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☤☤☤☤☤☤ 銀河の果ての小さな物語 ☤☤☤☤☤☤
☤☤☤☤☤☤ <序章> ☤☤☤☤☤☤
よく晴れた日、穏やかな一日の昼時に執務室のスピーカーが鳴る。
「第七飛行編隊帰還します」
グレートマザーはその放送をこれという感慨もなく聞いていた。
彼女にしてみれば、今もってなかなか咲かない庭のバラの方が気
がかりだったのだが…、
「フローネ編隊長からの伝言です。ライラ第三惑星にある秘密
基地RZ303の殲滅に成功せり。当方の死傷は軽傷3名。捕虜
一名を伴い帰還します」
と、その最後の言葉がひっかかった。
やがて、そのフローネ編隊長がドアをノックする。
「ご苦労様でした。やはりあなたに任せてよかったわ」
グレートマザーがそう言って出迎えたのは、空軍パイロットの
軍服を着込み、長い髪を肩まで垂らした歳の頃30前後の精悍な
顔立ちの女性。
もっとも、ここでは断らなくても女以外いないのだが……。
「激戦を予想したけど、意外に早い決着だったわね」
「敵のバリア網に穴が空きましたのでそこから急襲しました」
「あなたのことだからぬかりはないと思うけど、完璧に始末は
つけてきたんでしょうね?」
「はい、マザー。麻薬の製造工場は全て塵芥に帰しております
し、売春夫やその関係者もすべて処刑しました」
「お客となった者たちは見つかった?」
「残念ながら十名ほど……しかし、すべて処刑しました」
「そう、それでいいわ。麻薬や売春は、この国の美しい風紀を
乱します。邪な行いは、ほおって置けばせっかく築き上げたこの
清浄の地を滅ぼす悪しき温床となりかねないわ。男どもにたぶら
かされた子たちは可哀想だったけど、麗しき祖国を守っていく上
では、やむを得ない処置ね」
グレートマザーは初老の貴婦人だった。世襲ではないがこの国
の代表者であり、何より自国の軍隊の統帥権は彼女が握っていた
のである。
派手な身なりはしていないが、スキのない着こなしと、気品の
ある指の動きだけ見ても庶民でないことはすぐにわかる。ただ、
肩まで届く緩やかにウェーブのかかった髪の中から覗くその顔は
どこか冷徹で寂しげに見えた。
「……ところで……さっきの話では、関係者は全て処刑したと
報告があったのに、なぜ捕虜を連れ帰ったの?」
「……」フローネ中佐は静かにしていた。
「どうして?そんな必要があったのかしら?」
グレートマザーがもう一度問いかけてからフローネは口を開く。
「胎児でしたので……」
「胎児?」
その答えはグレートマザーにとっても意外な答えだった。
「セリーヌの子どもです」
「えっ?……セリーヌって……セリーヌ中尉のこと?」
フローネ中佐の次の答えはもっと意外だったようだ。
「彼女、生きていました。私が麻薬工場を爆破するまでは……」
「どういうこと?」
「今回の作戦はある密告者の情報で動いたのですが……」
フローネが言葉に詰まる。
「……それがセリーヌだったってことなの?」
「わかりません。今となっては……ただ、彼女が基地を覆って
いた磁力バリアの一部を解除して私たちを迎え入れてくれていた
のは確かです」
「どうしてかわるの?」
「彼女、磁力装置の解除レーバーを握ったまま、息絶えていま
したから。……私が最初に発見した時は、まだ体が暖かかっ……」
フローネ中佐の目から涙がこぼれ落ちた。
**************************(1)*
歴戦の勇士。ビュラック空軍の英雄でもある彼女は普段容易に
自分の感情を表に出さない。しかし、そんな彼女も、かつて窮地
に立った編隊を救うため、囮になって敵陣へ馳せたかつての片腕
セリーヌ中尉の死には感情を抑え切れなかったのだろう。まして、
知らぬこととはいえ、身ごもっていた彼女の頭に銃弾を降り注い
だのが自分だとしたら、それはなおのことだった。
「……すみません。動揺してしまって……」
「いいわ、あなたと彼女の仲を私も知らない訳じゃなくてよ。
気にすることはないわ」
グレートマザーは平静を装っていたが、彼女もまた、動揺して
いたのである。女性は男以上に心の動揺が仕事の出来高に大きく
関わってしまう。今、男どもと対等に渡り合えるフローネを失う
ことは為政者としてはあまりに大きな痛手だった。
しかし、彼女をこれ以上引き留めることもまたできそうになか
った。
ビュラック星はもともとムーア星人が地球から研究材料として
拉致してきた人間のうち女だけを収容するコロニーだった。彼ら
は男女を別の星で飼い、男に対してはその能力を色々試させたが、
女にはこれといった興味を示さず、ただ生殖の時だけに利用して
いたのである。
そのムーア人も5千年前、他の異星人との戦いに敗れてこの地
を去り、拉致された地球人にしてみれば安息の日々が訪れるかに
思われたが、ムーア人から自由にになった後も、彼らは互いに元
の星で独立して暮らし、言語をほぼ同じにする男女でありながら
も交わって暮らすことは今日までなかった。
つまり、お互いが、男のいない星(ビュラック星)、女のいな
い星(ダンネル星)の住人だったのである。
「ところで、その胎児は女の子なの?」
「……」
すぐには答えが返ってこない。
グレートマザーとフローネ中佐の間にあいた時間が、その答え
だった。
「……わたし……」
フローネ中佐の言葉は続かなかった。
そして、二人の間に再び間があく。
そして、今度、口を開いたのはグレートマザーだった。
「ビュラックでは、男の子は育てられないわ。もし、誤ってお
互いが望まない性別の子を得た場合は……発見しだい、相手の星
に引き渡す約束になってるのもご存じよね」
「……(でも、協約には胎児という項目は)……」
フローネは下唇を動かしていた。ほんのちょっとしたきっかけ
で、それは言葉に変わるはずだったが、そのきっかけがつかめぬ
ままに、グレートマザーが再び話しだす。
「私を困らせないでね……あなたにはリーダーとしての誇りも
責任もあるはずよ。……どうしたの?そんな変な顔をして。……
どうやら、疲れているみたいね。このところ忙しくて前線にいる
時間が長すぎたみたいね。……どうかしら、この辺で少し休養を
とった方がいいんじゃなくて?」
彼女は穏やかに語りかけ、そして、一瞬にしてフローネの肩に
のしかかっていた中佐の肩称をはぎ取ったのである。
「いいのよ、これで……今のあなたには考え事より休養が必要
だわ」
グレートマザーはフローネ中佐の肩を短い時間抱き、頬ずりを
交わす。しかし、説明はそれだけ。それだけでフローネの肩称は
グレートマザーの机の引き出しの中へ。
良いも悪いもなかった。絶対君主として女の都に君臨するグレ
ートマザーの鶴の一声で、フローネ中佐はいきなりの除隊を余儀
なくされたのである。
**************************(2)*
「どうして、急にやめるんですか?」
「それはあの胎児を連れ帰ったことと関係があるんですか?」
「やむを得ませんよ。あの時は副長と一緒だったんですから…」
「まさか、胎児を放り出して亡骸だけ持ってこれませんもの」
「男の子だったから問題なんですか?…せめて女の子なら……」
「何言ってるの!どちらにしてもあの子は副長の子どもなの。
副長の忘れ形見なのよ」
部下たちが除隊を聞いて詰め寄るなか、フローネ中佐は静かに
机の中を整理していく。
「そんなこと関係ないわ。規則は規則だもの。私たちはこの星
で純血を守り通してきたからこそ、男どもの支配から逃れられて
こうして暮らしていけるんだもの。だいいちここで男の子をどう
やって育てるの?」
「とにかく私、グレートマザーに掛け合います。マザーだって、
事の次第はご存じなんでしょう!?」
「私も……」
「私も……」
部下の驚きや狼狽をフローネは笑って遮った。
「バカなことは言わないで、何も問題はないわ。私は、疲れた
から辞めるだけ。ただそれだけよ。私もそろそろ生きのいい後輩
に道を譲らないとね。……私の代わりなんて、ビュラック空軍に
ごまんといるでしょう。騒ぐことじゃないわ」
実際、セリーヌを失ってからの彼女は、戦いにもどこか精彩を
欠いていたから、彼女自身も部下が気をもむほどには落ち込んで
はいなかった。
むしろ、これをきっかけに指揮官としての能力がさらに下がれ
ば、それは部下の命をも危険にさらすことにもなるわけで、フロ
ーネとしてもこれは納得できる事だったのである。
ただ、セリーヌが残した子どもにだけは、もう一度会いたいと
願っていた。
だが……
「ああ、あの子なら、すでにダンネル星に送りつけたわよ」
担当者からはつれない返事が返ってきたのである。
願いはかなわぬまま、三日後、フローネは自らが幼年期を過ご
した養育惑星へと帰って来た。
除隊したといっても、犯罪を犯したわけでも不名誉な事をした
訳でもない。自ら希望して長期の休暇をとって除隊したのだから、
負い目などないはずだったが、あの赤ん坊のことだけは、ずっと
気になり続けていた。
『あの子に会いたい』
そんな思いが募って、道行く誰もが英雄の帰還を祝福してくれ
るなか、独りフローネの心は晴れなかったのである。
**************************(3)*
ところが、実家に帰ると、そんな彼女を驚かす出来事が待って
いた。
「ただいま~」
そう言って入るなり玄関先で彼女は赤ん坊の泣き声を耳にする。
「お帰りなさい。早かったのね」
母の声、妹たちもあとに続く。
「わあ~、おねえちゃまだあ」
「フローネお姉さまお帰りなさい」
「お土産は?」
14歳を頭にチビたちにたちまち取り囲まれてしまった。
「赤ん坊の声がするけど、また一人引き受けたの?」
フローネの問いに母の意外な言葉が返ってきた。
「ああ、あれ。あれはあなたの子どもよ」
「私の?まさか……」
「本当よ。グレートマザーが直々にここへ届けにいらしたの。
初心者のあなたにも育てられそうないい子が見つかったからって
……」
「グレートマザーが直々ここへ?……まさか、冗談でしょう」
「冗談じゃないわ。昨日の夕方お見えになったの。……その時、
『軍人はやめても母ならやれるでしょう』っておっしゃってたわ。
……でも、この仕事も大変よ。甲高い声を一日中聞かされてると
ノイローゼになるわよ」
フローネが軍人としての職業を持っていたように、彼女の母は
『母』が職業だった。ここでは血縁関係で家族が営まれている訳
ではない。遺伝子解析で得られたデータをもとに相性のよさそう
な者達が寄り添って一つ屋根の下で暮らしていた。つまり、家族
といっても誰もが生さぬ仲の親兄弟たちだったのである。
フローネはそんな母の言葉を頭の後ろで聞きながら、家の中へ
……赤ん坊の泣く部屋へと入っていく。頭の片隅に、もしかして、
という思いが浮かんだからだ。
間違いなかった。ベビーベッドに寝かされていたその赤ん坊は、
間違いなく冷たくなった母親からフローネ自身で取り上げた生命
だったのである。
『この女の子が成人するまで、あなたが育てなさい。その間、
あなたの軍人としての職責をすべて解きます(グレートマザー)』
グレートマザーの置き手紙にある通りだった。赤ん坊のペニス
は極限まで小さくされ、睾丸はすでに体の中に埋め込まれていた
のである。
「必ず、育ててみせる」
彼女は赤ん坊を拾い上げると、数奇な運命に翻弄される幼き命
を必死に抱きしめ、嬉し泣きにくれるのだった。
<登場人物/設定>
***** <舞台設定> **************
ビュラック星
女の都。地球からムーア星人が拉致した地球人のうち、
女だけを住まわせた星。
科学技術は男の都(ダンネル星)に劣るが、結束力で
五千年もの間、男の支配をはねのけ続けている。
政治形態はグレートマザーを頂点にした専制国家。
ダンネル星
男の都。地球からムーア星人が拉致した地球人のうち、
男だけを住まわせた星。
科学技術ではビュラックより優秀だが、都市の結束力は
弱く、内紛は珍しくない。政治形態は有力者の協議による
寡頭制。
統制が弱いため、女相手の売春宿を経営する者や、麻薬
の密売者があとをたたない。
女の都との統合を望んでいるが、女の都側が拒否し続け
ている。
ただ、男の都側も力ずくでの決着は望んでいない。
ムーア星人
地球から学術調査目的で地球人を拉致してきたが、
今から五千年前異星人との争いに敗れて二つの星を放棄
した。
男女の生みわけ
お互いの星が卵子と精子を提供しあい、遺伝子分析の
結果、自分たちにとって都合のよい子どもだけを試験管
で作り出す。
特に女の都では、遺伝子解析を経ない自然分娩は処罰
の対象。このためセリーヌの子どもは、男の子であり、
かつ自然分娩で生んだ子であることからビュラック星で
は二つの意味で育てることができない。
養育惑星
子育て専用の惑星。そこで母親を職業とする女性に四五人
の姉妹と一緒に育てられる。この星は養育が目的のため素行
の悪い人物は存在を許されず、みな穏やかに暮らしている。
***** <登場人物> ****************
フローネ(中佐)
長い髪を肩まで垂らした歳の頃30前後の精悍な顔立ちの女
第七飛行編隊の隊長として、数多くの武勲に彩られているが
副長の死をきっかけに今はその副長の遺児と一緒に養育惑星
で暮らしている。
セリーヌ(中尉)
フローネ中佐のかつての部下。囮作戦で戦死したと思われて
いたが、その後も生き延び、最後はフローネの編隊を引き入
れる手引きをして戦死(?)。その時、お腹にいた男の子は
奇跡的に命をとりとめ、今はフローネ中佐が職を辞して面倒
をみている。
グレートマザー
ビュラック星の絶対君主。
時に冷徹、時に情に厚い、初老の婦人。
ハイネ
セリーヌの子ども。男の子だが、ビュラック星では男として
は育てられないため、去勢され、ペニスはちょっと大きめの
クリトリス並に、睾丸は萎縮させて体の中に埋め込まれている。
臆病だが心優しい男の子。物心着く前からフローネが育てた
ので彼女が母だと信じている。
*****************************
☤☤☤☤☤☤ <序章> ☤☤☤☤☤☤
よく晴れた日、穏やかな一日の昼時に執務室のスピーカーが鳴る。
「第七飛行編隊帰還します」
グレートマザーはその放送をこれという感慨もなく聞いていた。
彼女にしてみれば、今もってなかなか咲かない庭のバラの方が気
がかりだったのだが…、
「フローネ編隊長からの伝言です。ライラ第三惑星にある秘密
基地RZ303の殲滅に成功せり。当方の死傷は軽傷3名。捕虜
一名を伴い帰還します」
と、その最後の言葉がひっかかった。
やがて、そのフローネ編隊長がドアをノックする。
「ご苦労様でした。やはりあなたに任せてよかったわ」
グレートマザーがそう言って出迎えたのは、空軍パイロットの
軍服を着込み、長い髪を肩まで垂らした歳の頃30前後の精悍な
顔立ちの女性。
もっとも、ここでは断らなくても女以外いないのだが……。
「激戦を予想したけど、意外に早い決着だったわね」
「敵のバリア網に穴が空きましたのでそこから急襲しました」
「あなたのことだからぬかりはないと思うけど、完璧に始末は
つけてきたんでしょうね?」
「はい、マザー。麻薬の製造工場は全て塵芥に帰しております
し、売春夫やその関係者もすべて処刑しました」
「お客となった者たちは見つかった?」
「残念ながら十名ほど……しかし、すべて処刑しました」
「そう、それでいいわ。麻薬や売春は、この国の美しい風紀を
乱します。邪な行いは、ほおって置けばせっかく築き上げたこの
清浄の地を滅ぼす悪しき温床となりかねないわ。男どもにたぶら
かされた子たちは可哀想だったけど、麗しき祖国を守っていく上
では、やむを得ない処置ね」
グレートマザーは初老の貴婦人だった。世襲ではないがこの国
の代表者であり、何より自国の軍隊の統帥権は彼女が握っていた
のである。
派手な身なりはしていないが、スキのない着こなしと、気品の
ある指の動きだけ見ても庶民でないことはすぐにわかる。ただ、
肩まで届く緩やかにウェーブのかかった髪の中から覗くその顔は
どこか冷徹で寂しげに見えた。
「……ところで……さっきの話では、関係者は全て処刑したと
報告があったのに、なぜ捕虜を連れ帰ったの?」
「……」フローネ中佐は静かにしていた。
「どうして?そんな必要があったのかしら?」
グレートマザーがもう一度問いかけてからフローネは口を開く。
「胎児でしたので……」
「胎児?」
その答えはグレートマザーにとっても意外な答えだった。
「セリーヌの子どもです」
「えっ?……セリーヌって……セリーヌ中尉のこと?」
フローネ中佐の次の答えはもっと意外だったようだ。
「彼女、生きていました。私が麻薬工場を爆破するまでは……」
「どういうこと?」
「今回の作戦はある密告者の情報で動いたのですが……」
フローネが言葉に詰まる。
「……それがセリーヌだったってことなの?」
「わかりません。今となっては……ただ、彼女が基地を覆って
いた磁力バリアの一部を解除して私たちを迎え入れてくれていた
のは確かです」
「どうしてかわるの?」
「彼女、磁力装置の解除レーバーを握ったまま、息絶えていま
したから。……私が最初に発見した時は、まだ体が暖かかっ……」
フローネ中佐の目から涙がこぼれ落ちた。
**************************(1)*
歴戦の勇士。ビュラック空軍の英雄でもある彼女は普段容易に
自分の感情を表に出さない。しかし、そんな彼女も、かつて窮地
に立った編隊を救うため、囮になって敵陣へ馳せたかつての片腕
セリーヌ中尉の死には感情を抑え切れなかったのだろう。まして、
知らぬこととはいえ、身ごもっていた彼女の頭に銃弾を降り注い
だのが自分だとしたら、それはなおのことだった。
「……すみません。動揺してしまって……」
「いいわ、あなたと彼女の仲を私も知らない訳じゃなくてよ。
気にすることはないわ」
グレートマザーは平静を装っていたが、彼女もまた、動揺して
いたのである。女性は男以上に心の動揺が仕事の出来高に大きく
関わってしまう。今、男どもと対等に渡り合えるフローネを失う
ことは為政者としてはあまりに大きな痛手だった。
しかし、彼女をこれ以上引き留めることもまたできそうになか
った。
ビュラック星はもともとムーア星人が地球から研究材料として
拉致してきた人間のうち女だけを収容するコロニーだった。彼ら
は男女を別の星で飼い、男に対してはその能力を色々試させたが、
女にはこれといった興味を示さず、ただ生殖の時だけに利用して
いたのである。
そのムーア人も5千年前、他の異星人との戦いに敗れてこの地
を去り、拉致された地球人にしてみれば安息の日々が訪れるかに
思われたが、ムーア人から自由にになった後も、彼らは互いに元
の星で独立して暮らし、言語をほぼ同じにする男女でありながら
も交わって暮らすことは今日までなかった。
つまり、お互いが、男のいない星(ビュラック星)、女のいな
い星(ダンネル星)の住人だったのである。
「ところで、その胎児は女の子なの?」
「……」
すぐには答えが返ってこない。
グレートマザーとフローネ中佐の間にあいた時間が、その答え
だった。
「……わたし……」
フローネ中佐の言葉は続かなかった。
そして、二人の間に再び間があく。
そして、今度、口を開いたのはグレートマザーだった。
「ビュラックでは、男の子は育てられないわ。もし、誤ってお
互いが望まない性別の子を得た場合は……発見しだい、相手の星
に引き渡す約束になってるのもご存じよね」
「……(でも、協約には胎児という項目は)……」
フローネは下唇を動かしていた。ほんのちょっとしたきっかけ
で、それは言葉に変わるはずだったが、そのきっかけがつかめぬ
ままに、グレートマザーが再び話しだす。
「私を困らせないでね……あなたにはリーダーとしての誇りも
責任もあるはずよ。……どうしたの?そんな変な顔をして。……
どうやら、疲れているみたいね。このところ忙しくて前線にいる
時間が長すぎたみたいね。……どうかしら、この辺で少し休養を
とった方がいいんじゃなくて?」
彼女は穏やかに語りかけ、そして、一瞬にしてフローネの肩に
のしかかっていた中佐の肩称をはぎ取ったのである。
「いいのよ、これで……今のあなたには考え事より休養が必要
だわ」
グレートマザーはフローネ中佐の肩を短い時間抱き、頬ずりを
交わす。しかし、説明はそれだけ。それだけでフローネの肩称は
グレートマザーの机の引き出しの中へ。
良いも悪いもなかった。絶対君主として女の都に君臨するグレ
ートマザーの鶴の一声で、フローネ中佐はいきなりの除隊を余儀
なくされたのである。
**************************(2)*
「どうして、急にやめるんですか?」
「それはあの胎児を連れ帰ったことと関係があるんですか?」
「やむを得ませんよ。あの時は副長と一緒だったんですから…」
「まさか、胎児を放り出して亡骸だけ持ってこれませんもの」
「男の子だったから問題なんですか?…せめて女の子なら……」
「何言ってるの!どちらにしてもあの子は副長の子どもなの。
副長の忘れ形見なのよ」
部下たちが除隊を聞いて詰め寄るなか、フローネ中佐は静かに
机の中を整理していく。
「そんなこと関係ないわ。規則は規則だもの。私たちはこの星
で純血を守り通してきたからこそ、男どもの支配から逃れられて
こうして暮らしていけるんだもの。だいいちここで男の子をどう
やって育てるの?」
「とにかく私、グレートマザーに掛け合います。マザーだって、
事の次第はご存じなんでしょう!?」
「私も……」
「私も……」
部下の驚きや狼狽をフローネは笑って遮った。
「バカなことは言わないで、何も問題はないわ。私は、疲れた
から辞めるだけ。ただそれだけよ。私もそろそろ生きのいい後輩
に道を譲らないとね。……私の代わりなんて、ビュラック空軍に
ごまんといるでしょう。騒ぐことじゃないわ」
実際、セリーヌを失ってからの彼女は、戦いにもどこか精彩を
欠いていたから、彼女自身も部下が気をもむほどには落ち込んで
はいなかった。
むしろ、これをきっかけに指揮官としての能力がさらに下がれ
ば、それは部下の命をも危険にさらすことにもなるわけで、フロ
ーネとしてもこれは納得できる事だったのである。
ただ、セリーヌが残した子どもにだけは、もう一度会いたいと
願っていた。
だが……
「ああ、あの子なら、すでにダンネル星に送りつけたわよ」
担当者からはつれない返事が返ってきたのである。
願いはかなわぬまま、三日後、フローネは自らが幼年期を過ご
した養育惑星へと帰って来た。
除隊したといっても、犯罪を犯したわけでも不名誉な事をした
訳でもない。自ら希望して長期の休暇をとって除隊したのだから、
負い目などないはずだったが、あの赤ん坊のことだけは、ずっと
気になり続けていた。
『あの子に会いたい』
そんな思いが募って、道行く誰もが英雄の帰還を祝福してくれ
るなか、独りフローネの心は晴れなかったのである。
**************************(3)*
ところが、実家に帰ると、そんな彼女を驚かす出来事が待って
いた。
「ただいま~」
そう言って入るなり玄関先で彼女は赤ん坊の泣き声を耳にする。
「お帰りなさい。早かったのね」
母の声、妹たちもあとに続く。
「わあ~、おねえちゃまだあ」
「フローネお姉さまお帰りなさい」
「お土産は?」
14歳を頭にチビたちにたちまち取り囲まれてしまった。
「赤ん坊の声がするけど、また一人引き受けたの?」
フローネの問いに母の意外な言葉が返ってきた。
「ああ、あれ。あれはあなたの子どもよ」
「私の?まさか……」
「本当よ。グレートマザーが直々にここへ届けにいらしたの。
初心者のあなたにも育てられそうないい子が見つかったからって
……」
「グレートマザーが直々ここへ?……まさか、冗談でしょう」
「冗談じゃないわ。昨日の夕方お見えになったの。……その時、
『軍人はやめても母ならやれるでしょう』っておっしゃってたわ。
……でも、この仕事も大変よ。甲高い声を一日中聞かされてると
ノイローゼになるわよ」
フローネが軍人としての職業を持っていたように、彼女の母は
『母』が職業だった。ここでは血縁関係で家族が営まれている訳
ではない。遺伝子解析で得られたデータをもとに相性のよさそう
な者達が寄り添って一つ屋根の下で暮らしていた。つまり、家族
といっても誰もが生さぬ仲の親兄弟たちだったのである。
フローネはそんな母の言葉を頭の後ろで聞きながら、家の中へ
……赤ん坊の泣く部屋へと入っていく。頭の片隅に、もしかして、
という思いが浮かんだからだ。
間違いなかった。ベビーベッドに寝かされていたその赤ん坊は、
間違いなく冷たくなった母親からフローネ自身で取り上げた生命
だったのである。
『この女の子が成人するまで、あなたが育てなさい。その間、
あなたの軍人としての職責をすべて解きます(グレートマザー)』
グレートマザーの置き手紙にある通りだった。赤ん坊のペニス
は極限まで小さくされ、睾丸はすでに体の中に埋め込まれていた
のである。
「必ず、育ててみせる」
彼女は赤ん坊を拾い上げると、数奇な運命に翻弄される幼き命
を必死に抱きしめ、嬉し泣きにくれるのだった。
<登場人物/設定>
***** <舞台設定> **************
ビュラック星
女の都。地球からムーア星人が拉致した地球人のうち、
女だけを住まわせた星。
科学技術は男の都(ダンネル星)に劣るが、結束力で
五千年もの間、男の支配をはねのけ続けている。
政治形態はグレートマザーを頂点にした専制国家。
ダンネル星
男の都。地球からムーア星人が拉致した地球人のうち、
男だけを住まわせた星。
科学技術ではビュラックより優秀だが、都市の結束力は
弱く、内紛は珍しくない。政治形態は有力者の協議による
寡頭制。
統制が弱いため、女相手の売春宿を経営する者や、麻薬
の密売者があとをたたない。
女の都との統合を望んでいるが、女の都側が拒否し続け
ている。
ただ、男の都側も力ずくでの決着は望んでいない。
ムーア星人
地球から学術調査目的で地球人を拉致してきたが、
今から五千年前異星人との争いに敗れて二つの星を放棄
した。
男女の生みわけ
お互いの星が卵子と精子を提供しあい、遺伝子分析の
結果、自分たちにとって都合のよい子どもだけを試験管
で作り出す。
特に女の都では、遺伝子解析を経ない自然分娩は処罰
の対象。このためセリーヌの子どもは、男の子であり、
かつ自然分娩で生んだ子であることからビュラック星で
は二つの意味で育てることができない。
養育惑星
子育て専用の惑星。そこで母親を職業とする女性に四五人
の姉妹と一緒に育てられる。この星は養育が目的のため素行
の悪い人物は存在を許されず、みな穏やかに暮らしている。
***** <登場人物> ****************
フローネ(中佐)
長い髪を肩まで垂らした歳の頃30前後の精悍な顔立ちの女
第七飛行編隊の隊長として、数多くの武勲に彩られているが
副長の死をきっかけに今はその副長の遺児と一緒に養育惑星
で暮らしている。
セリーヌ(中尉)
フローネ中佐のかつての部下。囮作戦で戦死したと思われて
いたが、その後も生き延び、最後はフローネの編隊を引き入
れる手引きをして戦死(?)。その時、お腹にいた男の子は
奇跡的に命をとりとめ、今はフローネ中佐が職を辞して面倒
をみている。
グレートマザー
ビュラック星の絶対君主。
時に冷徹、時に情に厚い、初老の婦人。
ハイネ
セリーヌの子ども。男の子だが、ビュラック星では男として
は育てられないため、去勢され、ペニスはちょっと大きめの
クリトリス並に、睾丸は萎縮させて体の中に埋め込まれている。
臆病だが心優しい男の子。物心着く前からフローネが育てた
ので彼女が母だと信じている。
*****************************
有隣学園(1)
有隣学園(1)
そこは古風な学園だった。もともと、戦前、鉄道と不動産で財
を成した億万長者が自分のたった一人の愛娘のために開いた学校
で、その愛娘が今は理事長先生をしているという風変わりな学校
でもある。
親の溺愛が過ぎてとうとう70歳の今日まで嫁に行かなかった
この娘は、それでも多くの少女たちを育て、良縁へと導いている。
そう、ここは今どき珍しい良妻賢母型の女の園なのだ。
入学試験も、ペーパー試験の結果より、家庭環境や素行の方が
重視されるため、庶民の娘(こ)が一般入試でこの学園に入学する
のは極めて困難なお嬢様学校でもある。
ただ、ならば学園の中に貧しい家の出がまったくいないのかと
いうと……これがそうでもない。
生徒の一割五分から二割程度は、学費を免除された『給費生』。
学費のほか、修学旅行の費用やお小遣いまで学校から支給される
厚遇ぶりだった。
美由紀も、そんな一人。
親は畳職人。とてもお嬢様学校の学費など払える身分ではない
だが、彼女が幼稚園に上がる時、父親がたまたま学園の仕事を任
されたのがきっかけで、冗談半分に幼稚園に入園させてやると、
そのまま小学校、中学校、高校とエスカレーターを駆け上がって、
高校三年生。今では規律委員長として、すっかり学園の顔になっ
ている。
そんな美由紀が、今、理事長室にいた。
理事長先生の大きな事務デスクの脇で直立不動の姿勢をとって
いる。
そんな美由紀に向って理事長先生が尋ねる。
「この子、どうしたのかしら?」
「喫煙です。寮の部屋でタバコの吸殻がみつかりました。他に
三人、事実を認めました」
「そうなの……何事にも好奇心を持つ年頃だから……」
白髪の理事長先生は正面に向き直ると……
「小森さん。ここではタバコは厳禁よ。…分かってるでしょう
けど、この国の法律でも、それは認められていないわ」
先生がそう、話しかけたのは、デスクの前に敷かれた薄い敷物
に膝まづいている女の子。中等部二年の小森彩香だった。
ところが、この女の子、理事長先生にではなく、美由紀に向か
ってこう言うのである。
「わかってるわよ。そんなこと………ちょっと、悪戯してみた
だけじゃない。給費生のくせに、うるさいんだから……あなた、
誰のおかげでこの学校にいられると思ってるの」
小森に噛み付かれても美由紀は表情を変えない。
『給費生のくせに生意気……』
そんな言葉を入学以来何度聞いたことだろう。しかし、そんな
事を気にしていたら、ここでは生きていけなかった。
「たしかに私は給費生だけど、そんな私に生徒会の選挙で票を
投じてくださったのは一般の方々よ。だから、こうして規律委員
なの。私は与えられた仕事を誠実にやってるだけよ」
他にも悪さをしていた友達がいたのに、自分だけがこんな処に
連れて来られたもんだから彩香の腹の虫は治まらないだが、今は
そんなことにかまっていられない。慌てて、先生に謝ってみる。
「ごめんなさい。理事長先生。ほんの些細な悪戯だったんです。
たまたま、そこにタバコがあったから、触ってみたくなって……」
苦しい言い訳だった。見苦しいと言うべきかもしれない。
「そう、悪戯心は誰でもあるわね」
理事長先生が応じると、美由紀も口を挟んだ。
「ちょっとした悪戯にしては、あなたの部屋にあった20本の
吸殻は多くなくて……一人当たり5本。……だいいちそのタバコ
はどうやって手に入れたのかしら……あなたのお部屋に突然現れ
たの?」
「それは……」
彩香は言葉に詰まる。
「常習性があるということみたいね」
理事長先生の声に彩香は青ざめた。
「お友だちの話では、一ヶ月ほど前から始まったみたいです」
「そのお友達は?」
「たまに、彩香さんから分けてもらって、吸ってたみたいです」
「で、……その子たちは?」
「口を石鹸で洗ったあと鞭1ダースを与えて部屋に帰しました」
「そうなの。その子たちは首謀者じゃないというのね」
「はい」
二人の会話から自分の立場がどんどん悪くなっていくと悟った
彩香は……
「私は、そんなんじゃなくて……ただ、みんなにタバコを見せ
たびらかしたかったから……そしたら……みんな勝手に吸い始め
ちゃて……」
しかし、そんな弁明、年上の二人は聞く耳を持っていない様子
で、別のことを話し始める。
「で、美由紀さんはどのように処置したいのかしら?」
「…………」
理事長先生に尋ねられた美由紀だったが、しばらく口を開かな
かった。
生徒の自治が幅広く認められているこの学校にあっては、鞭を
使った体罰さえ生徒同士で可能だった。上級生が下級生を、生徒
会が一般生徒を懲戒できるのだ。
とはいえ、そこには限度がある。もてあました生徒を規律委員
がここに連れて来るときは、その限度を越えて先生にお仕置きを
依頼する時だったのである。
そんな美由紀に、理事長先生はあえて『どうしたいのか?』と
尋ねたのだ。投げたはずのボールを投げ返された格好だった。
ただでさえ嫌われ役の規律委員が理事長先生にこうして欲しい
と言ってしまうと、当然、一般生徒との間に大きな溝が生じる訳
で、美由紀としても軽々しく口を開けなかったのである。
そんな嫌な空気を感じ取ったのだろう。彩香が先に動く。
彼女は胸の前で両手を組むと理事長先生に訴えた。
「先生、お願いです。月曜の朝礼でのお仕置きだけはしないで
ください。私、みんなに見られるのだけは絶対にいやなんです」
彼女の頭の中では、さっきの意趣返しとばかりに美由紀が月曜
の朝礼での懲罰を提案しかねないと思ったのだ。
「私は、この子が他の子と同じ罰ではいけない気がしたのです
が、理事長先生に別のお考えがあればそれに従います」
美由紀の答えに理事長先生が静かにうなづく。
彼女は美由紀の答えに納得した様子だった。
そして、正面へ向き直ると、彩香に向って……
「そうね、確かにみんなの見ている前でのお仕置きは可哀想ね。
でも、それは校長先生がご判断なさること。私の権限ではないわ。
私は確かにあなた方の生活全般を預かってるから寮などで起きた
出来事には口を挟むけど、学校での事は、やはり校長先生の権限
なの。私にはどうすることもできないわ」
理事長先生は彩香の顔色を窺いながらも事務机の引き出しから
分厚いファイルを取り出してながめ始める。
そこには、素行や成績、性格や最近の様子など、全生徒の記録
が収められていた。
当然、見ていたのは彩香の項目だった。
「あなた、この一ヶ月で二度も舎監の黒田先生に呼び出されて
お鞭頂いてるのね」
独り言のような理事長先生のつぶやきに彩香は顔を赤らめる。
舎監の先生からの鞭は、それ専用のテーブルに手足を縛られて、
むき出しになったお尻をなめし皮の鞭でぶたれるもので、その音
が寮の廊下に響くために、ぶたれていない子にもそれなりの戒め
となっていたのである。
「舎監の黒田先生から頂いた鞭でも効果がないというのは……
やはり、向こうで相当な訓練を積んだからかしらね」
理事長先生は美由紀の顔をファイル越しに見ては微笑む。
彩香は帰国子女。『向こう』は外国。『訓練』とは鞭打ちを意味
していた。
「イギリスは、やはり、本場ですから……」
美由紀の言葉に彩香はそれが何を意味しているのか悟ったよう
で……
「私、イギリスでも鞭でぶたれたことなんて一度もありません。
今はもうそんな野蛮なことしませんから!」
と、少し憤然とした様子で口を尖らすと……
「あら、そうなの。おあいにくだったわね。こちらはまだその
野蛮な習慣がたくさん残ってるのよ。おまけに、それで足りなけ
れば、お浣腸だって、お灸だって、生徒をお仕置きする方法には
事欠かないわ。特に、あなたみたいな跳ね返り娘には鞭は効果的
なレッスンなのよ」
理事長先生に笑われて、さすがの彩香も顔を青くした。
そんな青い顔をした少女の頭上を大人二人の会話が飛び交う。
「お浣腸はすませたの?」
「はい、二百ccを二十分我慢させました」
「そう、お薬(グリセリン)は使った?」
「一割だけです」
「そう、よくこの子が我慢したわね」
「大丈夫です」
美由紀は自信たっぷりにそう言い放ったが、事実は違っていた。
ものの十分で彩香は屈辱的な大爆発を起こしていたのである。
ただ、美由紀はそのことを理事長先生に言うつもりはなかった。
それは彼女なりの温情。美由紀にしても帰国子女としてハンデ
の多い彩香の頑張りは頑張りとして評価していたのである。
「いいわ、お浣腸の方がちゃんと済んでるなら、あえて厳しい
ことまで必要はないでしょう。……ただ、お父様のお話では彩香
ちゃんもこれから先はずっと日本で暮らすみたいだし、目上の人
に対する口のきき方は覚えておかなければならないわね」
理事長先生はそう言いながら、机の一番下の引き出しから幅広
の革ベルトを取り出す。
それはお約束の鞭だった。
幅が五インチ、長さは二フィートで、鞭を振るう人が持ち安い
ように握るための柄が付いている。部屋の隅には、まるで傘でも
たてかけたようにしてケインも置かれていたのだが、こちらは、
いわば脅かしのための看板で、これが実際に使われる事は滅多に
なかった。
「…………」
その鞭を見た瞬間、彩香は、まるで森の中で大蛇にでも出くわ
したかの様な顔になった。彼女はこの学園に来てまだ一年と数ヶ
月だが、それでも、この鞭の威力がどんなものかを十分に知って
いたのである。
「さあ、始めましょうか」
気がつくと、彩香の目の前にいきなり理事長先生が……
「!!!」
もちろん、理事長先生はゆっくりと椅子から立ち上がって彩香
の場所まで行き、そこで彩香と同じ様に膝まづいただけの事なの
だが、呆然としていた彩香には、その途中の記憶が消えていたの
である。
それほどまでに彼女は動揺していたのだった。
「どうしたの?鳩が豆鉄砲食らったような顔してるけど……。
あなただって昨日今日ここへ来たわけじゃないんだし……まさか、
今さらこの部屋から無傷で出られるなんて思ってないわよね?」
「それは…………は、はい」
「悪さをして、ここに連れてこられて、それでもここを無傷で
出られるのは、学校を辞める時だけよ」
「……(はい)」
彩香は『はい』と言ったつもりだったが声にはできなかった。
ただ、首を縦にしただけだったのである。
「たらだったら、まずはお約束をやってちょうだい。女の子の
世界というのは、何より形が大事なのよ」
理事長先生に促されて、彩香はあらためて胸の前で手を合せる。
「彩香は悪い行いをしました。……でも、これからもこの学校
の生徒でいたいのです。私はこの学校を愛しています。どうか、
これからいい子になれますように、お仕置きをお願いします」
オドオドした様子で彩香が宣誓すれば……
「わかりました。よく言えたわね。……私もあなたが大好きよ。
だから、お仕置き、頑張りましょうね」
理事長先生は、彩香の両手を取ると、一緒に立ち上がり、近く
のテーブルへと連れていく。
その古びたサイドテーブルは部屋の他の調度品とも違和感なく
マッチしているが、女の子たちのお臍が当たる角の辺りはすでに
塗料が相当に剥げていて、のべ何百人もの子がこれを使った事が
わかった。
理事長先生は、そんな女の子たちの涙とよだれとおしっこまで
も受け止めてきたそのテーブルに、彩香をうつ伏せにさせると、
ご自分は彩香の両手を握ったまま美由紀にこう命じるのだった。
「美由紀さん、あなた、やってちょうだい」
そう、ここでは規律委員の美由紀が鞭を振るうのだ。
規律委員は生徒会の中でも花形、名誉ある職責ではあったが、
同時に刑吏のような嫌われ仕事もやらなければならない。
「はい、先生」
美由紀に迷いはなかった。
彩香のスカートを捲くりあげ、その裾が落ちないように大型の
洗濯ばさみで留めると、ショーツまでも下ろしてしまう。
彩香は、たびたび後ろを振り返ろうとして身体をねじったが、
それ以上は理事長先生が許さなかった。
「心配なのは分かるけど、もう心を決めなさい。鞭のお仕置き
というのは、心静かに受け入れないと、よけいに痛いわよ」
理事長先生が諭す。
やがて……
「ピシッ」
乾いた音が室内に響いた。
「……(あっ)」
最初は『今、お尻に当たった!』という程度。
「一つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香は自分の身体に起こった事をあえて目の前の理事長先生に
報告する。
馬鹿馬鹿しく見えるが、これがこの学園のしきたりだったので
ある。
「ピシッ」
再び、乾いた音が響く。
「……(うっ)」
最初に比べれば痛いが、まだ声をたてるほどではない。
「二つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生は彩香のこの声を聞くと、また静かに頷く。
この頷きを合図に美由紀が次の鞭が振り下ろすのだ。
「ピシッ」
「……(ひっ!)」
彩香の口から思わず悲鳴が漏れそうになった。
美由紀が鞭の勢いを強めたのではない。たった三発でも痛みは
お尻に蓄積されるから、これから先は彩香にとってはもっともっ
とキツイ事になるのだ。
それが証拠に……
「どうしました?」
理事長先生に促されて、彩香は慌ててご挨拶する。
「三つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生は、今度はほんの少し間をとって頷いた。
「ピシッ」
「……(ひぃ~)」
彩香は閉じた両足を擦り合わせた。
「四つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
少し投げやりで、どこか悲しげな声だ。
「ピシッ」
「……ぁぁぁ」
彩香は両足で小さく地団太を踏み、その口からは僅かながらも
声の混じった吐息が漏れる。
「五つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
すでに、彩香の声は震え始めていた。
「ピシッ」
「あっっっっっ」
その瞬間、彩香はうつ伏せになった自分の体を思わず起こそう
としたが、理事長先生の戒めているその手を感じてやめてしまう。
『今は、ここにいなきゃいけない』
この時はまだ、彼女の理性がそう命じて、身体をコントロール
していたのだった。
「六つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生は、しばしの間、彩香が落ち着くための休みを与え
てくれたが、もちろん、それでこの鞭打ちが終わりになる訳では
なかった。
先生は再び、静かにうなづく。
「ピシッ」
「いやあ~~」
七回目にして初めて漏れた悲鳴だった。
地団太を踏む両足は激しくなり、先生の戒めを抜けようとする
両手にも今まで以上の力が入る。
もちろん、それは美由紀が鞭の威力を高めたわけではない。
鞭の痛みは短時間で和らぐことはない。回数が増えれば増えた
だけ痛みがお尻に蓄積していく。
……やがて、それはほんのちょっと触れられただけでも悲鳴を
上げるほどの痛みになるのだった。
「どうしました?ご挨拶は?」
理事長先生の顔が先ほどまでのように笑顔ではなくなる。怖い
顔が目の前にあるのだ。
彩香はそれを見て怯え、あらためて、ご挨拶する。
「七つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生の顔は厳しいまま。少し間をとっただけで次の合図
を出す。
「ピシッ」
「だめえ~~~」
彩香の声は鞭音より大きかった。
「何がだめなの。中学生のくせにタバコなんて吸う方がよほど
ダメなんじゃなくて……」
理事長先生の顔が、いつになく厳しいのを見て、彩香は思わず
息を飲む。
そして、その厳しい顔にむしろ落ち着きを取り戻したのか……
「八つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
と、素直に答えるのだった。
「ピシッ」
「ひぃ~~~~」
彩香の地団太はさらに大きくなり、すでに真っ赤に染まった剥
き出しのお尻の割れ目からは、まだ可愛らしい女の子のプッシー
が顔を覗かせるまでなったのである。
「九つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香の声はすでに涙声。
だが、先生は許してくれなかった。
「ピシッ」
「ひぃ~~~~」
彩香は、全身全霊を込めて我慢したから、悲鳴は小さくなり、
戒めを抜けようとする力も弱まったが、お尻の踊りだけはもとの
まま。
当然、美由紀には彼女のプッシーを晒すことになったのである。
「十一、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香がこう言うと、すかさず理事長先生から……
「まだ、十回目。ずるしちゃだめよ」
という声が飛ぶ。
彩香は慌てて言い直す。
「十、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香に悪意はなかった。お尻が痛くて頭が混乱してしまったの
だ。でも、そうやって理事長先生に指摘されると、少女の心は、
また新たな罪を犯してしまった気分になる。
『また、罰が増えたんじゃないだろうか』
頭の中はダークな気分で一杯になるのだった。
「ピシッ」
「やめて~~」
とうとう彩香の口から泣き言が漏れた。
『小学生とは違うんだから、恥ずかしいことにだけはなりたく
ない……』
中学生のプライドを彼女なりに守ろうとした彩香だったのだが、
それもこれまでだった……
「どうしたの、彩香ちゃん。ご挨拶は?」
先生にこう言われても、泣きはらした顔の彼女は、すぐに対処
ができないでいたのだ。
「痛い?…………」
理事長先生の問いかけに鼻水をすすりながら頷く彩香。
すると……
「可哀想ね。でも、痛いからお仕置きなのよ。こんなに痛い事
されたくなかったら、いい子でいなくちゃね。……この学園は、
神様に仕える天使の里なのよ。心の汚れた子が一人でもいたら、
神様に申し訳ないわ」
理事長先生はまるで幼い子を諭すような言葉で彩香を諭したが、
それが意外にも今の彩香には効果的だったのか、彼女の顔が再び
しまる。
「いい顔ね。そうよ、お仕置きだからって、泣いてても始まら
ないもの。……さあ、あと一つだけ我慢しなさい。そうしたら、
少しお休みしましょう」
理事長先生は、こう言って彩香を励ます。
そう、彩香へのお仕置きはまだまだこの先も続くのだった。
**************************
そこは古風な学園だった。もともと、戦前、鉄道と不動産で財
を成した億万長者が自分のたった一人の愛娘のために開いた学校
で、その愛娘が今は理事長先生をしているという風変わりな学校
でもある。
親の溺愛が過ぎてとうとう70歳の今日まで嫁に行かなかった
この娘は、それでも多くの少女たちを育て、良縁へと導いている。
そう、ここは今どき珍しい良妻賢母型の女の園なのだ。
入学試験も、ペーパー試験の結果より、家庭環境や素行の方が
重視されるため、庶民の娘(こ)が一般入試でこの学園に入学する
のは極めて困難なお嬢様学校でもある。
ただ、ならば学園の中に貧しい家の出がまったくいないのかと
いうと……これがそうでもない。
生徒の一割五分から二割程度は、学費を免除された『給費生』。
学費のほか、修学旅行の費用やお小遣いまで学校から支給される
厚遇ぶりだった。
美由紀も、そんな一人。
親は畳職人。とてもお嬢様学校の学費など払える身分ではない
だが、彼女が幼稚園に上がる時、父親がたまたま学園の仕事を任
されたのがきっかけで、冗談半分に幼稚園に入園させてやると、
そのまま小学校、中学校、高校とエスカレーターを駆け上がって、
高校三年生。今では規律委員長として、すっかり学園の顔になっ
ている。
そんな美由紀が、今、理事長室にいた。
理事長先生の大きな事務デスクの脇で直立不動の姿勢をとって
いる。
そんな美由紀に向って理事長先生が尋ねる。
「この子、どうしたのかしら?」
「喫煙です。寮の部屋でタバコの吸殻がみつかりました。他に
三人、事実を認めました」
「そうなの……何事にも好奇心を持つ年頃だから……」
白髪の理事長先生は正面に向き直ると……
「小森さん。ここではタバコは厳禁よ。…分かってるでしょう
けど、この国の法律でも、それは認められていないわ」
先生がそう、話しかけたのは、デスクの前に敷かれた薄い敷物
に膝まづいている女の子。中等部二年の小森彩香だった。
ところが、この女の子、理事長先生にではなく、美由紀に向か
ってこう言うのである。
「わかってるわよ。そんなこと………ちょっと、悪戯してみた
だけじゃない。給費生のくせに、うるさいんだから……あなた、
誰のおかげでこの学校にいられると思ってるの」
小森に噛み付かれても美由紀は表情を変えない。
『給費生のくせに生意気……』
そんな言葉を入学以来何度聞いたことだろう。しかし、そんな
事を気にしていたら、ここでは生きていけなかった。
「たしかに私は給費生だけど、そんな私に生徒会の選挙で票を
投じてくださったのは一般の方々よ。だから、こうして規律委員
なの。私は与えられた仕事を誠実にやってるだけよ」
他にも悪さをしていた友達がいたのに、自分だけがこんな処に
連れて来られたもんだから彩香の腹の虫は治まらないだが、今は
そんなことにかまっていられない。慌てて、先生に謝ってみる。
「ごめんなさい。理事長先生。ほんの些細な悪戯だったんです。
たまたま、そこにタバコがあったから、触ってみたくなって……」
苦しい言い訳だった。見苦しいと言うべきかもしれない。
「そう、悪戯心は誰でもあるわね」
理事長先生が応じると、美由紀も口を挟んだ。
「ちょっとした悪戯にしては、あなたの部屋にあった20本の
吸殻は多くなくて……一人当たり5本。……だいいちそのタバコ
はどうやって手に入れたのかしら……あなたのお部屋に突然現れ
たの?」
「それは……」
彩香は言葉に詰まる。
「常習性があるということみたいね」
理事長先生の声に彩香は青ざめた。
「お友だちの話では、一ヶ月ほど前から始まったみたいです」
「そのお友達は?」
「たまに、彩香さんから分けてもらって、吸ってたみたいです」
「で、……その子たちは?」
「口を石鹸で洗ったあと鞭1ダースを与えて部屋に帰しました」
「そうなの。その子たちは首謀者じゃないというのね」
「はい」
二人の会話から自分の立場がどんどん悪くなっていくと悟った
彩香は……
「私は、そんなんじゃなくて……ただ、みんなにタバコを見せ
たびらかしたかったから……そしたら……みんな勝手に吸い始め
ちゃて……」
しかし、そんな弁明、年上の二人は聞く耳を持っていない様子
で、別のことを話し始める。
「で、美由紀さんはどのように処置したいのかしら?」
「…………」
理事長先生に尋ねられた美由紀だったが、しばらく口を開かな
かった。
生徒の自治が幅広く認められているこの学校にあっては、鞭を
使った体罰さえ生徒同士で可能だった。上級生が下級生を、生徒
会が一般生徒を懲戒できるのだ。
とはいえ、そこには限度がある。もてあました生徒を規律委員
がここに連れて来るときは、その限度を越えて先生にお仕置きを
依頼する時だったのである。
そんな美由紀に、理事長先生はあえて『どうしたいのか?』と
尋ねたのだ。投げたはずのボールを投げ返された格好だった。
ただでさえ嫌われ役の規律委員が理事長先生にこうして欲しい
と言ってしまうと、当然、一般生徒との間に大きな溝が生じる訳
で、美由紀としても軽々しく口を開けなかったのである。
そんな嫌な空気を感じ取ったのだろう。彩香が先に動く。
彼女は胸の前で両手を組むと理事長先生に訴えた。
「先生、お願いです。月曜の朝礼でのお仕置きだけはしないで
ください。私、みんなに見られるのだけは絶対にいやなんです」
彼女の頭の中では、さっきの意趣返しとばかりに美由紀が月曜
の朝礼での懲罰を提案しかねないと思ったのだ。
「私は、この子が他の子と同じ罰ではいけない気がしたのです
が、理事長先生に別のお考えがあればそれに従います」
美由紀の答えに理事長先生が静かにうなづく。
彼女は美由紀の答えに納得した様子だった。
そして、正面へ向き直ると、彩香に向って……
「そうね、確かにみんなの見ている前でのお仕置きは可哀想ね。
でも、それは校長先生がご判断なさること。私の権限ではないわ。
私は確かにあなた方の生活全般を預かってるから寮などで起きた
出来事には口を挟むけど、学校での事は、やはり校長先生の権限
なの。私にはどうすることもできないわ」
理事長先生は彩香の顔色を窺いながらも事務机の引き出しから
分厚いファイルを取り出してながめ始める。
そこには、素行や成績、性格や最近の様子など、全生徒の記録
が収められていた。
当然、見ていたのは彩香の項目だった。
「あなた、この一ヶ月で二度も舎監の黒田先生に呼び出されて
お鞭頂いてるのね」
独り言のような理事長先生のつぶやきに彩香は顔を赤らめる。
舎監の先生からの鞭は、それ専用のテーブルに手足を縛られて、
むき出しになったお尻をなめし皮の鞭でぶたれるもので、その音
が寮の廊下に響くために、ぶたれていない子にもそれなりの戒め
となっていたのである。
「舎監の黒田先生から頂いた鞭でも効果がないというのは……
やはり、向こうで相当な訓練を積んだからかしらね」
理事長先生は美由紀の顔をファイル越しに見ては微笑む。
彩香は帰国子女。『向こう』は外国。『訓練』とは鞭打ちを意味
していた。
「イギリスは、やはり、本場ですから……」
美由紀の言葉に彩香はそれが何を意味しているのか悟ったよう
で……
「私、イギリスでも鞭でぶたれたことなんて一度もありません。
今はもうそんな野蛮なことしませんから!」
と、少し憤然とした様子で口を尖らすと……
「あら、そうなの。おあいにくだったわね。こちらはまだその
野蛮な習慣がたくさん残ってるのよ。おまけに、それで足りなけ
れば、お浣腸だって、お灸だって、生徒をお仕置きする方法には
事欠かないわ。特に、あなたみたいな跳ね返り娘には鞭は効果的
なレッスンなのよ」
理事長先生に笑われて、さすがの彩香も顔を青くした。
そんな青い顔をした少女の頭上を大人二人の会話が飛び交う。
「お浣腸はすませたの?」
「はい、二百ccを二十分我慢させました」
「そう、お薬(グリセリン)は使った?」
「一割だけです」
「そう、よくこの子が我慢したわね」
「大丈夫です」
美由紀は自信たっぷりにそう言い放ったが、事実は違っていた。
ものの十分で彩香は屈辱的な大爆発を起こしていたのである。
ただ、美由紀はそのことを理事長先生に言うつもりはなかった。
それは彼女なりの温情。美由紀にしても帰国子女としてハンデ
の多い彩香の頑張りは頑張りとして評価していたのである。
「いいわ、お浣腸の方がちゃんと済んでるなら、あえて厳しい
ことまで必要はないでしょう。……ただ、お父様のお話では彩香
ちゃんもこれから先はずっと日本で暮らすみたいだし、目上の人
に対する口のきき方は覚えておかなければならないわね」
理事長先生はそう言いながら、机の一番下の引き出しから幅広
の革ベルトを取り出す。
それはお約束の鞭だった。
幅が五インチ、長さは二フィートで、鞭を振るう人が持ち安い
ように握るための柄が付いている。部屋の隅には、まるで傘でも
たてかけたようにしてケインも置かれていたのだが、こちらは、
いわば脅かしのための看板で、これが実際に使われる事は滅多に
なかった。
「…………」
その鞭を見た瞬間、彩香は、まるで森の中で大蛇にでも出くわ
したかの様な顔になった。彼女はこの学園に来てまだ一年と数ヶ
月だが、それでも、この鞭の威力がどんなものかを十分に知って
いたのである。
「さあ、始めましょうか」
気がつくと、彩香の目の前にいきなり理事長先生が……
「!!!」
もちろん、理事長先生はゆっくりと椅子から立ち上がって彩香
の場所まで行き、そこで彩香と同じ様に膝まづいただけの事なの
だが、呆然としていた彩香には、その途中の記憶が消えていたの
である。
それほどまでに彼女は動揺していたのだった。
「どうしたの?鳩が豆鉄砲食らったような顔してるけど……。
あなただって昨日今日ここへ来たわけじゃないんだし……まさか、
今さらこの部屋から無傷で出られるなんて思ってないわよね?」
「それは…………は、はい」
「悪さをして、ここに連れてこられて、それでもここを無傷で
出られるのは、学校を辞める時だけよ」
「……(はい)」
彩香は『はい』と言ったつもりだったが声にはできなかった。
ただ、首を縦にしただけだったのである。
「たらだったら、まずはお約束をやってちょうだい。女の子の
世界というのは、何より形が大事なのよ」
理事長先生に促されて、彩香はあらためて胸の前で手を合せる。
「彩香は悪い行いをしました。……でも、これからもこの学校
の生徒でいたいのです。私はこの学校を愛しています。どうか、
これからいい子になれますように、お仕置きをお願いします」
オドオドした様子で彩香が宣誓すれば……
「わかりました。よく言えたわね。……私もあなたが大好きよ。
だから、お仕置き、頑張りましょうね」
理事長先生は、彩香の両手を取ると、一緒に立ち上がり、近く
のテーブルへと連れていく。
その古びたサイドテーブルは部屋の他の調度品とも違和感なく
マッチしているが、女の子たちのお臍が当たる角の辺りはすでに
塗料が相当に剥げていて、のべ何百人もの子がこれを使った事が
わかった。
理事長先生は、そんな女の子たちの涙とよだれとおしっこまで
も受け止めてきたそのテーブルに、彩香をうつ伏せにさせると、
ご自分は彩香の両手を握ったまま美由紀にこう命じるのだった。
「美由紀さん、あなた、やってちょうだい」
そう、ここでは規律委員の美由紀が鞭を振るうのだ。
規律委員は生徒会の中でも花形、名誉ある職責ではあったが、
同時に刑吏のような嫌われ仕事もやらなければならない。
「はい、先生」
美由紀に迷いはなかった。
彩香のスカートを捲くりあげ、その裾が落ちないように大型の
洗濯ばさみで留めると、ショーツまでも下ろしてしまう。
彩香は、たびたび後ろを振り返ろうとして身体をねじったが、
それ以上は理事長先生が許さなかった。
「心配なのは分かるけど、もう心を決めなさい。鞭のお仕置き
というのは、心静かに受け入れないと、よけいに痛いわよ」
理事長先生が諭す。
やがて……
「ピシッ」
乾いた音が室内に響いた。
「……(あっ)」
最初は『今、お尻に当たった!』という程度。
「一つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香は自分の身体に起こった事をあえて目の前の理事長先生に
報告する。
馬鹿馬鹿しく見えるが、これがこの学園のしきたりだったので
ある。
「ピシッ」
再び、乾いた音が響く。
「……(うっ)」
最初に比べれば痛いが、まだ声をたてるほどではない。
「二つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生は彩香のこの声を聞くと、また静かに頷く。
この頷きを合図に美由紀が次の鞭が振り下ろすのだ。
「ピシッ」
「……(ひっ!)」
彩香の口から思わず悲鳴が漏れそうになった。
美由紀が鞭の勢いを強めたのではない。たった三発でも痛みは
お尻に蓄積されるから、これから先は彩香にとってはもっともっ
とキツイ事になるのだ。
それが証拠に……
「どうしました?」
理事長先生に促されて、彩香は慌ててご挨拶する。
「三つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生は、今度はほんの少し間をとって頷いた。
「ピシッ」
「……(ひぃ~)」
彩香は閉じた両足を擦り合わせた。
「四つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
少し投げやりで、どこか悲しげな声だ。
「ピシッ」
「……ぁぁぁ」
彩香は両足で小さく地団太を踏み、その口からは僅かながらも
声の混じった吐息が漏れる。
「五つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
すでに、彩香の声は震え始めていた。
「ピシッ」
「あっっっっっ」
その瞬間、彩香はうつ伏せになった自分の体を思わず起こそう
としたが、理事長先生の戒めているその手を感じてやめてしまう。
『今は、ここにいなきゃいけない』
この時はまだ、彼女の理性がそう命じて、身体をコントロール
していたのだった。
「六つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生は、しばしの間、彩香が落ち着くための休みを与え
てくれたが、もちろん、それでこの鞭打ちが終わりになる訳では
なかった。
先生は再び、静かにうなづく。
「ピシッ」
「いやあ~~」
七回目にして初めて漏れた悲鳴だった。
地団太を踏む両足は激しくなり、先生の戒めを抜けようとする
両手にも今まで以上の力が入る。
もちろん、それは美由紀が鞭の威力を高めたわけではない。
鞭の痛みは短時間で和らぐことはない。回数が増えれば増えた
だけ痛みがお尻に蓄積していく。
……やがて、それはほんのちょっと触れられただけでも悲鳴を
上げるほどの痛みになるのだった。
「どうしました?ご挨拶は?」
理事長先生の顔が先ほどまでのように笑顔ではなくなる。怖い
顔が目の前にあるのだ。
彩香はそれを見て怯え、あらためて、ご挨拶する。
「七つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
理事長先生の顔は厳しいまま。少し間をとっただけで次の合図
を出す。
「ピシッ」
「だめえ~~~」
彩香の声は鞭音より大きかった。
「何がだめなの。中学生のくせにタバコなんて吸う方がよほど
ダメなんじゃなくて……」
理事長先生の顔が、いつになく厳しいのを見て、彩香は思わず
息を飲む。
そして、その厳しい顔にむしろ落ち着きを取り戻したのか……
「八つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
と、素直に答えるのだった。
「ピシッ」
「ひぃ~~~~」
彩香の地団太はさらに大きくなり、すでに真っ赤に染まった剥
き出しのお尻の割れ目からは、まだ可愛らしい女の子のプッシー
が顔を覗かせるまでなったのである。
「九つ、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香の声はすでに涙声。
だが、先生は許してくれなかった。
「ピシッ」
「ひぃ~~~~」
彩香は、全身全霊を込めて我慢したから、悲鳴は小さくなり、
戒めを抜けようとする力も弱まったが、お尻の踊りだけはもとの
まま。
当然、美由紀には彼女のプッシーを晒すことになったのである。
「十一、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香がこう言うと、すかさず理事長先生から……
「まだ、十回目。ずるしちゃだめよ」
という声が飛ぶ。
彩香は慌てて言い直す。
「十、理事長先生、お鞭、いただきました」
彩香に悪意はなかった。お尻が痛くて頭が混乱してしまったの
だ。でも、そうやって理事長先生に指摘されると、少女の心は、
また新たな罪を犯してしまった気分になる。
『また、罰が増えたんじゃないだろうか』
頭の中はダークな気分で一杯になるのだった。
「ピシッ」
「やめて~~」
とうとう彩香の口から泣き言が漏れた。
『小学生とは違うんだから、恥ずかしいことにだけはなりたく
ない……』
中学生のプライドを彼女なりに守ろうとした彩香だったのだが、
それもこれまでだった……
「どうしたの、彩香ちゃん。ご挨拶は?」
先生にこう言われても、泣きはらした顔の彼女は、すぐに対処
ができないでいたのだ。
「痛い?…………」
理事長先生の問いかけに鼻水をすすりながら頷く彩香。
すると……
「可哀想ね。でも、痛いからお仕置きなのよ。こんなに痛い事
されたくなかったら、いい子でいなくちゃね。……この学園は、
神様に仕える天使の里なのよ。心の汚れた子が一人でもいたら、
神様に申し訳ないわ」
理事長先生はまるで幼い子を諭すような言葉で彩香を諭したが、
それが意外にも今の彩香には効果的だったのか、彼女の顔が再び
しまる。
「いい顔ね。そうよ、お仕置きだからって、泣いてても始まら
ないもの。……さあ、あと一つだけ我慢しなさい。そうしたら、
少しお休みしましょう」
理事長先生は、こう言って彩香を励ます。
そう、彩香へのお仕置きはまだまだこの先も続くのだった。
**************************
バカボンちゃんのスクールライフ(5)
§5 バカボンちゃんのお勉強
バカボンちゃんのスクールライフ(5)<小説/我楽多箱>
バカボンちゃんを大人になってからしか知らない人には信じら
れないかもしれませんが、幼い頃のバカボンちゃんというのは、
手に負えないほどセカセカした子だったんです。
今なら、AD/HD(注意欠陥/多動性障害)の疑いで病院に
行っていたかもしれません。
実際、ボンちゃんのママは彼の奇行が気になって、幾度となく
大学病院を訪れています。
でも、何度診察してもらっても異常はみつかりませんでした。
先生曰く、
「身体的には何の問題もありません。脳波もこれといって問題
ありませんね。強いてあげるなら、この子の脳波はすでに大人の
波形なんですが、それが何か災いになってるということではない
でしょう」
つまり、当時の常識では『問題なし』でした。
では、当時ママが何を問題にしていたかというと、それは彼の
勉強スタイルでした。
とにかく5秒とじっとしていません。首を回して、肩を回して、
天井を見て、床を見て、壁を見て、腰を浮かしてドスンドスンと
尻餅をついていたかと思うとベッドにダイブ、抱き枕と戯れます。
それだけじゃありません。突然、独り言を言い出したり、笑い
出したり、そんなことがしょっちゅうなんです。
こんな姿を他人が見たら……そりゃあ……
「こいつ、気がふれたか!?」
と思うのはもっともなんです。
とても勉強している姿にはみえませんから。
ですから……
『この子、気が変になったんじゃないかしら』
バカボンちゃんのママは憔悴し、祈祷師まで呼んだことがあり
ました。
でもね……
バカボンちゃんに言わせると、
『もともと赤ちゃん時代はこんな感じだったのにママは覚えて
ないの?ママがある時から、「さあ、お勉強しましょうね」って
膝の上に乗せるようになったから仕方なくおとなしくしてたけど。
それが元に戻っただけのことさ』
となるのでした。
もちろん、バカボンちゃんだって、これをやめようとした事は
何度もあったんですよ。
特に東京で出会った同世代の女の子が電車の中でまるでお地蔵
さんのように微動だにせず本を読んでるのを見た時は感激。
自分もやってみようと思ったんですけどね……
5分と、もちませんでした。
最初はその女の子と同じように、椅子に座って背筋を伸ばして
本を読んでいたのですが、こんな慣れないことしてると段々眠く
なってしまいます。
いつの間にか、いつものように電車の床に胡坐をかいて座って
読んでいました。いや、それでも足りなくて、最後は床に仰向け
に寝そべって読んでました。
(これって、ボンちゃんのいつもの読書スタイルなんです)
都会の電車は混んでるからこんなことできないでしょうけど、
バカボンちゃんの暮らした田舎は電車もすいているので、こんな
ことが平気でできちゃうんです。
(もちろん、先生に密告する人がいたら叱られますけど)
そんなわけで、ママや先生には内緒でやってるんですが……
当時、電車の床は木製で、そこに防腐剤としてワックスが塗っ
てあったものだから、寝っ転がると白いシャツについちゃって…
「何なの!この油!」僅かに着いた油の匂いを嗅ぐママ。
「電車の中で転んじゃって……」
「嘘、おっしゃい!また、電車の中で寝転んで本を読んでたん
でしょう」
バカボンちゃんのママはとっても勘が良くて怖かったです。
(ははは)お話が飛んでしまいましたけど、とにかくバカボン
ちゃんのお勉強は一人マンザイ。とても奇妙奇天烈でシュールな
現代舞踏みたいなものがずっと続きますから終わると体力的にも
かなり疲れます。
幸い覗かれたことがありませんでしたが、もし間違ってそんな
光景を目にしたら、お友だちは、ドン引き。おつき合いをやめて
しまうでしょうね。
ただ、副産物として、作曲や詩や小説やイラストなんかも続々
と仕上がりました。
バカボンちゃんのお勉強はそりゃあ非効率ですけど、何の脈絡
もない色んなものが、次から次に同時進行でできあがっちゃう、
不思議な作業場でもあったんです。
ちなみに、バカボンちゃんはテストの時も、覚えた瞬間の五感
を蘇らせるために、小刻みに身体のあちこちを動かします。
テスト中、よく指を折る仕草をしますからね。
「おまえ、幼稚園児じゃないんだから計算くらい頭でしろよ」
ってよく言われてました。
『ホント、石のお地蔵さんみたいにしてお勉強のできる人は、
羨ましいなあ』
って……バカボンちゃんは、よく私に愚痴ってましたっけ。
バカボンちゃんのスクールライフ(5)<小説/我楽多箱>
バカボンちゃんを大人になってからしか知らない人には信じら
れないかもしれませんが、幼い頃のバカボンちゃんというのは、
手に負えないほどセカセカした子だったんです。
今なら、AD/HD(注意欠陥/多動性障害)の疑いで病院に
行っていたかもしれません。
実際、ボンちゃんのママは彼の奇行が気になって、幾度となく
大学病院を訪れています。
でも、何度診察してもらっても異常はみつかりませんでした。
先生曰く、
「身体的には何の問題もありません。脳波もこれといって問題
ありませんね。強いてあげるなら、この子の脳波はすでに大人の
波形なんですが、それが何か災いになってるということではない
でしょう」
つまり、当時の常識では『問題なし』でした。
では、当時ママが何を問題にしていたかというと、それは彼の
勉強スタイルでした。
とにかく5秒とじっとしていません。首を回して、肩を回して、
天井を見て、床を見て、壁を見て、腰を浮かしてドスンドスンと
尻餅をついていたかと思うとベッドにダイブ、抱き枕と戯れます。
それだけじゃありません。突然、独り言を言い出したり、笑い
出したり、そんなことがしょっちゅうなんです。
こんな姿を他人が見たら……そりゃあ……
「こいつ、気がふれたか!?」
と思うのはもっともなんです。
とても勉強している姿にはみえませんから。
ですから……
『この子、気が変になったんじゃないかしら』
バカボンちゃんのママは憔悴し、祈祷師まで呼んだことがあり
ました。
でもね……
バカボンちゃんに言わせると、
『もともと赤ちゃん時代はこんな感じだったのにママは覚えて
ないの?ママがある時から、「さあ、お勉強しましょうね」って
膝の上に乗せるようになったから仕方なくおとなしくしてたけど。
それが元に戻っただけのことさ』
となるのでした。
もちろん、バカボンちゃんだって、これをやめようとした事は
何度もあったんですよ。
特に東京で出会った同世代の女の子が電車の中でまるでお地蔵
さんのように微動だにせず本を読んでるのを見た時は感激。
自分もやってみようと思ったんですけどね……
5分と、もちませんでした。
最初はその女の子と同じように、椅子に座って背筋を伸ばして
本を読んでいたのですが、こんな慣れないことしてると段々眠く
なってしまいます。
いつの間にか、いつものように電車の床に胡坐をかいて座って
読んでいました。いや、それでも足りなくて、最後は床に仰向け
に寝そべって読んでました。
(これって、ボンちゃんのいつもの読書スタイルなんです)
都会の電車は混んでるからこんなことできないでしょうけど、
バカボンちゃんの暮らした田舎は電車もすいているので、こんな
ことが平気でできちゃうんです。
(もちろん、先生に密告する人がいたら叱られますけど)
そんなわけで、ママや先生には内緒でやってるんですが……
当時、電車の床は木製で、そこに防腐剤としてワックスが塗っ
てあったものだから、寝っ転がると白いシャツについちゃって…
「何なの!この油!」僅かに着いた油の匂いを嗅ぐママ。
「電車の中で転んじゃって……」
「嘘、おっしゃい!また、電車の中で寝転んで本を読んでたん
でしょう」
バカボンちゃんのママはとっても勘が良くて怖かったです。
(ははは)お話が飛んでしまいましたけど、とにかくバカボン
ちゃんのお勉強は一人マンザイ。とても奇妙奇天烈でシュールな
現代舞踏みたいなものがずっと続きますから終わると体力的にも
かなり疲れます。
幸い覗かれたことがありませんでしたが、もし間違ってそんな
光景を目にしたら、お友だちは、ドン引き。おつき合いをやめて
しまうでしょうね。
ただ、副産物として、作曲や詩や小説やイラストなんかも続々
と仕上がりました。
バカボンちゃんのお勉強はそりゃあ非効率ですけど、何の脈絡
もない色んなものが、次から次に同時進行でできあがっちゃう、
不思議な作業場でもあったんです。
ちなみに、バカボンちゃんはテストの時も、覚えた瞬間の五感
を蘇らせるために、小刻みに身体のあちこちを動かします。
テスト中、よく指を折る仕草をしますからね。
「おまえ、幼稚園児じゃないんだから計算くらい頭でしろよ」
ってよく言われてました。
『ホント、石のお地蔵さんみたいにしてお勉強のできる人は、
羨ましいなあ』
って……バカボンちゃんは、よく私に愚痴ってましたっけ。
バカボンちゃんのスクールライフ(4)
§4 バス通園
バカボンちゃんのスクールライフ(4)<小説/我楽多箱>
バカボンちゃんは、3歳からバス通園をしていた。当時だって
幼稚園のスクールバスがなかったわけではないが、そのバスは、
隣町までしか来てくれない。
そこで、仕方なく通学定期を買って幼稚園へ通うことになった。
もちろん近隣にだって幼稚園はあったが、気位の高いママさん
が、どうしても評判の高い幼稚園へ行かせたいと頑張ったのだ。
つまり全てはママの我がままからきている。
おかげで、乗り合いバスで通園するはめに……
しかもこの母親、自分でそうやって決めておきながら、バス停
迄さえ見送りにこない。
玄関先でいつも「いってらっしゃい」と言うだけ。
身勝手このうえない人なのだ。
それでも今なら大半がマイホームパパだから、父親のマイカー
に揺られて通園って事だろうが、バカボンちゃんのパパさんは、
こちらもママさんに負けず劣らず自分の世界優先の人だからね、
そんな手間のかかることはしないんだ。
だから、仕方なく。どうしようもないから、バカボンちゃんは
3歳の時からバス通園をしていた。
ただ、唯一の救いもあった。当人がそのことをそれほど苦痛と
感じていなかったんだ。
当時は、3歳の子が定期券を持ってバスに乗るなんてとっても
珍しかったからね。
バカボンちゃんは、通うバスの運転手さんや車掌さんたちから
とっても可愛がられていたんだ。
とにかく、最初の頃はステップに両手を突いてバスの入り口を
登ってたくらいだからね……
「ぼく、お母さんはいないの」
なんて、よく聞かれたもんさ。
でも、そのうちそれが評判になって、いつの間にか同じ営業所
管内では知らない人がいないくらいの有名人になってた。
まさに、小さなマスコット状態だった。
これはもう時効だと思うから言ってしまうけど、当時は営業所
の中まで行って、方向指示幕(今は電光板だけど当時は布で手動)
のハンドルを回すのを手伝ったり、運転手さんのお膝に乗っけて
もらって敷地内を一周してもらったり、詰め所でお弁当のおかず
を分けてもらったり、お茶を飲んだりしたんだ。
運転手さんも、車掌さんも、まるで自分の息子が来たみたいに
優しかったからね。
バカボンちゃんにとっては大事な大人のお友だちだったんだ。
だからね、バカボンちゃんは考えた。
『そうだ、将来、大人になったら、バスの車掌さんになろう』
(もちろん運転手さんでもよかったんだけど、当時は、あんな
大きなバスを動かす自信がなかったから、第一志望は車掌さん)
これって幼い頃だけじゃないよ。かなり成長してからも本気で
そう思ってたんだ。
そこで、小学校の作文にもそう書いたら、ママに怒られた。
「あなたって子は、どうしてもっと立派な夢が書けないの!」
だってさ。
『バスの車掌さんになることは立派なことじゃないのか?……
だいたい、商売なんかやってる人はお客さんのいる前では楽しそ
うにしてるけど、帰ったとたん眉間に皺をよせて苦しそうな顔に
なるし、サラリーマンの人たちは、夕方とっても疲れた顔して帰
って来るだろう。それに比べたら、バスで働く人たちはとっても
楽しそうだもん』
これがバカボンちゃんの主張。
『大臣になって威張りたい?』『大学の先生になって尊敬され
たい?』『実業家になってお金持ちになりたい?』
バカボンちゃんにとっては、そんなのどれも、
『それって、何?』
だった。
バカボンちゃんにとって興味のあることは二つだけ。
『それが楽しいこと』
『終わったらすぐにお母さんの処へ帰れること』
これ以外には何の興味もなかったんだ。
バカボンちゃんのスクールライフ(4)<小説/我楽多箱>
バカボンちゃんは、3歳からバス通園をしていた。当時だって
幼稚園のスクールバスがなかったわけではないが、そのバスは、
隣町までしか来てくれない。
そこで、仕方なく通学定期を買って幼稚園へ通うことになった。
もちろん近隣にだって幼稚園はあったが、気位の高いママさん
が、どうしても評判の高い幼稚園へ行かせたいと頑張ったのだ。
つまり全てはママの我がままからきている。
おかげで、乗り合いバスで通園するはめに……
しかもこの母親、自分でそうやって決めておきながら、バス停
迄さえ見送りにこない。
玄関先でいつも「いってらっしゃい」と言うだけ。
身勝手このうえない人なのだ。
それでも今なら大半がマイホームパパだから、父親のマイカー
に揺られて通園って事だろうが、バカボンちゃんのパパさんは、
こちらもママさんに負けず劣らず自分の世界優先の人だからね、
そんな手間のかかることはしないんだ。
だから、仕方なく。どうしようもないから、バカボンちゃんは
3歳の時からバス通園をしていた。
ただ、唯一の救いもあった。当人がそのことをそれほど苦痛と
感じていなかったんだ。
当時は、3歳の子が定期券を持ってバスに乗るなんてとっても
珍しかったからね。
バカボンちゃんは、通うバスの運転手さんや車掌さんたちから
とっても可愛がられていたんだ。
とにかく、最初の頃はステップに両手を突いてバスの入り口を
登ってたくらいだからね……
「ぼく、お母さんはいないの」
なんて、よく聞かれたもんさ。
でも、そのうちそれが評判になって、いつの間にか同じ営業所
管内では知らない人がいないくらいの有名人になってた。
まさに、小さなマスコット状態だった。
これはもう時効だと思うから言ってしまうけど、当時は営業所
の中まで行って、方向指示幕(今は電光板だけど当時は布で手動)
のハンドルを回すのを手伝ったり、運転手さんのお膝に乗っけて
もらって敷地内を一周してもらったり、詰め所でお弁当のおかず
を分けてもらったり、お茶を飲んだりしたんだ。
運転手さんも、車掌さんも、まるで自分の息子が来たみたいに
優しかったからね。
バカボンちゃんにとっては大事な大人のお友だちだったんだ。
だからね、バカボンちゃんは考えた。
『そうだ、将来、大人になったら、バスの車掌さんになろう』
(もちろん運転手さんでもよかったんだけど、当時は、あんな
大きなバスを動かす自信がなかったから、第一志望は車掌さん)
これって幼い頃だけじゃないよ。かなり成長してからも本気で
そう思ってたんだ。
そこで、小学校の作文にもそう書いたら、ママに怒られた。
「あなたって子は、どうしてもっと立派な夢が書けないの!」
だってさ。
『バスの車掌さんになることは立派なことじゃないのか?……
だいたい、商売なんかやってる人はお客さんのいる前では楽しそ
うにしてるけど、帰ったとたん眉間に皺をよせて苦しそうな顔に
なるし、サラリーマンの人たちは、夕方とっても疲れた顔して帰
って来るだろう。それに比べたら、バスで働く人たちはとっても
楽しそうだもん』
これがバカボンちゃんの主張。
『大臣になって威張りたい?』『大学の先生になって尊敬され
たい?』『実業家になってお金持ちになりたい?』
バカボンちゃんにとっては、そんなのどれも、
『それって、何?』
だった。
バカボンちゃんにとって興味のあることは二つだけ。
『それが楽しいこと』
『終わったらすぐにお母さんの処へ帰れること』
これ以外には何の興味もなかったんだ。
バカボンちゃんのスクールライフ(3)
バカボンちゃんのスクールライフ(3)<小説/我楽多箱>
バカボンちゃんは子供付き合いは苦手だが、別に暗い性格では
なかった。大人とはよくしゃべるし、独楽鼠のようによく動く。
むしろ、AD/HD(注意欠陥/多動性障害)の気があって日頃
あまり落ち着きがなかった。
そんなバカボンちゃんに、先生が「これは焦らなくていいのよ。
落ち着いてやってね」といってあるテストをやらせた。
クラス全員の子が参加するテストだが、先生はバカボンちゃん
の日頃の言動をみて、『この子にはこんな注意をした方がいいだ
ろう』と思って特別に注意したのだ。
ところがバカボンちゃんはバカだから、先生の注意を……
『僕はゆっくりやればいいのか』
と思ってしまう。
そこで出た結果は、クラスでビリから三番目。
『あまり、IQが低いようですと、せっかく入学していただき
ましたが、退学していただくこともあります』なんて脅かされて
いたバカボンちゃんのママは結果を聞いて大慌て。
学校へ飛んでいくと……
「お母さん大丈夫ですよ。息子さんを退学にはしませんから」
という先生達の言葉にも耳を貸さない。
「お願いします。もう一度やらせてください。絶対に、こんな
はずありませんから」
の一点張りで、再テストを必死にお願いしたんだ。
そこで仕方なく。本当に仕方なく、バカボンちゃんだけ再試験。
『親がそれで納得するなら、いいだろう』ということで形だけ
やってみた。
この時、ママはバカボンちゃんを膝に乗せると、
「とにかく急いでやるのよ。解けるだけ解くのよ。わかった。
今度、悪いお点だったら、お母さん、本当に死んじゃうからね」
なんて脅すのである。
怖くなったバカボンちゃんは今度は必死になって問題を解いた。
もう少し歳がいけばそのくらいじゃ驚かないだろうけど、そこは
小一(小二?)の子、簡単に信じちゃう。
お母さんが死んじゃったら大変だからだね。そりゃあもう必死
だった。
そこで、出た記録。
お母さんの膝の上でやったから、あくまで参考記録なんだけど、
このテストの形式が変更されるまでとうとう破られなかったみた
い。まるでマンガみたいにシャカシャカと問題を解いていく姿を
見て、先生方は、みんな目を丸くしてたもん。
とにかく、ママはこれで溜飲を下げて、鼻高々で帰っていった
んだけど……でも、これって、
『バカボンちゃんって本当は天才なんだ。凄いなあ』
ってことにはならない。
ほかの子だって、同じようにママが膝に乗っけてやらせたら、
やっぱり成績はぐ~~んとアップしたと思うよ。
幼い子にとってお母さんの存在は絶対だし、何よりお膝の上は
安心感が他とは全然違うもの。そもそも記録が伸びて当然だよ。
バカボンちゃんの能力はやっぱりビリから三番目なんだ。
だから、この現象のことを言うなら、『火事場の馬鹿力』
だって、テスト終了後、バカボンちゃんは、ちょっぴりだけど
お漏らししてたもん。よっぽどママに『死ぬ』って言われたのが
怖かったんだよ。
むしろ、『最後まで解けなかった』って茫然自失だったんだ。
先生たちは大人だから、バカボンちゃんママが怒鳴り込んでも、
みんな紳士的に対応してたけどね。
でも、きっと………
『とんでもない親子を入学させちゃったな』
って思ってたはずだよ。
バカボンちゃん自身も、彼女が学校で問題を起こすたびに……
『困った親だなあ。恥ずかしいなあ』って思ってたくらいなんだ
から……
バカボンちゃんは子供付き合いは苦手だが、別に暗い性格では
なかった。大人とはよくしゃべるし、独楽鼠のようによく動く。
むしろ、AD/HD(注意欠陥/多動性障害)の気があって日頃
あまり落ち着きがなかった。
そんなバカボンちゃんに、先生が「これは焦らなくていいのよ。
落ち着いてやってね」といってあるテストをやらせた。
クラス全員の子が参加するテストだが、先生はバカボンちゃん
の日頃の言動をみて、『この子にはこんな注意をした方がいいだ
ろう』と思って特別に注意したのだ。
ところがバカボンちゃんはバカだから、先生の注意を……
『僕はゆっくりやればいいのか』
と思ってしまう。
そこで出た結果は、クラスでビリから三番目。
『あまり、IQが低いようですと、せっかく入学していただき
ましたが、退学していただくこともあります』なんて脅かされて
いたバカボンちゃんのママは結果を聞いて大慌て。
学校へ飛んでいくと……
「お母さん大丈夫ですよ。息子さんを退学にはしませんから」
という先生達の言葉にも耳を貸さない。
「お願いします。もう一度やらせてください。絶対に、こんな
はずありませんから」
の一点張りで、再テストを必死にお願いしたんだ。
そこで仕方なく。本当に仕方なく、バカボンちゃんだけ再試験。
『親がそれで納得するなら、いいだろう』ということで形だけ
やってみた。
この時、ママはバカボンちゃんを膝に乗せると、
「とにかく急いでやるのよ。解けるだけ解くのよ。わかった。
今度、悪いお点だったら、お母さん、本当に死んじゃうからね」
なんて脅すのである。
怖くなったバカボンちゃんは今度は必死になって問題を解いた。
もう少し歳がいけばそのくらいじゃ驚かないだろうけど、そこは
小一(小二?)の子、簡単に信じちゃう。
お母さんが死んじゃったら大変だからだね。そりゃあもう必死
だった。
そこで、出た記録。
お母さんの膝の上でやったから、あくまで参考記録なんだけど、
このテストの形式が変更されるまでとうとう破られなかったみた
い。まるでマンガみたいにシャカシャカと問題を解いていく姿を
見て、先生方は、みんな目を丸くしてたもん。
とにかく、ママはこれで溜飲を下げて、鼻高々で帰っていった
んだけど……でも、これって、
『バカボンちゃんって本当は天才なんだ。凄いなあ』
ってことにはならない。
ほかの子だって、同じようにママが膝に乗っけてやらせたら、
やっぱり成績はぐ~~んとアップしたと思うよ。
幼い子にとってお母さんの存在は絶対だし、何よりお膝の上は
安心感が他とは全然違うもの。そもそも記録が伸びて当然だよ。
バカボンちゃんの能力はやっぱりビリから三番目なんだ。
だから、この現象のことを言うなら、『火事場の馬鹿力』
だって、テスト終了後、バカボンちゃんは、ちょっぴりだけど
お漏らししてたもん。よっぽどママに『死ぬ』って言われたのが
怖かったんだよ。
むしろ、『最後まで解けなかった』って茫然自失だったんだ。
先生たちは大人だから、バカボンちゃんママが怒鳴り込んでも、
みんな紳士的に対応してたけどね。
でも、きっと………
『とんでもない親子を入学させちゃったな』
って思ってたはずだよ。
バカボンちゃん自身も、彼女が学校で問題を起こすたびに……
『困った親だなあ。恥ずかしいなあ』って思ってたくらいなんだ
から……