
考えると、12という歳はむしろ、もう遅いかもしれませんね」
大人たちの話を聞きながら、カレンは話題の主のピアノを見て
いた。
『鳴っている。鳴っている。ピアノが鳴り響いている。まるで
タイプライターのようにカタカタと……あれも、月光なのね……』
カレンは思った。それは同じ楽譜をもとに弾いているはずなの
にまるで別の曲のように聞こえたからだ。
彼女は吸い寄せられるようにサンドラのピアノの前に立った。
まるで彫刻家が鑿と鎚で石を刻むような険しい表情。揺ぎ無い
信念と情熱がその顔にはほとばしっている。
『12歳というこの少女が目指しているのはいったい何なのだ
ろうか?』
カレンには理解できなかった。
彼女にとっての音楽は自分の心をなごますものでしかない。
『ブラウン先生は私のピアノを褒めてくれるけど……だったら、
先生のためのピアノが弾けるだろうか。…………無理だわ。……
だって、私のピアノは私のためだけのもの。……私と、お父様と、
それにリヒテル先生のためのものだもの』
そんなことを思っているカレンの脇を、演奏を終えたサンドラ
がすれ違う。亜麻色の髪にフローラルな香りが残った。
その跡を、背の高い青年が追う。
彼が、サンドラのピアノの先生なのだろう。ウェーブの掛かっ
た灰色の髪をなびかせ、神経質そうな顔をしている。
二人はブラウン先生への挨拶が目的だったようだ。
そこで見せる彼女の笑顔は、ピアノを弾いている時とはまるで
別人だった。
満面の笑みを浮かべ、さかんに、全国大会へ出場できるように
なったことの感謝を大人達の前で述べている。
しかし、その姿は心からの感謝というより、必死に自分を売り
込んでいるように見えて、カレンにはこの子が末恐ろしくさえ感
じられたのだった。
そんなサンドラの人当たりにほだされたカレンはそこから視線
を外して、主のいなくなったピアノをみた。
そして、それを見ているうちに、今度は、そのピアノが無性に
弾きたくなったのである。
もちろん、ここでこのピアノを弾けるのは本選にでる三人だけ。
そんなことは百も承知だから、カレンは物欲しげにピアノを撫で
て回るだけ。
それで満足するしかなかった。
ところが、そこへ……
「おい、お姉ちゃん、ピアノは撫でてるだけじゃ鳴らないぜ」
こう言ってカレンに近寄ってくる男がいた。
ホフマン博士だ。
彼は予選会の前に出会った時は、もちろん立派な紳士だったが、
この宴会もお開きに近くなったせいか、かなり酒が回っていた。
『まずいわ』
カレンはとっさに作り笑いを浮かべて、その場を立ち去ろうと
した。ところが、一足早く酔っ払いの中年男に捕まってしまう。
「いや、」
羽交い絞めにされたカレンは、大声を出して人を呼ぼうとした
もののできなかった。
それほどまでに、彼は素早く、カレンを生け捕ってしまったの
である。
酒臭い息を吹きかけながら、博士はカレンを抱きかかえると、
まるで子供のように膝の上に乗せて、十八番にしているショパン
の前奏曲を弾き始める。
彼は、ピアニストでも芸術家でもないから、そのピアノの音は
この会場では騒音のようなもの。
周囲もビアノが鳴り始めた瞬間だけ振り向くが十六小節すべて
を聴く者はいなかった。
『また、先生が酔って弾いているのか』
という顔をしたあとはまたそれぞれの仕事に戻ってしまう。
「さあ、弾いてみな」
博士は短い曲を弾き終えたあと、カレンにピアノを勧めた。
というより、それは強制したというべきなのかもしれないが、
背中を押してくれたのである。
それに応えて、カレンがピアノに手をつける。
ベートーベンの月光だった。
さっき博士が弾いていたから、当初は、誰も気にも留めないが、
そのうち、誰かがその違いに気づいてピアノの方を向くと、その
数がしだいに増えていく。
とうとうブラウン先生たちのグループまでもがそれに気づいた
のである。
『カレン!』
押っ取り刀でカレンの前に現れたブラウン先生は渋い顔だった。
それに慌ててカレンは演奏をやめてしまうが……
「おう、お父さん登場ですな。なるほど、これはいい眠り薬を
お持ちだ」
先に口を開いたのはホフマン博士だった。
「他人の薬を、こっそり試し飲みとは感心しませんな」
ブラウン先生はホフマン博士をたしなめたあと…
「カレン、このピアノは本選に出場する三人のために用意され
たものです。あなたのものではありませんよ」
と叱ってみせた。
そこで、カレンは慌ててホフマン博士の膝をを下りたのだが、
その時はすでに多くの人がピアノの前に集まって、ブラウン先生
の眠り薬の効き目を確かめたあとだったのである。
**************************
帰りのバスの中、ブラウン先生は不機嫌そうな顔で外の景色を
眺めているから、カレンはずっと申し訳なさそうにしていたが、
バスを下り、カレニア山荘に向かう馬車の中では、アンが小声で
話掛ける。
「気にすることないわ。お父様、今はもうそんなに怒ってない
から……」
「…………」
「私はあなたより付き合いが長いから分かるの。あの先生は、
いつもあんな調子なのよ。あなたのせいじゃないわ」
「でも……」
「それより、あなたの月光は絶品ね。サンドラなんか目じゃな
かったわ」
「そんなこと」
「それが証拠に、あの部屋にいたほとんど全ての人が集まって
きたじゃない。あれはあなたの奏でる二台のピアノを聴きたくて
みんな集まったの」
「二台のピアノ?」
「そう、音の鳴るピアノと音の鳴らないピアノよ」
「音の鳴らないピアノって?」
「余韻ですよ。音を鳴らすだけがピアニストの仕事なら、自動
ピアノは天才的なプレヤーなんでしょうけど、誰もそんなことを
言う人はいないでしょう。それは機械では無音の部分をどうにも
デザインできないからなんです。あなたのピアノに感激するのは
鳴るピアノと鳴らないピアノのハーモニーが絶妙だからその音が
美しく響くんですよ」
突然、先生が二人の話しに口を出す。こんな狭い馬車の荷台、
どんなに小声で話していても、その声が先生に伝わらないはずが
なかった。
カレンは恐縮したが、カレンに先生の言葉の意味は理解できな
かった。彼女が弾くピアノはあくまで天性のもの。理屈があって
奏でるものではなかったのである。
だから、カレンは黙ってしまう。
そのカレンに向かって先生は……
「まあ、いいでしょう。本当はあんな酔っ払いの膝の上ではなく、
もう少し勿体をつけてあなたの才能を発表したかったのですが、
仕方ありません。その代わり、その赤いスカーフはもう少しだけ
アンに貸してやってくださいね」
ブラウン先生は、また元の笑顔を取り戻してカレンを見つめる
のだった。
***************************
夕食のあと、カレンはリチャードの部屋へ行く。
朝、あのサウナの中で先生に頼まれた作曲の仕事がずっと気に
なっていたからだ。
すると、そこにはすでにアンの姿が……。
「あら、カレン。あなた、この子の出来損ないの詩にあわせて
曲を作れって、お父様に命じられたんですって……」
アンはリチャードのベッドに大の字になると、その詩が書かれ
た紙を天井を向いて詠んでいた。
「えっ……ええ、……まあ……」
「それにしても相変わらず、下手くそな詩ね。無理に、こんな
大人びた表現にしなくていいのよ。…書いてるの、どうせあなた
だってわかってるんだから……」
こう言われたから、そこにいたリチャードが反論する。
「だって、最初書いたのはお父様が『子供っぽくて村のお祭り
にふさわしくない』って……」
彼はそう言うと書いた詩をアンから取上げる。
「こんな韻を踏んだような詩、今どき流行らないわ。最近は、
大人だってビートルズを聴く時代なんだから……お父様は、頭が
古いの。化石化してるのよ。………ねえ、カレン、あなただって、
そう思うでしょう」
「それは……」
自信のないカレンは歯切れの悪い言葉でお茶を濁す。
「ただ、わたし、教養がないから、こんな難しい詩にどうして
曲をつけていいのか、かわからなくて……」
本音を正直に吐露すると……
「簡単よ。ミサ曲と同じで韻を踏む感じで和音を合せるの。…
…といっても、あなた楽譜のこと、まるっきり知らないそうね。
……いいわ、私がやってあげる。全国大会までは少し時間がある
から……ときどき、お父様も無理な注文つけるから困るのよね」
「でも、それじゃあ……私が頼まれたことですし……」
「それじゃあ、あなた、自分でできるの?」
「それは……」
「こんなものは創作活動というより塗り絵みたいなものなの。
誰がやっても、そう大きく違わないわ。スカーフのお礼よ。……
それよりさあ、六時十四分。あれ、もう一度聴かしてくれないか
しら」
「六時十四分って?」
「だって、題名しらないもの。あなたが私のレッスン場で弾い
た曲のことよ。六時十四分に弾いたでしょう。だから六時十四分」
「でも、あれは……」
カレンは口をつぐんだ。
カレンの弾く曲は一期一会。本人でさえ二度と弾けないのだ。
ところがそれを……
「だったら、私にちょうだいよ。私が色んな処で弾いて広めて
あげるわ」
アンは明るくおねだりするのだった。
困惑するカレンを尻目にアンは彼女の手を引き、居間へ。
そして、そこのピアノで『六時十四分』を再生する。
「たしか、こう、だったわよね」
アンは自らピアノを弾き、聴き覚えたカレンのピアノを楽譜に
起こしていく。それは、昨夜、ロベルトやブラウン先生がやって
くれたのと同じ作業だった。
ただ違うところがあるとすれば、出来上がった楽譜がすっきり
していること。先生がつけた装飾音などなくとも、その音はより
シンプルに誰の心にも美しく響いたのである。
こうして二人の取引は無事収まったようにみえたたのだが……
「カレン、これは君の曲ではないですね。……アン、ですかね、
……こんなお茶目な曲をつけるのは……」
村のお祭りで詠う曲を先生の処へ持って行ったカレンは、再び
ブラウン先生の渋い顔に出会うのだった。
「この詩はたしかに韻を踏んで書かれています。でも、あなた
サー・アランの屋敷にいた頃、私に言いましたよね。私が奏でる
ミサの曲は韻を踏んだものじゃないと……私は明るいメロディー
が好きなんだと……」
「ええ……」
「だからそれでいいんですよ。私はあなたに曲を乗せてほしい
とは言いましたが、それはこんな韻を踏んだ旋律を期待したから
ではないんです。あなたの感性でメロディーをつけてください」
「…………」
カレンが黙っていると……
「だから、簡単なことだ言ったでしょう。私はあなたにそんな
難解な宿題なんて出しませんよ。これはね、あなたなら一時間も
あればできますよ。詩を何度も何度も読み直してください。詩の
心を自分の心とすれば、メロディーは自然にあなたの脳裏を流れ
ます。今までだってあなたはそうして音楽と向き合ってきたじゃ
ありませんか」
ブラウン先生はそう言ってアンの作った曲を付き返した。
「ごめんなさい。作りなおします」
カレンが申し訳なさそうにそれを受け取って、部屋を出ようと
すると……
「そうだ、肝心なことを忘れてました。『六時十四分』あれは
いい曲ですね。最近、アンが、よく弾いてますけど……あれは、
あなたの曲でしょう」
「あれは……」
カレンはそこまでしか言わなかったが、ブラウン先生はカレン
の顔色を見て判断する。
「やはり、そうですか。アンに聞いたら『これは私のものです』
なんていいますからね。おかしいと思っていたんです。あなた達、
ひょっとして楽曲を取替えっこしたんじゃないんですか?アンは
あなたにお祭りの歌を提供して、あなたのピアノ曲を得た。そう
いうことですね」
「…………」
「音楽は誰に権利があるかではなく、誰の心にあるかで決まる
んです。きっとアンはあなたに憧れを持っているんでしょうね。
あなたの曲をじぶんの物にしようと一生懸命練習していました。
おかげで、コールドウェル先生はまたおかんむりですよ」
「私にアコガレ?」
「そうですよ。……何か不思議ですか?……私もそうですよ。
…いえ、これからはもっと増えるでしょうね。いずれ、あなたの
ピアノはこれから楽譜として出版されるでしょうから」
「そんなこと……」
「予定してますよ。そんなこと……」
ブラウン先生はお茶目に笑ったあと、こう続けるのだった。
「どんなに精緻な譜面を残しても、どんなに高性能な録音機で
音を残しても、その音楽を真に弾きこなせるのは本人しかいない
んです。アンが、どんなに憧れようと、どんなに練習しようと、
あなたの曲があなたの身体を離れることはないんですよ」
********************(2)****
第6章 同床異夢のピアニスト(1)
<<カレンのミサ曲>>
第6章 同床異夢のピアニスト
************<登場人物>**********
(お話の主人公)
トーマス・ブラウン
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。
(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘
<使用人>
ニーナ・スミス
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品
ベス
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム
……カレンの前のピアニスト
<里子たち>
リサ
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アン
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
ロベルト
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。
リチャード
……(12歳)ポエムや絵画が好きな心優しい子。
<先生たち>
ヒギンズ先生
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。
アンカー先生
……絵の先生。
コモンズ先生
……数学の先生
マルセル先生
……家庭科の先生
<先生のお友達/ライバル>
ラックスマン教授
ビーアマン先生
エリアス婦人
ホフマン博士
ハンス
****************************
§1 朝の習慣 / 天才アンのピアノ
窓が明るくなる頃、カレンは目を覚ました。
そして、ベッドに上半身だけを起こすと、ふっとため息をつく。
『朝、何をするのか聞いてなかったわ』
彼女は仕方なく台所へ。
もちろん、もう女中ではないと知らされていたが、そこに行け
ば『何をすればいいのか分かるかもしれないし、分からなくても
そこを手伝えばいい』と考えたのだ。
「あら、カレン。もっとゆっくり寝ていればいいのに……」
台所へ入るとさっそくアンナが声をかけてくれる。
「……何なら、朝は食事を運んであげてもいいのよ」
こう言われて、カレンは頬をポッと赤くなる。
そんな身分でないことは分かってるし、からかわれたと思った
のだ。
だから、エプロンをしてそこで朝の仕度を手伝った。
何よりこうしていることが、カレンには楽だったのである。
そんな、五、六人が忙しく働く台所に若いメイドが駆け込んで
来て……
「ねえ、誰か先生の処へバスタオルを持って行ってくれない」
彼女はそう言いながらカレンに目を止める。
「ねえ、あなた、持って行ってくれる。今髭剃り中だから……
西の廊下をまっすぐ行った突き当りにバスルームがあって、……
先生はたいていそこだから……」
カレンは、若いメイドにバスタオルを二枚押し付けられると、
そのバスタオルを抱えて廊下を渡る。たしかにその突き当たりの
部屋では人の気配がしていた。
ガラス戸に人影が映ったので、戸の外から……
「カレンです。バスタオルを二枚お持ちしました」
と言うと……
「お~カレン、入ってきなさい」
耳慣れた先生の声がした。
そこで、戸を開けてみると、中には多くの男性……といっても
先生以外は自分より年下の子たちなのだが、蒸し風呂の熱気の中、
そこは男の体臭でむせ返っていた。
カレンは思わずのけぞる。顔をしかめて、こんな処はさっさと
用を済ませて抜け出そうと思った。
ところが、そんな女の子の事情が分からない先生は、カレンを
近くに招き寄せる。
「昨夜、居間に顔をださなかったんで紹介しそびれたが、もう
一人いたんで、紹介しておくよ。……おいで……リチャードだ」
先生は男の子を呼び寄せカレンに引き合わせてくれた。
それに対してカレンは、いつもの笑顔ではなく、戸惑いながら
一言、「はい」と力なく答える。
誰かを紹介されること自体、特別なことではない。これまでだ
ってたくさんの子供たちを紹介されてきている。でも、問題は、
その周囲の様子が今までとは少し、いや、だいぶ違っていたから
カレンは戸惑っていた。
何時もなら、たとえ居間でくつろいでいる時だって、ブラウン
先生はこざっぱりとした格好でいる。
ところが、この時の先生はパンツひとつの裸同然の姿。
おまけに、背もたれが倒れるタイプのデッキチェアーに長々と
寝そべって、腰の下には枕まで入れているから、お腹だけが突き
出て見えて、カレンにすればとても卑猥に感じられたのだった。
『サウナの中だからパンツひとつでいるのは当たり前。カレン
だってもうお客さんじゃない。家族なんだからこの姿でもいいん
じゃないか』
先生はきっとそう思っていたのだろう。
しかし、少女にその常識は通じにくかった。
カレンが近寄っても先生は上体すら起こそうとしないし、先生
の足元ではフレデリックが木のへらを玩具がわりに遊んでいるし、
枕元ではロベルトが剃刀片手に何だかニヤニヤ笑っている。
こんな光景、カレンにとっては不気味と言う他ない。
「リチャードです」
汗に濡れた手を差し出したのはまたしても年下の少年。12歳
だという。子供と言ってしまえばそれまでだが、やはり身に着け
ているのはパンツだけ。
カレンは目のやり場に困った。
もちろん、だから何かが起こるというわけではない。ただ、女
の子にしてみると、それだけで、何やら得体の知れない圧迫感の
ようなものを感じて不安なのだ。
「はじめましてリチャード、私がカレンよ」
震える言葉が今の彼女の心を表している。
ただ、そうしたことを、ここにいる男性たちは誰一人気づいて
いないのも確かだった。
「そういえば、リチャード。昨夜は夕食のあと、部屋に戻った
みたいだが、何かしてたのかね?」
「詩を書いてたんです。村のお祭りで発表する。村を称える詩」
「ああそうか、君に頼んでいたね。何か、面白いフレーズでも
思いついたのかね?」
「そういうわけでもないけど……アンお姉ちゃまも今は忙しい
し……自分で考えて……」
「そうだな、でも、何か出来たんだろう?詠んでみなさい」
ブラウン先生に勧められて、リチャードは自作の詩を詠み始め
る。
「故郷に連なる山々は若草色の思い出か。今朝、暁に連なりし、
紫雲(むらさきぐも)は神々の幼き使いの子供たち、彼らの寝床
と覚えたり。見よや光臨。光の帯を滑り来て、父より受けし祝福
を晴れたる空に轟かす。木陰のリスよ、谷間の百合よ、川辺の熊
も露草も、皆この楽園に我らと生きん」
リチャードが詩を吟じている間、カレンは仕事に戻った男達を
観察していた。
フレデリックは、先生の大きな足の指を揉みながら持っている
木のへらで土踏まずの辺りを一生懸命マッサージしている。結構、
力仕事だ。
一方、ロベルトはというと、こちらは先生の顎に石けんを塗り
ながら剃刀で髭を剃っている。繊細な仕事。とても真剣な表情だ。
そして、ブラウン先生はというと、その男の子たち三人の仕事
ぶりを満足した様子で受け入れ、なされるままにして寝そべって
いた。
そんなだらしない先生がこんな事を言うのである。
「カレン、あなたは、どうやら男のこんな姿を見たことがない
ようですね」
「いえ」
カレンは思わず嘘を言ってしまう。
寝そべったままの先生に、それは分かっていたようだったが、
それを責めるつもりはなかった。
「あなたの顔には、『男性はいつも雄雄しいものだ』と書いて
ありますよ」
「えっ!?」
「(ははは)図星でしたか」
先生はにこやかに笑ってからこうも続けた。
「でもね、そういつも雄雄しい姿ばかりじゃ、男だって疲れて
仕方がありませんよ。むしろ、だらしのない姿をしている時の方
が多いんです。ただ女性の前では極力そうした姿を見せないよう
にしているだけ。雄雄しい男なんて見栄、男の見栄です」
先生はそこまで言って、ようやく上半身をデッキチェアーから
起こした。
「もし、あなたが他の家の人なら、ここへは入れないでしょう。
でも、あなたは、すでにここの家族なんですから、こうしたこと
には慣れるしかありませんよ」
「はい、先生」
カレンは先生に求められるまま、持ってきたバスタオルを渡す。
「私は、あなたがお父様とどんな家庭生活を送っていたか知り
ませんけど、ここにはここのルールがあります。恥ずかしいこと
も共有できるから家族なんですよ……」
ブラウン先生はカレンからバスタオルを受け取りしな、さらり
と言いのけたが、これには『あなただって、家族の中では外では
起こりえないような恥ずかしい思いをすることがあるんですよ』
と言っていたのである。
「あなたは若い女性だから、この年寄りの身体を到底理解しえ
ないでしょうが、年をとるね、足の裏のマッサージとあごひげの
逆剃りを同時にやってもらうと、天にも昇る心地なんです。……
朝はね、これがないと始まらないんですよ」
先生はそんな朝の習慣をどこか自慢げに語ると、バスタオルで
体を拭いてバスローブに着替える。
ただ、その際……
「カレン、さっき詠んだリチャードの詩。月並みで感動もない
駄作に思えるかもしれませんが、君の方であれに曲を乗せてくれ
ませんか」
「えっ……」
いきなりの提案にカレンが動揺すると……
「アンはまだこれからも忙しいだろうし、ああいう詩につける
メロディーは、男なんかに頼むより、君の方がよほどいいものが
できるような気がするんですよ」
「えっ……そんな……わたし、そんな事したことないし……」
カレンは突然の提案にただただ戸惑い、断ろうとするのだが…
「いいですかカレン。誰だって『最初』ってあるものなんです。
このロベルトだって、最初に髭剃りを頼んだ時は手が震えて私も
怖くて仕方がありませんでしたけどね、今では床屋顔負けの腕だ。
特にこの子の深剃りは絶品でね、まるで女性と抱きあっ……あ、
いや、……とにかく慣れですよ。君ならできますから……」
「でも……」
「大丈夫、まだ一週間もある。気にしないで……」
「気にしないでって……えっ、そんなにすぐに……」
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか。君ならこんな
こと、一時間もあればできることなんだから」
ブラウン先生は呆然とするカレンに得意の笑顔を振りまくと、
大きな顔を近づけてきて有無も言わさずという感じで迫ってくる。
だから、ほとんど弾みで……
「は……はい、やってみます」
狼に睨まれた子羊のようにカレンは小さな声で答えてしまう。
笑顔の先生の押しの強さに押し切られた格好だが……
おまけに……
「あっ、そうだ、今日はアンの演奏を聞きに行きますからね。
カレン、あなたも着いていらっしゃい。きっと、心に残る名演奏
が聞けますよ」
……ということで、その話は実質的には一週間すらなかったの
である。
****************************
ブラウン家の朝の食卓は夕食の時と同じ。まずチビちゃんたち
が大人達のお膝の上でお給仕を受けながら食事をしたあと、大人
たちがゆっくりご飯を食べるというスタイルだ。
その席には今日の主役、アンも来ていた。彼女だって、この家
の年長の子供なわけだから、他の妹たちの食事の面倒をみている。
それはコンクール当日でも変わらなかった。
その様子に何か特別おかしなことがあるわけではなかったが、
カレンが目を合せようとすると、アンの方がわざとそれを外して
いるような気がしてならない。
『わたし、嫌われてるのかなあ……たしかに、昨日一度会った
きりだし、特別親しいわけじゃないから……でも、ひょっとして
先生に命じられて私の前で裸になったことを気にしてるのかしら
……』
カレンもそのことは依然として気になっていた。
「アン、今日は、もちろん私は行くつもりだが、他の子たちは
お前が気にするようなら遠慮させるよ」
ブラウン先生は穏やかに尋ねたが……
「大丈夫です。どうせ、舞台からは観客席に誰が座っていても
見えませんから……」
彼女は、膝に乗せたサリーの口にスプーンを運び入れながらも、
どこかそっけなく答えた。
そんなアンの気持をコールドウェル先生が代弁する。
「大丈夫ですわ。先生。アンもこれで少しは度胸が付きました
のよ。今回は、そんな一皮向けたアンの姿をご覧に入れることが
出来ると思いましてよ」
「そうですか、それは楽しみですね」
ブラウン先生の言葉にアンが微妙に反応したのが、カレンには
わかった。
『そうか、この子、気が弱いんだ。……でも、そんな子を私の
前で裸にしたりして……誰かが、荒療治だって言ってたけど……
あれって度胸をつけさせるためだったのかしら?……でも、それ
って大丈夫なの?……かえって萎縮したりしないのかしら……』
カレンは他人事ながら心配になった。
結局、アンが参加するコンクールへの応援部隊は、13歳以上
の子供達や彼女に関わっている学校の先生や家庭教師、女中頭の
アンナや庭師のニーナ・スミスまで総勢14名。
もちろん、コールドウェル先生も一緒だった。
山を馬車で下りると、駐車場にマイクロバスが止まっていて、
それに乗り換えて街の公会堂へと向かう。
公会堂は古い建物で、楽屋側から見ると電気の配線はむき出し
になっているし、水道管が漏水して壁のいたるところで水が染み
出している。
そんなオンボロでも近在では一番の大きな建物だった。
時計台の時計は正確に時刻を刻んでいたし、ステンドグラスも
街のボランティアによって常に綺麗に磨き上げられている。正面
玄関の床を飾る大理石だって、どこにも剥げたところがなかった
から、観客の側から見る限りどこにも不足のない建物だったので
ある。
だから、ピアノコンクールの地方予選も会場は決まってここが
使われていたのだった。
会場に到着するとブラウン先生はこの地方の名士たちと挨拶を
交わす。職業柄、この手の人たちを無視できない彼は子供たちを
アンナにまかせて、まずはロビーで繰り広げられる社交の場へと
赴くのだ。
そんな彼の仕事場へ、なぜかカレンだけは一緒に来るようにと
指示されたのである。
ラックスマン教授、ビーアマン先生、エリアス婦人、ホフマン
博士、次々と握手を交わしていくと、彼らはそのつどアンと同じ
ように「彼女は何者か?」と尋ねるのだった。
すると、先生は、はにかんだように、しかし、少し毒をもった
言い回しで……
「(はははは)最近、手に入れた眠り薬です。どうやら、私も
歳をとったせいか睡眠薬がないと寝つきが悪くなってしまいまし
てね。この子のピアノがその薬代わりというわけです」
こんな事を言えば相手がどんな反応を示すか、勿論、ブラウン
先生は承知していた。
そう、アンのついでにカレンもこれら名士たちに顔見せさせて、
何かの折には売り込んでみよう、そんな下心があったようだった。
もちろん、これは、カレンが売れるだけのものを持っていると
踏んでのこと。誰にでもこんなことをするわけではない。
そんなことは知らないカレンは、ただただ機械的に紹介された
相手と握手をして回っていたのだが……
そのなかで一人だけ、ハンスという名の青年にだけは他の人達
とは別の感情を抱いて握手を交わしたのである。
カレンは先生の隣りに席を占め、演奏会は定刻に始まったが、
誰もが名演を繰り広げたというわけにはいかなかった。地方予選
という性格上、個々の技能に大きなばらつきがあるからだ。
しかし、ブラウン先生はどんなピアノを聴いても眉ひとつ動か
さない。それどころか、どんなに稚拙でお粗末な演奏に対しても
惜しみない拍手と笑顔を送るのだ。
それは彼の職業的な義務でもあったからだが、むしろ、聞くに
値する演奏に出くわすと、先生の視線がとたんに厳しくなるから、
隣りのカレンにしてみれば、先生の評価基準のようなものがおぼ
ろげながら見えてきて楽しい時間だったのである。
『ハンスだわ』
そんななか、さっき握手を交わしたハンスが舞台に上がった。
面長の顔は目鼻立ちがはっきりしていて肩まで髪を伸ばしている。
自分とは同じ歳。でも、なぜかとても大人にみえる少年だった。
『軽くハンドキスされたからかもしれない。……でも、なぜ、
今もこの手は震えているのだろう』
カレンは舞台上のハンスを見て思う。
『思えば、ハンスだけじゃない。ラルフにも、ロベルトにも、
心がときめいた。私の身体って……いい男と見れば誰に対しても
ときめいてしまうのだろうか。それって淫乱ってことじゃないの』
カレンはそっと心の中で自戒する。
でも、それはカレンが十六の歳まで男の子を好きになれるよう
な環境になかったから起こっているだけのこと。清楚に見えるが、
彼女の心の中は、『男への免疫がない』『警戒心がない』『誰もが
白馬の王子様に見える』という幼い少女のものだったのである。
もちろん、ブラウン先生やフレデリックまでもその対象にして
いるわけではないのだが……
「……………………」
カレンはハンスの演奏が熱を帯びるたびに、自分の身体もその
心棒が熱くなっていくのを感じる。正確には音楽そのものという
より、演奏する彼の姿を見ていて、胸も、お腹も、その下も……
身体の全てで、吹き荒れる若い性の嵐を抑えることができないで
いたのだった。
仮に、部屋に独りでいて、彼の演奏する姿をテレビを見ていた
ら……ひょっとして彼女はオナニーをしていたかもしれなかった。
『先生の目が厳しいわ。きっと、彼、いい演奏をしてるのね』
彼女は上気した自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、先生の
顔をそっと覗きこんでは納得するのだ。
そして、いよいよ最後は、アンの登場。
「いよいよです。緊張しないですんなり入れるといいですけど
ね」ブラウン先生はそう言ったあと、思い出したようにカレンに
尋ねる。「……おっ、そうだ、コールドウェル先生が、あなたの
スカーフをどうとか言ってましたよ。しばらくお借りしますとか
……」
カレンはすぐにその事に思い当たった。昨日、アンのレッスン
を見学した際、そこに赤いスカーを忘れていったのだ。
折があれば再びアンの所へ行って返してもらおうと思っていた
のだが……
「……(えっ!!あれ、わたしの)……」
カレンはそのスカーフを思いもよらない場所で再発見するので
ある。
アンは白いワンピース姿で登場したが、本来なら何も手にして
いないはずの手に、そのスカーフがさりげなく握られているでは
ないか。
「(どうして?)」
カレンの疑問をよそに彼女は場内のお客様方に軽く一礼すると、
カレンのスカーフを椅子の上に置いて、その上に腰を下ろす。
そうやって、やおら、ピアノを弾き始めたのである。
op.58、第1楽章。
「……(すっ……すごい)……」
カレンはたちまちアンのピアノに圧倒される。
彼女は、今、おろしたての白いワンピースを着て、ショパンの
ピアノソナタ第3番を弾いている。
しかし、彼女にとって、それは重要なことではなかった。
どんな晴れやか衣装も、どんなに難しい曲も、大勢の観客さえ
も、いったんピアノに取りついた彼女にとっては、その先はどう
でもよいことだったのだ。
『カレンという女をお尻に敷いて、自分の音楽をその耳の奥へ、
一番奥までねじ入れるんだ』
彼女にとって大事なことはそれだけ。それだけのためにピアノ
を弾いていたのである。
「(ピアノが自分で鳴ってるわ。アンが、どこにも見えない。
彼女、ピアノと完全に同化してるんだわ)」
カレンはアンのピアノに心の奥底で狼狽する。しかし、それは
不幸を感じておろおろしているのではない。むしろ、喜びに心が
乱舞しているのだ。
「(これが、天才と言われるアンのピアノなのね。私、たとえ今、
彼女が裸でピアノを弾いていても、その姿を見ることなんてでき
ないわ。だって、私の頭の中には、ピアノと一体になって奏でる
アンの音だけしか入ってこないもの)」
その衝撃はカレンにとって、ハンスの時とはまったく対照的な
感動だったのである。
「(終わったのね)」
カレンは拍手さえ忘れて椅子に座っていた。
まるでノックアウトされたボクサーのようなうつろな目をして
いるカレンに向かってブラウン先生が尋ねた。
「どうですか?アンのピアノは……」
「ええ、……すごいんですね。……アンさんのピアノって……」
「ええ、凄いんですよ。だから天才なんです。ただ、天才って、
なまじ才能が有り余ってるせいか移り気でしてね、なかなか一つ
の事に集中できないんです。それを今回は、あなたが物の見事に
集中させてくれた。私からも感謝感謝ですよ」
ブラウン先生は、アンの演奏が終わった後も放心状態のカレン
の手をとって、満面の笑みを浮かべるのだった。
*******************(1)******
第6章 同床異夢のピアニスト
************<登場人物>**********
(お話の主人公)
トーマス・ブラウン
……音楽評論家。多くの演奏会を成功させる名プロデューサー。
ラルフ・モーガン
……先生の助手。腕のよくない調律師でもある。
カレン・アンダーソン
……内戦に巻き込まれて父と離ればなれになった少女。
(先生の<ブラウン>家の人たち)ウォーヴィランという山の中
の田舎町。カレニア山荘
<使用人>
ニーナ・スミス
……先生の家の庭師。初老の婦人。とても上品
ベス
……先生の家の子守。先生から子供たちへの懲罰権を得ている。
ダニー
……下男(?)カレニア山荘の補修や力仕事をしている。
アンナ
……カレニア山荘で長年女中をしている。
グラハム
……カレンの前のピアニスト
<里子たち>
リサ
……(2歳)まだオムツの取れない赤ちゃん。
サリー
……(4歳)人懐っこい女の子。
パティー
……(6歳)おとなしいよい子、寂しがり屋。
マリア
……(8歳)品の良いお嬢さんタイプ
キャシー
……(10歳)他の子のお仕置きを見たがる。
アン
……(14歳)夢多き乙女。夢想癖がやや気になる。
ロベルト
……(13歳)端整な顔立ちの少年
フレデリック
……(11歳)やんちゃな悪戯っ子。
リチャード
……(12歳)ポエムや絵画が好きな心優しい子。
<先生たち>
ヒギンズ先生
……子供たちの家庭教師。普段は穏和だが、怒ると恐い。
コールドウェル先生
……音楽の先生。ピアノの他、フルートなどもこなす。
シーハン先生
……子供たちの国語とギリシャ語の先生。
アンカー先生
……絵の先生。
コモンズ先生
……数学の先生
マルセル先生
……家庭科の先生
<先生のお友達/ライバル>
ラックスマン教授
ビーアマン先生
エリアス婦人
ホフマン博士
ハンス
****************************
§1 朝の習慣 / 天才アンのピアノ
窓が明るくなる頃、カレンは目を覚ました。
そして、ベッドに上半身だけを起こすと、ふっとため息をつく。
『朝、何をするのか聞いてなかったわ』
彼女は仕方なく台所へ。
もちろん、もう女中ではないと知らされていたが、そこに行け
ば『何をすればいいのか分かるかもしれないし、分からなくても
そこを手伝えばいい』と考えたのだ。
「あら、カレン。もっとゆっくり寝ていればいいのに……」
台所へ入るとさっそくアンナが声をかけてくれる。
「……何なら、朝は食事を運んであげてもいいのよ」
こう言われて、カレンは頬をポッと赤くなる。
そんな身分でないことは分かってるし、からかわれたと思った
のだ。
だから、エプロンをしてそこで朝の仕度を手伝った。
何よりこうしていることが、カレンには楽だったのである。
そんな、五、六人が忙しく働く台所に若いメイドが駆け込んで
来て……
「ねえ、誰か先生の処へバスタオルを持って行ってくれない」
彼女はそう言いながらカレンに目を止める。
「ねえ、あなた、持って行ってくれる。今髭剃り中だから……
西の廊下をまっすぐ行った突き当りにバスルームがあって、……
先生はたいていそこだから……」
カレンは、若いメイドにバスタオルを二枚押し付けられると、
そのバスタオルを抱えて廊下を渡る。たしかにその突き当たりの
部屋では人の気配がしていた。
ガラス戸に人影が映ったので、戸の外から……
「カレンです。バスタオルを二枚お持ちしました」
と言うと……
「お~カレン、入ってきなさい」
耳慣れた先生の声がした。
そこで、戸を開けてみると、中には多くの男性……といっても
先生以外は自分より年下の子たちなのだが、蒸し風呂の熱気の中、
そこは男の体臭でむせ返っていた。
カレンは思わずのけぞる。顔をしかめて、こんな処はさっさと
用を済ませて抜け出そうと思った。
ところが、そんな女の子の事情が分からない先生は、カレンを
近くに招き寄せる。
「昨夜、居間に顔をださなかったんで紹介しそびれたが、もう
一人いたんで、紹介しておくよ。……おいで……リチャードだ」
先生は男の子を呼び寄せカレンに引き合わせてくれた。
それに対してカレンは、いつもの笑顔ではなく、戸惑いながら
一言、「はい」と力なく答える。
誰かを紹介されること自体、特別なことではない。これまでだ
ってたくさんの子供たちを紹介されてきている。でも、問題は、
その周囲の様子が今までとは少し、いや、だいぶ違っていたから
カレンは戸惑っていた。
何時もなら、たとえ居間でくつろいでいる時だって、ブラウン
先生はこざっぱりとした格好でいる。
ところが、この時の先生はパンツひとつの裸同然の姿。
おまけに、背もたれが倒れるタイプのデッキチェアーに長々と
寝そべって、腰の下には枕まで入れているから、お腹だけが突き
出て見えて、カレンにすればとても卑猥に感じられたのだった。
『サウナの中だからパンツひとつでいるのは当たり前。カレン
だってもうお客さんじゃない。家族なんだからこの姿でもいいん
じゃないか』
先生はきっとそう思っていたのだろう。
しかし、少女にその常識は通じにくかった。
カレンが近寄っても先生は上体すら起こそうとしないし、先生
の足元ではフレデリックが木のへらを玩具がわりに遊んでいるし、
枕元ではロベルトが剃刀片手に何だかニヤニヤ笑っている。
こんな光景、カレンにとっては不気味と言う他ない。
「リチャードです」
汗に濡れた手を差し出したのはまたしても年下の少年。12歳
だという。子供と言ってしまえばそれまでだが、やはり身に着け
ているのはパンツだけ。
カレンは目のやり場に困った。
もちろん、だから何かが起こるというわけではない。ただ、女
の子にしてみると、それだけで、何やら得体の知れない圧迫感の
ようなものを感じて不安なのだ。
「はじめましてリチャード、私がカレンよ」
震える言葉が今の彼女の心を表している。
ただ、そうしたことを、ここにいる男性たちは誰一人気づいて
いないのも確かだった。
「そういえば、リチャード。昨夜は夕食のあと、部屋に戻った
みたいだが、何かしてたのかね?」
「詩を書いてたんです。村のお祭りで発表する。村を称える詩」
「ああそうか、君に頼んでいたね。何か、面白いフレーズでも
思いついたのかね?」
「そういうわけでもないけど……アンお姉ちゃまも今は忙しい
し……自分で考えて……」
「そうだな、でも、何か出来たんだろう?詠んでみなさい」
ブラウン先生に勧められて、リチャードは自作の詩を詠み始め
る。
「故郷に連なる山々は若草色の思い出か。今朝、暁に連なりし、
紫雲(むらさきぐも)は神々の幼き使いの子供たち、彼らの寝床
と覚えたり。見よや光臨。光の帯を滑り来て、父より受けし祝福
を晴れたる空に轟かす。木陰のリスよ、谷間の百合よ、川辺の熊
も露草も、皆この楽園に我らと生きん」
リチャードが詩を吟じている間、カレンは仕事に戻った男達を
観察していた。
フレデリックは、先生の大きな足の指を揉みながら持っている
木のへらで土踏まずの辺りを一生懸命マッサージしている。結構、
力仕事だ。
一方、ロベルトはというと、こちらは先生の顎に石けんを塗り
ながら剃刀で髭を剃っている。繊細な仕事。とても真剣な表情だ。
そして、ブラウン先生はというと、その男の子たち三人の仕事
ぶりを満足した様子で受け入れ、なされるままにして寝そべって
いた。
そんなだらしない先生がこんな事を言うのである。
「カレン、あなたは、どうやら男のこんな姿を見たことがない
ようですね」
「いえ」
カレンは思わず嘘を言ってしまう。
寝そべったままの先生に、それは分かっていたようだったが、
それを責めるつもりはなかった。
「あなたの顔には、『男性はいつも雄雄しいものだ』と書いて
ありますよ」
「えっ!?」
「(ははは)図星でしたか」
先生はにこやかに笑ってからこうも続けた。
「でもね、そういつも雄雄しい姿ばかりじゃ、男だって疲れて
仕方がありませんよ。むしろ、だらしのない姿をしている時の方
が多いんです。ただ女性の前では極力そうした姿を見せないよう
にしているだけ。雄雄しい男なんて見栄、男の見栄です」
先生はそこまで言って、ようやく上半身をデッキチェアーから
起こした。
「もし、あなたが他の家の人なら、ここへは入れないでしょう。
でも、あなたは、すでにここの家族なんですから、こうしたこと
には慣れるしかありませんよ」
「はい、先生」
カレンは先生に求められるまま、持ってきたバスタオルを渡す。
「私は、あなたがお父様とどんな家庭生活を送っていたか知り
ませんけど、ここにはここのルールがあります。恥ずかしいこと
も共有できるから家族なんですよ……」
ブラウン先生はカレンからバスタオルを受け取りしな、さらり
と言いのけたが、これには『あなただって、家族の中では外では
起こりえないような恥ずかしい思いをすることがあるんですよ』
と言っていたのである。
「あなたは若い女性だから、この年寄りの身体を到底理解しえ
ないでしょうが、年をとるね、足の裏のマッサージとあごひげの
逆剃りを同時にやってもらうと、天にも昇る心地なんです。……
朝はね、これがないと始まらないんですよ」
先生はそんな朝の習慣をどこか自慢げに語ると、バスタオルで
体を拭いてバスローブに着替える。
ただ、その際……
「カレン、さっき詠んだリチャードの詩。月並みで感動もない
駄作に思えるかもしれませんが、君の方であれに曲を乗せてくれ
ませんか」
「えっ……」
いきなりの提案にカレンが動揺すると……
「アンはまだこれからも忙しいだろうし、ああいう詩につける
メロディーは、男なんかに頼むより、君の方がよほどいいものが
できるような気がするんですよ」
「えっ……そんな……わたし、そんな事したことないし……」
カレンは突然の提案にただただ戸惑い、断ろうとするのだが…
「いいですかカレン。誰だって『最初』ってあるものなんです。
このロベルトだって、最初に髭剃りを頼んだ時は手が震えて私も
怖くて仕方がありませんでしたけどね、今では床屋顔負けの腕だ。
特にこの子の深剃りは絶品でね、まるで女性と抱きあっ……あ、
いや、……とにかく慣れですよ。君ならできますから……」
「でも……」
「大丈夫、まだ一週間もある。気にしないで……」
「気にしないでって……えっ、そんなにすぐに……」
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか。君ならこんな
こと、一時間もあればできることなんだから」
ブラウン先生は呆然とするカレンに得意の笑顔を振りまくと、
大きな顔を近づけてきて有無も言わさずという感じで迫ってくる。
だから、ほとんど弾みで……
「は……はい、やってみます」
狼に睨まれた子羊のようにカレンは小さな声で答えてしまう。
笑顔の先生の押しの強さに押し切られた格好だが……
おまけに……
「あっ、そうだ、今日はアンの演奏を聞きに行きますからね。
カレン、あなたも着いていらっしゃい。きっと、心に残る名演奏
が聞けますよ」
……ということで、その話は実質的には一週間すらなかったの
である。
****************************
ブラウン家の朝の食卓は夕食の時と同じ。まずチビちゃんたち
が大人達のお膝の上でお給仕を受けながら食事をしたあと、大人
たちがゆっくりご飯を食べるというスタイルだ。
その席には今日の主役、アンも来ていた。彼女だって、この家
の年長の子供なわけだから、他の妹たちの食事の面倒をみている。
それはコンクール当日でも変わらなかった。
その様子に何か特別おかしなことがあるわけではなかったが、
カレンが目を合せようとすると、アンの方がわざとそれを外して
いるような気がしてならない。
『わたし、嫌われてるのかなあ……たしかに、昨日一度会った
きりだし、特別親しいわけじゃないから……でも、ひょっとして
先生に命じられて私の前で裸になったことを気にしてるのかしら
……』
カレンもそのことは依然として気になっていた。
「アン、今日は、もちろん私は行くつもりだが、他の子たちは
お前が気にするようなら遠慮させるよ」
ブラウン先生は穏やかに尋ねたが……
「大丈夫です。どうせ、舞台からは観客席に誰が座っていても
見えませんから……」
彼女は、膝に乗せたサリーの口にスプーンを運び入れながらも、
どこかそっけなく答えた。
そんなアンの気持をコールドウェル先生が代弁する。
「大丈夫ですわ。先生。アンもこれで少しは度胸が付きました
のよ。今回は、そんな一皮向けたアンの姿をご覧に入れることが
出来ると思いましてよ」
「そうですか、それは楽しみですね」
ブラウン先生の言葉にアンが微妙に反応したのが、カレンには
わかった。
『そうか、この子、気が弱いんだ。……でも、そんな子を私の
前で裸にしたりして……誰かが、荒療治だって言ってたけど……
あれって度胸をつけさせるためだったのかしら?……でも、それ
って大丈夫なの?……かえって萎縮したりしないのかしら……』
カレンは他人事ながら心配になった。
結局、アンが参加するコンクールへの応援部隊は、13歳以上
の子供達や彼女に関わっている学校の先生や家庭教師、女中頭の
アンナや庭師のニーナ・スミスまで総勢14名。
もちろん、コールドウェル先生も一緒だった。
山を馬車で下りると、駐車場にマイクロバスが止まっていて、
それに乗り換えて街の公会堂へと向かう。
公会堂は古い建物で、楽屋側から見ると電気の配線はむき出し
になっているし、水道管が漏水して壁のいたるところで水が染み
出している。
そんなオンボロでも近在では一番の大きな建物だった。
時計台の時計は正確に時刻を刻んでいたし、ステンドグラスも
街のボランティアによって常に綺麗に磨き上げられている。正面
玄関の床を飾る大理石だって、どこにも剥げたところがなかった
から、観客の側から見る限りどこにも不足のない建物だったので
ある。
だから、ピアノコンクールの地方予選も会場は決まってここが
使われていたのだった。
会場に到着するとブラウン先生はこの地方の名士たちと挨拶を
交わす。職業柄、この手の人たちを無視できない彼は子供たちを
アンナにまかせて、まずはロビーで繰り広げられる社交の場へと
赴くのだ。
そんな彼の仕事場へ、なぜかカレンだけは一緒に来るようにと
指示されたのである。
ラックスマン教授、ビーアマン先生、エリアス婦人、ホフマン
博士、次々と握手を交わしていくと、彼らはそのつどアンと同じ
ように「彼女は何者か?」と尋ねるのだった。
すると、先生は、はにかんだように、しかし、少し毒をもった
言い回しで……
「(はははは)最近、手に入れた眠り薬です。どうやら、私も
歳をとったせいか睡眠薬がないと寝つきが悪くなってしまいまし
てね。この子のピアノがその薬代わりというわけです」
こんな事を言えば相手がどんな反応を示すか、勿論、ブラウン
先生は承知していた。
そう、アンのついでにカレンもこれら名士たちに顔見せさせて、
何かの折には売り込んでみよう、そんな下心があったようだった。
もちろん、これは、カレンが売れるだけのものを持っていると
踏んでのこと。誰にでもこんなことをするわけではない。
そんなことは知らないカレンは、ただただ機械的に紹介された
相手と握手をして回っていたのだが……
そのなかで一人だけ、ハンスという名の青年にだけは他の人達
とは別の感情を抱いて握手を交わしたのである。
カレンは先生の隣りに席を占め、演奏会は定刻に始まったが、
誰もが名演を繰り広げたというわけにはいかなかった。地方予選
という性格上、個々の技能に大きなばらつきがあるからだ。
しかし、ブラウン先生はどんなピアノを聴いても眉ひとつ動か
さない。それどころか、どんなに稚拙でお粗末な演奏に対しても
惜しみない拍手と笑顔を送るのだ。
それは彼の職業的な義務でもあったからだが、むしろ、聞くに
値する演奏に出くわすと、先生の視線がとたんに厳しくなるから、
隣りのカレンにしてみれば、先生の評価基準のようなものがおぼ
ろげながら見えてきて楽しい時間だったのである。
『ハンスだわ』
そんななか、さっき握手を交わしたハンスが舞台に上がった。
面長の顔は目鼻立ちがはっきりしていて肩まで髪を伸ばしている。
自分とは同じ歳。でも、なぜかとても大人にみえる少年だった。
『軽くハンドキスされたからかもしれない。……でも、なぜ、
今もこの手は震えているのだろう』
カレンは舞台上のハンスを見て思う。
『思えば、ハンスだけじゃない。ラルフにも、ロベルトにも、
心がときめいた。私の身体って……いい男と見れば誰に対しても
ときめいてしまうのだろうか。それって淫乱ってことじゃないの』
カレンはそっと心の中で自戒する。
でも、それはカレンが十六の歳まで男の子を好きになれるよう
な環境になかったから起こっているだけのこと。清楚に見えるが、
彼女の心の中は、『男への免疫がない』『警戒心がない』『誰もが
白馬の王子様に見える』という幼い少女のものだったのである。
もちろん、ブラウン先生やフレデリックまでもその対象にして
いるわけではないのだが……
「……………………」
カレンはハンスの演奏が熱を帯びるたびに、自分の身体もその
心棒が熱くなっていくのを感じる。正確には音楽そのものという
より、演奏する彼の姿を見ていて、胸も、お腹も、その下も……
身体の全てで、吹き荒れる若い性の嵐を抑えることができないで
いたのだった。
仮に、部屋に独りでいて、彼の演奏する姿をテレビを見ていた
ら……ひょっとして彼女はオナニーをしていたかもしれなかった。
『先生の目が厳しいわ。きっと、彼、いい演奏をしてるのね』
彼女は上気した自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、先生の
顔をそっと覗きこんでは納得するのだ。
そして、いよいよ最後は、アンの登場。
「いよいよです。緊張しないですんなり入れるといいですけど
ね」ブラウン先生はそう言ったあと、思い出したようにカレンに
尋ねる。「……おっ、そうだ、コールドウェル先生が、あなたの
スカーフをどうとか言ってましたよ。しばらくお借りしますとか
……」
カレンはすぐにその事に思い当たった。昨日、アンのレッスン
を見学した際、そこに赤いスカーを忘れていったのだ。
折があれば再びアンの所へ行って返してもらおうと思っていた
のだが……
「……(えっ!!あれ、わたしの)……」
カレンはそのスカーフを思いもよらない場所で再発見するので
ある。
アンは白いワンピース姿で登場したが、本来なら何も手にして
いないはずの手に、そのスカーフがさりげなく握られているでは
ないか。
「(どうして?)」
カレンの疑問をよそに彼女は場内のお客様方に軽く一礼すると、
カレンのスカーフを椅子の上に置いて、その上に腰を下ろす。
そうやって、やおら、ピアノを弾き始めたのである。
op.58、第1楽章。
「……(すっ……すごい)……」
カレンはたちまちアンのピアノに圧倒される。
彼女は、今、おろしたての白いワンピースを着て、ショパンの
ピアノソナタ第3番を弾いている。
しかし、彼女にとって、それは重要なことではなかった。
どんな晴れやか衣装も、どんなに難しい曲も、大勢の観客さえ
も、いったんピアノに取りついた彼女にとっては、その先はどう
でもよいことだったのだ。
『カレンという女をお尻に敷いて、自分の音楽をその耳の奥へ、
一番奥までねじ入れるんだ』
彼女にとって大事なことはそれだけ。それだけのためにピアノ
を弾いていたのである。
「(ピアノが自分で鳴ってるわ。アンが、どこにも見えない。
彼女、ピアノと完全に同化してるんだわ)」
カレンはアンのピアノに心の奥底で狼狽する。しかし、それは
不幸を感じておろおろしているのではない。むしろ、喜びに心が
乱舞しているのだ。
「(これが、天才と言われるアンのピアノなのね。私、たとえ今、
彼女が裸でピアノを弾いていても、その姿を見ることなんてでき
ないわ。だって、私の頭の中には、ピアノと一体になって奏でる
アンの音だけしか入ってこないもの)」
その衝撃はカレンにとって、ハンスの時とはまったく対照的な
感動だったのである。
「(終わったのね)」
カレンは拍手さえ忘れて椅子に座っていた。
まるでノックアウトされたボクサーのようなうつろな目をして
いるカレンに向かってブラウン先生が尋ねた。
「どうですか?アンのピアノは……」
「ええ、……すごいんですね。……アンさんのピアノって……」
「ええ、凄いんですよ。だから天才なんです。ただ、天才って、
なまじ才能が有り余ってるせいか移り気でしてね、なかなか一つ
の事に集中できないんです。それを今回は、あなたが物の見事に
集中させてくれた。私からも感謝感謝ですよ」
ブラウン先生は、アンの演奏が終わった後も放心状態のカレン
の手をとって、満面の笑みを浮かべるのだった。
*******************(1)******
第5章 / §3 月下に流れるショパンの曲(2)
<< カレンのミサ曲 >>
第5章 ブラウン家の食卓
§3/月下に流れるショパンの曲(2)
「アリス、大丈夫ですか?」
ブラウン先生はすぐさまアリスを抱きかかえてくれたが、彼女
は先生の差し出すその手を遠慮して自ら起き上がる。
「ごめんなさい。カエルは苦手なんです」
アリスは青い顔でソファに座りなおすと自分の心臓が今も動い
ていることを確認してほっとした様子だった。
「リック、謝りなさい」
ブラウン先生が叱っても、リックはカレンにあげたはずの蛙を
手のひらに収めなおすと、その子を愛おしく観察しながら、少し
頬を膨らまして立っている。
しかし、ロベルトがリックの両肩を掴むと、彼は渋々カレンに
頭を下げた。
「ごめんなさい」
もちろん、謝ったのはリックだが、アリスにはその後ろに立つ
ロベルトが謝ってくれたようで、心を落ち着けることができたの
である。
「カレン、ダージリンを飲みますか?気持が落ち着きますよ」
「いえ、結構です」
「では、部屋に戻りますか?今日は、この子たちにもあなたの
ピアノを聞かせてあげようと思ったのですが、それはまたの機会
ということにしましょう」
「……!……」
そんな時だった。ロベルトが奏でるチターのメロディーが居間
に流れ始める。すると、カレンはブラウン先生の親切心にその事
を忘れかけていたが、彼女にはまだ大事な仕事が残っていたのを
思い出したのである。
「大丈夫です。先生、わたし、うまく弾けるかどうか分かりま
せんけど、とにかく弾いてみますから……」
彼女はまだ脈打つ自分の心臓に手を置くと、静かに立ち上がっ
てピアノ椅子に向かう。
すると、ブラウン先生も、これなら大丈夫だと感じたのだろう。
カレンを止めず、彼女の好きにさせたのだった。
「それでは、お願いしましょうか」
話がまとまり、ロベルトのチターの音色がいったん途絶えるが、
アリスはあえてその音色を求めた。
やがてカレンはロベルトの弾く『第三の男』に自らのピアノを
添わせる。そして、ロベルトが演奏をやめた後も、彼の心を引き
継いぐように、今、この瞬間に生まれたばかりのノックターンを
奏で続けたのである。
「(美しい、何て美しい旋律なんだ。でも、これって何という
曲なんだろう)」
ロベルトは思った。彼はカレンのピアノが今という瞬間にしか
聞くことの出来ない儚いものだとは、この時はまだ知らなかった
のである。
思うがままに一曲弾きあげたカレンにブラウン先生が尋ねる。
「ときにカレン、あなたは譜面が書けますか?」
「…………」
カレンは、頭の後ろから聞こえてくる先生の声に恥ずかしそう
に首を振る。
彼女は正規の音楽教育を受けていないから、簡単なメロディー
程度は書けても、細かな表現まで譜面に現すことができなかった
のだ。
「もったいないですね。実にもったいない。これまで、数百、
いや数千の楽曲がビールの泡のように毎晩消えていたとは………
ほらほら、静かにしなさい」
カレンが振り返ると、ブラウン先生は思いもよらない姿になっ
ていた。
キャシーに背中から抱きつかれ、膝にはワンパク小僧を乗せて
いる。そのフレデリックの頭を撫でながら呟いたのだった。
そんな老人の呟きは、間近にいた一人の少年、一人の少女の耳
にも届いたようで……
「あのくらい僕だって弾けるよ」
フレデリックが言えば……キャシーも……
「わたしの方がうまいもん……」
二人は争って先生の身体を離れる。そしてキャシーの方が一歩
早くカレンの膝にのしかかる。
「こら、お行儀が悪いですよ」
ブラウン先生はキャシーをたしなめたがカレンは構わなかった。
そして、今しがた自分で弾いた曲を、再び稚拙なピアノで聞い
たのである。
「どう、ぴったりでしょう」
キャシーは自慢げだが、フレデリックが茶々を入れる。
「嘘だね、そうじゃなかったよ」
彼はキャシーをカレンの膝から剥ぎ取ると、今度は自分がその
椅子に腰掛けようとしたのである。
「えっ!」
カレンは驚く。キャシーとフレデリックでは身体の大きさ重さ
が段違いなのだ。
慌てたカレンが、その場を外れようとすると……
「あっ、けちんぼ、いいじゃないか。僕も抱っこしてよ」
公然と要求したのである。
「フレッド、君はもう大きいんだよ。カレンの迷惑を考えなさ
い」
ブラウン先生に言われて、また口を尖らすので……
「いいわ、でも、あまり激しく動かないでよ」
カレンの方が妥協したのである。
そうやって始まった演奏。
「…………!……………!……………!……………!…………」
フレッドの弾いた曲にカレンは驚いた。夜想曲を弾いたはずの
自分の曲が彼にかかればまるっきりマーチなのだ。音程の怪しい
処、和音を外れる処もあったが、とにかく楽しい。心が浮き浮き
する。
「(人は見かけによらないわね)」
ただこの演奏は何より本人が浮かれていて、重たいお尻を浮か
せては盛んにドスンドスンとやるもんだから、カレンは膝の痛み
に耐えての鑑賞だったのである。
そんな大変な一曲を弾き終わって、フレデリックは満足したの
か、意気揚々、カレンの膝を下りて行く。
「ねえ、お父様、私の演奏、どうだった?」
「ああ、よかったよ。キャシー。だいぶ、耳がよくなったね」
「ほんと!やったあ~~」
「ねえ、僕のは……」
「上手だったよ。相変わらずいいセンスをしているね。どこの
音楽会社からだって編曲の仕事が今すぐにでも舞い込みそうだ」
ブラウン先生は自分に抱きつく二人の子供たちをとにかく褒め
ちぎる。いつもは厳しい先生も、この時ばかりは一人のやさしい
お父さん、好好爺となっていた。
カレンにも当然そんなご機嫌な先生の声は聞こえているから、
『今のうちに…』とでも思ったのだろう。今度はフレデリックの
演奏を自分もまねてみたのである。
そして、それが終わると……
カレンは今の演奏の評価を求めて先生の方を振り返ろうとした。
ところが、そこに思わぬ大きな人影が立っていたものだから……
「えっ!!!」
慌てた彼女はピアノ椅子を飛び退く。
わけも分からず、ただ反射的にカレンは身を引いたのだ。
すると、その人影は何も言わずにカレンが退いた椅子に座り、
さきほど彼女が弾いていた夜想曲を弾き始めた。
そして、その一音一音を確かめるように頭の中に浮かべて感じ
取ると、譜面台の五線紙に音符を載せていくのである。
「ロビン、拾えましたか?」
再びチビちゃんたちの拷問に会っている先生はそう言って尋ね
たが、ロベルトは返事をしなかった。
『まだ、何かが足りない』
そんな不満が、『できました』という答えにならないのだ。
彼は一通り楽譜を書き終えると、その譜面に則してカレンの曲
を弾いてみる。
たしかに、それは、今しがたカレンが弾いた曲に似ている。
カレンもまた……
「(私の弾いた曲だわ)」
と思った。
しかし……
「(何かが違う)」
ただ、その何かは、当のカレンにもわからなかった。
「ん~~~~好い線いってますけどね」
わだかまりの残る二人の中へ満を持して先生がやってきた。
「私がやってみましょうか」
今度はブラウン先生がロビンからピアノの席を奪うと、静かに
カレンの曲を弾き始めた。
「………………………………………………」
「………………………………………………」
唖然とする二人。先生はカレンのノックターンを寸分たがわず
弾いてみせたのである。
カレンは感激する。
「(これだわ、私が、今、弾いたのは)」
そして、それが終わると……
もの凄い勢いで、さっきロビンが仕上げたばかりの楽譜に音楽
記号を書き足していく。殴り書くといった感じで……
「ん~~~そうですねえ~~~こんなものでしょうかね」
結果、単純で耳障りのよさそうなカレンの曲のために、楽譜は
紙が真っ黒になるほどのお玉杓子を乗っける事になったのだった。
「ロビン、あなたにこれが弾けますか?」
ブラウン先生に尋ねられたロベルトはしばらくその楽譜を見て
考えていたが、とうとう首を横に振ってしまう。
「でしょうね、カレンだってそれは同じはずです。彼女にして
も、主旋律くらいは覚えているでしょうが、細かなタッチまでは
すでに忘れてしまうでしょうから。…ですからね、カレンの曲は
厳密には、一生に一度だけ出会う名曲なんです」
「一期一会?」
「そう、カレンはね、その瞬間、瞬間で、今どんな音色が最も
周囲の人を感動させられるかを感じとる能力を持っていて、それ
をピアノで表現しているんです。ですから、僅かでも時が移ろう
と、もう次の瞬間はその音色そのメロディーにはならないんです。
つまり、一期一会というわけです」
「……そんなあ~~、私はただ適当にピアノを叩いているだけ
なんです。そんなこと考えてません」
カレンは、先生の言い方が、まるで自分を化け物のように見て
いる気がして心地よくなかった。
「(はははは)こんなこと、考えてできるもんじゃないよ」
珍しくすねてみせるカレンの姿にブラウン先生は笑う。
しかし、それはカレンには理解できなくてもロビンには感じる
ことのできる感性だったのである。
「つまり、映画のBGMを常に即興で作り出せる能力ってこと
ですか?」
「あなた、うまいこと言いますね。そういうことですよ」
ブラウン先生はやっと出てきた共感者に満足そうな例の笑顔を
浮かべると、こう続けるのである。
「ですからね、細かなことはいいのです。あなたのできる範囲
で……あなたにカレンのピアノを拾ってあげて欲しいんです」
「えっ、僕がですが?」
「そうですよ。他に誰がいるんですか?……まさか、このチビ
ちゃんたちにできる芸当じゃないでしょう」
「僕だってできるよ、それくらい。和音くらい知ってるもん。
コールドウェル先生に作曲の仕方も習ったんだから……」
フレデリックは先生の袖を引いたが、ブラウン先生は彼の頭を
撫でただけ。
一方、驚いたロビンは……
「それって、毎晩ですか?」
「そうです。いい耳の訓練になると思いますよ」
「だって、そういったことは先生ご自身がなさった方が……」
ロベルトが不満げにこう言うと……
「…………」先生はことさら渋い顔になってロビンを見つめる。
それは引き受けざるを得ないということのようだった。
「私は、眠り薬の代わりにこの子のピアノが聞きたいと思って
引っ張ってきたんです。寝る間際にそんな余計な事ができるわけ
ないでしょう。だいたい、君はその時間、マンガなんか読んでる
みたいですね。だったらこの方がよほど有意義な時間の過ごし方
というものですよ」
ブラウン先生の厳とした物言いで、そのことは決着したようだ
った。
「さあ、チビちゃんたちはもうベッドの時間ですよ」
ブラウン先生は、チビちゃんたちをベッドへと追いやったが、
同時にご自身も……
「今日は少し早いですが、私達も、もう寝ましょうか」
先生の一言で、三人はそのまま先生の寝室へ。
そしてこの夜、カレンはブラウン先生の為に最初の夜の眠り薬
を調合し、ロビンがその製法を書き記したのだった。
*************************
月光の差し込む屋根裏部屋で、カレンはアンが弾く今夜最後の
ピアノを聴いた。
カレンにとってはカレニア山荘での最初の一日。色んなことが
あったが、彼女の日記には、この時に聞いたアンのピアノの事が
記されていた。
『私はピアノのことはわからない。だから、アンが何という曲
を弾いているのかも知らない。…でも、今、私の心は彼女の音に
引き寄せられるている。私には、こんなにも人を鼓舞するような
魅惑的なピアノは生涯弾けないだろう。羨ましい。先生が言って
いたアンの本当の実力って…ひょっとしたら、こんな事なのかも』
カレンはそんなことを思いながら、床についたのである。
********************(3)*****
第5章 ブラウン家の食卓
§3/月下に流れるショパンの曲(2)
「アリス、大丈夫ですか?」
ブラウン先生はすぐさまアリスを抱きかかえてくれたが、彼女
は先生の差し出すその手を遠慮して自ら起き上がる。
「ごめんなさい。カエルは苦手なんです」
アリスは青い顔でソファに座りなおすと自分の心臓が今も動い
ていることを確認してほっとした様子だった。
「リック、謝りなさい」
ブラウン先生が叱っても、リックはカレンにあげたはずの蛙を
手のひらに収めなおすと、その子を愛おしく観察しながら、少し
頬を膨らまして立っている。
しかし、ロベルトがリックの両肩を掴むと、彼は渋々カレンに
頭を下げた。
「ごめんなさい」
もちろん、謝ったのはリックだが、アリスにはその後ろに立つ
ロベルトが謝ってくれたようで、心を落ち着けることができたの
である。
「カレン、ダージリンを飲みますか?気持が落ち着きますよ」
「いえ、結構です」
「では、部屋に戻りますか?今日は、この子たちにもあなたの
ピアノを聞かせてあげようと思ったのですが、それはまたの機会
ということにしましょう」
「……!……」
そんな時だった。ロベルトが奏でるチターのメロディーが居間
に流れ始める。すると、カレンはブラウン先生の親切心にその事
を忘れかけていたが、彼女にはまだ大事な仕事が残っていたのを
思い出したのである。
「大丈夫です。先生、わたし、うまく弾けるかどうか分かりま
せんけど、とにかく弾いてみますから……」
彼女はまだ脈打つ自分の心臓に手を置くと、静かに立ち上がっ
てピアノ椅子に向かう。
すると、ブラウン先生も、これなら大丈夫だと感じたのだろう。
カレンを止めず、彼女の好きにさせたのだった。
「それでは、お願いしましょうか」
話がまとまり、ロベルトのチターの音色がいったん途絶えるが、
アリスはあえてその音色を求めた。
やがてカレンはロベルトの弾く『第三の男』に自らのピアノを
添わせる。そして、ロベルトが演奏をやめた後も、彼の心を引き
継いぐように、今、この瞬間に生まれたばかりのノックターンを
奏で続けたのである。
「(美しい、何て美しい旋律なんだ。でも、これって何という
曲なんだろう)」
ロベルトは思った。彼はカレンのピアノが今という瞬間にしか
聞くことの出来ない儚いものだとは、この時はまだ知らなかった
のである。
思うがままに一曲弾きあげたカレンにブラウン先生が尋ねる。
「ときにカレン、あなたは譜面が書けますか?」
「…………」
カレンは、頭の後ろから聞こえてくる先生の声に恥ずかしそう
に首を振る。
彼女は正規の音楽教育を受けていないから、簡単なメロディー
程度は書けても、細かな表現まで譜面に現すことができなかった
のだ。
「もったいないですね。実にもったいない。これまで、数百、
いや数千の楽曲がビールの泡のように毎晩消えていたとは………
ほらほら、静かにしなさい」
カレンが振り返ると、ブラウン先生は思いもよらない姿になっ
ていた。
キャシーに背中から抱きつかれ、膝にはワンパク小僧を乗せて
いる。そのフレデリックの頭を撫でながら呟いたのだった。
そんな老人の呟きは、間近にいた一人の少年、一人の少女の耳
にも届いたようで……
「あのくらい僕だって弾けるよ」
フレデリックが言えば……キャシーも……
「わたしの方がうまいもん……」
二人は争って先生の身体を離れる。そしてキャシーの方が一歩
早くカレンの膝にのしかかる。
「こら、お行儀が悪いですよ」
ブラウン先生はキャシーをたしなめたがカレンは構わなかった。
そして、今しがた自分で弾いた曲を、再び稚拙なピアノで聞い
たのである。
「どう、ぴったりでしょう」
キャシーは自慢げだが、フレデリックが茶々を入れる。
「嘘だね、そうじゃなかったよ」
彼はキャシーをカレンの膝から剥ぎ取ると、今度は自分がその
椅子に腰掛けようとしたのである。
「えっ!」
カレンは驚く。キャシーとフレデリックでは身体の大きさ重さ
が段違いなのだ。
慌てたカレンが、その場を外れようとすると……
「あっ、けちんぼ、いいじゃないか。僕も抱っこしてよ」
公然と要求したのである。
「フレッド、君はもう大きいんだよ。カレンの迷惑を考えなさ
い」
ブラウン先生に言われて、また口を尖らすので……
「いいわ、でも、あまり激しく動かないでよ」
カレンの方が妥協したのである。
そうやって始まった演奏。
「…………!……………!……………!……………!…………」
フレッドの弾いた曲にカレンは驚いた。夜想曲を弾いたはずの
自分の曲が彼にかかればまるっきりマーチなのだ。音程の怪しい
処、和音を外れる処もあったが、とにかく楽しい。心が浮き浮き
する。
「(人は見かけによらないわね)」
ただこの演奏は何より本人が浮かれていて、重たいお尻を浮か
せては盛んにドスンドスンとやるもんだから、カレンは膝の痛み
に耐えての鑑賞だったのである。
そんな大変な一曲を弾き終わって、フレデリックは満足したの
か、意気揚々、カレンの膝を下りて行く。
「ねえ、お父様、私の演奏、どうだった?」
「ああ、よかったよ。キャシー。だいぶ、耳がよくなったね」
「ほんと!やったあ~~」
「ねえ、僕のは……」
「上手だったよ。相変わらずいいセンスをしているね。どこの
音楽会社からだって編曲の仕事が今すぐにでも舞い込みそうだ」
ブラウン先生は自分に抱きつく二人の子供たちをとにかく褒め
ちぎる。いつもは厳しい先生も、この時ばかりは一人のやさしい
お父さん、好好爺となっていた。
カレンにも当然そんなご機嫌な先生の声は聞こえているから、
『今のうちに…』とでも思ったのだろう。今度はフレデリックの
演奏を自分もまねてみたのである。
そして、それが終わると……
カレンは今の演奏の評価を求めて先生の方を振り返ろうとした。
ところが、そこに思わぬ大きな人影が立っていたものだから……
「えっ!!!」
慌てた彼女はピアノ椅子を飛び退く。
わけも分からず、ただ反射的にカレンは身を引いたのだ。
すると、その人影は何も言わずにカレンが退いた椅子に座り、
さきほど彼女が弾いていた夜想曲を弾き始めた。
そして、その一音一音を確かめるように頭の中に浮かべて感じ
取ると、譜面台の五線紙に音符を載せていくのである。
「ロビン、拾えましたか?」
再びチビちゃんたちの拷問に会っている先生はそう言って尋ね
たが、ロベルトは返事をしなかった。
『まだ、何かが足りない』
そんな不満が、『できました』という答えにならないのだ。
彼は一通り楽譜を書き終えると、その譜面に則してカレンの曲
を弾いてみる。
たしかに、それは、今しがたカレンが弾いた曲に似ている。
カレンもまた……
「(私の弾いた曲だわ)」
と思った。
しかし……
「(何かが違う)」
ただ、その何かは、当のカレンにもわからなかった。
「ん~~~~好い線いってますけどね」
わだかまりの残る二人の中へ満を持して先生がやってきた。
「私がやってみましょうか」
今度はブラウン先生がロビンからピアノの席を奪うと、静かに
カレンの曲を弾き始めた。
「………………………………………………」
「………………………………………………」
唖然とする二人。先生はカレンのノックターンを寸分たがわず
弾いてみせたのである。
カレンは感激する。
「(これだわ、私が、今、弾いたのは)」
そして、それが終わると……
もの凄い勢いで、さっきロビンが仕上げたばかりの楽譜に音楽
記号を書き足していく。殴り書くといった感じで……
「ん~~~そうですねえ~~~こんなものでしょうかね」
結果、単純で耳障りのよさそうなカレンの曲のために、楽譜は
紙が真っ黒になるほどのお玉杓子を乗っける事になったのだった。
「ロビン、あなたにこれが弾けますか?」
ブラウン先生に尋ねられたロベルトはしばらくその楽譜を見て
考えていたが、とうとう首を横に振ってしまう。
「でしょうね、カレンだってそれは同じはずです。彼女にして
も、主旋律くらいは覚えているでしょうが、細かなタッチまでは
すでに忘れてしまうでしょうから。…ですからね、カレンの曲は
厳密には、一生に一度だけ出会う名曲なんです」
「一期一会?」
「そう、カレンはね、その瞬間、瞬間で、今どんな音色が最も
周囲の人を感動させられるかを感じとる能力を持っていて、それ
をピアノで表現しているんです。ですから、僅かでも時が移ろう
と、もう次の瞬間はその音色そのメロディーにはならないんです。
つまり、一期一会というわけです」
「……そんなあ~~、私はただ適当にピアノを叩いているだけ
なんです。そんなこと考えてません」
カレンは、先生の言い方が、まるで自分を化け物のように見て
いる気がして心地よくなかった。
「(はははは)こんなこと、考えてできるもんじゃないよ」
珍しくすねてみせるカレンの姿にブラウン先生は笑う。
しかし、それはカレンには理解できなくてもロビンには感じる
ことのできる感性だったのである。
「つまり、映画のBGMを常に即興で作り出せる能力ってこと
ですか?」
「あなた、うまいこと言いますね。そういうことですよ」
ブラウン先生はやっと出てきた共感者に満足そうな例の笑顔を
浮かべると、こう続けるのである。
「ですからね、細かなことはいいのです。あなたのできる範囲
で……あなたにカレンのピアノを拾ってあげて欲しいんです」
「えっ、僕がですが?」
「そうですよ。他に誰がいるんですか?……まさか、このチビ
ちゃんたちにできる芸当じゃないでしょう」
「僕だってできるよ、それくらい。和音くらい知ってるもん。
コールドウェル先生に作曲の仕方も習ったんだから……」
フレデリックは先生の袖を引いたが、ブラウン先生は彼の頭を
撫でただけ。
一方、驚いたロビンは……
「それって、毎晩ですか?」
「そうです。いい耳の訓練になると思いますよ」
「だって、そういったことは先生ご自身がなさった方が……」
ロベルトが不満げにこう言うと……
「…………」先生はことさら渋い顔になってロビンを見つめる。
それは引き受けざるを得ないということのようだった。
「私は、眠り薬の代わりにこの子のピアノが聞きたいと思って
引っ張ってきたんです。寝る間際にそんな余計な事ができるわけ
ないでしょう。だいたい、君はその時間、マンガなんか読んでる
みたいですね。だったらこの方がよほど有意義な時間の過ごし方
というものですよ」
ブラウン先生の厳とした物言いで、そのことは決着したようだ
った。
「さあ、チビちゃんたちはもうベッドの時間ですよ」
ブラウン先生は、チビちゃんたちをベッドへと追いやったが、
同時にご自身も……
「今日は少し早いですが、私達も、もう寝ましょうか」
先生の一言で、三人はそのまま先生の寝室へ。
そしてこの夜、カレンはブラウン先生の為に最初の夜の眠り薬
を調合し、ロビンがその製法を書き記したのだった。
*************************
月光の差し込む屋根裏部屋で、カレンはアンが弾く今夜最後の
ピアノを聴いた。
カレンにとってはカレニア山荘での最初の一日。色んなことが
あったが、彼女の日記には、この時に聞いたアンのピアノの事が
記されていた。
『私はピアノのことはわからない。だから、アンが何という曲
を弾いているのかも知らない。…でも、今、私の心は彼女の音に
引き寄せられるている。私には、こんなにも人を鼓舞するような
魅惑的なピアノは生涯弾けないだろう。羨ましい。先生が言って
いたアンの本当の実力って…ひょっとしたら、こんな事なのかも』
カレンはそんなことを思いながら、床についたのである。
********************(3)*****
第5章 / §2 月下に流れるショパンの曲
<コメント>
忙しくて、「てにをは」も怪しい文章だけど、
出すだけ出したという感じです。
***************************
≪ カレンのミサ曲 ≫
第5章 ブラウン家の食卓
§2/月下に流れるショパンの曲
カレンは、食事の後、ドレスを着替えて流し場へ行く。彼女は
女中ではないのだから、そのようなことはしなくよいはずだが、
サー・アラン家で習い覚えたものがそのまま習慣になってしまい
食器を洗っていた方が落ち着くようだった。
「へえ、あんた、むこうじゃ女中だったんだ」
アンナは初めて聞く話に少しだけ驚いた様子だったが……
「ここは、先生が誰に対しても分け隔てのない優しい方だから、
ここの方がきっと住みやすいと思うよ」
アンナはこう言って、ブラウン家を自慢する。
「はい」
それにはカレンも賛成だった。ここは働いている人たちも子供
たちもみんな穏やかで、威張り散らすような人はいないようだ。
「お子さんも沢山いるけど、どのみちみんな里子だからね……
みんな気兼ねなくやってるよ」
「でも、お仕置きは厳しいみたいですね」
「?……そうかい」
アンナが怪訝な顔をしたのが、カレンには不思議だったから…
「だって、小さい子供たちを外で枷に繋いだり、お尻丸出しに
して木馬に乗せたり、もう14歳にもなってる子を素っ裸にして
反省させるんですもの。私、驚いちゃって……」
「?……誰のことだい?」
アンナにそう言われてカレンは自分が、今、口を滑らせてしま
ったことに気づく。
アンのことは、本当は誰にも言わないつもりだったのだ。
「コールドウェル先生だね」
「…………えっ……まあ……」
歯切れの悪いカレンの答えを聞いて、アンナはこんなことを言
うのだった。
「あんたは、幼い頃、どんな育ちをしたか知らないけど、……
それって、ここでは愛してるってことなんだよ。コールドウェル
先生にとってアンは一番大切なお弟子さんだもの。あの子の為に
ならないことなんて、先生は、何一つしやしないよ」
「そうなんですか?」
カレンは気のない返事を返す。彼女にしてみれば、愛している
ならなぜもっと優しい方法で接してあげないんだろうと思えるの
である。
そんなカレンのもとへ、ブラウン先生からの伝言がやってくる。
「カレン、先生がお呼びよ。居間へいらっしゃいって……」
そう、言われるまで、彼女は食器を洗い続けていたのである。
「いってらっしゃい。私は無教養だからうまいことは言えない
けど、先生なら上手に説明してくれるだろうから、尋ねてみると
いいよ」
アンナはそう言って笑顔で送り出してくれたのである。
***************************
カレンが居間へ出向くと、そこには多くの先客たちがいた。
総勢、12名。いずれもブラウン先生の処へおやすみの挨拶に
きた子供たちだ。
ただ、おやすみのご挨拶と言っても、それは最後の最後で言う
だけで、それまでは各々の自由に広い居間を占拠して遊んでいる。
まさにそこは、子供の為のプレイルーム。甲高い声が交差する
その部屋にもソファなどはあるが、高価な調度品は何もなくて、
サー・アランの居間のように、ティーカップの触れる音や大きな
柱時計が時を刻む音などを聞くことはできなかった。
「ちょっと、ごめんなさい」
「どいてちょうだい、通れないでしょう」
「わあ、髪をひっぱらないで……」
子供たちの林の中を分け入って奥へと進むと、ブラウン先生は
いつも通りの笑顔でカレンを迎え入れてくれたが……それまでが
一仕事だった。
「今日は色々お世話になりました。ありがとうございました」
「君こそ、今日は疲れたでしょう。本当なら下がって休ませて
あげたいところだけど、せっかくの機会だから、主だった子供達
だけでも紹介しておこうと思ってね。来てもらったんだ」
先生はそう言ってカレンにソファを勧める。
それに応じてカレンが先生の脇に腰を下ろすと、ブラウン先生
は手当たり次第に子供たちを呼び止めては、カレンに里子たちを
紹介していったのだった。
「この子が、サリー。このあいだ4つになったばかりだ」
ブラウン先生はおかっぱ頭の女の子を一人膝の上に抱く。
ところが、この子、カレンを見つけると、すぐにそこを下りて
カレンに抱きついたのである。
「お姉ちゃん、抱っこ」
いきなりの事に当初は驚いたカレンだが、自分を見つめる瞳に
何の屈託もないのを見て、カレンも自然にその子を抱き上げる。
すると、しっかり抱きつき……
「お姉ちゃん、しゅき」
と一言。
リップサービスも忘れないところがさすがに女の子だ。
「サリー、新しいお姉ちゃんに抱っこしてもらってよかったね」
ブラウン先生の言葉にサリーは満足そうな笑顔を返す。
「カレン、その子は、甘えん坊だから、何もしないと、ずっと
そのままかもしれませんよ」
ブラウン先生は忠告してくれたが……
「大丈夫です先生。この子まだ軽いですから……」
カレンはそう言うと、かまわずサリーを抱き続けた。
すると、お膝の空いたブラウン先生の処へは、また新たなお客
さんが現れる。
「…………」
彼女は何も言わないでただ先生のシャツの裾を引っ張っていた。
「パティー、お前も抱っこがいいのか?」
先生にこう尋ねられても、彼女はただ頷くだけ。
「ほら、これでいいか」
ブラウン先生が少女を抱き上げると、彼女は一瞬カレンの方を
向いただけで、先生の胸の中に顔を埋めてしまったのである。
「この子は、パティー。六歳だから、サリーよりお姉さんなん
だが、気弱なところがあって困りものだ。……ほら、……ほら、
カレンお姉ちゃまにご挨拶しなさい」
ブラウン先生に数回身体を揺さぶられて、パティーは、やっと
カレンの方へと向けたが、出てきた言葉は……
「こんにちわ」
だけだった。
「こんにちわパティー。私、カレン=アンダーソンって言うの。
おともだちになりましょうね」
カレンの言葉にも顎をひとつしゃくるだけの挨拶だ。
「困ったもんだ、六つにもなってご挨拶ひとつできないとは…」
ブラウン先生はパティーを叱ったが、パティーに応えた様子は
なく、ただ先生の胸の中に顔を埋めなおすだけだったのである。
そんな中、カレンの前にまた一人の女の子が現れた。
「はじめまして、私、マリアといいます」
カレンはこの時、初めて挨拶らしい挨拶を受けたのである。
「私は、カレンって言うのよ。今日からここでみんなと一緒に
暮らすことになったの。よろしくね」
カレンが、こういうと、マリアは少しだけはにかみながら。
「よろしくお願いします。お姉様」
彼女は誰に教わったのか、両手でスカートの襞をつまみ、浅く
膝を折ってみせる。
『パティーとマリアは二歳しか違わないけど、女の子はそこで
ステップを上がるのね』
カレンはマリアを見て思うのだが……
人それぞれに成長のスピードにばらつきがあるようで、マリア
よりさらに二つ年上のキャシーは、その頃、天井まで届きそうな
大きな本棚の頂上にいたのである。
そして、そこからいきなり真下のソファめがけてダイブ。
「ボヨヨ~~~ン」
キャシーの掛け声とともにブラウン先生の身体が大きく揺れ、
綿埃が舞い上がり、パティー自身もソファから跳ね飛ばされて、
床に転がり落ちている。
「何度言ったらわかるんですか。本棚はあなたの玩具じゃない
んですよ。もし、下に人がいたらどうするんですか!!赤ちゃん
なら死んじゃいますよ」
ブラウン先生の雷が落ちたものの、キャシーは頭をかくだけで、
あっけらかんとして笑っていた。
「ごめんなさい」
彼女、口先では謝ってはいるものの。その顔は笑っているし、
何より『抱いてくれ』と言わんばかりに先生に擦り寄ったのだ。
「ほら、これでいいか」
先生もその時には昼間見せたような厳しい態度は取らない。
サリーをいったん膝の上から下ろすと、代わりにキャシーを膝
に抱き上げて、彼女の身体をカレンの方へと向けたのだけだった。
だから、また、お仕置きになるんじゃないか、と心配していた
カレンは拍子抜けしたほどだったのである。
「私は、キャシー。今はまだ10歳だけど、大きくなったら、
先生のお嫁さんになる予定なの。だから、私を大事にしておくと
あなたも色々と得よ」
と、こう説明されては、さすがにカレンもあいた口が塞がらな
かった。
ただ、そこは年上の女の子の貫禄で……
「ありがとう。そうさせてもらいます」
とだけ答えたのである。
「キャシー、今日はフレデリックが見えないがどこにいる?」
「ロベルト兄ちゃんは図書室でお勉強。フレデリック兄ちゃん
はお部屋でプラモ作ってる」
「二人とも呼んで来なさい」
ブラウン先生はそう言ってキャシーを手放した。
すると……
「待っててね、すぐ呼んで来るから」
彼女はそう言って、まるで飼い猫のような素早さで部屋を飛び
出して行ったのである。
*****************************
キャシーがいなくなった部屋は急に静かに感じられた。
最初から寝床に入っているリサに続き、サリーやパティーもオ
ネムになって子守のベスに引き取られていったし、マリアは大人
しく本を読んでいる。
そんな部屋でカレンは探しものをしていた。
「どうかしたかね?」
ブラウン先生に尋ねられて、彼女の口から出たのはアンの名前
だった。
「アンはここにはいないんですね」
「アン?…ああ、彼女はコンクールが近いからね、ここに来て
遊んでる暇がないんだろう。………でも、昨日まで自信なさげに
弾いていたが、今日はとりわけ調子がいいみたいだ」
「えっ!……」
先生の言葉に、はっとして耳を澄ますと、遠くで弾くピアノの
音がカレンにも伝わる。
「……………………」
先生は夜の静寂(しじま)が伝える微かなピアノの音を拾って
いたが、そのうちに……
「彼女、何か刺激を受けましたね。……きっと、そうです」
先生は満足そうに目を輝かせた。
そして……
「……ん!?、……そうだ、ひょっとして……あなた、今日、
アンの処へ行きませんでしたか?」
「えっ!?……ええ」
カレンがおっかなびっくり答えると……
「きっと、それです。抜群によくなってますから。……いえね、
彼女はもともと才能に恵まれた子なんです。ピアノだけじゃくて、
絵を描かせても、詩を作らせても、人並み以上なんですよ。……
ところが、器用貧乏とでもいうんでしょうか、意欲に乏しくてね、
ある程度できるようになると、それ以上を望まないんです。……
……あなた、あの子の前でピアノを弾いたでしょう?」
「ええ、……でも、ほんのちょっとですけど」
「それだ、やっぱりそれです。……そうですか。あなた、実に
いいことをしましたよ」
ブラウン先生はご満悦だったが、カレンにはその意味がわから
なかった。
「……でも……私はいつものように適当にピアノを叩いただけ
ですから……そもそも私はアンさんみたいな立派なピアノは弾け
ませんから……それは違うと思いますけど……」
「そんなことはありません。もしも、彼女があなたのピアノを
聞いて何も感じないようなら、そもそもコンクールなど行っても
無意味ですし、私が与えた『天才』の称号も返してもらうことに
なります」
「でも、コールドウェル先生は、私のピアノを聞いて『あなた
のとは全然違うわね』っておっしゃったんですよ」
「……ええ、言うでしょうね。……昨日までの彼女は、確かに
『ショパンの作った曲を弾いてはいました』れど………それだけ
でしたからね。それって、あなたのピアノとは大違いなわけです」
「?」
「……でも、今の彼女は違いますよ。あなたのピアノを聞いて、
彼女、変わったんです」
「?」
「『ショパンの曲をアンが弾く』だけじゃ、聞いてる人に感動
なんて起きないんです。あくまで『アン弾くピアノがショパンの
曲だった』とならなければ聞いてる人は感動するんです。その事
をあの子はあなたのピアノで悟ったんですよ。……何しろ感受性
の鋭い子ですからね」
「?」
「わかりませんか?」
ブラウン先生は得意の笑顔でカレンに微笑むが、カレンにして
みると、この二つ言葉はまったく同じ意味にしか感じられなかっ
たのである。
「まあ、いいでしょう。あなたもそのうち自分の才能に気づく
時が来ますよ。……とにかく、アンは、それがわかる子なんです。
だから、天才なんですよ。コールドウェル先生も、天才の才能を
開花させようとして、色々、荒療治を試みられてたみたいですが、
これで、まずは一安心でしょう」
「荒療治?」
「ま、有り体に言えば『お仕置き』です………」
ブラウン先生は、チャーミングな笑顔の前に人差し指を立てて
から話を続ける。
「今回は、君がいたのならそこまではしなかったでしょうが、
あの先生、アンに集中心が欠けてる時は、雑念が入らないように
よく全裸にするんです」
「ま……まさか……」
カレンはあの時のわけを偶然知って驚く。そしてブラウン先生
といい、コールドウェル先生といい、何て残酷なことをするんだ
ろうと思うのだった。
「天才というのは、往々にしてそれだけに秀でてるんじゃなく
て、他のことにも沢山の才能をもっていますからね。移り気な人
が多いんです。おかげで指導者は一つの事に集中させるのが大変
で…それで、色んな手立てを講じては、今やらなければならない
ことに集中させるんです」
「それって、裸になるといいんですか?」
「だって、その瞬間は恥ずかしいってことだけで、頭が埋まる
でしょう。あれやこれや考えられるより、よほど集中できますよ」
ブラウン先生はこともなげに言い放つ。そして、こうも語るの
だった。
「あの子がもっと幼い頃は、私の前でもよく裸になってピアノ
を弾いてたもんです。きっと、人畜無害と思われてたんでしょう」
「そんなことありません。女の子だもん、そんなことされたら、
きっと傷ついてます」
「そうですか?……でも、もしそれであの子が傷ついたのなら、
コールドウェル先生は二度とそんな馬鹿な事はしないと思います
よ」
「……(だって、私の見てる前でも)………」
「……いえね、本来ならあなたの前で可愛い愛弟子を裸に晒す
ようなことはしないはずなんですが…何しろ先生は、今、愛する
天才を一人世に送り出したくて必死なんですよ。だから、そんな
荒療治だってしかねないと思ったんですよ。でも、年寄りの取り
越し苦労だったようです」
「…………」
カレンは声が出ない。思わず『実は、それが……』と言おうと
して寸前で息を呑んだ。
「とかく『天才』という名のつく石炭は、燃えにくいのが難点
なんですが、いったん火がつくと、もの凄い火力が出ますから、
指導者としては、多少の無理は押してでも、何とかしたいと思う
ものなんです」
「ここにいる子供たちはみんな天才なんですか?」
「いえ、いえ、そんな基準で育ててるつもりはありませんよ。
アンにいつてはたまたまピアノに才能があっただけですよ。……
ただ、一般的に言えることですけど、子供はみんな天才ですよ。
無限の可能性を持っています。あなたも、もちろんそうです」
「私は……」
カレンは頬を赤くする。お世辞と思っても、いつも褒めてくれ
るブラウン先生の言葉はやはり嬉しかったのだ。
そこへ……
「ねえ、先生。連れて来たよ」
突然、甲高い声が響く。
*****************************
キャシーが男の子二人の手を引いてカレンたちのいる居間へと
戻ってきた。
すると、カレンの顔は、また別の意味で赤くなったのである。
「さあ、ロベルト兄ちゃん、カレンにご挨拶して……」
キャシーはさっそくロベルトをカレンに引き合わせると、この
場を取り仕切ってしまう。
「はじめまして……カレン」
「はじめまして、ロベルト」
たどたどしいロベルトの言葉に、カレンの言葉もどこかぎこち
ない。
二人出会いは本当は初めてではなかった。夕食の席でカレンは
ちらっとではあるがロベルトを見ていた。その時紹介されたのは
大人たちが中心で、子供たちにまで手が回らなかったから言葉は
かわさなかったが、確かにその場で彼を見ていた。………いや、
見つめていたのである。
『背のすらっと高い子』として…『端整な顔立ちの子』として
…『涼よかな瞳の持ち主』としてカレンの記憶の中に残っていた
のだ。
「さあ、フレデリックも……」
キャシーの勧めでもう一人の男の子が姿を現す。ロベルトより
二つ年下の十一歳。しかし、彼はあまり、カレンに興味を示して
いない様子だった。
どこかものぐさそうで、さも、仕方なくこの場にいるといった
感じで握手の手を伸ばしたのである。
「はじめまして、フレデリック」
カレンはそう言ってフレデリックの差し出した右手を握ったの
だが……
「(えっ!?)」
その手にはなにやら軟らかなこぶのようなものがあったので、
不思議に思っていると……フレデリックがその手を離した瞬間、
その軟らかなこぶもカレンについてきて……
「ぎゃあ~~~」
カレンは自らの手を広げた瞬間、けたたましい声と共にその場
にしゃがみこんでしまった。
当然、誰の目もカレンに集まる。ブラウン先生も、慌てて駆け
寄るが……
起きた変化はたった一つ。
小さな青い蛙が一匹、床を跳ね回っているだけだったのである。
******************(2)******
忙しくて、「てにをは」も怪しい文章だけど、
出すだけ出したという感じです。
***************************
≪ カレンのミサ曲 ≫
第5章 ブラウン家の食卓
§2/月下に流れるショパンの曲
カレンは、食事の後、ドレスを着替えて流し場へ行く。彼女は
女中ではないのだから、そのようなことはしなくよいはずだが、
サー・アラン家で習い覚えたものがそのまま習慣になってしまい
食器を洗っていた方が落ち着くようだった。
「へえ、あんた、むこうじゃ女中だったんだ」
アンナは初めて聞く話に少しだけ驚いた様子だったが……
「ここは、先生が誰に対しても分け隔てのない優しい方だから、
ここの方がきっと住みやすいと思うよ」
アンナはこう言って、ブラウン家を自慢する。
「はい」
それにはカレンも賛成だった。ここは働いている人たちも子供
たちもみんな穏やかで、威張り散らすような人はいないようだ。
「お子さんも沢山いるけど、どのみちみんな里子だからね……
みんな気兼ねなくやってるよ」
「でも、お仕置きは厳しいみたいですね」
「?……そうかい」
アンナが怪訝な顔をしたのが、カレンには不思議だったから…
「だって、小さい子供たちを外で枷に繋いだり、お尻丸出しに
して木馬に乗せたり、もう14歳にもなってる子を素っ裸にして
反省させるんですもの。私、驚いちゃって……」
「?……誰のことだい?」
アンナにそう言われてカレンは自分が、今、口を滑らせてしま
ったことに気づく。
アンのことは、本当は誰にも言わないつもりだったのだ。
「コールドウェル先生だね」
「…………えっ……まあ……」
歯切れの悪いカレンの答えを聞いて、アンナはこんなことを言
うのだった。
「あんたは、幼い頃、どんな育ちをしたか知らないけど、……
それって、ここでは愛してるってことなんだよ。コールドウェル
先生にとってアンは一番大切なお弟子さんだもの。あの子の為に
ならないことなんて、先生は、何一つしやしないよ」
「そうなんですか?」
カレンは気のない返事を返す。彼女にしてみれば、愛している
ならなぜもっと優しい方法で接してあげないんだろうと思えるの
である。
そんなカレンのもとへ、ブラウン先生からの伝言がやってくる。
「カレン、先生がお呼びよ。居間へいらっしゃいって……」
そう、言われるまで、彼女は食器を洗い続けていたのである。
「いってらっしゃい。私は無教養だからうまいことは言えない
けど、先生なら上手に説明してくれるだろうから、尋ねてみると
いいよ」
アンナはそう言って笑顔で送り出してくれたのである。
***************************
カレンが居間へ出向くと、そこには多くの先客たちがいた。
総勢、12名。いずれもブラウン先生の処へおやすみの挨拶に
きた子供たちだ。
ただ、おやすみのご挨拶と言っても、それは最後の最後で言う
だけで、それまでは各々の自由に広い居間を占拠して遊んでいる。
まさにそこは、子供の為のプレイルーム。甲高い声が交差する
その部屋にもソファなどはあるが、高価な調度品は何もなくて、
サー・アランの居間のように、ティーカップの触れる音や大きな
柱時計が時を刻む音などを聞くことはできなかった。
「ちょっと、ごめんなさい」
「どいてちょうだい、通れないでしょう」
「わあ、髪をひっぱらないで……」
子供たちの林の中を分け入って奥へと進むと、ブラウン先生は
いつも通りの笑顔でカレンを迎え入れてくれたが……それまでが
一仕事だった。
「今日は色々お世話になりました。ありがとうございました」
「君こそ、今日は疲れたでしょう。本当なら下がって休ませて
あげたいところだけど、せっかくの機会だから、主だった子供達
だけでも紹介しておこうと思ってね。来てもらったんだ」
先生はそう言ってカレンにソファを勧める。
それに応じてカレンが先生の脇に腰を下ろすと、ブラウン先生
は手当たり次第に子供たちを呼び止めては、カレンに里子たちを
紹介していったのだった。
「この子が、サリー。このあいだ4つになったばかりだ」
ブラウン先生はおかっぱ頭の女の子を一人膝の上に抱く。
ところが、この子、カレンを見つけると、すぐにそこを下りて
カレンに抱きついたのである。
「お姉ちゃん、抱っこ」
いきなりの事に当初は驚いたカレンだが、自分を見つめる瞳に
何の屈託もないのを見て、カレンも自然にその子を抱き上げる。
すると、しっかり抱きつき……
「お姉ちゃん、しゅき」
と一言。
リップサービスも忘れないところがさすがに女の子だ。
「サリー、新しいお姉ちゃんに抱っこしてもらってよかったね」
ブラウン先生の言葉にサリーは満足そうな笑顔を返す。
「カレン、その子は、甘えん坊だから、何もしないと、ずっと
そのままかもしれませんよ」
ブラウン先生は忠告してくれたが……
「大丈夫です先生。この子まだ軽いですから……」
カレンはそう言うと、かまわずサリーを抱き続けた。
すると、お膝の空いたブラウン先生の処へは、また新たなお客
さんが現れる。
「…………」
彼女は何も言わないでただ先生のシャツの裾を引っ張っていた。
「パティー、お前も抱っこがいいのか?」
先生にこう尋ねられても、彼女はただ頷くだけ。
「ほら、これでいいか」
ブラウン先生が少女を抱き上げると、彼女は一瞬カレンの方を
向いただけで、先生の胸の中に顔を埋めてしまったのである。
「この子は、パティー。六歳だから、サリーよりお姉さんなん
だが、気弱なところがあって困りものだ。……ほら、……ほら、
カレンお姉ちゃまにご挨拶しなさい」
ブラウン先生に数回身体を揺さぶられて、パティーは、やっと
カレンの方へと向けたが、出てきた言葉は……
「こんにちわ」
だけだった。
「こんにちわパティー。私、カレン=アンダーソンって言うの。
おともだちになりましょうね」
カレンの言葉にも顎をひとつしゃくるだけの挨拶だ。
「困ったもんだ、六つにもなってご挨拶ひとつできないとは…」
ブラウン先生はパティーを叱ったが、パティーに応えた様子は
なく、ただ先生の胸の中に顔を埋めなおすだけだったのである。
そんな中、カレンの前にまた一人の女の子が現れた。
「はじめまして、私、マリアといいます」
カレンはこの時、初めて挨拶らしい挨拶を受けたのである。
「私は、カレンって言うのよ。今日からここでみんなと一緒に
暮らすことになったの。よろしくね」
カレンが、こういうと、マリアは少しだけはにかみながら。
「よろしくお願いします。お姉様」
彼女は誰に教わったのか、両手でスカートの襞をつまみ、浅く
膝を折ってみせる。
『パティーとマリアは二歳しか違わないけど、女の子はそこで
ステップを上がるのね』
カレンはマリアを見て思うのだが……
人それぞれに成長のスピードにばらつきがあるようで、マリア
よりさらに二つ年上のキャシーは、その頃、天井まで届きそうな
大きな本棚の頂上にいたのである。
そして、そこからいきなり真下のソファめがけてダイブ。
「ボヨヨ~~~ン」
キャシーの掛け声とともにブラウン先生の身体が大きく揺れ、
綿埃が舞い上がり、パティー自身もソファから跳ね飛ばされて、
床に転がり落ちている。
「何度言ったらわかるんですか。本棚はあなたの玩具じゃない
んですよ。もし、下に人がいたらどうするんですか!!赤ちゃん
なら死んじゃいますよ」
ブラウン先生の雷が落ちたものの、キャシーは頭をかくだけで、
あっけらかんとして笑っていた。
「ごめんなさい」
彼女、口先では謝ってはいるものの。その顔は笑っているし、
何より『抱いてくれ』と言わんばかりに先生に擦り寄ったのだ。
「ほら、これでいいか」
先生もその時には昼間見せたような厳しい態度は取らない。
サリーをいったん膝の上から下ろすと、代わりにキャシーを膝
に抱き上げて、彼女の身体をカレンの方へと向けたのだけだった。
だから、また、お仕置きになるんじゃないか、と心配していた
カレンは拍子抜けしたほどだったのである。
「私は、キャシー。今はまだ10歳だけど、大きくなったら、
先生のお嫁さんになる予定なの。だから、私を大事にしておくと
あなたも色々と得よ」
と、こう説明されては、さすがにカレンもあいた口が塞がらな
かった。
ただ、そこは年上の女の子の貫禄で……
「ありがとう。そうさせてもらいます」
とだけ答えたのである。
「キャシー、今日はフレデリックが見えないがどこにいる?」
「ロベルト兄ちゃんは図書室でお勉強。フレデリック兄ちゃん
はお部屋でプラモ作ってる」
「二人とも呼んで来なさい」
ブラウン先生はそう言ってキャシーを手放した。
すると……
「待っててね、すぐ呼んで来るから」
彼女はそう言って、まるで飼い猫のような素早さで部屋を飛び
出して行ったのである。
*****************************
キャシーがいなくなった部屋は急に静かに感じられた。
最初から寝床に入っているリサに続き、サリーやパティーもオ
ネムになって子守のベスに引き取られていったし、マリアは大人
しく本を読んでいる。
そんな部屋でカレンは探しものをしていた。
「どうかしたかね?」
ブラウン先生に尋ねられて、彼女の口から出たのはアンの名前
だった。
「アンはここにはいないんですね」
「アン?…ああ、彼女はコンクールが近いからね、ここに来て
遊んでる暇がないんだろう。………でも、昨日まで自信なさげに
弾いていたが、今日はとりわけ調子がいいみたいだ」
「えっ!……」
先生の言葉に、はっとして耳を澄ますと、遠くで弾くピアノの
音がカレンにも伝わる。
「……………………」
先生は夜の静寂(しじま)が伝える微かなピアノの音を拾って
いたが、そのうちに……
「彼女、何か刺激を受けましたね。……きっと、そうです」
先生は満足そうに目を輝かせた。
そして……
「……ん!?、……そうだ、ひょっとして……あなた、今日、
アンの処へ行きませんでしたか?」
「えっ!?……ええ」
カレンがおっかなびっくり答えると……
「きっと、それです。抜群によくなってますから。……いえね、
彼女はもともと才能に恵まれた子なんです。ピアノだけじゃくて、
絵を描かせても、詩を作らせても、人並み以上なんですよ。……
ところが、器用貧乏とでもいうんでしょうか、意欲に乏しくてね、
ある程度できるようになると、それ以上を望まないんです。……
……あなた、あの子の前でピアノを弾いたでしょう?」
「ええ、……でも、ほんのちょっとですけど」
「それだ、やっぱりそれです。……そうですか。あなた、実に
いいことをしましたよ」
ブラウン先生はご満悦だったが、カレンにはその意味がわから
なかった。
「……でも……私はいつものように適当にピアノを叩いただけ
ですから……そもそも私はアンさんみたいな立派なピアノは弾け
ませんから……それは違うと思いますけど……」
「そんなことはありません。もしも、彼女があなたのピアノを
聞いて何も感じないようなら、そもそもコンクールなど行っても
無意味ですし、私が与えた『天才』の称号も返してもらうことに
なります」
「でも、コールドウェル先生は、私のピアノを聞いて『あなた
のとは全然違うわね』っておっしゃったんですよ」
「……ええ、言うでしょうね。……昨日までの彼女は、確かに
『ショパンの作った曲を弾いてはいました』れど………それだけ
でしたからね。それって、あなたのピアノとは大違いなわけです」
「?」
「……でも、今の彼女は違いますよ。あなたのピアノを聞いて、
彼女、変わったんです」
「?」
「『ショパンの曲をアンが弾く』だけじゃ、聞いてる人に感動
なんて起きないんです。あくまで『アン弾くピアノがショパンの
曲だった』とならなければ聞いてる人は感動するんです。その事
をあの子はあなたのピアノで悟ったんですよ。……何しろ感受性
の鋭い子ですからね」
「?」
「わかりませんか?」
ブラウン先生は得意の笑顔でカレンに微笑むが、カレンにして
みると、この二つ言葉はまったく同じ意味にしか感じられなかっ
たのである。
「まあ、いいでしょう。あなたもそのうち自分の才能に気づく
時が来ますよ。……とにかく、アンは、それがわかる子なんです。
だから、天才なんですよ。コールドウェル先生も、天才の才能を
開花させようとして、色々、荒療治を試みられてたみたいですが、
これで、まずは一安心でしょう」
「荒療治?」
「ま、有り体に言えば『お仕置き』です………」
ブラウン先生は、チャーミングな笑顔の前に人差し指を立てて
から話を続ける。
「今回は、君がいたのならそこまではしなかったでしょうが、
あの先生、アンに集中心が欠けてる時は、雑念が入らないように
よく全裸にするんです」
「ま……まさか……」
カレンはあの時のわけを偶然知って驚く。そしてブラウン先生
といい、コールドウェル先生といい、何て残酷なことをするんだ
ろうと思うのだった。
「天才というのは、往々にしてそれだけに秀でてるんじゃなく
て、他のことにも沢山の才能をもっていますからね。移り気な人
が多いんです。おかげで指導者は一つの事に集中させるのが大変
で…それで、色んな手立てを講じては、今やらなければならない
ことに集中させるんです」
「それって、裸になるといいんですか?」
「だって、その瞬間は恥ずかしいってことだけで、頭が埋まる
でしょう。あれやこれや考えられるより、よほど集中できますよ」
ブラウン先生はこともなげに言い放つ。そして、こうも語るの
だった。
「あの子がもっと幼い頃は、私の前でもよく裸になってピアノ
を弾いてたもんです。きっと、人畜無害と思われてたんでしょう」
「そんなことありません。女の子だもん、そんなことされたら、
きっと傷ついてます」
「そうですか?……でも、もしそれであの子が傷ついたのなら、
コールドウェル先生は二度とそんな馬鹿な事はしないと思います
よ」
「……(だって、私の見てる前でも)………」
「……いえね、本来ならあなたの前で可愛い愛弟子を裸に晒す
ようなことはしないはずなんですが…何しろ先生は、今、愛する
天才を一人世に送り出したくて必死なんですよ。だから、そんな
荒療治だってしかねないと思ったんですよ。でも、年寄りの取り
越し苦労だったようです」
「…………」
カレンは声が出ない。思わず『実は、それが……』と言おうと
して寸前で息を呑んだ。
「とかく『天才』という名のつく石炭は、燃えにくいのが難点
なんですが、いったん火がつくと、もの凄い火力が出ますから、
指導者としては、多少の無理は押してでも、何とかしたいと思う
ものなんです」
「ここにいる子供たちはみんな天才なんですか?」
「いえ、いえ、そんな基準で育ててるつもりはありませんよ。
アンにいつてはたまたまピアノに才能があっただけですよ。……
ただ、一般的に言えることですけど、子供はみんな天才ですよ。
無限の可能性を持っています。あなたも、もちろんそうです」
「私は……」
カレンは頬を赤くする。お世辞と思っても、いつも褒めてくれ
るブラウン先生の言葉はやはり嬉しかったのだ。
そこへ……
「ねえ、先生。連れて来たよ」
突然、甲高い声が響く。
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キャシーが男の子二人の手を引いてカレンたちのいる居間へと
戻ってきた。
すると、カレンの顔は、また別の意味で赤くなったのである。
「さあ、ロベルト兄ちゃん、カレンにご挨拶して……」
キャシーはさっそくロベルトをカレンに引き合わせると、この
場を取り仕切ってしまう。
「はじめまして……カレン」
「はじめまして、ロベルト」
たどたどしいロベルトの言葉に、カレンの言葉もどこかぎこち
ない。
二人出会いは本当は初めてではなかった。夕食の席でカレンは
ちらっとではあるがロベルトを見ていた。その時紹介されたのは
大人たちが中心で、子供たちにまで手が回らなかったから言葉は
かわさなかったが、確かにその場で彼を見ていた。………いや、
見つめていたのである。
『背のすらっと高い子』として…『端整な顔立ちの子』として
…『涼よかな瞳の持ち主』としてカレンの記憶の中に残っていた
のだ。
「さあ、フレデリックも……」
キャシーの勧めでもう一人の男の子が姿を現す。ロベルトより
二つ年下の十一歳。しかし、彼はあまり、カレンに興味を示して
いない様子だった。
どこかものぐさそうで、さも、仕方なくこの場にいるといった
感じで握手の手を伸ばしたのである。
「はじめまして、フレデリック」
カレンはそう言ってフレデリックの差し出した右手を握ったの
だが……
「(えっ!?)」
その手にはなにやら軟らかなこぶのようなものがあったので、
不思議に思っていると……フレデリックがその手を離した瞬間、
その軟らかなこぶもカレンについてきて……
「ぎゃあ~~~」
カレンは自らの手を広げた瞬間、けたたましい声と共にその場
にしゃがみこんでしまった。
当然、誰の目もカレンに集まる。ブラウン先生も、慌てて駆け
寄るが……
起きた変化はたった一つ。
小さな青い蛙が一匹、床を跳ね回っているだけだったのである。
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