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<弟>

Hなしの雑文です。

<弟>

 僕には弟がいた。
 弟と言っても歳の差があるわけではない。彼とは、お母さんの
お腹の中に一緒にいて生まれた間柄。生まれた時間がほんの数分
違うだけだ。

 だから、本来『兄だ』『弟だ』と名乗る関係ではない。
 ちなみに、両親は僕の方が後から生まれたのに僕が兄と決めて
しまった。昔はそういう決まりだったみたいだ。

 そうやって兄弟が確定すると……お母さんからは……
 「あなたが、お兄ちゃんなんだからしっかりしなきゃ」
 なんてたびたび言われるようになる。

 すると、不思議なもので……僕の方も……
 『そうか、ぼくはこの子を守らなきゃいけないんだ』
 なんて思っちゃうし……

 弟の方もお母さんから……
 「お兄ちゃんの言う事をちゃんと聞くのよ」
 なんて言われると、弟らしく兄を立ててくれる。

 そんな母の教育方針が影響したんだろうか……僕は弟の前では
ちょっぴり威張っている。
 弟も人生そういうものだと思ってか僕と一緒にお出かけする時
は僕のそばを離れようとしなかった。つまり僕を頼っていたんだ。

 だから、知らない人は誤解して……
 「まあ、兄弟仲がいいのね。いくつ違いなの?」
 なんてよく聞いてくる。
 二卵性だから顔はあんまり似てないし、双子だと思わない人の
方が多かった。

 「ね、失礼だよね」
 僕は健ちゃんに言ったが、健ちゃん(弟)の方は別に気にして
いる様子がなかった。

 というのも、彼は彼なりに幸せだったからだと思う。

 幼児にしてすでにどこか取っ付きにくい感じのある僕とは違い、
健ちゃんは、両親、祖父母、近所のおばさん、誰からも愛されて
家の中でいつも可愛がられいた。

 対する僕はというと、『ませてる』という理由だけで出張販売
に精を出すお母さんの後ろ姿を見ながら育つ。
 商品を収納するための箱を二つ並べた畳半畳ほどのスペースに
薄い布団が敷かれそこでオムツ替えまでしていたんだ。

 ま、申し訳程度の仕切りはあったけど、中には覗いてビックリ
するお客さんもいたみたいだった。

 そんな環境の違いが兄弟の性格の違いにもなっていたようだ。

 奥手だと言われていた弟にも三歳近くになってようやくお声が
かかった。
 子守のお姉さんが洋裁の専門学校へ通うので健ちゃんの面倒を
みれなくなり、それで仕方なく出てきたのだ。

 おかげで、幼稚園に上がるまでの数ヶ月間は、出張販売先での
相棒ができた。挨拶回りとウインドウショッピングを健ちゃんと
一緒に手を繋ぎながらやったのである。

 すると大人たちは正直だ。二人で店先に並ぶと、まず最初に、
顔立ちも可愛くおとなしい性格の健ちゃんに声をかける。
 これは僕にとっては心地よくないことだった。

 『こいつはいつも僕を頼ってるんだぞ。だから、僕の方が優秀
なんだ。言葉を話すのも、オムツがとれたのも僕の方が早いし、
ひらがなだっても僕が先に読めるようになったんだから』
 なんて、思ってしまう。

 ところが、それは最初の頃だけ。幼稚園、小学校と進むうちに
その差は縮まり、小学四年生くらいからは絵画教室、ピアノ教室、
学校の成績、と、どれをとっても二人に優劣などなくなっていた
んだ。

 特に三学期の学年末のテストでは僕が彼に勝ったことが一度も
なかったから、本当は彼の方が優秀だったのかもしれない。

 にもかかわらず、僕は大人になるまで『健ちゃんを支え続けて
あげなければ』なんて思い続けていたのだから、これはもう滑稽
という他ないだろう。

 赤ちゃん時代から愛され続けてきた健ちゃんは、誰に対しても
とっても上品だ。誰かさんみたいに、大人の揚げ足を取って喜ぶ
ような下品なまねはしない。ただそのぶん、目上の人に対しては
甘え上手な側面があった。

 きっと僕もその一人として利用されていたのかもしれない。

 でも、そうであっても僕は一向にかまわなかった。
 だって、「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と言って抱きついて来る
健ちゃんは僕にとっても可愛い弟であり大事な宝物だったから。

 そんな健ちゃんとは勉強部屋で二人してよく抱き合っていた。
わけもなく、まったく訳もなくただ抱き合っていれば楽しかった。

 お互い顔に息を掛け合い。お尻を撫であい。オチンチンだって
まさぐりあって愛し合っていた。
 ついにはイチヂク浣腸を悪戯して我慢ごっこなんてことまで…

 これって、歳がいっていればホモセクシャルなんだろうけど、
幼稚園や小学校の低学年の頃だから、『性欲』という感じは……
ほとんどなかったと思う。少なくとも僕にはなかった。

 それより、もしかすると、これってお母さんの代わりだったの
では……とは思うのである。

 だって、どちらかがお母さん役で、絵本を読んできかせたり、
哺乳瓶でミルクを飲ませたり、その頃アメリカのホームドラマで
よく見かけたお尻ペンペンをお母さんからお尻を叩かれるという
想定でやってみたりしていたから。
 要するに、そこにはおままごと的な要素もたくさんあったのだ。

 お尻ペンペンって今はポピュラーなお仕置きなのかもしれない
けど、僕たち世代にとっては、大人たちがアメリカの電化製品に
憧れていたように、ハイカラな親子のスキンシップとして見てた
んだ。

 実際、この頃の我が家で行われていたお仕置きでは、子供の体
を叩くなんて必要なかった。
 お母さんが叱る時は恐い顔を近づけるだけでお互い泣くことに
なるから、お母さんもそれ以上のことはしなかったんだ。

 だから、お尻を叩かれる側の子どの気持はあまりよく分かって
いない。一応、泣きまねするんだけど、すぐに笑っちゃうの。

 とにかく二人で抱き合っていれば何となく心が落ち着くという
幸せな時代だった。

 ちなみに、こうしたことは外ではやらない。どこまでも家の中
で、それも二人きりでいる時の睦みごとなのだ。だからお母さん
の前でもやったことはなかったけど……

 ある時、見つかっちゃったんだよね。
 お風呂上りでもないのに素っ裸になってじゃれてるところ。

 その時のお母さんの反応。

 ほんのちょっと驚いてから、一つため息をついて、そして……
 「僕たち、ばっちいことしちゃだめよ。さあ、風邪ひくわよ。
早くパンツ穿いて!」
 と言っただけだった。

 僕たちのお母さんはね、こうしたことには寛容だったんだ。
 というのも、お母さん自身が僕たちにこんなことしてたから。
 文句を言いにくかったのかもしれないね。

 とにかくお母さんと一緒に寝る時は二人とも濃厚な愛撫を受け
て寝るのが習慣だった。

 ほっぺすりすり。頭なでなで。あんよモミモミお手手もみもみ。
ま、このくらいなら他の家でもあるだろうけど、うちはこれでは
おさまらない。

 オッパイ舐め舐め。
 脇の下をコチョコチョ。
 足の裏もコチョコチョ。
 オチンチンだってコチョコチョ。そして、左の指でそれを摘み
上げといて右の指でピーンとかもある。(べつに虐待じゃないよ)
 お母さんってね、子供が嫌がらなければ何でもありなんだ。

 そうそう、お風呂上りにバスタオルの上に仰向けにされて……
フェラチオなんてのもあったっけ……
 もちろん大人のやるようなディープな世界じゃないよ。皮の上
から、ほんのちょっぴりキスしただけなんだけど……あれって、
楽しかったなあ。

 とにかくあの頃はお母さんのやってくれることは何でも楽しか
ったんだ。

 そんな楽しいことを兄弟だけの時もやってみたかったという訳。
だから、罪悪感なんてまったくなかった。
 要するに、僕は健ちゃんが好きで、健ちゃんも僕が好きだから
やり始めたんだ。

 『小さな恋のメロディー』のダニーとメロディーの関係と同じ。
『二人はまだ小学生だけど、お互いいつもそばにいたいから結婚
したいと願う』あれと同じことさ。

 大人たちはそれから先のことをあれこれ想像して心配するけど、
それって汚いものを沢山見過ぎて、美しいものをそのまま美しい
と感じ取れなくなった大人たちの性だと思う。考え過ぎだと思う
んだよ。

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<犬笛>

Hなしの雑文です。

<犬笛>

 僕の母はいわゆる専業主婦ではない。夫婦で小さな質店を経営
しながら子育てをしていた。普通、こうした場合の商売は父親が
経営の主体となるケースが多いと思うのだが、我が家の場合は、
お客さんとの折衝が苦手な父親に代わって営業に関する事は母が
商売を取り仕切っていた。

 父の仕事は、担保として預かる質草の鑑定や管理、台帳付け、
出張販売で並べる商品の荷物運びなんてのが中心。店にも出るに
は出るのだが……

 「あんたはそんな了見だから、こうしてお金を借りなきゃなら
なくなるんだ」
 なんてお客さんに説教してみたり……

 逆に、世間話をしているお客さんに同情して……
 「いいから、これも持って行きなさい」
 と、お母さんには内緒でお金を握らせたりもする。

 およそ、商売には向かない人だった。

 そのため多くの人が『あそこの奥さんは家付きの娘。ご亭主は
養子さん』と誤解していたのである。

 一家の中心である母の仕事量は多く、家事は完全に他人任せ。
炊事、洗濯、掃除、繕い物などは通いのお婆さん(お手伝いさん)
に、赤ん坊の世話は子守の女の子に任せていた。

 逆の言い方をすると、その出費のかかる分を母は稼せぎ出さな
ければならないわけで、それが母の仕事上のノルマとなっていた
のである。

 ならば彼女、まったく子供の世話はしなかったのかというと、
そんなことはなかった。
 専業主婦の人たちのような細やかな対応はできなかったと思う
が、保育園には頼らず極力子どもたちを自分のそばに置いて育て
ていた。

 出張販売先でも赤ん坊をおんぶしながら店に出ていたのである。

 戦後復興がやっと途についた頃のこと、それも田舎の名もなき
デパートの話だから、そこは割り引いて考えなければならないの
だろうが、そもそも、そんな営業を主催者側から許可(黙認?)
されていたこと自体、母の営業力の賜物なのである。

 おんぶされた僕が、母の背中からあたりを見回した感じでは、
当時でも赤ん坊を背負いながら接客している売り子は母だけ。
 でも、それがなぜか妙に誇らしかったのを覚えている。

 そんな母は僕を仕事場へは連れて行っても、その間ずっと僕の
世話をやいてくれるわけではない。おんぶしてくれたのはほんの
一時だ。大半の時間は、商品を入れてきた空箱の上に乗っかって
絵本を見たり、接客している母の背中を見て過ごしていた。

 だから、退屈で仕方がないのだ。
 そこで、本当の赤ん坊の時は別として、あんよができるように
なると、ごく自然にご近所を歩き回るようになる。

 「どこいくの?」
 と、母に聞かれるから……
 「おしっこ」
 と答えるが、用が済んでもすぐには戻らなかった。

 一時間くらい戻らないことなんてざらにあったのだ。

 ここは自宅ではない。出張販売先の出来事だから、専業主婦の
感覚でなら、『わ~~~大変!』なんて心配するところだろう。

 ところが、うちの母は出歩く我が子を心配したことがなかった。

 「あんたが迷子になっても探さないからね、お母さんと一緒に
いたかったら、この場所(ブース)を必ず思い出しなさい」
 と、こうだ。こう僕に言いつけただけだった。『行くな』とは
言わなかった。縄を着けて縛っておくなんてこともしなかった。

 要するに放し飼い。度胸があるというか無責任というか、でも
母はそんな人だったのである。

 一方、僕はというと、こちらは呑気なもので……
 おしっこが終わると、ご近所で商売しているおじさんおばさん
たちに挨拶して回る。

 朝なら、「おはようございます」
 お昼なら、「こんにちわ」

 これって本来何の意味もないのだが、そんなことをして回って
いると、そのうち、どこかのおじさんおばさんがお菓子をくれた
り頭を撫でてくれたりする。

 そんなことしながらウインドウショッピングを楽しんでいると、
足を伸ばしすぎて帰り道が分からなくなることもあったが、でも、
迷子を宣言するように泣き叫ぶなんて恥ずかしい事はしなかった。

 そんな時は、どのブースでもいいから暇そうにしている大人を
見つけて……
 「お母さんどこ?」
 と尋ねればよかったのである。

 母と息子はここらでは有名人(?)。知らない人はいないのだ。

 「こっちは忙しいんだ。自分で勝手に帰りな!」
 なんて、薄情な返事を返す人はいない。

 「なんだ、坊や、お母さんのとこ、分からなくなったんだ」
 尋ねればたいてい母のいるブースを教えてくれたし距離が遠く
なれば一緒に着いていってくれることもあった。

 困った時は大人に聞くという大技も身につけていた僕にとって
散歩は楽しい日課だったのである。


 では、もし母がそれでも僕に何か用がある時はどうするのか?

 そんな時は、どこに向かってでもいいから叫べばいいのだ。
 「ぼく~~~帰ってらっしゃい~~~」
 ってね。ゆっくりと五、六回叫べばそれでよかった。

もちろん広い会場では大声も雑踏の騒音でかき消される場合が
多いのだが、僕が母の声を聞き逃す事はほとんどなかったのだ。

 母の声は誰が聞いても聞き取れないほどの小さな声でしか会場
内に流れていない。しかし僕はその微かな母の声をほぼ100%
聞き漏らさなかったのである。

 「お母さんが呼んでる」
 そう思って声を頼りに戻っていくと、必ず戻れるというわけだ。

 どこにいてもお母さんが五六回叫ぶうちには見知った場所まで
戻れるから、あとは迷わないのだ。

 「ぼく、ごはんよ」
 お母さんは、さも当然と言った顔で僕を見つめ、抱き上げる。

 お母さんの声は親子の間では音声というより犬笛のようなもの。
赤ん坊の時から聞いているその音はどんな微細な音でも他の音と
は区別して聞くことができたのだ。

 まるで猟犬と飼い主みたいな関係かもしれないけど、僕はね、
こういうのを『親子関係』って言うんだと思ってるんだ。

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<あったかピューピューさんとの出会い>

H無縁の雑文です。今回は童話風?

<あったかピューピューさんとの出会い>

 健ちゃんはまだ赤ちゃんです。
 ハイハイはできますが、まだ歩けません。
 最近ようやく何かに掴まれば立てるようになりました。

 その時はお母さんだけじゃなく、お父さんも、おばあちゃんも、
おじちゃんも、そのお部屋にいたみんなみんなが大喜びました。

 みんなの拍手に嬉しくなった健ちゃんが笑うと、拍手はさらに
大きくなります。
 お母さんが抱っこして笑顔ですから、健ちゃんはきっと良い事
をしたのでしょう。

 お母さんの首の辺りの匂いが健ちゃんに『よかった、よかった』
と言っています。
 抱っこされた時の感触や匂いで健ちゃんはお母さんのご機嫌が
わかるのでした。

 健ちゃんはご機嫌なお母さんにおねだりします。
 言葉はまだ話せませんから、おねだりの時は欲しいものに手を
伸ばして知らせます。
 普段はそれでガラガラが来たり、おしゃぶりが来たり、お気に
入りのふかふかタオルが来たりするのですが、今回それはやって
来ませんでした。

 「あら、健ちゃん、何が欲しいの?」
 健ちゃんを見てお母さんは尋ねます。

 抱っこされた身体いっぱい伸び上がって何か取ろうとしている、
お母さんにそれはわかるのですが……

 「どうしたの?お外なの?」

 健ちゃんの小さな指の先に窓があります。
 そのさらに先にはお庭がありました。
 木枯らしがピューピューと音をたて、ガタガタと窓を揺らして
います。
 でも、そこまで健ちゃんの手は届きませんでした。

 「あら、オンモ行きたいの?……でも、オンモはまだ寒いわよ。
北風さんがね、ピューピュー吹くから……ああ、わかったわ。でも、
ちょっとだけよ」

 お母さんが健ちゃんをお外へ案内してくれるみたいでした。

 お気に入りのタオルケットとふかふかの毛布に包まれて、毛糸
の帽子と耳あてを着けていざ出陣です。

 健ちゃん大喜びでしたが、この部屋にいる誰一人、健ちゃんが
なぜ大喜びしているのか知りませんでした。

 でも、ここにいるみんなはそんなことどうでもよかったんです。
 健ちゃんが嬉しそうにしていれば……幸せそうにしていれば、
それでみんな十分幸せでしたから、お母さんだけのはずが、気が
つけばみんな健ちゃんに着いて行きます。

 「わあ、やっぱり寒いわね」
 おばあちゃんが言います。

 お庭は、やっぱり木枯らしピューピューでしたが、健ちゃんは
幸せです。
 だって健ちゃんが話せる数少ない言葉『ピュー、ピュー』さん
に会えたんですから。

 「ピュー、ピュー、ピュー」
 健ちゃんはそう言って何度もピューピューさんと交信を試みま
す。

 そのうち、お母さんがピューピューさんをお口の中で捕まえて
くれました。
 そして、健ちゃんのほっぺにそうっと流してくれたのです。

 お母さんのお口フィルターを通した暖かいピューピューさんが、
健ちゃんのほっぺをくすぐります。

 健ちゃんは両手両足をパタパタ。
 望みの物が手に入ってとっても幸せというサインです。

 これを見たお父さんもピュー。
 おばあさんもピュー。
 おじいさんだってピュー。

 健ちゃんはピューピューさんってとっても暖かいと思いました。

 「よかったわね、健ちゃん」

 でも、お母さんのピューピューさんは一年中同じ暖かさ。
 それはまだ知らない健ちゃんだったのです。

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<小学校低学年時代>

H無縁の雑文です

<小学校低学年時代>

 僕は今ならADHDを疑われていた少年だったと思う。

 とにかく興味のないことには集中心がないし、わけもなく体が
動く。身体を動かしていないと楽しくないし何より平静でいられ
ないのだ。僕が不必要な身体の動きをやめるのは寝てる時だけ。
長時間じっとしていろと命じられるとストレスが溜まってしまい
耐えきれずに奇声をあげてはまた怒られるといった按配だった。

 こんな僕だから勉強する時だって他の子のようにただ勉強机が
そこにあればよいというわけにはいかなかった。家庭教師の先生
がいる時も、単に膝をつき合わせてというだけでは足りなかった。
それでは一向に勉強しないからだ。
 だったらどうするのか。

 母の出した結論は簡単。僕を膝の上に抱きかかえると、大きな
身体で僕の体が動かないようにしてから始めるというもの。
 こうすれば身体は無駄な動きをしなくるし心だって安定する。
幼児にとって母親の抱っこくらい心の安らぐ場所はなかったから
だ。

 しかし、この方法、いつまでもという訳にはいかなかった。

 だって、子供は成長する。大きくなるのだ。重くなるのだ。
 母の膝がその重さにいつまでも耐えられるはずがなかった。

 そこで、母は最初、父親に応援を求めた。
 もともと父親の方が物知りだし、体も大きかったからだ。

 ところがこの人、知識はあるものの体系的に効率的に教えると
なると不向きだった。
 実際、父親の授業は脱線につぐ脱線で一向に話が前に進まなか
ったのである。

 僕自身は、父の脱線授業をとても楽しみに聞いていたのだが、
即物的な思考回路の母にとってそれは大いに不満で、次なる策を
考えることになる。

 母が次に打った手は家庭教師を雇うという選択だった。

 その求めに応じて我が家へやってきたのは、現役の女子大生。
清楚な感じのお嬢さんだったが……
 結果は同じだった。

 そりゃあ彼女、知識もあるし体系的にも教えてくれるのだが、
いかんせん生徒の方にまったく乗り気がないものだから、結果は
父親の時と同じだったのである。

 母は当初、僕の勉強を女子大生にまかせ自分は仕事をしていた
のだが、どうやらそれではうまくいかないみたいなので授業中も
同室するようになり、そして、ついには……
 昔と同じ姿勢で勉強するようになった。

 これには女子大生のお姉さんも目をパチクリさせていた。

 いや、小3にもなった子が母親の膝に乗せられて勉強を始めた
からというだけではない。その作業効率がまるで違うからだ。
 彼女には『まるで別人』と映ったに違いなかった。

 こんな事情から、僕は『お母さんが僕を抱っこしてくれたら、
テストの間違いも少なくてすむのに……』なんて思っていたが、
まさか小学校に母を連れてもこれないから僕のスクールライフは
大きな欠陥を晒したまま過ごすことになる。


 少年の欠陥はこれだけではない。異常なほどおしゃべりなのだ。
とにかく話し出すと頭に浮かんだ映像をすべて言葉にするまでは
止まらなかった。
 しかも、悪いことに極めてドグマチックだ。

 班で話し合って結論を出さなきゃならない時でも、ろくに他人
の会話を聞かないで自説を押し付けるもんだから、クラスメイト
だっていい心持はしなかっただろう。

 友だちがどうしてそうなるのかと尋ねると、たいていが……
 「だって、〇〇さんが言ってた」
 「〇〇という本に書いてあった」
 と、こうだ。

 おかげで『本屋』というあだ名までついてしまった。
 つまり僕はクラスではお荷物、『困ったちゃん』だったのだ。

 そこで担任の先生は仕方なく、僕を学級委員にして他の子とは
別の仕事をさせ、少しずつ協調性を学ばせる作戦にでてきた。

 取りまとめ役なら他の子の迷惑にならないだろうというわけだ。

 だから僕は先生のご指名で何度か学級委員をやったが、これは
僕に人望があったからではない。もちろん名誉でもなんでもない。
たんにクラス運営のためのやむを得ない処置だったのだ。

 そのことは……
 「あなただから、あえて話すけど……」
 と担任の先生から僕は説明を受けていた。

 ところが、うちの母は体育会系の単細胞だから小二の僕でさえ
理解できた理屈を担任の先生が何度説明してもわからないのだ。
 うちの息子は優秀だから学級委員を拝命しているんだとばかり
思い込んでいた。

 ホントうちは親子して学校の『困ったちゃん』だったのである。

 そんな特殊事情を担任の先生が母親に説明した日のことはよく
覚えている。
 というのも、その日、僕がまたまたちょっとした事件を起こし
てしまったからなのだ。


 その日の数日前、僕は一枚をプリントを持って帰ってくる。
 それは『家庭訪問のお知らせ』だった。

 これを見た母、当然と言うか、いきなり張り切り始めた。
 要するにこちらもこちらで余計な事をし始めたのだ。

 まず最初に、白いシーツを大量に買ってきては、これをお店の
周囲にいくらか残っていた遊郭の看板に被せ始める。
 彼女としては、ここが遊郭街だということを先生に知られない
ための偽装工作なんだろうが……先生は子どもじゃない。ここが
どんな街かぐらいのこと知らないはずがなかった。

 この大仕事のあと、彼女は普段の客には出さないような高級な
お茶と生菓子を用意すると、自分もよそ行きの訪問着でビシッと
決めて、担任の先生を待ち構えたのである。

 当時の家庭訪問は担任の先生と母親のお見合いって感じだった
のだ。

 ま、それはともかく、ここまでは彼女なりに完璧だったのかも
しれないが、最後に一つ、彼女は重大なミスを犯してしまった。

 その準備の最中、まるで夏のハエのように五月蝿く付きまとう
僕たち兄弟に向かって……
 「先生がお帰りになったら一緒にデパートへ行きますからね、
今は静かにしてて頂戴」
 と、軽く僕たちに対してご機嫌をとってしまったのである。

 母は軽い気持だったかも知れないが、僕たちは喜んだ。
 そりゃあそうだ。当時のデパートというのは子供たちにとって
単に買い物をする場所ではない。屋上の遊園地で遊んで、食堂で
お子様ランチを食べてと、色々楽しめる手軽な行楽地でもあった
からなのだ。

 当然、先生がうちに早くやって来て、早く帰ってくれることを
僕たちは望んでいたのだが……。

 こんな時に限って先生の到着は大幅に遅れ、しかもうちに着い
たあともなかなか帰らない。

 おまけに、お母さんが引き止めたりもするもんだから僕たちは
やきもきしていた。

 『このままでは、デパートへ行く時間がなくなってしまう』
 襖一つ隔てて様子を窺っていた僕たちは心配でならない。
 そこで……

 僕はいきなり襖を開けると、つかつかと大人たちの部屋の中へ。
 お母さんが正座する膝にどっかと腰を下ろすと、開口一番……

 「ねえ、先生、もう帰ってよ。これからお母さんとデパートに
行くんだから」
 と宣言したのだ。

 先生が笑った。
 きっと、それって僕らしかったのだろう。

 まあ、誰に対しても恐れを抱かないというか、躾がなってない
というか……
 先生も、もうそろそろお暇(いとま)しようと思っていたから
腰を上げてくれたけど、お母さんの顔は真っ青で真っ赤だった。

 「どうしてあんたはいつもそうなの!!」
 先生が帰ったあとお母さんには叱られてしまった。

 ま、おかげで無事デパートにも行けたし子どもの立場としては
めでたしめでたしではあったが……。

 そうそう常識がないと言えば、こんなこともあった。

 その日は雨上がりで僕は近所の友だちと裏山を駆けずり回って
帰って来たのだが、その勲章としてズボンはドロだらけ、パンツ
にも泥水がたっぷり染みこんでいた。
 
 そこで、床が土間だった炊事場で着替えることになったのだ。
ところが間の悪いことに僕がパンツを脱いだ瞬間近所のおばさん
が入ってきた。

 昔の田舎は隣近所へ出入りするのに麗々しい挨拶なんかしない。
いきなり扉を開けて「こんにちわ」と言えばそれでよかったので
ある。

 その『こんにちわ』のあとに、おばさんが笑った。
 「あら、取り込み中だったわね」

 「いいのよ、大丈夫だから……」
 母は応じたが、おばさんの笑いが僕の心を傷つける。
 そこで……

 「おばさん、出て行ってよ。お母さんが恥ずかしいだろう!」
 と言ったのである。

 これには、やや間があってから二人の笑い声が漏れた。

 「ほら、何言ってるの。お母さんが恥ずかしいんじゃなくて、
あなたが恥ずかしいんでしょうが」
 お母さんが笑われた理由を教えてくれたが……

 でも、それでも僕はきょとんとしていた。

 だって、お母さんの前で全裸になることは珍しいことではない。
お風呂に入る時はいつもそうだ。お母さんが僕の服を脱がし僕の
体を隅から隅まで洗う。オチンチンまで全部洗う。これ我が家の
常識だった。

 それに、たとえおばさんに僕がオチンチンを見られたとしても、
それも驚くような事ではなかった。昨年までは幼稚園だった僕は
今年だって何も身につけず庭の盥で行水してたんだから、隣から
も生垣越しに僕の裸は見えたはずだ。

 だから裸は関係ない。僕にしてみたら、おばさんがお母さんの
している事で笑ったのが許せなかったのである。

訳が分からずボーとしていると……
 「ほらほら、さっさとパンツを穿いて」
 お母さんに言われてしまった。

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<幼稚園>

Hまったく関係なしの雑文です。ごめんなさい。

<幼稚園>

 三歳になり僕は世間の流儀に従って幼稚園へ通うことになった。
 もちろん、家の近くにも立派な幼稚園はたくさんあったのだが、
見栄っ張りな母はそこでは満足しない。当時、この地域で評判に
なっていた隣町の幼稚園に私たちの願書を出したのだ。

 まったくもっていつもながら余計なことをしてくれる人である。

 おかげで、せっかく仲良くなった近所の友だちとは疎遠になる
し、自宅が遠すぎてスクールバスが来ないために乗り合いバスで
通わなければならない。

 百害あって一利なしの決定なのだが、幼い身では反対する力も
なく、僕たち兄弟はその初日、乗り合いバスの最初のステップを
両手で押しつけて体を少し浮かせてから「よっこらしょっと」と
よじ登るはめになったのである。

 通勤時間帯とはいえ、普段はろくに乗降客のない停留所に二人
の幼児の姿。
 中扉を開けやると、その二人がまるで登山のようにステップを
登ってくるから車掌さんもビックリだ。

 僕はその時驚いた車掌さんの顔をはっきり覚えている。

 当時のバスは車高が高く、その分最初のステップも高い位置に
あって、もう少し身長があればいきなりステップに足を掛けられ
るのだが、身長が低い三歳児はいきなりそこへ足が掛けられなか
った。

 ただ、小さな身体でモゴモゴやってると、車掌さんが僕たちを
抱き上げてくれたんだ。

 (あそうか、今の人たちは運転手さん一人で運行するワンマン
バスしか知らないだろうから補足しとくとね、当時は電車と同じ
ように路線バスにも車掌さんというのが乗っていて、切符の販売
や運賃の精算、踏切でのバスの誘導なんて仕事をやってたんだ。
もちろん、ドアの開け閉めも車掌さんの仕事。当時はそれも手動
だった)

 その車掌さんが、次ぎ言うことはだいたい決まっていて……
 「坊やたち、だけなの?……お母さんは?」

 残酷なこと聞いてくるんだよね。
 というのも、うちの母は幼稚園に行く僕たち兄弟をただの一度
も近くのバス停まで見送りに来たことがない。

 あの人、朝の一連の仕事が終わると自分はさっさと布団の中に
戻ってそこから僕たちに「行ってらっしゃい」を言い二度寝する
んだ。

 まったく、鬼のような人間だよ。
 だから、バス停にいるのは僕たちだけ。高いステップも自力で
登らなければならなかったんだ。

 ただ、そうは言ってもいいことだって沢山あったよ。

 当時は三歳児が自分で定期券持って通園するなんて、もの凄く
珍しかったから、僕たち兄弟はたちまちそのバス路線では名物に
なってしまって、運転手さんや車掌さんたちからはもの凄く可愛
がられたんだ。

 いつも二人して一番前の二人掛けの席に陣取ると、運転手さん
ともお話しながら通ってた。

 今は運賃精算のために運転手さんの左側に必ずドアがあるけど、
当時はその必要がないから出入口は真ん中の中扉だけ。一番前に
はドアの代わりに運転手さんと並ぶように座席があって、ここに
座ると、運転手さんが見ているのと同じ景色が見られるから、子
供たちにとってはここが特等席だったんだ。

 バスはボロだけど、短くとも楽しい遠足気分。
 僕なんか『このまま夕方までずっと乗っけてくれてたらいいの
に……』なんて思ってた。幼稚園行かずに済むから。

 そこで……
 降車ボタンなんてない当時は「次ぎで下ります」って車掌さん
に合図を送るのがルールなんだけど、僕はシカとして黙ってる。

 乗ったバスがそのバス停を通過してくれることを期待したんだ
けどね。

 ただ、そんなことをしても車掌さんがそこを素通りすることは
一度もなかった。

 『あ~あ、今日も止まっちゃったよ』
 なんていつも思ってた。

 最寄のバス停で下ろされた二人を待っていたのは幼稚園の先生。
そこからは一緒に幼稚園まで行くことになる。

 でも、こうなると僕のテンションはドタ下がりだった。

 というのも、この幼稚園、僕にはちっとも面白い場所じゃなか
ったからなんだ。

 たしかに、お遊戯もしたし、お絵かきもやった。お歌も歌った。
遠足にも行った。幼稚園の行事はすべてこなしているわけだから
そういった意味では『困ったちゃん』として先生が母親に愚痴を
言うことはなかったんだけど……

 でもそれって先生の言うことは理解できるから、それに従って
行動したまでのことで、同じ年恰好の子が目の前で言ってる事、
やってる事などはまったく理解できなかったんだ。

 変な言葉遣いで、やたら衝動的に行動するし、訳の分からない
自慢話ばかりする。僕の心の中で彼らは『別の星から来た異性人』
だった。
 ホント、困ったことに……

 そんなわけで、幼稚園での僕は立派な孤立児。とにかく、同じ
年恰好の子たちとじゃれて遊ぶっていうことがまったくできない
子だった。
 だから、そういった意味で『困ったちゃん』だったんだ。

 こんな場所、楽しいはずないだろう。

 居場所のない僕は、幼稚園の行事がない時はいつも礼拝堂から
牧師館へと続く廊下にあった棚の上で昼寝をして過ごしていた。
 ここはよくお日様が当たるし誰もこないから快適だったんだ。

 こんな僕だけど弟は立派だったよ。園内にたくさんの友だちが
いて楽しい幼稚園時代だったみたい。
 兄弟でこんなにも違うはなぜだろうと思ったし、羨ましいなあ
とも思った。

 そのせいだろうけど、僕の記憶の中にこの幼稚園での出来事が
ほとんど残っていない。
 建物の様子や先生たちの顔だけはかろうじて覚えているけど、
そこでどんな行事があったかは頭の片隅にも残ってないんだ。

 僕にしてみたら、そんな幼稚園でのことより、その前の段階で
ある出張販売先での出来事の方がむしろ鮮明に記憶に残っている。
 (幼稚園に通いだし、母の出張販売に帯同する機会もめっきり
減ってしまったのが僕にはつまらなかったのだ)

 出張販売では、ご近所のおじさんおばさんも優しかったけど、
特に優しかったのは、夏でも重い外套を持ち歩きお髭ぼうぼうの
おじちゃんだった。

 おじちゃんは若い頃に経験した色んなことを面白おかしく話し
てくれたし、いつもは蛇の絵しか描かないその商売ものの筆で、
僕の為に楽しい絵を描いて見せてくれた。一緒にごはんやおやつ
を食べたりもしたんだ。

 ただ、それを見てしまった母にしてみると、それって予期せぬ
不幸だったらしくて……彼女、僕がそのおじちゃんと昼ごはんを
食べていた事実を知るや、いきなりお店をお休みにして僕を病院
へと連れて行ったんだ。

 ここでも余計なことをする人だった。

 お父さんは……
 「お前は、やることがいちいち大仰なんだよ。そんな事ぐらい
で病院まで引っ張って行って……そりゃあ変わり者かもしれない
けど、せっかく親切にしてくれたおじちゃんに失礼じゃないか。
おじちゃんが食べて問題ないんだら、こいつが食べても大丈夫さ」
 なんて話してたけどね。

 お母さんにしてみたら、そんなのん気な意見、とうてい受け入
れられないみたいで……。
 『だって、この子、道端に落ちてたものを拾って食べたのよ』
 って、そんな感じだったんだ。


 おや、話が脇道にそれちゃったから元に戻そう。

 実は大きくなってからこの幼稚園での出来事を僕が語る機会が
あったんだけど、それって、たまたま同じ小学校に行った友だち
がいたから出来たんだ。

 彼が『お前、俺の彼女取ったって殴られたことあっただろう』
『お前、学芸会で天使の役やったけど、あまりに下手で、みんな
に笑われてたじゃないか』『運動会は二人転んだからビリのお前
が一番になった』などなど、彼が自分の記憶だけでなく僕のこと
まで覚えていてくれたから難を免れたけど、僕自身はというと、
彼が説明してくれた記憶はただの一欠けらも頭の中に残っていな
かったんだ。

 いくら嫌いな場所だったとしても、まったく記憶がないなんて
どういうこと?俺って本当にバカなんじゃないか。
 その時は自己嫌悪だった。

 ただ、そんな中にあっても唯一鮮明な記憶がある場所もある。
 それは、行き帰りのバスの中。

 僕は利用する路線バスの運転計器の配置からどこのメーカーの
何年製で型式は……ってなことを全車覚えてたんだ。
 停止していた脳細胞がここでは覚醒していたというわけ。

 きっと運転席の計器類を食い入るように見ている姿が面白かっ
たんだろうね。運転手さんや車掌さんは、本来仕事中なんだから
雑談なんてできないはずなんだけど、お客さんが少なくなると、
僕たち兄弟にはよく声をかけてくれた。
 (今の言葉でなら『いじられた』というべきかもしれない)

 弟はまともな少年だったから、歳相応に大人に声を掛けられる
と、はにかむようなところがあったが、こちらは水を得た魚みた
いに大はしゃぎ。
 車内にたちまち甲高い声が響くから、乗っていたお客さんには
迷惑をかけたかもしれない。

 幼稚園とは違いここでは相手が大人ということで安心できたん
だろうね。自然とボルテージがあがるんだよ。
 特に、終点の二つ手前のバス停で大半のお客さんが降るから、
そこから終点まで(正確には終点も越えて営業所まで)は、僕と
運転手さん車掌さんとの井戸端会議だった。

 それだけじゃないよ。営業所に着いても僕たちはすぐに帰らな
かったんだ。

 車掌さんに抱っこされて、行く先案内の幕をクルクル回したり、
運転手さんのお膝に乗って営業所の中を一周してもらったりと、
もうやりたい放題だった。

 これって今やったら運転手さん首になっちゃうかもしれないな。
あくまで当時はこうだったということです。牧歌的な時代だった
から、たとえ規則の内容は同じでも適用が緩かったんだと思う。

 ま、これだけ歓待を受けたんだら、ある意味当然なのかもしれ
ないけど、僕は『大人になったらバスの車掌か運転手になろう』
と心密かに決めていたんだ。

 遠くへ行けて(幼児にとっては隣町は遠くの場所)、しかも、
仕事が終われば家はすぐそば。こんな結構な仕事はないと思って
た。
 (幼児のことだからね、常にこの営業所へ来てこの営業所から
帰れると思ってたんだ)

 弟と一緒にそんな将来の就職先候補で30分も遊んでから家に
帰ることも多かった。

 おかげで家にたどり着く頃はいつもニッコニコだから、母は…
 「そう、そんなに幼稚園が楽しかったの」
 なんて言っていたが、それは母の大いなる勘違いで……

 幼稚園なんてちっとも楽しくなかったが、今さっきの出来事が
いつも僕をニコニコ顔にしていたのである。


 幼稚園から帰ったあとは、抱っこしてもらいながらのオヤツの
時間。母は厳しい時ももちろんあるが、普段は僕たちを赤ちゃん
扱いなんだ。

 シュークリームなんかは特にそうなんだけど、たっぷりと口元
にクリームを残すのが僕の得意技だった。

 えっ?なぜこれが得意技なのかって……

 だって、綺麗に食べてしまったら、お母さんがほっぺや口元を
ペロペロしてくれないだろう。せっかくのサービスが飛んじゃう
じゃないか。
 くすぐったいけど、コレがとってもいい気持なんだよ。

 さてと、オヤツが済めばその後に予定はない。
 習い事はあったが、それは隣町で済ませてから帰って来ていた。
 そのあたり通園バスでなかったため、かえって都合がよかった
のかもしれない。

 習い事のある日は、当然、帰宅時間も遅くて夕方。幼児として
は遅い時間に帰り着くことになるが、それでも近所の子と将棋を
指したり、紙芝居を見たり、駄菓子屋さんを覗くくらいの時間は
あった。

 幼稚園の子とはあまり馴染めなかった僕だが、近所の子の場合
は、飾った言葉で話さないし、親の自慢なんてしないし、たとえ
何かあってもすぐに仲直りができた。なかなか顔を出さない僕に
対しても見捨てることなく親切にしてくれたから、僕も友だちで
あり続けることができたんだ。

 そんな友だちも辺りが暗くなる頃にはみんな家に帰る。そして
次に友だちの顔を見るのはたいてい翌朝。
 これが当時の常識だった。

 今のように夜昼かまわず幼児を連れまわす親なんてこの時代は
まだいなかった。花火やお祭りの日でもない限り夜更かしだって
絶対にありえなかったんだ。

 私の家もそんな常識的な家族(?)だったから、僕たち兄弟も
日が落ちてからはずっと家の中で過ごしていた。

 母と一緒にお風呂に入り、母と一緒に夕ご飯を食べて、あとは
子供向けのテレビ番組を見たら寝るまでお勉強。
 これが我が家の生活のパターンだ。

 思わず『お勉強』なんて書いちゃったけど、これは机に向かい
しかめっ面してやるものではない。『畳敷きの帳場に知育教材を
並べ、それで遊んでいる』といった方が正しいかもしれない。
 うちは夜にお店がひとしきり忙しいので、お店をやりながらの
育児だったんだ。

 初めてお店に来た人は驚いたと思うよ。

 お店に入ったら、いきなり女店主の膝に乗った幼児がラッパを
吹いてお出迎え。その脇では別の子がインディアンの格好をして
狭い帳場を走り回ってる。
 『おいおい、ここは託児所か』って光景だ。

 そのうち、持ってきた質札をその子たちが店の奥で質草の管理
をしている父親に届けに行ったりもする。

 みょうちくりんな質屋だったけど……
 でも、これが『あたしんち』だったんだ。

 出張販売の時もそうだが、僕にしてみたら、行動が予測不能な
幼稚園の同輩より、お店にやって来る色んなお客さんたちを観察
している方が面白くて、帳場は飽きることがないドラマだった。

 ただ、夜に限って言うとそうした時間はあまり長くは続かない。
 何しろ幼児だろう、すぐに眠くなるんだ。
 眠くなるとどうなるか。

 一般家庭のように、パジャマに着替えてから『お父さん、お母
さん、おやすみなさい』と挨拶して、自分の部屋の布団で寝る。
 なんて美しい光景にはならない。

 うちの場合は、お客さんが途切れると、母が僕たちと知育玩具
で遊んでくれるのだが、たいていはお勉強の最中に寝てしまい、
そのまま母の膝から布団へと運んでもらうことになる。

 うちでの「おやすみなさい」は寝言で言うことになっていた。

 もちろん、大半はそのまま寝てしまうのだが……
 たまに、ふと気がつけば、目の前にお母さんのオッパイが……
 なんてことも……

 そんな時は、せっかくだからそれをペロペロ舐めてから撃沈(
眠りに着く)するというのが我が家の流儀。そのあたりとっても
ルーズな家庭環境だったのである。


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Appendix

このブログについて

tutomukurakawa

Author:tutomukurakawa
子供時代の『お仕置き』をめぐる
エッセーや小説、もろもろの雑文
を置いておくために創りました。
他に適当な分野がないので、
「R18」に置いてはいますが、
扇情的な表現は苦手なので、
そのむきで期待される方には
がっかりなブログだと思います。

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